日本キリスト教団 大塚平安教会 

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主の恵みの年

2017-02-20 14:55:57 | 礼拝説教
皆さん、新年あけましておめでとうございます。2017年が始まりました。この年も、心新たな思いでまた一歩ずつ歩んで参りたいと思います。

キリスト教の教会歴、キリスト教の暦からすれば一年の最初は11月末のアドヴェントからが新年です。アドヴェント、クリスマスから一年が始まります。

御子イエスの誕生を祝う、クリスマス礼拝は多くの皆さんが集って下さいました。丁寧に数えましたら24日の昼の子どもの教会のクリスマス礼拝も、その夜の聖夜礼拝も、25日のクリスマス礼拝も、いずれも80名以上の方々が来られておりました。天候や日程も良かったのかもしれませんが、多くの方々と共に御子イエスの誕生を祝うことが出来、改めて良かったなと思います。
クリスマス礼拝ではM姉、S兄が転入会されて、私たちの教会の兄弟、姉妹となられました。そういう意味においても、「主の恵みの年」を既に、クリスマスの時期から私たちは歩んでいたといえるわけです。

そして、新年、2017年となりまして、更に主の恵みを共々に歩んで参りましょう。

本日は、ルカによる福音書4章16節から読んで頂きました。誕生された御子が、成長し、時が満ちて、主イエスが宣教開始の決意を持たれる。その後、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受け、荒野ではサタンからの誘惑に遭い、それを退けて、主の故郷であるガリラヤに帰られます。そして、更に主がお育ちになったナザレの村にやって来られます。

安息日に会堂に入られて、イザヤ書の巻物が手渡されました。主は渡された巻物を開き、イザヤ書の御言葉を読み始められました。

「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、捕らえられている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由に、主の恵みの年を告げるためである。」

その後、巻物を返されて人々をご覧になりながら話されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

主が「実現した」と宣言されたのは、この年が「主の恵みの年」として与えられているということです。
ここで言われる主の恵みとは何か? より具体的なものです。

 旧約聖書のレビ記25章に「ヨベルの年」という言葉が登場します。ご存じの方も多いでしょう。ヨベルの年とは、神がモーセに命じた、ある特別な年50年に一度やって来る「解放の年」のことであります。
 
 その年がやって来ると、ヨベルとは雄羊の角を意味する言葉ですが、角笛が鳴らされる。そして、例えば、貧しさゆえに自分自身を奴隷として身売りしてしまった人がいる。しかし、ヨベルの年になると無条件に解放される、それまでの借金がゼロとなるのです。  

 例えば、貧しさ故に土地を手放してしまった人がいるとする。しかし、それも50年に一度のこのヨベルの年になれば無償で土地を返してもらえるとなるのです。
 それが、モーセの律法に定められていることです。

 負債を負っているものが、負債を負いつつも、努力して自力で返済したとか、貯蓄をして買い戻したというわけではなく、ただ神の恵みの年として、全てが解放され、回復されていく年、それがヨベルの年であり、だから主の恵みの年と呼ばれていました。

 主イエスが宣教を始められる、始められて会堂で御言葉を読まれて、「捕らわれている人に解放を与え、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人が自由になる喜びの年が来る」神の救いの年がやって来る、いや、今既に来ている。
 主の御言葉はご自身が会堂でイザヤ書を読み、ご自分が宣教を始めるにあたって、今この時、ヨベルの年のように、人々に解放と喜びを宣言するのです。「今日、あなたがたが耳にしたとき、この御言葉は実現した」

 聖書にはヨベルの年として具体的に民が解放された記述があるわけではありませんが、しかし、今から17年前の2000年という年、主イエスの誕生から40回目のヨベルの年として、西欧のキリスト教国は、貧しい国々が抱えていた負債を免除したという出来事を思い起こします。その流れについに日本は乗ることがありませんでしたけれど、現代に至るまでヨベルの年は生きていたと感動しつつそのニュースを聞いたものでありました。

 皆さん、この2017年という年をどう歩もうとしているのか、私たち自身が主なる神によって解放されていく年にしたいと思います。

 この2017年は以前にもお伝えしましたが、ドイツのルターから起こった宗教改革から500年という一つの節目を迎えます。つまり、宗教改革から10回目のヨベルの年がやってきたと言えるかもしれません。そうであればなおさら、私たちはこの年を「主の恵みの年」としていきたいと願います。

 ルターが宗教改革の出来事の中で大切にしたことは色々とあると思いますが、基本的には「信仰と愛」この二つに集約できると思います。
ルターは信仰について、こう言い表しました。
 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」

 この世の権威とみなされる者、例えば当時でいえば、皇帝、ローマ教皇、あるいは規則、戒め、律法、また、修行と言われるような強いられた行為等の何物にも従属しない、なぜなら、信仰者はキリストにこそ従属するからである。これがルターが苦しみつつ、しかし、心に落ちた信仰のあり方です。
キリストに従属することにより、この世の力や権威に従属しないというのです。

 私たちは、このクリスマスを通じて、何度も何度も読んできた御言葉は「恐れるな」という御言葉でありました。私たちは、その人生においてどれほどの恐れ、不安を抱いているのでしょうか。家庭のこと、健康のこと、将来のこと、数限りなく不安や恐れが私たちに襲い掛かります。今国内外において、政治的な不安も増大しています。不安や恐れを感じると私たちは誰かの言葉に従ったほうが良いかなと思う。あるいは人の知恵の中でなんとかしたいと考えるものです。
 ヨセフは、マリアが妊娠していると知った時、とんでもないことだと思いながらも、その解決の為にと願い、マリアと密かに縁を切ろうとしたとありました。密かにとは律法に照らせば、姦淫は石打の刑だけど、そうならないようにということでしょう。ヨセフはこれで、少なくともマリアを救うことが出来ると考えたのでしょう。けれど、天の使いがヨセフに現われて、「ヨセフ、恐れずにマリアと結婚しなさい。マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのである」という言葉を聞いて、決心してマリアと結婚して、御子イエスの誕生となったように、不安や恐れがあると、人に従うこともあるけれど、内なる自分の知恵に頼るということもあるのだと思います。

 けれど、外に頼るとしても、内に頼るとしても、どこかで、自分の思いや願いでもって、そろばんをはじいてしまい、そしてそこには確かな解決の道が示されないのではないでしょうか。

 私が神学生の頃に聞いた話を思い出します。女性の先輩牧師が話をしてくれました。ある日のこと、礼拝に来られるお母さんが娘を連れて相談に来たというのです。娘は15歳、高校一年生、妊娠しているというのです。どうしましょうかという相談です。牧師も聞いて驚きました。正直なところ、どうしたら良いのか分からない、祈りましょうと祈って返すわけにもいかない、けれど、お嬢さんの話を聞いて、相手の男性も真剣な思いであることを知り、お母さんの話も聞きながら、牧師が祈りつつ最終的に決心したのは、お腹の子どもを諦めるのでもなく、全く逆で、二人の為に教会で結婚式を挙げて、二人を応援するという結論だったそうです。

 牧師は教会にもことの次第を話し、聞いた皆さんも、そういうことではと協力しながら、結婚式を挙げて、15歳の花嫁ですよ、皆さん、けれど、その後、数年して、若い二人はなんと十代の夫婦ということでテレビのドキュメントになって、たまたまそのドキュメントを見て、私は、あの時に聞いた話の二人だと思い起こしたのを覚えています。
 
 この時、法律がどうのとか、世の中の常識とか、高校生としてとか、様々な思いに従いながら判断していたとしたら、教会の働きは無かったと思います。神を信じる者が何者にも従属せず、神のみに従属する思いを持つときに、人は大きな解放と確かな主の恵の年を生きることが出来るのではないでしょうか。
 ルターは信仰については「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」と表しました。

 と、同時に信仰と愛の、愛についてはこう言い表しました。「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」信仰者は、神以外の何者にも従属しないけれど、愛において全てのものの僕であると告げたのです。それはそのまま主イエス・キリストの福音宣教の教えであると言っても良いでしょう。

 今、次男が通っている高校は、12月23日がクリスマスの礼拝だったそうです。そのクリスマスの祝いで、シチューが出て、そのシチューの牛肉が学校で飼っていた雄牛の肉だったと聞きました。子どもたちが愛して育てていた牛の肉が振舞われる。しかも、随分固くて大変だったそうで、お祝の席でありながらも、子どもたちは美味しいような、そうでもないような、悲しいような、複雑な思いをした話を聞きました。
 人間が食べるためであっても、牛一頭の生き死にがこんなに話題になる、それは、私はむしろ当たり前だろうと思います。そこには、命に対する愛があると思うのです。

 けれど、今、当たり前ではない出来事が起こっているような思いがしてなりません。日本の各地で鳥インフルエンザにかかっている鶏が見つかり、一緒に飼われている鳥もどんどんと処分されるというのです。その数は一回に何十万羽です。人に感染しないようにという配慮だとは思いますけれど、でも、ブロイラーを小さなゲージに入れて、庭に出すこともせず、餌を食べるために首だけだせるようなっていて、ただ卵を産むだけの、物として扱っている。
私たちは消費者として安ければいいと思っているわけですけれど、でも、本当はそこに命に対する愛が見えないのではないですか。

 鶏に限らずに、物事を考えるときに、私たちはいつの間にか、安くて、早くて、美味くて、儲かる話を聞きたいと思っていますし、そこにこそ価値があると思っているのではないでしょうか。けれど、そこに本当に愛があるのでしょうか。愛を見ることが殆ど無くなっているのではないでしょうか。

 主イエスは、会堂でイザヤ書を手にとって、「主がわたしを遣わされたのは、捕らえられている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に、主の恵みの年を告げるためである。」と語られました。愛とは、捕らわれている人の解放であり、圧迫されている人に自由を与えることです。

 弱い者への愛の眼差しが求められているのだと思います。現代は、富んでいる者と、貧しい者との格差がどんどん広がっていく社会だとも言われます。
それは、人が人に対して、弱い者、小さい者に対して、愛の眼差しを向けることが出来なくなっている。向けようとしなくなっているからではないですか。
 愛の無い社会を作り出そうとは誰も思ってはいないでしょう。けれど、どうもこの世の流れはそっちの方向に流れていっているように思えて仕方がありません。

 世界的にいよいよ保守的で、隣人を顧みない傾向が強まる中で、世にある教会が存在する意義も、これから行おうとする事柄も、行わなければならない事も、いよいよ多くなっていくのだと思います。
 何よりも、主イエスが告げられた「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」この実現をこの場で更に表して参りたいと思います。教会が教会を守るだけにとどまらず、愛をもって、この世に出ていくことが求められているように思えてなりません。皆さん、この2017年を、主の栄光を表す働きを共々に歩み始めましょう。


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