日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

大きな人も小さな人も

2021-06-20 15:47:41 | 礼拝説教
【詩編115編12~18節】

 先週、教会である方と話をしていました時に、当然のように、コロナ禍の話になりまして、これから先どうなっていくのか、心配ですねと話す中で、その方がふいに、1月、2月、3月と神奈川県に緊急事態宣言が出されていた時のビデオ礼拝が良かったという話しをして下さいました。
 何が良かったかというと、最初に家内が讃美歌を賛美して、それから牧師が説教する。夫婦で一緒にしているのが良かったというのです。
なるほど、そういう風に考える人もいるんだと思って聞いていました。出来れば、コロナが治まって二度とすることが無いように、とは願いますが、それとは別にしても、これからの時代を考えますと、ネット配信という形の礼拝を、考えていかなければならないとは思います。

 ビデオ礼拝の準備していました時のことですが、家内が賛美する様子を私が撮影するわけです。1回目は練習のようにして、それからテイク2,テイク3と、何回か録画して見る、私の耳は音楽にあまり向いてないようで、聞いていると、一回目も、二回目も、三回目もあまり変わらないように聞こえてくるものですから、一回目ので、良いじゃないと言っても本人は納得しないわけです。ですから二回、三回と撮り直してOKとなるわけで、次に私の説教を家内が撮影する番になります。
 説教し終わると、私ももう少し工夫してこうすればとか、あ~すればと、思うわけですから、二回目どうかなと聞きますと、とんでもない! 長いし、二回目も変わらないわよ(笑)そう言われるものですから、いつも一回目のものを流しておりました。

 何を申し上げたいのかと言いますと、私たちは何が気になるかと言うと、何よりも「自分」が気になるということです。教会でも幼稚園でも、時々全体写真を撮りますが、出来上がって来た写真を見て、何よりもまず自分がどう映っているか、それが気になるわけです。自分の顔より、隣の人の方が気になる、という方はいません。私たちは自分がとても気になるし、気になるだけでなく、自分がどう映っているか、人からどう見られているか、とても気にするものではないでしょうか。

 幼稚園のお子さんに、寝る前に絵本を読んでいるお母さんがおられました。その家に、同い年の姪っ子が遊びに来ていたそうです。それで夜になって、今日は二人に絵本を読んであげましょうと二人を集めて、絵本を読んだそうです。読んでいるうちになんだか、姪っ子が落ち着かないでワサワサしているのが気になりながら読み終わりました。
 そしたら姪っ子が言ったそうです。「おばちゃん、今度は私の為に読んで」
 
 今読んでいるのは、自分のためではないと思っていたのでしょう。ですから次は自分のためにと思ったのでしょう。そのように、子供だけではなく、年齢に関係なく、私たちは、誰よりも自分の為に、何よりも自分の方に向いて欲しいと願いながら生きているのではないでしょうか。

 イエス様が100匹の羊の譬を話されました。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」
 良く知られているたとえ話ですが、この話をどう読むのか、多様な読み方があると思いますけれど、もし、迷いでた一匹が自分だったとすればどうでしょうか。必死になって泣き声をあげるのではないですか。見つけてくれ、見つけてくれ、自分はここにいるよ、自分を見てくれ、だから、私たちは、自分が呼び求める声、見つけてくれと願う声を聞いて、必ず捜し出してくれる方が必要なのだと思います。必ず見つけてくれる方がいる。それがどれほど私達に平安をもたらしているでありましょうか。

 今日は詩編115編を読みました。12節から読みましたが、もう一度12節、13節を読みますとこう記されています。「主よ、わたしたちを御心に留め 祝福してください。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福しください。主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください。」

 この箇所は読んですぐ分かりますように、神に祝福を求める箇所です。「わたしたち」とはイスラエル全体です。イスラエルの家、アロンの家、イスラエル全体です。特に「大きな人も小さな人も祝福してください」とあります。
具体的には、老若男女、富んでいる者も、貧しい者も、大人も、子供も、社会的な立場の違いや、様々な違いを乗り越えて、大きな人も小さな人も祝福してくださいと願っている訳です。

 ある牧師は、ここに聖書が示す神の価値観と、私達人間が思う価値観の違いがあると説明しました。私達人間の価値観は、「比べる価値観」だと説明しています。私たちは意識する、しないに関らず、人と比べます。大きいのか、小さいのか、早いのか、遅いのか、上なのか、下なのか、自分より下だなと思うと、ホッとするけれど、自分より上だと思うとシッとする。ホットしても、シットしても比べてしまうからそう思うのです。

 人と比べて、比べながら思い悩むところもあります。明日の事で何を食べようかと思い悩み、昨日のことは引き摺りながら、あの人の言葉に惑わされ、この人の言葉に左右され、そして思い悩むのです。
なぜ思い悩むか、自分の心の中に自分の物差しがあって、自分の物差し、自分の秤、そんな物が自分の内にあるとは到底信じられないと思う程に、自分によく馴染んでいる物差し、秤があって、その物差しで人を計りはじめると、なんと世の中は、変わった人ばかり、気になる人ばかりだと思うのです。そして、自分の目の中の梁には気づかず、あの人の目の中の塵を取ってあげなければそう思う人が多いのではないでしょうか。

 聖書が示す価値観は「大きな人も小さな人も」です。人が見て、大きすぎるとか、小さすぎるという判断と違い、「大きな人も小さな人も」どんな人も、そしてどんなことも、「全ての物が相働きて、万事が益」となり、あるいは、イザヤ書43章には「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」ていると記されてあります。神様が示して下さる物差しは、こういうことでしょう。

 主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と話して下さいました。私につながっていなさいと話して下さいました。私たちは生きていると、色々な経験をします。その経験は必ずしも、喜ばしいものではなく、時には辛い、時には恐れ、時には苦しい経験もあります。でも、その経験の一つ一つがそうだな、このことがあってまた一つ宝物が増えたなと、思えるためには、まことのぶどうの木である主イエスとつながることです。つながり続けることですよ。
私たちは横を見てホットしたりシットしたりしないで、前を向いて、神を見上げて生きていきましょう。

 昔、山と山との間に、深い谷があるような所に、どうやって橋を架けていったかというと、最初は紐をつけて凧を飛ばすのだそうです。凧が向こう側に付いたら、向こう側でも紐をつけて飛ばす、それを何回か繰り返すうちに、いつのまにか、細い紐がロープとなり、ついにはロープに滑車を付けて、滑車に荷物を入れて、互いにやり取りしながら、ついには人が通れるほどの強固なつり橋が出来上がるのだそうです。
 
 私達の信仰生活もそのようなものではないでしょうか。最初は一本の紐のように、弱く、プツンと切れてしまいそうなものかもしれません。でも、たとえ、切れるとしても、また結び付ければ良いではありませんか。また結び付けて、そして、少しずつ、強く、確かな信仰、神我と共にいます、という確信、喜びを得ていくのだと思います。

 私たちは「大きな人も小さな人も」祝福してくださる方と出会いました。この方と出会って今こうして礼拝を守っています。この世は、ワクチン接種が進んでいますけれど、未だ新型コロナウィルスの感染不安は払拭されず、毎日が不安と戦きの中で私達は過ごしています。コロナの影響は、私達の生活にも直接的な影響を及ぼしています。不安は怒りとなり、怒りは争いを呼び起こすのです。
でも、皆さん、そのような世の流れに乗ることなく、私たちは「大きな人も小さな人も、」そして、どのような事をも、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生んで、私達の宝となることを忘れないで生きていきましょう。
昨日でも明日でもなく、今日一日という日を、主の祝福の内に、喜びを持って過ごして参りましょう。

 お祈りします。
 

コメント   この記事についてブログを書く
« 岩を水に変える方 | トップ | 何を土台とするのか »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事