日本キリスト教団 大塚平安教会  

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全て満たされる場所

2018-06-17 12:54:49 | 礼拝説教
【エフェソの信徒への手紙 1章19~23節】

 数週間前のことでしたが、教会に一人の年配の男性が本当にふらりとやって来られまして、暫く一階の受付辺りにたたずんでおられ、また、受付の資料を幾つか手に取って下さったりしていました。何かを話すわけでもなく、いくつか尋ねてみても特別に答えるふうでもなかったのですが、ポツリとこう言われた。「私も年を取ってきたから何か信じるものが欲しいけれど、教会はどうして争いばかりしているのですかね。」と言われたのです。
 
私は、そう聞いて一体何を言っているのか分からなかったのですが、更に話を伺うと、どうもその方の知識として、教会といえばパレスチナの辺りに繰り広げられている争いがあるのだとわかりました。その頃の話題といえば、トランプ大統領がアメリカの大使館をテルアビブという町からエルサレムに移動するという時期でした。その移動がきっかけとなって、イスラエル人は大歓迎しましたが、パレスチナ人は猛反発することとなり、大混乱の中で私が調べた限りでは44名が死亡しています。大変な混乱だったと思います。そのようなニュースが幾日か報道されていた時期でありましたから、教会に来られた方は、教会は争いばかりをしている所、という印象を持ったのだと分かりました。
 
そして、恐らくその方だけが特別にそう思っているわけではなく、日本のかなり大勢の方々が同じように感じていて、教会は争いばかりしているようだ、だから日本の宗教の方が良いと持っている方も多いのではないかと思わされたわけです。

 結局のところ、私はその方に教会は争いばかりしているわけではないといった説明を出来ないまま、その方は静かに帰って行かれました。是非、礼拝においで下さいと申し上げましたが、今の所は来られておりません。皆さん、イスラエル、パレスチナでの争い、確かに何も教会だけが悪いのではありません。元々、どちらかと言えばユダヤ教とイスラム教の争いが中心ですし、キリスト教指導者はその間に入って仲裁の努力をしているとも聞いています。しかし、その争いの発端となったのは、キリスト教国の指導者であったわけですから、決して自分達とは何も問題がないとも言えない。しかも、争いはいつまでも、終結せずに延々と続いているわけですから、キリスト教は争いばかりしていると言われると、それは違うとも言えないと思うのです。

 とはいえ、ここはイスラエルではありませんし、日本の教会ですから、互いに武器を持って血を流すようなことは起こりませんけれど、だからそれで良いというわけにもいかないと思います。あのイスラエルで起こっている争いは、自分達の問題でもあって、つまり人の心の問題なのです。どちらも譲ることなく、どちらも主張し続け、そして相互に赦しがないとしたら、日本だろうと、どこであろうといつでもイスラエルの争いはその場で起こってくるのだろうと思います。

 今日の礼拝の説教の準備をしている中で、加藤常昭先生の著作を読んでおりましたら、そこに内村鑑三の話がありました。内村鑑三全集の10巻に記されている文章を紹介しておられて、私の手元にはその本がありませんので、ですから孫引きになってしまうのですが、内村鑑三先生が「信者と不信者を見分ける法」という文章を記していたというのです。

 それで、面白そうだから読んでみた。何が書いてあったというと、「信者、不信者を見分けるのはとても難しい。信仰上の経験がないと駄目だ。」とあって、最初に書いてあるのは、「あなたがたは心に留めなければならない。洗礼を受けた者、必ずしも信者ではない、立派な牧師から立派な洗礼を受け、聖書を読み、教会の政治を語り、殊に祈祷などまことに上手であるが、その思うところ、なすところにおいて、立派な不信者は沢山いる。」とあるそうです。
 けれど、第二に、だいたい牧師だからと言って油断はできない。その奉ずる信仰至って堅固、その雄弁、全会を圧するに足りて、しかも信者でない牧師がいると思われる」と書いてあるそうです。つまり、偽の信者もいれば、偽の牧師もいるということです。

 だから、それを見分ける方法があって、それは何かというと、聖書を読むこと、祈ること、他人の悪事を語らないこと、人を憐れむこと、働くこととあるそうです。中々厳しい言葉が続くのですが、キリスト教を信じるや否や、農業や商業に従事することを辞めて、牧師などになろうとする者がある、そういう者に限って、確固たる信仰を持つ者が少ない。こういう人はさらに牧師も辞めて、銀行員とか仲買商とか、もっと楽で不生産的な仕事に就くようになる、ともあるそうです。

 加藤先生はその文章を読んで、面白いとは思ったけれど、文章の最後に、これらのことは他人に当てはめて考えるのではなく、まず、自分に当てはめて考えていただきたいとあったそうですが、加藤先生は、文章を読みながらちょっと心配になったとありました。その心配は、内村先生がこんな文章を書いていた、だから、自分達が人を見る時に、これは信者か不信者か、どうもこの人の信仰はあやしい、牧師の信仰もあやしい、と眼鏡を磨き上げて人を疑い、そして更に悪いことに「あの人も不信仰者だ、この人も信仰があやしい」と言いながら、自分は確かなような安心感を持つことになりかねないと訴えています。
 
 更には、「まわりを見回して、この人がまことの信仰者か、それともその正体は不信仰者なのかということをだんだん敏感に分かるようになったと思い込んでいく、あるいは思い込めるようになる経験を蓄積するということは、やはり不幸せではないかと思うともありました。

 今日読んで頂きました聖書箇所はエフェソの信徒への手紙1章の後半を読んで頂きましたが、1章23節にはこうあります。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」何を申し上げたいのかといううと、教会はそういう場所のはずだと思うというということです
 
 今日は6月17日ですが、私たちは3年前の2015年6月28日という日に献堂式を執り行いました。献堂式に先立ち、その年の5月24日のペンテコステ礼拝からこの礼拝堂で礼拝を守り始めました。この時期、それから丁度丸3年の年月が経過していることになります。
 献堂式の際に、私は今日のように、エフェソの信徒への手紙から話しをさせて頂きまして、三つのことを話しました。一つは「キリストは私たちの平和であること。」二つ目は「二つのものを一つにされたこと。」三つ目は「敵意という隔ての壁を取り壊されたこと」もし、この三つが私たちに無かったとしたら、きっと会堂は建たなかったのではないかと話をさせて頂きました。
 
 そして、今でも、この会堂は、私たちにそのことを伝えていると思います。キリストは私たちの平和であり、二つのものを一つにさせて下さり、敵意という隔ての壁を取り壊して下さっている。そこにおいて、あの人は本当の信者であるのか、偽信者であるのか、牧師であるのか、偽牧師であるのかの議論が起こらなかったことを私は本当に感謝したいと思いますし、これからもそうであって欲しいと願います。教会とは、教会堂とは、神の力、聖霊の力が満ち満ちている場所である、それが大切だと思うのです。
 
 先日、この教会を建てて下さった建築業者の監督がやって来られて、メンテナンスの相談を致しましたが、話の中で、ふと横浜にある一つの教会のことを尋ねました。建築前に二度ほど、私たちの教会を見学に来られて、私自身も昨年の今頃だったと思います。建築現場に伺ったことがありました。伺ったその日、会堂が取り壊されて、更地になって基礎を据え始めたばかりの頃でした。ですから、あれから一年出来上がりましたかと尋ねたのです。すると、監督の顔が曇って来まして、伺いましたら、まだ基礎をしているというのです。細かい説明は致しませんけれど、高低差がある案外難しい土地で、基礎専門の業者も中々決まらなかったそうです。決まらないとは、金額面で大きな開きがあって、とても頼めない、やっと頼んだ地元の業者が基礎をしたところ、一つも上手くいかず一年かけて基礎をやり直すのだと言っておりました。

 そこの牧師もそうとう怒り心頭で、監督も頭をすっかり抱えておられて、その教会の為にも祈らなければならないと思いますけれど、比較するわけではありませんが、私たちはそういう面においては本当に恵まれたと思います。このようにして、多くの皆さんと一緒に礼拝を守ることが出来る。この場を聖霊に満ち満ちている場所として用いることが出来ていることを心から感謝したいと思うのです。
 
 毎週の礼拝で、私たちが唱えている使徒信条の中に、「我は聖霊を信ず」とあります。聖霊を信じるとは、「聖なる公同の教会」を信じ、「聖徒の交わり」を信じ、「罪の赦し」を信じ、「身体のよみがえり」を信じ、「永遠の生命」を信じることです。けれど、それは私たちがそう信じますというよりは、この聖なる公同の教会に満ち満ちている聖霊の働きによるということでしょう。
 
 私たちがなぜ礼拝に集っているのか、私たちの互いがそれぞれに信用するに値するからでもなく、また、牧師を信頼しているからでもなく、時に誰も信用できなくなったとしても、自分はここに召されている、主なる神に選ばれてこの教会の一人として、霊に満ちるこの場に集わされているからです。

 東京神学大学で以前学長をされた近藤勝彦という先生がおられます。近藤先生が記された文の中にこんな文章がありました。「教会を掘って下さい。」どういうことかというと、先生は相撲の話をしながら、「土俵の鬼」と言われた先代の若乃花は、「けいこ一筋」 になることと「土俵の中には宝も幸せも埋まっている」と口癖のように言い続けた人であったというのです。

 だから土俵を掘れという意味だったと思うのですが、そのことを思うと、「教会を掘る」ということがあっても良いのではないかと言うのです。勿論、それは例えば「聖書を掘る」ということも出来るでしょう。新約聖書、旧約聖書に記されているみ言葉を徹底的に学びつつ、聖書を掘るようにして読みながら、そこから新たな信仰を得ていく。マタイによる福音書の13章に畑に隠された宝物の例えばが記されてありますけれど、その宝を掘るために、持ち物をすっかり売り払ったとありましたが、それほど一生懸命に宝のために力を尽くしたように、聖書に学んでいく。近藤先生の文章は神学生に対しての文章のように感じました。学生の皆さんよ、そのようにして、徹底的に「神学を掘る」作業を行って欲しいと願っての言葉かもしれません。

 しかし、私たちにとっては、やっぱり「教会を掘る」ことが求められているだと思います。この聖霊が全てに満ち満ちているこの教会で、教会を掘り続ける、掘り続ける、礼拝を守り、信仰が支えられながら、必ず主なる神の宝が、自分にとって求めている宝がこの場で、この礼拝で見つけられると信じて、教会を掘り続けていくことです。

 内村鑑三先生は、「洗礼を受けた者、必ずしも信者ではない」と記しておられるけれど、どのような状況、どのような場面においても、洗礼を受けた者は、神の子であり、その人に信仰があるとか、無いとかではなく、既に洗礼を受けているという事実によって、繰り返し繰り返し、相互に信頼を自分の心の中に呼び起こす必要がある、それが教会を信じ、この会堂に満ちている聖霊の力を信じることであろうと思います。

 神を信じ、主の導きに従って、私たちは益々、神の祝福のうちに過ごしてまいりましょう。

 お祈りいたします。

参考文献
 加藤常昭「説教集1 使徒信条」 ヨルダン者 P471
 近藤勝彦「中断される人生」 教文館 p220
ジャンル:
きいて!きいて!
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