日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主よどのような人が

2019-07-08 09:45:13 | 礼拝説教
【詩編15編1~5節】 
【ルカによる福音書18章9~14節】

 先週はK姉の納骨式を雨の中となりましたが、多くの皆さんと共に、厚木の教会墓地にて行われ誠に感謝な時でありました。特に遠方からもKさんの親族の方が幾人もやって来られ、こちらに向かう車の中で、Kさんの遺骨が教会の墓地に納めるのはとても良いと話して、感謝していますと話して下さいました。

 日本の長い風習の中では、多くの場合「なんとか家代々の墓」と記された墓が建てられます。私の岩手の田舎のお寺にも、「菊池家代々の墓」がありますし、キリスト教の家庭である家内の実家の墓も、代々とは記されていなかったと思いますが、その家の墓がある。皆さんの中にも、そういう方は多いと思います。

 しかし、今、巷の問題となっている一つは、少子高齢化の中で、その代々の墓を継ぎ、守る人がいなくなって来ていることだと言われます。昔はいわば、その家に生まれた長男が、墓を守り引き継ぐのが当たり前であったのが、現在はそういったシステムが機能しなくなっていると言われます。

 現実的に考えても、もしK家の墓があったとして、これまでKさんがそれを守って来ていたとしても、今回天に召されましたから、後はどうしようもありません。そんなことを親族の皆さんも話して来られたのではないでしょうか。でも、この教会に教会の墓があり、そこに納められ、その後も教会が続く限りは、つまりは永遠に召された方を覚え、偲び、手を合わせ、祈りを献げる方がいる、それは実に幸いだと、親族の方は思われたのでしょう。私もうなずきながら話を伺っておりました。

 そんな話しを伺いながら、私も本当にそう思います、と答えながら、11月の第一の日曜日には召天者記念礼拝という特別な礼拝がありまして、写真を飾り、故人を偲びながらの礼拝を執り行いますから、是非おいで下さいとお伝えいたしました。けれど、その時だけは少し残念に思いますけれど、皆さん苦笑いされておられた。なんとなく、あまりその点においては興味が無さそうな雰囲気でしたので、本当にお出でいただきたいと、熱心に礼拝に来られるようにお勧めをいたしました。

 もとより、実は当初、先週の礼拝の、最初から幾人かの方には礼拝から出席していただきたいと願い、電話でその思いをお伝えしておいたのですが、真に残念ながらどなたも出席されませんでした。とはいえ、Kさんは、これまで殆ど親戚とのお付き合いが無かった方でしたし、親戚の皆さんが、割合に遠方からお出で下さるだけでも、私たちは感謝しなければならないと思います。何人もの方が、葬儀にも、納骨にもいらして下さった、本当に良かったと思います。

 でも、教会の礼拝に出席するのはハードルが高いかなとも、改めて思った次第でした。来られた皆さんにとって教会、あるいは教会の礼拝が、あまりにも縁遠く、自分達の日常生活との接点があまりにも無いということを示しているのかもしれません。

 話しは少し変わりますが、過ぐる6月23日に私たちの教会は関田寛雄先生をお招きして特別伝道礼拝を行いました。その際の礼拝では、初めてこの教会の礼拝に出席された方も数名おられましたし、普段見えられない方も来られました。シルバさんご家族が、揃って礼拝に出席されたのも良かったと思います。しかし、そこでも改めて思わされることは、一人一人の関わりの大切さです。伝道礼拝であっても、例えばクリスマスやイースターであろうと、私がこの教会に赴任した頃には、数年の間、沢山のチラシを作成しました。2千枚、3千枚のチラシを作成して、皆さんに協力していただいて、一軒、一軒のポストに入れて回りました。

 ある年のクリスマスに、3千枚程のチラシを作成しまして、配り回り、聖夜礼拝にそのチラシを見て、やって来ましたという方が一人おられて、1人でも配って良かったと喜んだ覚えがあります。あるいは、来られないとしても、チラシを見れば、ここに教会があるということは知っていただける、そういう効果はあると思います。けれど、協力者の皆さんが何日もかけて配って下さるのも大変だと思い、考え方を変えて、チラシは多くは作成しない。けれど、これまで、どこかで、教会との関わりを持っておられる方々、住所等がわかっている皆さんには、葉書や封書でお知らせを出すようにいたしました。そこで、はっきりわかったことは、その方がずっと教会の礼拝に来て下さるのです。

 教会は主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、特に日本の教会は伝道していかなければなりません。しかし、どのように伝道していくのか、それはいつも問われていると思います。けれど、何よりハッキリと効果があると思われる伝道は、人との関わりを持つ、良い関係性を保つ、信頼するに値すると思っていただけるとしたら、それは何にも勝る伝道ではないかと思うのです。

 多くの日本人が持つ、教会のイメージとはどんなイメージなのでしょうか。内側にいる私たちには中々分からないところでもあります。しかし、外側から見たらどうでしょうか。一生に一度も教会という所に来たことも、入ったこともないという方の方が圧倒的に多いと思われます。教会と聞いても別の世界と感じる方も多いでしょう。あるいは時々、テレビ、雑誌等で「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞くこともあります。教会に、礼拝に出席されている人たちは、自分達と違うと思っているかもしれません。

 今日は詩編15編を読んでいただきました。1節にこうあります。「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことが出来るのでしょうか」この幕屋とは主の幕屋、すなわち礼拝する場であり、後の神殿となり、キリスト教で考えれば教会です。主よ、どのような人は教会で礼拝を守るこが出来るのだろうかと、問うているのです。

 そして、その答えが2節以降に記されます。「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷を持たない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。」

 このような人が、主の幕屋に宿ることが出来るのだとあります。そして最後に「これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう」と記して、この詩編は終わります。この詩編の著者は、どんな思いでこの詩を綴ったのかと思わされます。主よ、どんな人が主の御前で礼拝を献げることが出来るのですか。と問いつつ、「完全な道を歩き、正しいことを行う人なのでしょう。」と記しながら、「心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人」と記しながら、そして、そういう人たちは、「とこしえに揺らぐことがないでしょう」と締めくくられます。

 私は、この著者が、自分は完全な道を歩んでもいないし、正しいことを行ってもいないし、心には真実の言葉がなく、時には、人に対して中傷の言葉を吐く、そういう者であることを知っていたのではないかと思います。何より、著者自身が、日々、心も、日々の生活も揺らぎばかりを感じている、そんな自分自身だなと思いながら、どんなに自分が神の前にあって、情けないと思い、そんな思いをいだきつつ、だから尚更「主よ」と訴えているのではないかと思うのです。私は、この「主よ」という御言葉が、私自分の心にも響いてくるように思うのです。

 世の人々が抱く、信仰を持っている人のイメージ、それは、もしかしたら、この著者が記すように、「完全な道を歩き、正しいことを行う人」というイメージなのかもしれません。だから、「教会は敷居が高い」と感じるのかもしれません。

 けれど、内実はどうでしょうか。勿論、私たち自身「心に真実の言葉があり 人を中傷せず 友に災いをもたらさない」ようにと願いながら過ごしています。それは間違いないでしょう。けれど、だから尚更、自分は完全ではないとも知っていて、神の御前においては、罪人の1人でしかない、そのことも良く知っているのです。しかし、主イエス・キリストはそのような罪人の1人であるこの私を、圧倒的な「赦し」の中で神が招いて下さっておられる、この招きがあるから、この場に集えるのだとも知っています。
 
 新約聖書のルカによる福音書18章9節からを読んでいただきました。主イエスが一つのたとえを話された箇所です。内容もそれほど難しいわけではありません。「二人の人が祈るために神殿に上った。1人は律法を厳格に守るファリサイ派の人で、1人は当時罪人と同等と考えられていた徴税人です。ファリサイ派の人はこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちにように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈ります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」それから主イエスはこう言われました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」
 
 主イエスは、徴税人の祈りのほうが義とされるのだと教えられたのです。この徴税人の祈りは、詩編の著者の思いと重なってくるように読むことも出来ると思います。

 皆さん、けれどどうでしょうか。私は改めてここで一つの問いが示されていると思います。私たち信仰を持つ者、特にプロテスタント教会において育つ私たちは、主イエスのたとえを読む時に、自分達を徴税人の方に寄せて読む傾向があると言われます。「自分は、自分達は、この徴税人のようだな。神の御前において一つも誇れるような物もなく、胸を打ちながら罪を悔いる祈りしか祈れない者だ。」と思う。しかし、その時に、もしかしたら、自分は正しい人間だとうぬぼれ、他人を見下しているファリサイ派が祈るような祈りを祈らない者であることを感謝します。と心に思うとしたらそれはファリサイ派の人を見下していることにならないでしょうか。

 ファリサイ派が陥っている「自分は正しい者」であることに感謝する罪と、徴税人が「自分は罪人であって、正しい者ではないと知っている」ことを感謝するのは、同じ土俵の上にいるようなものです。

 互いにあんな人とは違うと思うからです。
 
 当初、教会の敷居が高いと言われると申し上げましたが、私たちは、教会に集まる者の私たちは、神の前に罪人の1人であることを思いますし、説教でもそう話します。

 しかしその時、世の多くの人たちは、「自分は罪人である」ことさえ知らない人たちであって、私たちは知っていると思っているとしたら、そこで、私たちは人を見下す罪を犯しているのではないか、そしてそのことを、世の人々は非常に敏感に感じて、それを「敷居」と言う言葉で表現しているのではないかとも思います。
 
 徴税人はなぜ、神に義とされたのか。それは、ファリサイ派の祈りは、人と比べる祈りであったのに対して、徴税人はただただ自分の罪を悔いて、その赦しを願っていたからです。祈りは人と比べるものではありません。ましてや「自分がいかに罪人であるか」を知っている、それは自慢にも何にもならない。

 そこに求められるものは、徹底的に神の前に胸を打ち、毎日、毎日、知らない間にさえも、人に罪を犯していることを悔い改め、主に赦しを願うことでしかないのではないでしょうか。
 
 先ほど、伝道することは人と関わりを持つことと申し上げました。しかし、その関わりは、主なる神に対して、この取税人のように常に、自らの罪の赦しを希うところから始まるものであろうとも思います。
 
 今日は、この後聖餐式を執り行います。主イエスの体なるパンと血なる杯をいただき、神の命をかけた赦しの業を思い、感謝していただき、またキリストと一つとなり、神の命を生きて参りましょう。   お祈りします。


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