【ヨハネによる福音書10章1~18節】
ヨハネによる福音書10章からを読んでいただきました。主イエスが「私は良い羊飼いである」と話されるこの聖書箇所は、他の聖書箇所にもまして、よく知られる聖書箇所でもあります。子どもの教会とか、幼稚園などでも、子どもたちに話す聖書個所として用いられる箇所でもあります。イエス様の優しい性格や、優しい話し方を感じる箇所かもしれません。
けれど、時として10章のこの箇所だけが独り歩きしてしまうことがあります。その際に忘れられてしまうのは、聖書の前後関係がどうなっているのかという点です。今日はそういう視点から読んでいきたいと考えました。
もともと、この一年はヨハネによる福音書に記されている御言葉のその文脈であるとか、背景を考えながら礼拝で話をしてまいりましたけれど、今日もその点を意識しながら備えたわけでありました。
先週はヨハネによる福音書9章を読みました。主イエスが「生まれつきの盲人」の目をいやされた場面を読みました。先週も話しましたが、この出来事はユダヤの秋の祭り、仮庵の祭りからそう遠くない時期の、ある安息日のことでありました。
目が癒されて、既に盲人でなくなった彼がその後、どうなったかというと、人々が彼をファリサイ派の人々のところへ連れて行き、ファリサイ派の人々と会話するのです。ファリサイ派の人々は誰が目を見えるようにしたのか、どのようにして見えるようになったのか、色々と聞いたのしょう。でも、何よりも彼らが気になっていたのは、主イエスが安息日にこの人の目を癒したという点です。
安息日違反をするような輩は罪人であり、赦されないと考えていたからです。会話する中で「いったい、お前はあの人をどう思うか」と尋ねますと、「あの方は預言者です」彼は答えます。その答えは彼らには腹立たしかったでしょう。その後、その人の両親が呼ばれて、両親も尋問されますが、両親は本人に聞いてくれと返しました。そこで、再び本人が呼ばれて話をすることになるわけです。会話する中で、癒された盲人はこう話しました。9章の30節からの箇所を読みますとこう話しています。
「彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」つまり、主イエスは神のもとから来られた方だと答えたわけでした。その答えにファリサイ派は怒りに燃えて「我々に教えようというのか」と言い返して、彼を会堂から外に追い出したわけでありました。追い出したのはただ出て行けと言ったと言うより、追放ですよ。出入り禁止、二度と来るなと強い言葉で追い出したものと思われます。
主イエスは彼が外に追い出されたことを聞いて、彼のところへやって来ました。見える彼に対して「あなたは人の子を信じるか」と問いかけられ「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と告げられました。彼は「主よ、信じます。」と信仰を告白するのです。
その場にも、ファリサイ派の人々が一緒にいまして、と言うより彼らは主イエスをマークしていたのでしょう。その様子を聞いていたわけです。なんとかして主イエスを捕えたい、殺してしまいたいと機会を伺っていたものと思われます。
そのような状況の中で、9章から10章へと変わります。もともとギリシャ語で記されている聖書には9章、10章があるわけでもありません。あるいは1節、2節といった区切りがあるわけでもありません。章も節もタイトルも、後の世代の人々が、聖書を読むさいに読みやすいように、理解しやすいようにと区分したわけで、頁を開くためには大変便利になっていますけれど、文脈や前後関係を大切にして読んでいく場合には、区切りが逆に邪魔をするような箇所もあります。今日読まれた箇所などはそういう箇所かもしれません。
主は「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」と告げました。
「羊の囲い」とあります。夏の時期は、羊飼いは野宿して夜を過ごし、羊も外で過ごす訳ですが、秋から冬、寒い季節になりますと、羊の囲いに羊が集められたそうです。「囲い」とは石垣で作られた壁で仕切られた場所で、壁の上には盗人や強盗が壁を乗り越えて来ないように、茨やアザミが植えられてました。日が暮れると、その囲いに向かって、何組もの羊と羊飼いがやってきました。何組も共同で使用していたわけです。
囲いの門を通って中に入って、中に入ってしまえば安全で、熊や狼に襲われることもなく、安心して夜を過ごしました。「囲い」の門には門番がいて、そこを守っているだけで全体が守られるという仕組みでした。
日本の、しかも都会に住んでいている私達には、羊が放牧されている風景、羊飼いが羊を守っている様子など身近に感じることは出来ません。まして、囲いについての知識があるわけでもありません。二、三カ月前に子どもの教会で羊の話をしました。私達人間の瞳は丸く、猫も犬も丸い瞳ですが、羊の瞳は四角いんですよと話しました。子ども達は驚いていました。そんなこと本当かなと思ったかもしれません。でも、私もそれはまず本で知った知識でしたし、たまたま話をする少し前に、どこかで羊を見かけまして、まじまじと羊の瞳を見てみました。四角と言っても丸と四角の間位の感じという印象でしたが、人と比べれば確かに四角いのです。実際のところ、私たちは羊や羊飼いについての知識は頭で想像するしかありません。
主イエスを囲んで聞いている人々には羊飼いも羊も日常生活の中にあり、ごく身近な風景であったと思われます。寒くなると囲いの中で羊が夜を過ごす、当たり前のことです。あるいは羊を狙う盗人や、強盗も少なくなかったかもしれません。それだけに囲いの大切さを皆が知っていました。
何組もの羊が囲いの中で夜を過ごし、朝になると羊飼いがやって来て、羊の名前を呼んで連れ出すというのです。
羊飼いの声を聞いた羊は、自分の羊飼いのもとに集まり、囲いを出てまた牧草地へと向かいます。その際、何組もの羊がいるわけですが、迷ったり、集まらなかったりはないのかと思いますけれど、それはあり得ないのだそうです。
なぜあり得ないのか、まず羊は自分の羊飼いの声を聞き分けることが出来るからです。その声に従い、ほかの声には従わないのです。もう一つは、羊飼いはたとえ自分の羊が何匹いるとしても、すべての羊に名前があって、全ての羊を覚えているからです。そのようにして羊と羊飼いは強く結ばれ、羊飼いが先頭に立って羊を導き、羊はその後をついて行くのです。違う声の羊飼いのところについて行くことは無いそうです。
皆さん、10章1節の前にタイトルが付けられています。「羊の囲い」のたとえと付けられています。この話はたとえです。主イエスが話された羊、羊飼い、囲い、門番、羊飼いの声、これらの事柄は、私達には非日常ですが、イスラエルの人々からすれば誰もが知る日常の風景でありました。でも、大切なところは、これは主イエスが「たとえ」として話されているということです。
何にたとえたか、6節にこうあります。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」
主イエスを囲んで、この時主の話を聞いていたのは、目が見えるようになった盲人と、ファリサイ派の人々、またその時、多くの群衆も聞いていたでありましょう。
ファリサイ派の人々が理解していないと感じた主イエスは更に、たとえを用いて話を続けました。7節「はっきり言っておく、わたしは羊の門である」9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」
主イエスは、私は「羊の門」であると告げました。羊の囲いには門があります。この門を通らないで乗り越えようとする者は、盗人であり、強盗です。
囲いとは何を意味するのか、私は「神の国」を意味しているのではないかと思います。主イエスという門を通らなければ入れないからです。この門を通らずに入ろうとする盗人、強盗こそ、ファリサイ派の人々よ、それはあなた方だと告げているのだと思います。
羊はその声を聞き分ける、声を聞くとは、目が見えるようになった盲人を意識していると思います。目が見えない彼がこれまでもっとも頼りとしていたのは、音です。声です。言葉です。彼は聴覚が研ぎ澄まされ、音を聞き、声を聞いて物事を判断してきたに違いありません。耳で見ていたとも言えるでしょう。
その彼が、目が見えるようになってから、ファリサイ派の人々を前に、脅されても、神殿の外に追放されても、主イエスの声を聞き、その目で見て「主よ、信じます。」と信仰を告白しました。
ファリサイ派の人々は、彼に対してこれまでずっと、目の見えない罪を抱えた者としての扱いしかしてこなかったでしょう。扱うにも値しないと、捨て置かれていたようなものです。その扱いは、音として、声として、彼の耳に聞こえていたでありましょう。
彼らは目が見えるようになってからも、その喜びを分かち合うことなく、安息日に癒された、なぜあの男は安息日に仕事をしたのか、それは罪だと、罪についてずっと論争し続けているのです。その姿はあたかも神の国に向かう門を通らず囲いを乗り越えて入ろうとする盗人、強盗の類のようであり、見えるようになった盲人が聞いた声すらも聞こうとしない、主イエスの言葉を理解できない、理解しないのです。ファリサイ派の人々よ、なぜ、あなたがたは見えず、聞こえないのかと主イエスは訴えているのです。
主イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊かいは羊のために命を捨てる」と話されました。そう言われたこの時は、仮庵の祭りの時期です。秋から冬へと向かう中で、年を越して春になって迎える過越しの祭りの際には、主はこの言葉どおり、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑とされていくのです。
主イエスの声を聞かず、主イエスの言葉を理解せず、主イエスは神の御子であることを受け入れなかった者によって十字架刑への道を歩まれます。
すでにこの時、主は決心され、十字架を受け入れておられたと思います。「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる。」命を捨てる程に、私達を愛しておられたからです。
このことによって羊である私たちは命を得ました。主イエスによって、渇きを潤し、命の光によって照らされ、聖霊を受けて、生きる命を得ました。
主イエスは、私達の前に羊の門としておられます。その門はきっと狭い門だと思います。世の中の人々が望むところの広い門でないかもしれません。けれど、この門だけが私達を神の国へと導く門なのです。
私達の大塚平安教会は創立74年目を過ごしています。この74年の間、この教会は神の声を、この地域にあって宣べ続けて参りました。大きな成果を挙げたこともあったと思います。しかし、そうでないことの方が多かったかもしれません。特に振り返ってこの12年の間、私が招かれてからの期間、宣教の停滞、あるいは衰退であったことを思わずにはおられません。でも、大切なことは声をあげ続ける事です。ここは主イエスの門、主イエスが命をかけて私達を愛して下さったと告げ知らせる、主イエスの門であり、だからこそ私たちはその門を出たり入ったりしながら、礼拝を守り続け、いよいよ力付けられ、いよいよ励まされて歩んで参りましたし、そして、これからもそうなることでしょう。
一人でもこの門に入られる方が与えられるように願いながら、また祈りながら、私たちは新しい一週間を過ごして参りましょう。
お祈りいたします。
ヨハネによる福音書10章からを読んでいただきました。主イエスが「私は良い羊飼いである」と話されるこの聖書箇所は、他の聖書箇所にもまして、よく知られる聖書箇所でもあります。子どもの教会とか、幼稚園などでも、子どもたちに話す聖書個所として用いられる箇所でもあります。イエス様の優しい性格や、優しい話し方を感じる箇所かもしれません。
けれど、時として10章のこの箇所だけが独り歩きしてしまうことがあります。その際に忘れられてしまうのは、聖書の前後関係がどうなっているのかという点です。今日はそういう視点から読んでいきたいと考えました。
もともと、この一年はヨハネによる福音書に記されている御言葉のその文脈であるとか、背景を考えながら礼拝で話をしてまいりましたけれど、今日もその点を意識しながら備えたわけでありました。
先週はヨハネによる福音書9章を読みました。主イエスが「生まれつきの盲人」の目をいやされた場面を読みました。先週も話しましたが、この出来事はユダヤの秋の祭り、仮庵の祭りからそう遠くない時期の、ある安息日のことでありました。
目が癒されて、既に盲人でなくなった彼がその後、どうなったかというと、人々が彼をファリサイ派の人々のところへ連れて行き、ファリサイ派の人々と会話するのです。ファリサイ派の人々は誰が目を見えるようにしたのか、どのようにして見えるようになったのか、色々と聞いたのしょう。でも、何よりも彼らが気になっていたのは、主イエスが安息日にこの人の目を癒したという点です。
安息日違反をするような輩は罪人であり、赦されないと考えていたからです。会話する中で「いったい、お前はあの人をどう思うか」と尋ねますと、「あの方は預言者です」彼は答えます。その答えは彼らには腹立たしかったでしょう。その後、その人の両親が呼ばれて、両親も尋問されますが、両親は本人に聞いてくれと返しました。そこで、再び本人が呼ばれて話をすることになるわけです。会話する中で、癒された盲人はこう話しました。9章の30節からの箇所を読みますとこう話しています。
「彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」つまり、主イエスは神のもとから来られた方だと答えたわけでした。その答えにファリサイ派は怒りに燃えて「我々に教えようというのか」と言い返して、彼を会堂から外に追い出したわけでありました。追い出したのはただ出て行けと言ったと言うより、追放ですよ。出入り禁止、二度と来るなと強い言葉で追い出したものと思われます。
主イエスは彼が外に追い出されたことを聞いて、彼のところへやって来ました。見える彼に対して「あなたは人の子を信じるか」と問いかけられ「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と告げられました。彼は「主よ、信じます。」と信仰を告白するのです。
その場にも、ファリサイ派の人々が一緒にいまして、と言うより彼らは主イエスをマークしていたのでしょう。その様子を聞いていたわけです。なんとかして主イエスを捕えたい、殺してしまいたいと機会を伺っていたものと思われます。
そのような状況の中で、9章から10章へと変わります。もともとギリシャ語で記されている聖書には9章、10章があるわけでもありません。あるいは1節、2節といった区切りがあるわけでもありません。章も節もタイトルも、後の世代の人々が、聖書を読むさいに読みやすいように、理解しやすいようにと区分したわけで、頁を開くためには大変便利になっていますけれど、文脈や前後関係を大切にして読んでいく場合には、区切りが逆に邪魔をするような箇所もあります。今日読まれた箇所などはそういう箇所かもしれません。
主は「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」と告げました。
「羊の囲い」とあります。夏の時期は、羊飼いは野宿して夜を過ごし、羊も外で過ごす訳ですが、秋から冬、寒い季節になりますと、羊の囲いに羊が集められたそうです。「囲い」とは石垣で作られた壁で仕切られた場所で、壁の上には盗人や強盗が壁を乗り越えて来ないように、茨やアザミが植えられてました。日が暮れると、その囲いに向かって、何組もの羊と羊飼いがやってきました。何組も共同で使用していたわけです。
囲いの門を通って中に入って、中に入ってしまえば安全で、熊や狼に襲われることもなく、安心して夜を過ごしました。「囲い」の門には門番がいて、そこを守っているだけで全体が守られるという仕組みでした。
日本の、しかも都会に住んでいている私達には、羊が放牧されている風景、羊飼いが羊を守っている様子など身近に感じることは出来ません。まして、囲いについての知識があるわけでもありません。二、三カ月前に子どもの教会で羊の話をしました。私達人間の瞳は丸く、猫も犬も丸い瞳ですが、羊の瞳は四角いんですよと話しました。子ども達は驚いていました。そんなこと本当かなと思ったかもしれません。でも、私もそれはまず本で知った知識でしたし、たまたま話をする少し前に、どこかで羊を見かけまして、まじまじと羊の瞳を見てみました。四角と言っても丸と四角の間位の感じという印象でしたが、人と比べれば確かに四角いのです。実際のところ、私たちは羊や羊飼いについての知識は頭で想像するしかありません。
主イエスを囲んで聞いている人々には羊飼いも羊も日常生活の中にあり、ごく身近な風景であったと思われます。寒くなると囲いの中で羊が夜を過ごす、当たり前のことです。あるいは羊を狙う盗人や、強盗も少なくなかったかもしれません。それだけに囲いの大切さを皆が知っていました。
何組もの羊が囲いの中で夜を過ごし、朝になると羊飼いがやって来て、羊の名前を呼んで連れ出すというのです。
羊飼いの声を聞いた羊は、自分の羊飼いのもとに集まり、囲いを出てまた牧草地へと向かいます。その際、何組もの羊がいるわけですが、迷ったり、集まらなかったりはないのかと思いますけれど、それはあり得ないのだそうです。
なぜあり得ないのか、まず羊は自分の羊飼いの声を聞き分けることが出来るからです。その声に従い、ほかの声には従わないのです。もう一つは、羊飼いはたとえ自分の羊が何匹いるとしても、すべての羊に名前があって、全ての羊を覚えているからです。そのようにして羊と羊飼いは強く結ばれ、羊飼いが先頭に立って羊を導き、羊はその後をついて行くのです。違う声の羊飼いのところについて行くことは無いそうです。
皆さん、10章1節の前にタイトルが付けられています。「羊の囲い」のたとえと付けられています。この話はたとえです。主イエスが話された羊、羊飼い、囲い、門番、羊飼いの声、これらの事柄は、私達には非日常ですが、イスラエルの人々からすれば誰もが知る日常の風景でありました。でも、大切なところは、これは主イエスが「たとえ」として話されているということです。
何にたとえたか、6節にこうあります。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」
主イエスを囲んで、この時主の話を聞いていたのは、目が見えるようになった盲人と、ファリサイ派の人々、またその時、多くの群衆も聞いていたでありましょう。
ファリサイ派の人々が理解していないと感じた主イエスは更に、たとえを用いて話を続けました。7節「はっきり言っておく、わたしは羊の門である」9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」
主イエスは、私は「羊の門」であると告げました。羊の囲いには門があります。この門を通らないで乗り越えようとする者は、盗人であり、強盗です。
囲いとは何を意味するのか、私は「神の国」を意味しているのではないかと思います。主イエスという門を通らなければ入れないからです。この門を通らずに入ろうとする盗人、強盗こそ、ファリサイ派の人々よ、それはあなた方だと告げているのだと思います。
羊はその声を聞き分ける、声を聞くとは、目が見えるようになった盲人を意識していると思います。目が見えない彼がこれまでもっとも頼りとしていたのは、音です。声です。言葉です。彼は聴覚が研ぎ澄まされ、音を聞き、声を聞いて物事を判断してきたに違いありません。耳で見ていたとも言えるでしょう。
その彼が、目が見えるようになってから、ファリサイ派の人々を前に、脅されても、神殿の外に追放されても、主イエスの声を聞き、その目で見て「主よ、信じます。」と信仰を告白しました。
ファリサイ派の人々は、彼に対してこれまでずっと、目の見えない罪を抱えた者としての扱いしかしてこなかったでしょう。扱うにも値しないと、捨て置かれていたようなものです。その扱いは、音として、声として、彼の耳に聞こえていたでありましょう。
彼らは目が見えるようになってからも、その喜びを分かち合うことなく、安息日に癒された、なぜあの男は安息日に仕事をしたのか、それは罪だと、罪についてずっと論争し続けているのです。その姿はあたかも神の国に向かう門を通らず囲いを乗り越えて入ろうとする盗人、強盗の類のようであり、見えるようになった盲人が聞いた声すらも聞こうとしない、主イエスの言葉を理解できない、理解しないのです。ファリサイ派の人々よ、なぜ、あなたがたは見えず、聞こえないのかと主イエスは訴えているのです。
主イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊かいは羊のために命を捨てる」と話されました。そう言われたこの時は、仮庵の祭りの時期です。秋から冬へと向かう中で、年を越して春になって迎える過越しの祭りの際には、主はこの言葉どおり、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑とされていくのです。
主イエスの声を聞かず、主イエスの言葉を理解せず、主イエスは神の御子であることを受け入れなかった者によって十字架刑への道を歩まれます。
すでにこの時、主は決心され、十字架を受け入れておられたと思います。「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる。」命を捨てる程に、私達を愛しておられたからです。
このことによって羊である私たちは命を得ました。主イエスによって、渇きを潤し、命の光によって照らされ、聖霊を受けて、生きる命を得ました。
主イエスは、私達の前に羊の門としておられます。その門はきっと狭い門だと思います。世の中の人々が望むところの広い門でないかもしれません。けれど、この門だけが私達を神の国へと導く門なのです。
私達の大塚平安教会は創立74年目を過ごしています。この74年の間、この教会は神の声を、この地域にあって宣べ続けて参りました。大きな成果を挙げたこともあったと思います。しかし、そうでないことの方が多かったかもしれません。特に振り返ってこの12年の間、私が招かれてからの期間、宣教の停滞、あるいは衰退であったことを思わずにはおられません。でも、大切なことは声をあげ続ける事です。ここは主イエスの門、主イエスが命をかけて私達を愛して下さったと告げ知らせる、主イエスの門であり、だからこそ私たちはその門を出たり入ったりしながら、礼拝を守り続け、いよいよ力付けられ、いよいよ励まされて歩んで参りましたし、そして、これからもそうなることでしょう。
一人でもこの門に入られる方が与えられるように願いながら、また祈りながら、私たちは新しい一週間を過ごして参りましょう。
お祈りいたします。