日本キリスト教団 大塚平安教会  

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自分自身を愛するように

2019-01-19 16:26:44 | 礼拝説教
【箴言30章18~19節】
【エフェソの信徒への手紙5章21~33節】

 エフェソの信徒への手紙を読み進んでいますが、その当初から申し上げていることの一つに、エフェソ書は私たちが教会を造り上げていく、形成していく中でどのような信仰を持って交わり保っていくのか、その心構えのような教えが随所にみられるということです。
 特に強調されていることは、信仰において一つになるということがどんなに大切かを何度も繰り返しています。

 1章の10節は「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とありますし、2章14節では「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」とありますし、3章でも、4章でも何回も何回も、私達はキリストにあって一つだからと教えている事がよくわかります。

 4章の4節には「体は一つ、霊は一つです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、」とあります。一つである事を強調する。

 主にあって一つとはどういう意味かというと、4章の後半では、古い生き方を捨て、新しい生き方をキリスト者は生きるのだと記されています。

 新しい生き方とは、キリストにおいて、私達人間は、全てのものが神の前にあっては平等だということです。しかも、その平等性は全く同じものということではなく、夫々に個性があって、独特のものがあり、価値があるという事を伝えようとしているのだと思うのです。私自身、この価値観を知らされて本当に良かったと思っています。

 昨日の朝、娘と話していて「パパは自分に自信があるの」と聞かれました。どう答えれば良いかと一瞬迷いましたが、でも、「いや、自信なんてなにもないよ」と答えましたら、なんとなく満足した顔つきをしておりました。
 私自身、自分の事を思うと、自分の中には本当に自信のかけらもないとしか思えない。こうして皆さんの前で話をさせていただいておりますけれど、私がまさか人前で話しをするような役割を担うとは、全く自分の力ではなく、主なる神の力としか言いようがありません。主イエスは「人には出来ないけれど、神には出来る」と話されました。その神の力に頼る以外にはありません。

 しかしまた、なぜそのように導かれたのかといえば、人は神の前にあって等しく、平等であるという教えです。自分に自信があるとか、ないとか、この問いが内包している意味は「人と比べて」ということではないでしょうか。
 人と比べて、自分は良く出来ると思えば自信が出てきたりもしますし、人と比べて自分は出来ないなと思うと、すっかり自信を失う。そのようにして、私たちはどうしても人と比べることをします。そして、そこで喜んだり、悲しんだりするのです。
 私は人間には能力的な差はあると思っています。歌が上手い人がいれば、勉強が出来る人もいます。誰もがイチロー選手のようになれるわけでもありません。説教者として良く知られている加藤常昭先生の著書を読んでいました時に、加藤先生が、外国でオペラを見ていた時、オペラを演じていた人を見ながら、歌も上手ければ、スタイルも良く、演技も上手で、世の中は不公平だと思ったとありまして、私は思わず笑いました。これだけ尊敬される方であっても、自分の能力の無さを思うのです。

 でも、それにも関わらず、このエフェソの信徒への手紙は、何度も「主にあって一つ」神の前にある平等を訴え続け、しかも、それが教会形成の鍵ともなる大切な信仰の形であると告げているのだと思います。

 キリストの教会はその最初から、世の価値とは大きく違った独特な一面を持っていました。当時、この世の常識として考えられていた支配する側、そして支配される側の立場を越えて人は一つであり、また神の前に平等だという価値観です。その支配と被支配の代表的なものとして、具体的な三つ、「妻と夫」、「親と子」、「奴隷と主人」について言及されているのが今日、読まれた聖書箇所からのところです。
 
 特に本日は「妻と夫」という箇所を読んでいただきました。妻と夫ですから夫婦関係ということでしょうが、男性と女性の関係としても考えられると思います。当時の男女関係においても明らかに、支配と被支配の関係があったと言えると思います。
 先ほど、箴言30章18節、19節を読んで頂きました。「わたしにとって、驚くべきことが三つ、知りえぬことが四つ。天にある鷲の道 岩の上の蛇の道 大海の中の船の道 男がおとめに向かう道」箴言はイスラエルの王の中でも、最も栄え、また、知恵に満ち、賢明な心を持ったソロモン王が記したと言われます。けれど、そのソロモン王でさえ、分からないことがあって、その一つが「男がおとめに向かう道」だというのです。ソロモンでさえわからない。この世の、同じ時代に生まれた男女が惹かれ合って結婚する。しかし、どうして互いに惹かれ合うのか分からない。創世記に主なる神がアダムに対して、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて、エバを作って下さった。ですから、女と男の関係、それは、神様の領域かもしれません。 

 しかしまた、そのようにして結ばれて行く男女の中にあって、時代は決して平等で対等な立場ではなく、この世が成り立っていたと思います。

 出エジプト記の20章に、十戒が記されていますが、そこにはこう書かれてあります。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
 このように記されている意味は、妻という女性と、奴隷と牛とろばという家畜が、大体同等のものである、つまり男性からみれば、なにか一つの財産のように扱ってもよいという考え方があったと思われる。
 ものの本によれば、当時の習慣として女性は男性と一緒に食事をする事が出来なかったようですし、ある本には女性は立って食事をしていたとも記されています。道を歩いていて女性に声をかけるという事も、不道徳な行為とされていたようです。男性側の女性に対する優位性、あるいは差別的な態度が実に明かに行われていたようであります。

 新約聖書の、ヨハネによる福音書では、昼、日中に、サマリアの女性が井戸に水を汲みに来ていて、そして、そこに通りすがりにイエス様が訪れ、「水を飲ませて下さい」という言葉から始まって、最後にはこの女性が「もしかしたら、この方こそメシアかもしれません」と告白するという物語がありました。しかし、イエス様とサマリアの女性が会話している丁度その時、弟子たちがやってきて、聖書には「イエスが女の人と話しておられるのに驚いた。」とあります。
外において、井戸の近くで、自分達の先生が、当時ユダヤ人達から嫌われていたサマリア人の、しかも女性と話をしている。その姿に驚いたのでありましょう。

 その他にも、裁判になった時に、女性の発言が証言として認められないとか、色々と差別的な事が調べれば調べる程、現代の私達には考えられないようなそんな結果が出て来るのではないでしょうか。

 しかし又、そういう社会を生きながら、実際は、女性の役割は極めて重要で、水の補給から、燃料の確保、食事の世話、衣服の用意と、家庭の役割のほとんどを切り盛りしていて、男性がそれに頼りきっていたという事も確かなようです。
私達のこの日本にあっても、最近で話題となったのは、大学の医学部の試験で、男性の方が有利な条件が与えられていたことが明らかになったりしました。男女機会均等法という法律が制定されていますけれど、そういう法律を用いなければならないということは、まだまだ男女間の間に均等になっていないという印だと言えるとも思います。

 そういう事を思いますと、再びこのエフェソ書に書かれてあります、全ての人が神の前に一つであって、その存在が支えられ、全ての人に価値があって、みな尊いという教えが、2000年も前の時代の中で、実に新鮮で新しい、革新的な教えてあったと思わされます。
 
 聖書を読みますと、妻たちよ、「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」そして、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と記されます。
 この言葉は、時として教会で行われる結婚式において読まれる個所でもあります。言葉を厳密に考える牧師や教職などは、「仕える」という言葉が、女性に対する差別ではないかという事で、この言葉を使うかどうか今でも話題になったりするのですが、しかし、ここで大事なことは、言語的な説明はしませんけれど、21節の「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言う言葉が、ここでは最も大切な意味を占めています。互いに仕え合う。夫婦として互いに思いやりを持ち、愛し合う、そういう姿勢が必要だと書かれている個所であることは間違いないと思います。
 
 昔、もう大分前の話になりましたが、私の友人で、やはり牧師をしている友人が結婚式を挙げた時に、当時、横浜の蒔田教会という教会で牧師をされていた今橋朗先生が話をされました。この言葉は生涯忘れないと思いますが、
 
 今橋先生は、ご自分が司式されたカップルが160組あって、式辞の中で話されることは、ヨハネによる福音書の2章に記されている、カナでの婚礼の場面、結婚式のお祝いの途中にぶどう酒が無くなって、慌てて母のマリアがイエス様の所にやってきましてその事を告げる、そうしますと主は水をぶどう酒に変えるという奇跡を行った。

 そのぶどう酒を飲んで、世話役がですね、「だれでも初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったところで、少し劣ったものを出すのだけれども、あなた方は良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と語ったというのです。その意味は、結婚する時は、二人が本当に力を合わせて幸せな家庭を作ろうと互いに真剣に考える。けれども、信仰をもつ二人が結婚するという事は、最初だけではない、月日が経つにつれて、二人の絆がもっともっと深くなる、5年、10年、20年、30年と続くにつれてもっともっといたわりあえる、支えあえるの、そういう姿を、この個所ではぶどう酒を譬えとして、表しているのではないだろうかと話された。

 確かにその通りだと思うのです。最初はこの人のためだったらと思い、互いに支え、いたわり、助け合うのです。でもだんだん慣れてきますと、月日が経ってきますと、自分の我が出て、自分の要求ばかりが強くなってくるようにも思います。そして自分の経験からも言えると思うのですが、結構お互いに、「自分のほうがこんなに我慢しているのに」と思っているのです。お互いが自分のほうがこれだけ我慢しているから夫婦円満だなんて思っていたりもするのではないでしょうか。
 
 キリストを主とする生活とはどういう事でしょう。それはイエス・キリストという救い主が、私達をその命をかけてまで愛し、仕えて下さったという事を知っている人は、そのイエス様の愛を受け入れて、自分自身もまた神様の作品であり、かけがいの無い一人であるという事をよく知っている人という事でありましょう。
 
 28節には、「妻を愛する人は、自分自身を愛している」とあります。神から愛されている自分を自分が受け入れることが大切なのです。自分には自信がない、けれど、主イエスがそんななあなたも神の前に平等であることを知れと教えて下さる。その教えをしっかりと受け入れることです。受け入れるほどに男性であれば、妻を愛せる、又、女性であれば、夫を愛せる、という事ではないでしょうか。

 自分自身が歩んで来た道、経験してきた一つ一つ、自分自身の外側も内側も、過去も現在も将来をも、すべてに感謝をもって受け入る、そのような人こそ、その夫を、その妻を本当に愛せるのでありましょう。
 
 私も、牧師として、結婚式の司式をわずかな経験でありますが、させて頂きました。今の所の私の願いは、この新しい会堂で結婚式を挙げたい。きっといつか願いは叶うでしょう。愛する二人が神様の前で誓いを立てる、その場に居合わせる事が出来るのは幸せなことです。そして私は式辞の時にお話する。これからお二人が夫婦となっても、けっして主体性を失わないように、それは例えるならば、夫婦生活は楽器の演奏のようなもので、オーケストラの演奏は聞いていますと、とても美しく聞こえますけれども、しかし、その一つ一つの楽器が、与えられた役割を十分にこなしているからこそ、美しく聞こえるのであって、そのように、夫として、妻として、自分自身の個性を失わず、自分だけの音色が出せて、そして美しく共鳴する。素敵なハーモニーが生まれる。それぞれが主張しあうのでもなく、消しあうのでもなく、それぞれの音をよく聞きながら、しかしお互いが十分に、自分だけしか出せない音を出す時にこそ、美しい音色が出せるのだと思うのです。
 
 31節には「それゆえ、人は父と母を離れてその妻を結ばれ、二人は一体になる」とありますが、父と母を離れるとは、人が自立するという事でありましょう。自立とは、依存しない、つまり、自分自身が主にあって立つ時に、主以外の誰にも依存しなくて良いという事です。依存しないとは、愛を貰うのではなく、愛を与える人になるという事です。
 
 愛する二人が互いに、愛を与える二人であれば、その二人は幸せな生活を送る事が出来るのです。
 そして又、32節でパウロが「わたしはキリストと教会について述べているのです」とあります。夫婦の関係を持ち出しながら、しかし、本当に述べたいと思っていることは、キリストと教会の関係、つまり、キリストと私達一人一人が、しっかりと繋がり、それゆえに互いに自立して、互いを労り、互いを支え、互いを愛し、敬う、そのような一つとなる教会を形成して欲しいと願っているという事ではないでしょうか。新しい年を更にそのような豊かなに教会へと、私たちは歩んでまいりましょう。
 お祈りいたします。

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