日本キリスト教団 大塚平安教会 

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至福の安息への招待

2021-05-30 16:51:00 | 礼拝説教

【マタイによる福音書11章28~30節】

中心聖句  11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」


 先週、5月23日は、聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝でありました。そして、それに続く今日の聖日は、教会暦では「三位一体主日」と定められ、今日からアドヴェントまでの約半年間は「三位一体節」と呼ばれています。これとは別に、前週のペンテコステからアドヴェントまでの期間を聖霊降臨節とも呼び、最近はこちらの方が一般化しているようです。いずれに致しましても、待降・降誕から十字架の受難、復活と昇天、そして聖霊降臨に至る半年間がキリストの生涯を覚えて歩む「主の半年」と呼ばれるのに対して、今日からの半年間は、聖霊の導きと支配のもとに宣教に励む「教会の半年」と言われています。新型コロナウイルスの蔓延状況が長期化し、各地の教会は、様々な感染防止対策を講じながら礼拝を守ろうと苦闘しておりますが、中には、毎週の礼拝を守ることも困難な教会も少なくありません。そうした中、いや、そうした厳しい状況の中だからこそ、主イエス・キリストの招きに応え、聖霊の励ましを頂いて、礼拝を守り、力強く宣教の業に励んでいきたいと願っています。今日は、このことを覚えつつ、聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。


 さて、本日示されました御言葉は、日本基督教団の聖書日課から示されました。正確には、マタイによる福音書11章25節から30節が本日示された福音書のテキストとなっています。ここは短いテキストですが、実は、3つの部分からなっていて、最初の25~26節は、イエスの父なる神への祈りで、真ん中の27節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」という言葉は、初代の教会の信徒たちが、イエスこそが神の独り子であり、世の初めから父なる神とともにおられた方である」という、三位一体の神、特に、第二格の子なる神であるイエス・キリストについての信仰告白であると考えられています。それで、この箇所が三位一体主日である今日の聖書日課として示されているのだろうと思いますが、今日、私たちは、それに続く28~30節の御言葉から励ましを受けたいと思います。


 28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という御言葉は、大塚平安教会の、この会堂が献堂されたときに、日頃の生活に疲れ、渇きを覚えているこの地域の多くの方々に、主イエス・キリストの招きをお伝えしたいとの気持ちから、教会の看板に掲げているものです。私自身、毎週の仕事や家庭生活の中で疲れを覚えたときに、この看板を見ますと、ああ、神さまは、この私に、慰めの言葉を掛けてくださっているのだなあと感じることが出来ます。このように、この言葉は、何の説明も必要としないくらい、この御言葉単独で、一人ひとりの心の奥底に語りかけてくる、力のある言葉だなあと思います。

 それで、この御言葉を看板に掲げている教会は少なくないのですが、そのことは、現代社会の中で、疲れている人がどれだけ多いことかということを端的に現しているように思います。栄養ドリンク剤を片手に仕事や受験勉強に鎬を削る競争社会も、最近は大分変ってきたように思いますが、それでも、昨今は、ブラック企業のような劣悪な雇用条件の下で働かざるを得ない若者は少なくありませんし、そうでなくても、明日は月曜日、また仕事だと思うだけで何かもう疲れた気分になってしまう人もいるでしょう。また、最近では家族の介護に疲れている人も増えて来ていますし、そういう肉体的な疲ればかりでなく、どろどろとした人間関係の疲れ果ててしまった人、病気に苦しむ人、果ては、生きることに疲れてしまったという人もいたりします。そして、今日、疲れた人、重荷を負っている人は、特別な人というわけではなくて、多かれ少なかれ、私たちの誰もが疲れを覚えており、しかも、自分がこんなに疲れ、苦労しているのに誰も本当にわかってくれないと不満を覚えることも多いのではないでしょうか。こんな世の中だからこそ、「疲れている人、重荷を負っている人」と呼びかけるこの言葉が、自分に向けられて語られているように思えるのでしょう。実際、この御言葉は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は」と語りかけているのですから、疲れ、苦労としている自分に対する呼びかけだと考えて頂いてよろしいのですが、ただ、この御言葉の真意を理解するためには、この御言葉が誰に対してどのような状況で語られたのかを文脈の中から読み取る必要があるでしょう。

 では、イエスが「疲れた者、重荷を負う者」と呼びかけている相手は誰なのでしょうか。マタイによる福音書の文脈でみれば、直接的には「イエスの弟子たち」を指しています。イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒れ野で四十日間悪魔の試練を受けた後、ガリラヤ中で、宣教の御業に取り組まれました。そして、十二人の弟子を呼び寄せてユダヤの町々へと派遣し、イエス様ご自身も方々の町で教え、宣教されましたが、その結果は、一言で言って惨憺たるものでありました。イエス様や弟子たちは、行く先々で、語る福音の言葉を拒絶されたのです。しかも、それは、神を知らない異邦人や、神を度外視している罪人と呼ばれる人々からではなく、神に忠実に従い、仕えていると言われる人々からの拒絶であったのです。その上、イエス様ご自身が最も力ある働きをされた三つの町、カファルナウム、コラジン、ベトサイダで拒絶されたのですから、弟子たちのみならず、イエス様ご自身も相当に疲れを覚えておられたことでしょう。しかし、イエス様は決して窮しませんでした。人が福音を受け入れるか入れないかは、すべて父なる神次第なのだ、結果は父なる神に委ねるしかないのだということがわかっておられたからです。それでイエス様はこの時、弟子たちに対して「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と語られたのです。

 さて、イエス様がここで「疲れている人、重荷を負う者」と呼びかけている相手は弟子たちだけであったかというと、そうではありません。この時、イエス様の目に「疲れている人、重荷を負う人」と写っている人たちがほかにいました。それは、「地の民」、ヘブル語で「アム・ハーアーレツ( לְעַם־הָאָ֖רֶץ)」と呼ばれる貧しさのゆえに律法を厳格に守ることの出来ない人達でした。彼らは、モーセの律法を守れない人は救われないと説くファリサイ派の人々から軽蔑されていました。彼等にとって、ファリサイ派が教える律法は、守ろうと思っても守れない重荷以外の何物でもなく、「自分たちは到底救われない」、「神は我々を見放した」と絶望していたのでした。そんな彼らに対して、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と呼びかけられたのです。彼らにとって、イエス様が語るこの言葉は、どれだけ慰めとなったことでしょうか。彼らは、このイエスの呼びかけに応え、聞き従いました。それは、25節、26節に記されている「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」というイエス様の祈りにはっきりと表されています。このことは、マタイによる福音書の18章3節に記されている「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」とのイエスの言葉とも響き合っています。


 ところがイエス様は、「休ませてあげよう」という言葉に続けて、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と続けます。これは、いったいどういうことでしょう。軛というのは、牛に畑を耕させるために、横に並んだ2頭の牛の首の上のところに掛ける横木のことです。それを首に掛けられることによって、牛は畑の中をまっすぐに進むことが出来るのです。イエス様は、「休ませよう」と言った舌の根も乾かぬうちに、畑仕事の重労働をさせようと言うのでしょうか。ここには、何か深いわけがありそうです。実は、軛に繋がれた2頭の牛には役割分担があって、1頭がリーダーで、もう1頭はリーダーに従ってついていくというのです。重量は必然的にリードする牛の方にかかります。イエス様が「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われますのは、イエス様がリードする牛となって、一緒に軛を負ってくださるということなのです。重量は当然にイエス様の方に掛かりますから、荷は軽くなります。イエス様がリードしてくださるので、どっちに進んだらよいのか迷うこともありません。イエス様と軛でしっかり繋がっていますから、迷子になることもありませんし、少し苦しくなっても、すぐ横にイエス様が寄り添ってくださっているので安心です。イエス様と軛で繋がって進む姿は、ちょうど、母親に手を引かれて歩く幼な子の姿のようでもあります。

 先日、幼稚園では、親子遠足で、海老名の相模三川公園まで出かけました。幼稚園から海老名駅までは、親子一緒に歩いていくのですが、海老名駅からは子どもたちは親と別れて、子ども同士で手を繋いで親の待つ公園まで歩いて行きます。年中や年長の子どもたちは、子ども同士、手を繋いで楽しそうに歩いていきますが、初めて遠足に参加した年少の子どもの中には、お母さんの手から離れた瞬間、わっと泣き出して、その場に座り込んでしまう子もいます。先生たちは、そういう子の手を取って、「お母さんは、公園に先に言って待っているから、先生と手を繋いで歩いて行きましょう。」と言って、一緒に歩き出すのですが、少し進んでは立ち止まり、また、少し進んでは立ち止まりといった按配で、なかなか進みません。そんなとき、やっぱりお母さんの力というのはすごいなと思わされます。小さな子どもは、お母さんと手を繋いでいるだけで、歩く元気が出てくるようです。イエス様と軛で繋がって歩くというのは、そういうことなのではないでしょうか。

 もう一つ、ここで注目しなければならないことは、イエス様が「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言っておられることです。それは、私と一緒に軛を担いでくださるイエス様が、幼子の手を引く母親のように心優しい方だからということもありますが、何よりも、イエス様が罪深い私たちを救うために、天上の高みからこの世に下られ、それも、弟子たちの足を洗うほどに徹底的に御自身を低くされた、そして、自らの頭を垂れて軛を負われる方なのだということです。軛は、先ほど申しましたように横木です。それは、イエス様が死刑判決を受けてゴルゴタへの道を歩んだ時に背負った十字架の横木を想い起させます。イエス様が背負ったその十字架は、私たちの罪を肩代わりして負ってくださったもの、本来であれば、私たち自身が負わなければならない十字架です。それを、私の軛といって一緒に背負ってくださるのですから、私たちの肩に圧し掛かっていた重圧は無くなった同然です。だから、イエス様の軛は軽いのです。


 さて、イエス様の軛は負いやすく、軽いとしても、では、イエス様は、どのようにして私たちを休ませてくださろうとしているのでしょうか。ここで「休ませてあげよう」と訳されている原文のギリシア語を調べてみますと、ἀναπαύω(アナパウオー)という単語が使われておりまして、これは、「休ませる」というほかに、「元気づける」とか「リフレッシュさせる」という意味合いを持つ言葉だということがわかります。つまり、イエス様が与えてくださろうとしている休みとは、ただの休憩や休息というのではなくて、「新しい、新鮮ないのちの力を与える」というようなものなのです。イザヤ書49章10節では、預言者は「憐み深い方が彼らを導き 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。」と言ってバビロンに捕囚されたイスラエルの民を励まし、破壊されたシオンの回復と、そこへの帰還を促していますが、そこで記されているように、イエスが語る「休ませてあげよう」という言葉は、重荷を負いながら長い旅を続けている者が、新鮮な水がほとばしり出る泉を見つけ、そのほとりに腰を下ろして一休みしながら、一杯の水で喉を潤す。すると、それまでの疲れが吹っ飛んで、元気が湧いてくる。まさに、そのような休みなのです。

 私たちは、この後、讃美歌432番を歌いますが、その2節では「「渇いている者、疲れた者、誰でも来なさい、ためらわずに」。いのちの主イエスに私は行く。生きたその水を飲みほすため。」と歌います。軛をともに担ってくださるイエス様は、進むべき道をよくご存知です。私たちには、砂漠のようにしか見えない荒れ野を進むときでも、私たちを的確にオアシスに導いてくださいます。そこで疲れた体を癒し、再び歩み出す勇気が湧いてきます。「わたしのもとに来なさい。」と私たちを招くイエス様に従うことは、このようにして、イエス様とともに人生の旅を歩んでいくことなのです。そして、イエス様は、安息日の主でもあられます。主が賜る永遠の安息の日に至るまで、イエス様にすべてを委ね、イエス様から差し示された軛をイエス様とともに担いつつ、イエス様とともに歩んでまいりましょう。


 祈ります。
 
 主なる神様、御言葉の励ましに感謝します。私たちは、弱く、日々の生活、この世の中で負わされた務めに悩み、その悩みに打ち勝とうとして苦しみ、もがくことの多い者です。どうか、そのような私たちを憐れんでください。私たちを苦しみの中から召し出してください。そして、すべてをあなたに委ね、あなたから示された軛を担いつつ、主とともに歩む者としてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン


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