日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

今日、わたしはお前を生んだ

2019-04-01 10:59:04 | 礼拝説教
【詩編2編1~9節】
【ルカによる福音書19章1~10節】

 昔、フランス革命前に活躍したルソーという先生は、エミールという本の中に「人は二度生まれる」と記しました。一般的には「一度目は存在するために、二度目は生きるために」と言われていますが、二度目の「生きるため」という言葉の正確な意味は、思春期を迎えた男性、女性について記しているようです。
 
 思春期は自我の目覚めの時で、反抗期の始まりとも言われます。なぜ反抗期になるのかというと、これまで自分にとって、スーパーマンのようなお父さん、愛情の塊のようなお母さんと、疑問一つ持つことなく育ってきたある時期に気が付くのです。 
 お父さんはスーパーマンでは無い。お母さんは愛情の塊ではない。それどころか、例えば酔っぱらって帰ってくる、だらしない父の姿を見ては、げんなりし、例えば、思っていたよりずっと嘘もつくし、案外失敗するし、口うるさいお母さんの姿を知ってはショックを受けたりするのです。

 これまで完璧だと思っていた両親が思っていたよりずっと完璧ではないと気が付く、その位から親に対する不信感が芽生えて、対立するようになり、反抗期が始まるとも考えられています。早ければ5年生位、遅くとも中学生位には多くの子どもがそうなる傾向があります。

 それでも、普通なら数年すると少しずつ反抗期が治まってくる、なぜ治まってくるかというと、ダメな親だ、恥ずかしい親だと思っていたけれど、他人ではなく自分を内省する、更に自分を深く知る時期がやって来るからです。ダメな親だけど、自分もまたダメな人間の一人ではないか、嘘をついたり、ごまかしたり、見栄を張ったり、自分もまた同じことをしている一人の人間であったと知ってくるのです。

 すると今度は自分自身と向き合い、自分の中で葛藤が起こるのですが、それでも人はいつも完全ではないのだと、これは良い意味で、受け止めて生きられるようになる。つまり一人前の大人として生きることのはじまりです。それが二度目の誕生だとルソーは説明していると考えられます。

 ルソーは教育者としての視点から記していると思われますけれど、しかし、ルソーが初めてこの言葉を使ったというよりは、私の勝手な思い込みかもしれませんが、スイスのジュネーブで生まれ育ったルソーですから、ジュネーブはプロテスタントの町で、プロテスタント教会の信仰を受け継ぎ、聖書をよく読んでいたと思われます。ですから、聖書のヨハネによる福音書の3章にある、主イエスがニコデモに語りかけた言葉「人は、新たに生まれなければ、神の国をみることは出来ない。」この言葉を良く記憶にとどめていたのではないかとも思いました。

 ここで主イエスが話されたことは、一度目は人としての誕生、そして二度目は、あたかも神の国を見るような信仰を得て、神の子として新たに生まれ変わる必要があると教えておられると思われます。
ルソーもそんな思いを受け止めていたと考えるのは私の勝ってな読み込み過ぎだろうとは思いますけれど、全く外れているとも思えません。

 なぜ、人は「新たに生まれ変わらなければならないのか」

 一週間前の火曜日、幼稚園で「地域家庭教育学級」という講座をさせて頂きました。大体毎年行わさせていただいていますが、今年は「自由な心で生きる」というタイトルで話をさせて頂きました。9時30分~11時30分、2時間の予定でしたが、ついつい長くなりまして、12時も回るほどとなり少し反省しております。でも、とても盛り上がって本当に良かったと思いました。そこで何を話したのか、それは、私たちは幼い時に、特に7歳~8歳位までの間に、大体その人の考え方、性格の根幹が決まってきますので、それまでにどんな風にして育ったのかが大切ですよ、という話しをさせていただいた訳です。

 イエス様は「幼子のようにならなければ」と話されましたけれど、幼子の特徴は素直で、純真です。ですから親の願った通りにというよりは、親の言ったとおりに育つのですよ。そういう話しをさせていただきました。

 先ほど、思春期の話をしましたが、思春期の悩みは、時には自分の命とも係わる程に深く、重かったりするものです。自分がいかに不完全であるか、自分がいかに力足らずであるか、を人にもよるのですけれど、多かれ少なかれ感じるからです。その不完全さ、不足さの多くは人から評価され、比べられ、自分でもそうする、これが大きな原因になると思います。でも、更にその前に、幼い頃にどう育ったのかが大きく影響するのですという話しを致しました。

 どういうことか、子どもが部屋の片付けをしなかったとする。なんであんたは部屋を片付けないの、なんであんたはいつもそうなのと何度も何度も怒るでしょう。そうすると子どもは不思議なことに、そう何度も言われる中で「あ~自分は片付けない子どもなんだな~」と受け止めるばかりではなく、むしろ親は「片付けないことを願っているんだな」と思ってしまいますよ。「あんたは体が弱いね~、小食だね~」と言ったとする。勿論、親はね子どもの心配をして、だからもう少し何でも食べて元気になって欲しいという思いでそう話すのですけれど、幼子はそのまま真っすぐで、純真ですから、子どもの心では「自分は体が弱いんだな~、小食なんだな~、それを親が願っているんだな~」と受け止めてしまうので、親の願った通りに生きようと頑張って食べなかったりする。

 お母さん、お母さんと一生懸命に声をかけても、ついつい、忙しかったりすると、「また、後でね」とか「あっちにいっていなさい」などと言われると、安易に親に近づいてはならない、親は近づかないことを願っているんだなと思う。
こんなふうにですね、問題は親の気持ちや言葉よりも、子どもが感じるそのままの思いですから厄介けれど、多くの子どもは、こういった専門用語でいえば「禁止令」という命令を受けて、自分が自分を決めた決まり事をいくつも持っていて、そして、それが8歳位まで固まってしまうので、それからの人生に、その決まり事が常に影響を与えることになりがちになります。

 なりがちとは、かならずそうなるのではなく、そういう可能性があるのですと話したわけで、だから大切なのは、その「禁止令」、自分は片付けない、自分は弱い、人に近づかないほうが良いといった思いは生きていくのに辛いですからね。

 最近は子どもが少なく、過保護、過干渉に育てられやすいと思われます。親が心配して「人を安易に信用してはいけない」とか、「お前だけが頼りだよ」とか幼い時から言われれば言われるほど、例えば結婚が遅くなったり、自立が出来なかったりもする傾向になったりするのです。多かれ少なかれそういった思いを人は持っているので、そのことに気付いて、そしてそこから解放されて、もっともっと私たちは自由に生きられることが出来るのです。

 そして人生にとってマイナスと思える思いをどうやって解放していくのかまで話しますと、中々時間がかかってしまったわけですが、でも、私たち信仰者にとっては、マイナスの思いを解放するに、より明確なことがあって、それは「あなたは新しく生まれなければ」と言われる方が共におられることを知っているということです。

 詩編の2編7節にこうあります。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子今日、わたしはお前を生んだ」。
 
 今日、とは毎日のことです。主なる神は毎日、毎朝、私たちが目覚めるときに、また新しい人生を与え、新しい心を整えて下さる、どのようにして整えて下さるのか?

 ルカによる福音書19章にザアカイの話あります。ここにおられる皆様にはあまり説明は入らないと思いますが、主イエスがエリコの町に入った時に、大勢人々が出迎えに出て来ました。ザアカイも出迎えに行きましたが、人込みの中で中々主イエスを見ることが出来ないのです。
 
 なぜか?ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでありました。けれど町の人々から嫌われていました。徴税人は、税金を取り立てて支配国のローマに納める仕事をしていましたから、仲間でありながら、いわばローマの手先として働き、その上、その報酬によって人よりも良い生活をしていたわけですから嫌われるのも当然です。
 どうもザアカイは背も低かったらしい。ですから人々は、わざと邪魔をしてザアカイを前に出さないのです。もしね、仲の良い友がいれば、「ザアカイ、こっちこい」と前に出してくれたかもしれませんが、それも適わない。でも、そこでザアカイは気を取り直して、いちじく桑の木に登って、木の上から主イエスの一行を見ようとしたわけで、事実そうしたら、良く見えたのでしょう。

 主イエスはそのザアカイが見ている木の所まで来ました時に、ザアカイを見上げて話されました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非、あなたの家に泊まりたい」こう告げたのです。

 皆さん、この物語の鍵はこの主イエスの御言葉です。もともと、ザアカイは嫌われ者でした。ザアカイもそんな自分が自分でも嫌いだったかもしれないし、気持ちとしては、何をしてもいつもマイナスに働いていたのではないでしょうか。出て行っても誰も相手にしてくれない、だから気に登って主イエスを見下ろしていた。でもお金はある。だからここでザアカイが勇気をだして「イエス様、私はザアカイです。今日は是非、我が家にお出で下さい。御馳走をだしますよ」と言ったとしたらどうでしょう。ザアカイの評判は更に悪くなり、なんだあいつは、イエス様に自分の家に来いだなんてよく言えたものだと、ザアカイは多くの批判を浴びたことでしょう。

 でも、語り掛けたのは主イエスなのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい。」この言葉を聞いた人々はなんと言ったか、「これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」こうつぶやいたというのです。つまり、ザアカイに対しての不満ではなく、主イエスに対しての不満と憤りを感じたということです。でも、主イエスは、あえてそうしたのではないでしょうか。ザアカイが徴税人であること。人々から嫌われていること。それらの全てをご存知で尚、ザアカイよ、お前は悔い改めなければならないよとか、お前の生き方に問題があるんだよとか、罪深い生き方を考え直さないと、とは一言も話されないで、主は、「ザアカイよ、降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まりたい」全ての罪を自分が負って、自分が死んで、そしてザアカイを生かしたのです。

 もしかしたらこれまで一度も聞いたことが無かったような、愛の籠った「今日はお前の所に泊まる」ザアカイはこの言葉を聞いて、どんなに喜んだことでしょう。ザアカイは立ち上がって、主に語り掛けました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
 
 その言葉に主は「今日、救いがこの家を訪れた」と答えられました。

 今日、救いがこの家を訪れたのです。今日、今日と言う日ですよ。今日、主イエスはザアカイを新しく生んで下さったのです。全く新しく生きる者へと、私たちが日常的に行う、あれしてはいけない、これしてはならない、自分の思う通りに生きれば良い、そういった多くの禁止の言葉の一つも用いることなく、ザアカイは見事に新しく生まれたのです。

 皆さん、主なる神は、私たちに対しても、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」と言って下さっています。お前というところに、自分の名前を入れて読んでみてください。「丈博よ、お前は私の子、今日、わたしはお前を生んだ」そう言われる方の言葉は、人の思いを大きく超えて、人の人生を変える力を持っています。多くの人は、いつの間にか心の中で培ったマイナスの気持ちに引っ張られて、引き戻されて中々新しく生まれることが出来ません。

 でも、私たちは違います。なぜなら、主イエスが、主なる神が私たちと共におられるからです。年齢も、性別も、財産も、社会的地位も、その全てを越えて主は、私たちの心に迫り、そして、主にある新しい歩みを歩みだしなさい。そこには大きな祝福がもたらされるであろう。そう告げる言葉を信じて、今週も力強く共々に歩んで参りましょう。お祈りいたします。
ジャンル:
きいてきいて
コメント   この記事についてブログを書く
« 根気よく祈り続けていく | トップ | いつ死を迎えるとしても »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事