日本キリスト教団 大塚平安教会  

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今、私は立ち上がる

2019-06-10 09:33:00 | 礼拝説教
【詩編12編2~9節】  
【使徒言行録 2章14~21】

 皆さん、ペンテコステおめでとうございます。

 今日は、詩編12編を読んでいただきました。「主よ、お救い下さい」という言葉で始まる12編、記された詳しい背景は分からないようですが、詩編の著者は続けて「主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から、信仰のある人は消え去りました。」と記しました。
 
 この詩編が記された時、その背景にはイスラエルの多くの人々が、主なる神から離れ、離れれば離れるほどに、信仰は薄れ、また、消え、3節以降にありますように、「偽りを言い」、「二心をもって話す」という状況があったと思います。

 裏も表もある言葉でもって、しかも滑らかな唇と威張って語る舌で用いて、その人にとっては都合の良い言葉、あるいは利益となる言葉を語り、わたしたちに主人などいないと嘯き、主なる神を侮る人々が力を持ち、権力を握っている状況にあったその様子が良く分かります。
 
 詩編12節は、人が話す「言葉」について、考えさせられる箇所だと思います。言葉とは、主なる神が創造された被造物の中で、ただ人間だけが用いることが出来る神様からの贈り物です。しかし、その贈り物をどのように用いるのかによって、人は人と離れたり、絆が深まったりすることを私たちは良く知っている。つもりです。
 ですから、私たちは神様からの大切な贈り物を「人を生かす」為に用いていきたいものだと思うのですが、時として「人を生かそうとしない、人を裁き、人を陥れる」言葉として用いてしまうことも否定できません。
 
 最近、何人かの国会議員が不適切と指摘される発言が続いています。北方領土を戦争によって取り返すとか、女性には子どもを最低3人は生んで欲しいとか、失言と言われ、非難されています。
 しかし、失言と言っても、心でそう思っていなければ口からは発せられません。それは主イエスも指摘している通りです。「外から人の体に入るものは、人を汚すことが出来ない。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」「人から出て来るものこそ、人を汚す。」
 こう言われた時、主は、更に深く、言葉だけでもなく、人の心の中にある悪い思い、つまり、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と話され、非常に強い表現でもって、人の言葉、人の心の思いに対して話されました。
 
 詩編を記した著者が生きた時代も、主イエスが指摘しているように、みだらな行いや盗み、殺意、姦淫、特に「二心をもって話す」とありますから、悪意、詐欺などが横行していたのでありましょう。
 
 このような嘆きに対して主なる神は6節以降でこう言われました。「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために 今、わたしは立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。主よ、あなたはその仰せを守り この代からとこしえにいたるまで わたしたちを見守ってくださいます。」

 今日の説教題を「今、わたしは立ち上がり」といたしましたが、そのような人々が神から離れ、世の指導者や立場のある人々が、自分達の都合の良い言葉でもって人々を裁き、罪人や汚れある者を作り出していた時代に、主なる神はついに立ち上がると言うのです。旧約聖書においては、神の使いとしての預言者を送り、そして新約聖書においては、私たちのもとに主イエス・キリストを誕生させてくださいました。

 主イエスは世に出て、人々に神の福音を語り告げました。それは「土の炉で七たび練り清められた銀」の御言葉、七たびとは、ユダヤ教では完全数と言われ、特別な数字です。七回という意味ではなく、何度も何度もという意味があります。何度も練り清められ、混じりものがなく、割引の無い、神の福音を宣べ伝え、特に、苦しみを抱えた人々、病にある人々、悪霊に取りつかれた人々、汚れていると言われた人々に対して神の祝福の御言葉を宣べ伝え、その御言葉に、民衆は大きな喜びに包まれたわけでありました。
 
 けれど、ご存知のように、主イエスの働きは時の指導者の妬みを買い、彼らの心に殺意を抱かせ、主は捕らえられ、裁判、そして十字架刑に架けられてしまいました。しかし、まさに「立ち上がってくださった神」は、三日の後、主イエスを復活させてくださいました。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪に責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」と使徒パウロはコリント書に記しましたが、主なる神は徹底的に、私たちが本来負うべき罪を赦し、神から離れようとする人の思いを越えて、神の方から近づいて来られて、私たちと十字架と復活という和解の道を示されたとパウロは伝えます。
 
 更に、復活された主は40日後に、弟子たちの前で天に昇っていかれましたが、その十日後、五旬節の日に、前もって約束されていたように、弟子たちの一人一人の上に、神の力、聖霊を授けてくださいました。

 この聖霊の働きとは何か、再びコリント書(Ⅰコリ12章3節)には、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」とあります。なにより、聖霊の力は、主イエス・キリストこそ、私たちの主であり、救い主であるという思いに至る確信をもたらす力です。聖霊により、確かな信仰が与えられた弟子たちもまたその場で「立ち上がって」神の、練り清められた福音の御言葉を語りだしたわけでありました。しかも、様々な国の言葉で福音を宣べ伝え始めた。周囲の人々は、自分の故郷の言葉で使徒たちが福音を宣べ伝えるものですから、驚いたと記されています。しかし、弟子たちの言葉をよく理解出来たことでしょう。そして、多いに喜んだのではないでしょうか。

 更に、先ほど読んでいただきました2章14節の箇所へと進みますけれど、ここでも弟子のペトロは、弟子たちと共に「立ち上がり」、声を張り上げて力強いメッセージを語り始めました。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」と告げ、旧約聖書ヨエル書の御言葉を引用いたしました。

 先週の水曜日は婦人会の「聖書を読む集い」でありましたが、10名の方々と共にヨエル書4章を読みました。ペトロが引用した箇所はヨエル書3章の箇所ですから、既に前回、共に学んだ箇所となりますが、大変印象に残る御言葉です。17節だけを読みます。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」とあります。ここに聖霊の働きが、明確に記されます。

 一つは、「若者は幻を見る。」です。幻という言葉は、日本語の辞書を引くなら「実体がないのに、あるように見えるもの」とか「まもなく消えるはかないもの」とありますけれど、聖書に記される幻は、英語で言うところのヴィジョンです。将来への希望であり、展望です。目的とか目標といった具体性までは行かないとしても、しかし、自分達のこれからの人生に、自分ならではの神様から与えられた確かなヴィジョンがある、希望がある、そう思える力を聖霊は与えて下さるというのです。
 現代の若者は、そういったヴィジョンが持ちにくくなっていると思うのは私だけではないでしょう。現代の特徴は、昔と違い、もし自分が本気で願うなら、その願うものになれる自由を持っています。しかし、それだけに、自分はいったい何になるのか。何者になろうとしているのか。選択していく力が弱くなっているのかもしれません。あるいは何者にもならないほうが楽だと思っているところがあるようにも思う。更には、小学校高学年からは、殆ど受験一辺倒の勉強が主流となり、人生目標をしっかり考えてみる時間すら無いと言えるかもしれません。色々な意味でヴィジョンが持ちにくい、だからこそ、自分は誰であり、自分は何ものか、神に愛され、神の命を生き、神の聖霊に満たされ、人生が祝福されているという福音を若者がしっかりと受け取り、人生のヴィジョン、人生設計を立てられるように、教会がその支えとなっていく働きを、主なる神から託されているのではないでしょうか。

 更に若者だけではありません。「老人は夢」を見る、と続きます。老人とは、一体何歳なのか、特定することは出来ないでしょう。

 あえて言うなら、「自分はもう年を取ってしまった」と思った時から老人なのかもしれません。老人の特徴は現実的になることだ、と説明した方がおられました。先日、金融庁が今後、年金は減っていくし、長寿になっていくであろうから、年金だけでは食べていけない、だから、資産運用や投資が必要だといった趣旨の発言があったようです。
 そんなことを聞いたら、夢を持つどころではない、精一杯貯蓄して、老後に備えなければと思えば思う程、現実的になっていくということではないでしょうか。あるいは体が思うように動かなくなっていくことも確かです。若いころは楽に出来ていたことが楽ではなくなる。あちらも、こちらも痛くなっていく、そうなれば医療費もかかり、更に生活費の蓄えを考え、より現実的になるのでありましょう。勿論、それは大切であろうと思います。しかし、それでは聖霊を受けるとなぜ、「老人は夢」を見ることが出来るのでしょうか。

 聖霊とは、主なる神が与えたもう「今を、立ち上がらせる力」だと私は思います。先日、ある70代後半と思われる女性の方と話をいたしました。その方は、何十年とキリスト教主義の保育園に勤めておられて、責任ある立場の方でしたが、一昨年、ついに辞めたのです。なぜ、辞めたと思いますか。
 もはや年を取ったと思ったからではないのです。その方は、与えられていた状況が変化して、そして「今こそ、立ち上がる時」と決心し、これまで願いに、願っていた、モンテッソーリ教育の指導者としての資格の取得の為に、つまり、学校に入るために辞めさせてくれと頼んで、退職され、受験し入学が許され、今年の3月に資格を取得したというのです。これからその資格をもって、更に子どもの為に自分の力を発揮しようとするだけでなく、今、また、これも長年願っていた勉強の為に、早稲田大学に通っているというのです。その言葉のなんと力強い、また、希望に満ちた笑顔でありました。その方はまさに「夢を叶えるために立ち上がった」と心から思います。

 年をとると現実主義に確かになります。しかし、それは同時に、人生の締めくくりを見据えて、ということかもしれません。勿論、それも大切なことだと思います。

 けれど、聖路加病院で働かれ、105歳で天に召されて行かれた、日野原重明先生は、こんな言葉を残されました。
 「あなたに夢がなくなったとき、あなたの人生の半分を失います。あなたに勇気が無くなった時、あなたの人生の全てを失います。」

 皆さん、今日はこの聖霊降臨の祝い、ペンテコステの祝いにおいて、これから洗礼式を執り行います。既にお知らせしておりますようにN兄、N兄は、60代の方ですけれど、もしかしたらこの教会の平均年齢より下回っているかも(笑)しれません。先日、洗礼準備会をする中で、私は、今の時代は、若者以上に、ある程度年配の方が洗礼を受ける傾向があるように感じますと話しました。

 Nさんがそうだという思いで話したわけではありませんが、しかし、私の経験上、年配の方が洗礼を受ける傾向が増えているように思います。それは、人が生きるとはどういう意味を持つのか、あるいは若い人には分からない、これまでの多くの経験や苦しみ、悩みを通り抜けてこられたことが、自分の力ではなく、背後に大いなる方の助けがあったと感じる方が増えたのかもしれません。神の存在が、その神の支えが、これからさらに円熟していこうとする人生に必要であると感じるのではないかとも思います。そして、私たちが幾つになるとしても、年齢に依らず、いつも「今、立ち上がらせてくださる」力である聖霊に包まれながら、私たちは、感謝を持って神の恵みを共々に体験していきましょう。

 お祈りします。




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