日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の光が灯された時

2021-11-28 12:10:06 | 礼拝説教
【詩編133編1~3節】
【ヨハネによる福音書1章1~5節】

 2021年のアドベントが始まりました。御子イエス・キリストの誕生を喜ぶ時として備えられた時、また一本目のローソクに灯が灯されました。「神の光の印」としての灯とも言えるでしょう。このともし火を希望の光として、この年も共にアドベントを過ごして参りましょう。
 
先週の礼拝の後、皆さんと共に会堂の掃除を行い、その後、子どもの教会の担当者会は途中で退席しまして、家内と、それからうちの次男の三人で、以前私が奉仕しておりました町田の教会の献堂式に出席してまいりました。
3時から献堂式の礼拝が始まる時間ギリギリで到着しましたが、間に合いました。到着すると、ある方が「菊池先生が到着されました」と大きな声で言われて、恥ずかしい思いでしたが、町田の教会の方々が待っておられた様子に感激致しました。

 献堂式の礼拝は、密を避けてのことだと思いますが、外部からの方々を中心に礼拝堂に入りまして、教会員の皆様は、礼拝堂の出入り口から続く幼稚園舎の方に座っておられましたが、でも一緒に礼拝を献げました。外部の方といっても私にとってみれば、どの方も懐かしい方ばかりが並んでいるわけで、何か時間が10年位一度に戻ったような不思議な感覚でしたが、共に礼拝を献げることができる大きな喜びを体験いたしました。
今日、読んでいただきました詩編133編1節には「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とあります。兄弟が共に座っている、この言葉は信仰の兄弟、姉妹が礼拝において座っているということです。そして、そこに大きな喜びがあるというのです。この御言葉のように、大変良い献堂式であったと思います。

 詩編133編2節、3節には、「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。」と続きますが、この御言葉は、礼拝で用いられる香油が大祭司であるアロンに注がれ、注がれた香油がアロンの長いひげを伝わり、滴り落ちていく様子、神の恵みの印であり、聖別された印としての選び抜かれた香油が豊かに用いられ、礼拝が充実し、礼拝堂に香しい香りが立ち込め、皆の心が一つになり、気持ちが神に向かい集中していく、そんな様子を見て取ることが出来ます。

 「兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」なぜ、恵みであり、喜びであるのか、言うまでもなくそれが礼拝だからです。

 私たちの国では、コロナ感染がひとまず落ちついていまして、巷の飲食的は、時間的制約から解放され、人数的制約も4人から8人と徐々に緩められています。ですから、仕事帰りの仲間が、久しぶりに居酒屋にでも寄ろうかと、誘い合うこともあるかもしれません。久しぶりに楽しい時間を過ごそうとするかもしれません。リラックスした良い時間となるでしょう。
けれど、そのような集まりとは全く違う意味の、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

 再び問いますが、なぜ恵みなのか、なぜ喜びなのか、共に座っている兄弟、姉妹が皆同じ思いを抱き、同じ方向を向いて、天地創造の主であり、アブラハム、イサク、ヤコブの神として、また、イスラエルの歴史を導いてこられた主なる神の方向を向いて座っているからです。

 先週の礼拝でも申し上げましたが、今、水曜日の祈祷会では出エジプト記を読んでいます。先週読みました箇所は、主なる神から十戒をいただく為に、シナイ山に登り、主なる神のみ言葉を聞き続けていたモーセ、そのモーセが40日、40夜、山にとどまり主の御言葉を聞いていました。けれど、山の麓でモーセを待ち続けるイスラエルの民は、待てど暮らせどモーセが山から降りてこない、と感じるのです。しびれを切らし、これ以上待てないと感じたイスラエルの民は、モーセの兄のアロンに詰め寄って、自分達の神として金の子牛を造らせたという箇所を読みました。

 アロンによって造られた金の子牛を見たイスラエルは喜びました。子牛の像を見ては、この神が自分達をエジプトから導き出した神であるとし、献げ物を献げ、座っては飲み食いし、立っては戯れたというのです。戯れるという言葉は、男女の体の関係という意味があると言われます。もはや乱れ放題です。

 モーセに与えられた十戒の一番目、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」二番目「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」そのどちらにも違反しているわけですから、主なる神は怒りを爆発させることになります。
その怒りをモーセがなんとか宥めたという場面を先週読みました。旧約聖書に記されているイスラエル民族の歴史は、どこを読んでも、まことの神を神とせず、その場にあって、その時代にあって、時には自分達が自分達の手で神の像を造っては、この方こそ私たちの神と拝み、時には、その地域に信じられていた宗教に飲み込まれ、バアルと呼ばれる神を礼拝する。時にはイスラエルの王でさえ、そのような姿を示し、神の思いに反し、神から離れ、神を軽んじる、その繰り返しの姿が旧約聖書のイスラエルの歴史に色濃く記されているとも言えるでしょう。
けれど、その度に、主なる神は時には御旨に叶う王を据え、時には祭司を、時には預言者を派遣して、主なる神に立ち帰るようにと働き続ける姿をも読むことが出来ます。

 詩編133編、短い詩編ですけれど、そのような歴史を繰り返す中で、主なる神のもとに立ち帰った人々が共に座り、共に主なる神を見上げ、神を賛美している。ここに自分達の体と心の根源がある。ここに自分達の命の基がある。この場にこそ、自分達のまことの救い主がおられる。なんという恵み、なんという喜び、心を込めて礼拝に臨んだ場面を思い起こすことが出来ると思います。

 そして、今、この時代にあって、私たちは、私たちの主なる神である御子イエス・キリストの誕生を覚えつつ、アドベントの礼拝を献げています。コロナ禍にあって、皆が距離を取らなければならない礼拝です。大きな声で讃美をしたいと思いつつも、依然としてマスクをはずせない礼拝です。換気に気を付けながらの礼拝です。
でも、それ以上に人の心が神から離れ、自らを神とし、人を裁き、争いを起こし、時として愛を忘れ、サタンがいるとするなら、そのサタンに支配されているのではないかと思うような、この暗闇の世を照らす、輝く光である御子イエス・キリストの愛に包まれての礼拝を捧げることが出来る。なんという恵み、なんという喜び。

 皆さん、三度問いますが、なぜ、恵みなのか、なぜ喜びなのか。私たちが共に座り礼拝を献げるその方が、真の光として来られたからです。つまり、本物だということです。

 光の特徴は何か、子どもたちにいつも話します。光は速く、光は明るく、光は暖かい。その通りです。でも、更にいうならば、私たちが礼拝を献げる礼拝堂の光、この光は人間の手によって造られた光、人の手によって作られた光の特徴は光源から光が放射状に広がっていくのだそうです。でもね、主なる神自ら作られた太陽の光は、放射状ではなく、平行だそうです。科学的にもそう言えるのだそうです。
その違いはどこにあるのかというと、場所によって明るかったり、暗かったりしない、つまりすべてのものをくまなく照らす光、それが太陽の光です。
平行に進む光は、照らされている物がデコボコしているのか、凹凸してムラがあるのか人の手による光で見ると良く分からないけれど、平行の光は良く分かる、どんな小さな傷であっても見逃すことが無いというのです。それが真の光ですよ。

 この世の光として誕生された主イエス・キリストの光に照らされる時、きっと私たちの心のムラ、心の凸凹、罪の数々、全てが明らかにされるでしょう。でも、全てが明らかにしながら、その一つ一つを指摘し、裁く為に照らすのではなく、その一つ一つを赦し、滑らかに整え、平安を取り戻し、自分も祝福の内に入れられている喜びを思い出して、力を得て、この礼拝から歩みだしていけるようにしてくださるのです。

 そして、自分だけではなく、隣に座るあなたも、あなたも、皆さん、良かったと喜び合える仲間が与えられる。「なんという恵み、なんという喜び」を心に、今年のアドベントを共々に過ごして参りましょう。

お祈りします。
 

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