日本キリスト教団 大塚平安教会 

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目指す地に着いた

2022-10-16 11:57:24 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章16~21節】


 ヨハネによる福音書を読んでいますが、先週から6章に入りまして、先週の礼拝では主イエスが「五千人に食べ物を与えられた」出来事を読みました。
 
 主イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、感謝の祈りを唱え、座っている人たちに分け与えられました。座っていた人たちはその数で男だけで五千人とあります。女性、子ども、年寄り、年寄りと言っても当時は40過ぎぐらいからは皆年寄りですから、私も完全に年寄りの部類に入るわけですが、そういった人たちを合わせて倍の一万人もの人々に分け与えてくださいました。
 でも、主イエスお一人が、一万人もの人たちを相手にするには大変です。ですから、登場するのが12人の弟子達となるわけで、彼らが主からパンを受け取り、人々に分け与え、そっちだ、こっちもだと忙しく働いたことでしょう。汗をかき、疲れ、でも弟子達にとって充実した良い働きであったと思います。
 
 パンと魚を受け取った人たちの笑顔を見ながら、弟子達も笑顔で、受け取った人たちも満腹した。残ったパンの屑を集めたら12の籠一杯でした。
 でも、それは残ったわけではなく、主イエスと共に働いた弟子達のお腹を満たすためにあえて取り残されたというよりは、取り分けられていた籠でありました。
 彼らは、主の奇跡に伴って働いた心の充実、更にしっかり食事を取って体も元気となり、忘れられない時間を共に過ごしたであろうと思われます。
 
 その後、満腹した人々は、この出来事を目の当たりにして、「まさにこの方こそ、世に来られる預言者である」と言い始めました。人々はちょっとした興奮状態となったのではないでしょうか。これまでこんな出来事は経験したことが無い。僅かなパンと魚で、これだけの人々が満腹した。これほどの体験はしたことがない。この方こそ、預言者か、あるいはそれ以上の方か、メシアが登場されたのか。高揚した思いで、主イエスを自分達の王とする話が持ち上がったのでしょう。
 人びとがざわめき始め、大勢が主のもとに向かって来たのかもしれません。
 
 主イエスの福音宣教は、この世の王となるための働きではありませんから、主はそのような動きを察知して、身を隠そうとされました。あるいは弟子達
と打ち合わせたかもしれない。主イエスは山に退かれ、弟子たちは湖に向かい、舟に乗り、後に向こう岸のカファルナウムで落ち合うという打ち合わせをしたのかもしれません。二手に分かれて、行動することになった訳でありました。

 パンと魚の給食の奇跡は昼の遅い時間でしたから、時は既に夕方となっていました。けれど弟子達は舟に乗りました。弟子の中にはペトロ、アンデレといった漁師を生業としていた人もいるわけで、決して素人ではありません。漁の為に夜に舟を出してもいたでしょう。ですから、それほど不安は無かっただろうと思います。
 しかし、いざ舟を出して漕ぎ進めていきますと、急に強い風が吹いてきて、湖が荒れ始めたわけでありました。「二十五ないし三十スタディオン」とありますが、凡そ岸から5キロ程離れた沖のようです。それは、行くにも行けない、戻るにも戻れない距離ということではないでしょうか。

 湖の舟の上での出来事は聖書にはもう一個所ありまして、舟に乗った、沖に漕ぎ出した、激しい嵐が起こった。舟が波に飲み込まれそうになった。主イエスは寝ていた。弟子たちは主を起こして「私たちはおぼれそうです」と訴えた。主は起き上がって、風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。弟子たちは驚いて、この方はどなたなのかと言い合った。この場面も、私たちは良く知っている訳ですが、でも、この場面と今日の場面の決定的な違いは、舟に主イエスがおられるのか、おられないのかという点でありましょう。
 
 主イエスはこの世においては、弟子達と共に働かれました。でも、今日読まれた場面では主はおられない。ただ今日の箇所は、溺れそうとか沈みそうといった緊急性は無かったようです。しかし、主が伴っておられない。しかも、長い時間行くにもいけない、戻るにも戻れないでいました。
 
 今日の聖書箇所の並行個所がマタイ14章22節に記されています。そこを読みますと「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子達のところに行かれた」とあります。夜が明ける頃です。英語の聖書には独特な書き方がされていまして、「forth watch」とありました。Forthですから四番目の時間という意味のようです。夜の午後6時から9時がfirst watch、9時から12時がsecond
Watch、12時から3時がthird watch 明け方の3時から6時がforth watchとなるそうです。ですから夜が明ける頃ですから、朝の3時から6時の時間にという意味になります。
 弟子たちは舟に乗って、湖に漕ぎ出したのが夜の6時だとすれば、すくなくとも舟の上に9時間はいたことになります。9時間の内、6,7時間は行くにいけない、戻るに戻れない。風は止むことなく、波は高く身動き出来ないのです。舟の上ですからね、そこから逃げ出すことも出来ないのです。
 更にそこに頼りの主イエスがおられない、それが今日の場面です。

 昨日、朝、シルバさんとチャマニさんご夫妻が故郷のスリランカに帰って行かれました。二人のお子さんが日本で安心して過ごすために、二人が帰ることによって滞在許可が降りて、日本で正式に働くことも出来るし、自分たちが生きていきたいように生きていける。その為にご両親は決心されました。これまで私たちの教会は、鈴木伸治先生を長として、シルバ家族支援委員会が中心となって、シルバさん家族を支援し、見守って来ました。私はその横で見ていただけのような者です。支援委員会の皆さんは、本当に親身になって関わっておられました。
 支援委員会の思いとしては、もっとずっと早くにこの事は解決するだろうと思っていました。日本政府が家族に対して日本の滞在許可を出してくれるだろうと考えていました。けれど、中々それが思うようにいかないのです。こちらが願うような方向が見られないのです。ですから、シルバさんご家族はどれ程苦労されたかと思います。思いますけれど、支援委員会の方々の辛抱もどれほどであったかと思います。今、一つの節目を迎えて、更に良い方向に、誰もが笑顔で喜びあえるようにと願いますし、これからも祈り続ける訳ですが、時として神様、なんとかなりませんかと願い、祈ったことであろうかと思います。傍で見ていた私でさえそう思う事しばしばでしたから、深く関わってくださった方々は、どれほどに神様に祈り、願ったことであろうかと思います。
 
 まさに行くにも行けない、戻るにも戻れない年月であったと言えるかもしれません。神様、あなたはこのことをどうお考えで、どう解決しようとされているのか、神様、あなたはこの場におられるのかと祈る思いさえあったかもしれません。でも、この事もまた主なる神のお考えがあったのだと受け止め直すことも大切でしょう。

 私たちの人生の中においても、行くにも行けない、戻るにも戻れない状況となる、そういったことはありませんという人はそんなにいないと思います。私たちは幾度か、あるいは幾度も、そういう経験をしているのではないでしょうか。そしてそれが長く続く、となると主よ、あなたはどこにおられるのかと、つい愚痴を言いたくなることもあるし、疲れも出て来るし、もはや諦めに近い思いで時間を過ごすこともあるかもしれない。
 
長い時間を舟で過ごさなければならなかった弟子達も、もはや諦めに近い思いであったかもしれません。でもね、主なる神はその様子をも確かに見ておられました。
 マルコによる福音書にも同じ平行箇所が記されていますが、そこには「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。主イエスは山におられたわけですが、けれど、弟子達の様子をご存知でありました。
 主イエスはご存知であった。ご存知であったけれど、その様子をじっと見守っておられたのです。神は私たちを見捨てたり、見失ったりすることはありません。私たちがその状況において、神を見失いそうになるのです。けれど、あなたがたは待つことにおいて揺らぎがあってはならない、それが主なる神の思いではないでしょうか。
夜が明ける事、主イエスは湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。なぜ、主は湖の上を歩けるのか。湖の上を歩けるのは日本の忍者とイエス様だけだとどこかの牧師が記していましたが、なぜ、歩けるのかに注目しても意味がありません。主は天地創造の神、全知全能の方ですから、歩くことも可能でしょう。
けれど、弟子たちは恐れました。勿論、そうでしょう。マルコでは幽霊だと思ったとも記されています。当時、舟の上で幽霊を見ると舟が沈むとも言われたそうですから、本当に恐ろしかったと思います。
でも、主なる神がどのようにして人と関わりを持って下さるのか、どのような方法を用いてくださるのか、それは人の思いを遥かに超えるものではないでしょうか。私たちにはどこまでも分からないかもしれません。
 主は「わたしだ、恐れることはない。」と言葉をかけられました。弟子たちはこの言葉を聞いて安心したでありましょう。主は私たちを見捨てられたわけではない。それどころか、私たちのところを目指して、水の上を歩いて来てくださった。主イエスの声を聞き、安心してイエスを舟に迎え入れようとした。すると、間もなく舟は目指す地に着いたわけでありました。

 五千人の人々にパンと魚を分け与えられた奇跡、この出来事は主イエスを中心として、弟子たちが共に働き、五千人、倍の一万人もの人々が体験した出来事でありました。今日読まれた、湖の舟の上で起こった奇跡、それは弟子達、しかも12人の弟子達だけが体験した出来事でありました。行くにも行けない、戻るにも戻れない、荒れる舟の上で揺れ続け、如何ともしがたい状況が、しかし、主イエスによって目指す地へと到着させてくださったのは主なる神であった。この出来後は弟子達にとって忘れがたい出来事であったと思います。

 これからの礼拝では、6章を読み進めて参りますが、主は暫くの間、人々に話をされる展開となっていきます。そこで「私が命のパンである」と告げられるわけですが、更に進みますと、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と話されたり、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と話されたりします。私たちは主の十字架と復活、又聖餐の業についての話をされていると分かりますが、聞いていた弟子達は驚いたことでしょう。6章66節には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と記されています。主の言葉に躓いて、主から離れた弟子達が多くいたのです。

 でも、その次に、主は十二人の弟子達に聞きました。「あなたがたも離れて行きたいか」十二弟子にね、あなたがたも離れて行くのかと聞いた訳です。その問いに、ペトロが代表して「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答えました。
 いいえ、主よ私たちはいつもあなたと共におりますと答えたわけでした。なぜ、そう答えることが出来たのか、パンと魚の奇跡だけでなく、今日のこの舟の奇跡、十二人の弟子達だけが経験した神との出会いがあったからであろうと思います。舟の奇跡を体験した故に信じ、知っているのです。
 
 彼らは、頭で信仰を考えたのではなく、理論で信仰を得たのではなく、体験によって信仰を得た一人一人でありました。理論で信仰を得た人は、もっと大きな理論が与えられるとそこに持って行かれます。ただ、体験によって信仰に導かれた人は、理論を軽んじるところがあります。だから、頭の中で沢山汗をかかなければならないと言われます。
 いずれにしてもその人、その人に神との出会いが備えられ、神との出会いによって、そのような体験が、揺るがない信仰へと導かれていくのでありましょう。
 神は、私たちの一人ひとり、それぞれの人生の中で出会ってくださり、「わたしだ、恐れることはない」と告げてくださいます。この御言葉を糧にして、私たちは私たちの目指す地をしっかりと確認して生きて参りましょう。

 お祈りします。

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