日本キリスト教団 大塚平安教会  

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その声は全地に響き渡る

2019-07-16 09:06:31 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編19編 2~15節】
【ローマの信徒への手紙10章17~21節】


 既に大分前の話になりますが、今年の1月にタイからお客様が礼拝に来られたことがありました。タイで牧会されている3名の牧師がお出で下さいました。

 その牧師の中の1人のお嬢さんが日本に留学していて、二十歳になる。それでお嬢さんですから着物を着て、日本の成人式に出席される。その姿を是非見たいという思いで来られたと話しておられました。
 礼拝は日本語ですが、と申しましたけれど気にせず出席されて、礼拝後の愛餐会にも出て下さった。そこでタイの教会の様子なども伺いながら楽しい時間を過ごしました。

 その際に、何かの拍子に「日本人は太陽を神様にしている国だから」と言われました。あ~そうなのか、他所の国から見れば、日本は太陽を神様にしている国という認識なのかと思わされて、鮮明に記憶に残っています。
 
 けれど、タイであろうと、日本であろうとキリスト教徒の信仰は違うと話したかったのかもしれませんが、確かに日本人の宗教観は、自然を神と見なす思いが高いと思います。日本人は「宗教」という言葉をあまり好みません。その理由は幾つかありますが、その一つに、「宗教」とは、誰かその宗教を始めた人がいて、つまり、創設者がいて、その人の教えに傾倒し、その教えが正しいと信じた人々が集まって宗教が起こってくる、そういう感覚があって、多くの人はそのことを冷静に捉えようとして、距離を取ろうとする傾向があると思います。
 
 それよりも、人ではなく自然こそ神である、という明確な定義でもありませんが、大地、大空、川、山、太陽、月、星、そこに神を感じる。何よりも太陽を神とする。たとえば富士山に登る人の多くは、山頂から太陽が昇ってくる光、ご来光を見たいという思いの方々も沢山おられます。ご来光にはご利益があると言われているそうです。先日、友人の牧師からの今回で17回目の富士山に登頂しましたとお知らせがありました。。同年代の私には羨ましい限りですが、まさか、ご来光の御利益を求めて、ではないと思いますが、でも、太陽、自然を神とするような感覚は日本人には馴染みやすいのだろうと思います。

 日本の自然環境は非常に豊かな作物を私たちにもたらします。しかし同時に、時には大きな災害をももたらします。災害に対する畏れも加わって、自然に対して何事も無いようにと手を合わせる。それも良くわかる感覚ではないでしょうか。

 キリスト教は太陽を神とするわけではありません。むしろ太陽を含めて、月も星も、大地も自然も全てを、主なる神が作って下さった、創造されたと考えます。
 テモテの手紙の4章に「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」と記されてあります。この世を創造され、人に命を与えて下さった方がおられる。しかも、それは全て良いものである。この教えは旧約聖書の時代から、キリスト教が受け継いでいる信仰です。

 今日は詩編19編を読んでいただきました。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼に昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る」この私たちが住む世界、自然、環境、太陽も月も大空もそれは神の栄光を物語っている、神によって作られたものを神とすることなく、造られた方こそ真の神、この方こそ私たちが称え、栄光を帰す方だと詩編の作者は伝えているのだと思います。

 注解書などを読みますと、この詩編19編、特に「天は神の栄光を物語り」という御言葉によって、感化を受けたベートーベンが「諸天は神の」という讃美歌をつくり、ハイドンが作成した「天地創造」という曲もまた詩編19編からであったと記してありました。他にも恐らく沢山の音楽、あるいは芸術作品が詩編19編の御言葉から生み出されたであろうと思います。

 詩編の続く4節、5節を読みますとこうあります。「話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくとも その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」
神のみ手と言葉によって創造された世界は、話すことも、語ることも無く、声は聞こえないというのです。

 この辺りの御言葉も大変興味深い言葉です。自然は何も語らない、日本人は、風の音、川のせせらぎが流れる音、虫の音、自然に聞こえてくる音を聞くと、心地よい音として認識して安らぐ思いがしますが、西欧の人々だけでもなく、多くの外国の方々は、それを雑音としか捉えないか、音という認識が無いと言われるようです。それは日本人の感性が良いというよりも、研究者によれば、左脳と右脳の働きと認識の違いによるものらしいのですが、詩編の作者も、「自然からは、話すことも、語ることもなく、声は聞こえない」という認識をもって記したのかもしれません。
 
 けれど、5節になると、話すことも、語ることもないその音は、「その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」と続き、ここで大きく展開が変わります。

 その響きとは、賛美の声、音です。太陽が、月が、星が、大地が、自然が、神を賛美していると伝えるのです。先ほど、礼拝の始めに招詞が読まれ申命記10章14節が告げられました、そこには「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである」と読まれました。天にあるもの、地にあるもの全てがあなたのものであり、全てが創造主である神を賛美するのです。「神の御手の業はなんと素晴らしい事か!すべては主よ、あなたがたお造りになったもの!」と世界の果てにまで向かうと告げるというのです。

 この賛美は、誰が自分達を創造し、誰が自分達を支え、誰が自分達に祝福を与えておられるか、更には「聞こえない神の声を」自らの信仰の心で聴き取らなければ出来ない賛美の響きではないでしょうか。

 先ほどローマの信徒への手紙10章17節以降を読んでいただきました。読んでいただいた箇所の中にパウロは、詩編19編を引用し、用いています。パウロは17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と記しました。
「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てまで及ぶ」私たち信仰者にとって、その声とは、キリストが告げられた御言葉を聞くことだと告げているわけです。
 
 しかし、イスラエルの人々は、そのキリストの言葉を聞き損ねてしまった。だから、キリストを十字架刑においやってしまったのだとも続き、神の御言葉を聞きながら尚、抹殺してしまった罪を指摘している箇所でもあります。

 ここで改めて問われるのは、「神の御言葉を聞く」とはどういうことか、ということであろうと思います。
 
 詩編19節の8節以下にこう記されています。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで 目に光を与える。」まだまだ、続きますが、主の御言葉を聞くとどうなるのか。

 それは魂が生き返り、知恵が与えられ、心に喜びが宿り、目に光が与えられるというのです。そのように聞くことが大切なのだと思います。

 先週の木曜日は、座間地区の家庭集会を行いました。その家庭集会で話しましたのは、マタイによる福音書の5章からでありました。マタイのこの5章から7章にかけては、主イエスが人々に神の福音を宣べ伝えた、山上の説教と呼ばれる主の御言葉が記されています。山上とありますけれど、恐らく小高い丘においてか、広い草原においてか、神の福音を人々に告げ知らせた、聖書の中でも最も主イエスが話し続け、語り続け、教え続けている箇所と言っても良いでしょう。
 
 その最初に「幸い」というタイトルが付けられている箇所を家庭集会で読みました。

 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」と主は9回、幸いについて教えておられます。けれど、その幸いのあり方は、私たちが考える所の幸いとは違う幸いでもあると思います。
 
 心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、義の為に迫害される人々、果たしてそれが幸いなのかと思える人々に対しても、主は幸いであると告げておられるのです。そこで問われているのは「神の御言葉をどう聞き取るのか」ということでありましょう。

 熊本の教会で牧会をされている米村英二という先生がおられまして、120頁程の薄い本でありますけれど、「幸福論」というタイトルで本を出されて、私の手もとにも届きまして、私は喜んで読みました。その中に、この主イエスが教える幸いについて、こう記してあります。

 内容を少し要約しますが、「フランスのアランという作家が記した「幸福論」で、アランは『幸福はいつもわれわれから逃げてゆくものだ』と伝えている。それは、私たちが幸福と思っているものの多くが、外部から与えられたものであるからだろう。自分でつくる幸福は決して裏切らない。われわれに必要なのは人や環境に依存しない幸福であり、その幸福を自分でつくる能力なのではないだろうか。」

 大切なポイントは、「外部から与えられた幸福は逃げて行き、自分で造り上げる幸福は決して裏切らない」という所です。

 心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、果たしてそのような人々が幸いであるかどうか、人間的な思いではそれでも幸いであるとは言い難いと思います。
 
 しかし、主イエスは与えられている状況や環境に依存するのではなく、それこそ、その場で神の御言葉を聞いて、自分の内から造り上げられていく幸福、詩編19編で言うならば、魂を生き返らせ、心に喜びを、目に光を与える幸福を手に入れることだと告げているのかもしれない。
 
 その為にどうするのか。それは主イエスに従って生きること、主イエス・キリストはこの世に現れて下さったとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と告げて福音伝道を始められました。そして、多くの人々に神の福音を宣べ伝え、病の人、悪霊に取りつかれている人々を癒し、その業に多くの人々が称賛し主を称えました。多くの弟子たちが従いました。

 しかし、妬みに燃えた、時の指導者たちは、主イエスを殺す計画を立て、捕らえ、裁判にかけ、主は十字架刑に付けられました。その際、弟子たちは皆、逃げてしまいました。聖書を読む者は、皆知っているとおりです。
 
 弟子たちはなぜ逃げてしまったのか、弟子たちは主イエスから、つまり外部から与えられていた幸いを喜んでいたからではなかったでしょうか。しかし、十字架によって外部から与えられた幸いは見事に逃げていき、弟子たちもまた、恐れ逃げたのです。

 けれど、三日後に復活された主イエスは、弟子たちを励まし、40日間、弟子たちと共に過ごし、それから天に昇っていかれました。その時も弟子たちは昇って行かれる主の姿をいつまでも見上げていたと記されています。弟子たちからすれば、また主は自分達から離れて行ってしまわれたと思ったかもしれません。
 
 けれど、それから十日後、一同が共に集まり祈り続けていた時に、主が約束しておられた聖霊が弟子たちの一人一人の上にとどまり、弟子たちは聖霊によって力与えられ、ついに心の迷いから離れ、与えられている状況に依らず、主の福音を宣べ伝え始めました。それがペンテコステの出来事であります。
 
 聖霊の力は、幸いは自分で造り上げるものであることを、弟子たちがしっかりと認識し、そう生きようと決心する思いを促す力であると思います。聖霊の力こそが、祈りを本物の祈りとし、祈るばかりでなく語りだし、語るだけでもなく、行動が伴い、行動が伴うだけでなく、そこに喜びの人生が与えられ、そして、その喜び、幸いが、多くの人々の心に響いたのです。その響きは全地に、つまり、私たち一人一人にもしっかりと響いて、そして私たちの魂をいつも生き返らせて、目に光を与え続けています。

 直接耳には聞こえてこない神の声、しかし、その声は、喜びの福音として私たちの心に響き渡っているはずです。その喜びを胸に納めて、私たちは今週も力強く歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。

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