日本キリスト教団 大塚平安教会 

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見ずに信じる人の幸い

2022-04-24 14:46:55 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章19~29節】


 昔、教員の免許取得の為に、高校に教育実習に行きました。フランス語の教員の資格ですから実際は何の役にも立たないのですが、それでも高校でフランス語の授業がある学校に行きまして無事に免許だけは取りました。
 
 一応、担当のクラスもありまして、学校の終わりの時間、ホームルームの時間に、急に担任の先生から菊池さん何か話をしてくださいと言われまして、びっくりしました。その時に話しをしたのが人間の感情についての話をしました。
クラスの皆さん、もし皆さんに彼氏、彼女がいるとして、その相手に振られてしまったらどう思いますか。と聞いたのです。すると当然のように「悲しい」とか「腹が立つ」とか「学校に来たくない」とった返事がありました。
 そうですよね。でも出来事には感情がありません、と話しました。出来事に感情があるのではなくて出来事をどう受け止めるのかによって感情が代わり、全く違った世界が見えることになるという話をしたわけです。なぜなら、あの相手は見る目が無い、ろくでもない人だと思うと、悲しいだけではなくなりますし、早速新し相手を見つけようと思えば、むしろ元気も出て来ます。といった話をしたのです。
 そんな時間はフランス語の授業の何倍も盛り上がったことを覚えています。(笑)
 
 私たちの目に見える世界は何で出来ているのかというと、私は人間の感情という目に見えない心の動きで出来ていると考えています。「喜怒哀楽」という言葉もありますが、私たちは生きていると様々な出来事に遭遇します。その出来事や状況を、自分の感情でもって受け止め、その受け止め方によって、どう受け止めるかによってそれからの方向もかなり違うのです。
 あまり良い例ではありませんが、アメリカで弁護士になろうとした人が一回目の試験に落ちて、二回目の試験にも落ちたようです。それは出来事です。でも、その出来事をどう捉え、どう考えるのかによって、これからの生き方や方向が変わって来るでしょう。弁護士試験は大分難しいですから、三回、四回と落ちる人も多くいます。中には八回目、九回目に合格した人もいるでしょうから、なにまだまだと考えるか、もうおしまいだと考えるのか、その違いは人生をも変えるほどの違いです。
 
 私たちは目に見える世界に大きく左右され揺さぶられます。3月に神学校を卒業して横須賀の教会に赴任されたSさんが、ある時、話しに来ました。牧師のガウンはどのようにして購入したのかというのです。ちょっとびっくりしました。私の前任の鈴木伸治先生は、礼拝にはガウンを着ていたという話も聞きまして、私は初めて知りました。確かにそういった目に見える所の世界もあって、案外大切なところであろうとは思います。
 警察官は警察官の服装をしていますし、消防士は消防士の服装をしていますし、医者は患者を診る時は大抵白衣を着ています。服装がその人の仕事や、その人自身を現わすことも世の中には案外ありますから、服装を気にしなくて良いということはありません。

 イエス・キリストを信じる私たちはどのような服装をするのでしょうか。西欧の所謂古き良き時代には、日曜日となり、教会に行くとなると、それぞれにきちんとした身なりをして教会の礼拝に出席したと言われます。整った服装は整った心へと人を導きますから、礼拝には礼拝に相応しいと考える服装が良いでしょう。
 でも、服装がその人の信仰を現わすわけではありません。信仰は目に見える世界で見る事が出来る、測ることが出来る、数えることが出来るのかと問われたら、そうではないと答えられるでしょう。私の母教会で牧会されていた熊野義孝先生は、信仰はあるのか、ないのかが大切ですと教えておられたそうです。
 
 今日は、ヨハネによる福音書から、復活された主イエスが弟子たちの前に現れる場面を読んでいただきました。主イエスは週の初めの日の朝、まだ暗い時間に復活されました。その場面を先週のイースター礼拝で読んでいただきました。復活の主イエスはマグダラのマリアのところへ現れてくださった。今日の聖書箇所は、同じ日の夕方の場面となります。弟子たちはユダヤ人を恐れて、家に鍵をかけて隠れるようにしていました。不安でいっぱいの弟子たちの、その場に復活の主イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と告げられました。さらに御自分の手とわき腹とをお見せになりました。そこには十字架の釘の跡、また刺し傷があったのでしょう。弟子たちは驚いたと思いますけれど、驚き以上に喜びに満たされた様子が聖書に記されています。弟子達は、人には出来ないけれど、神にはできる神の業を見る思いに至ったのでしょう。

 けれどその時、弟子のトマスが、その場にいませんでした。ですから、その喜びを共にすることが出来ませんでした。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と告げてもトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指に釘跡を入れてみなければ、手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と答えました。
 トマスの感情としては、自分だけが差別されたと感じたか、あるいは弟子たちが揃って悪い冗談で自分をだまそうとしているかもしれないと思ったかもしれません。
いずれにしても、トマスは復活の主と出会うという出来事を経験していませんから、信じるもなにも、復活されたという根拠が何もないと思っていたと思います。それから一週間、主と出会った弟子たちは喜びに満たされ、力与えられ、トマスだけがその喜びに加わることが出来なかったわけです。

 けれど、それから八日後、八日後とは、一週間後という意味です。弟子たちは、同じ家で祈りを共にしていました。今回はトマスも一緒でした。

 そこに復活された主イエスが現れました。「あなたがたに平和があるように」そして更にトマスに話しかけました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」更に続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。

 トマスは驚いたと思います。仲間の言葉は本当であった、自分もまた復活の主イエスと出会うことが出来た。トマスは他の弟子たちと同じように神の業を前にして心が燃えたでありましょう。「わたしの主、わたしの神よ」というトマスの言葉は、私たちに感動を与える言葉です。なぜ感動するのか、ヨハネによる福音書を記したヨハネが、福音書を読む読者に対して、時代を越えて私たちに対して、主イエス・キリストこそが私たちの主であり、私たちの神である、そのことを伝えたいという思いで記し、その思いがこの「わたしの主、わたしの神よ」に集約されているように感じるからです。この場面のために福音書が記されたと言っても良いと言える程だと思います。

 けれど皆さん、実はトマスも他の弟子たちも少しも変わりません。一週間前に復活の主と出会ったのか、一週間後に出会ったのかの違いがあるだけで、弟子たちは皆、復活された主イエスの姿をその目で見て、確認して信じたのです。

 人は目に見える世界、見える状況を見て判断します。でも見える世界、見える状況をどう判断しますか。私たちはどのように判断しますか。コロナ禍となって2年以上経過しました。最近はコロナウィルスの感染も停滞か幾らか減少傾向となり、少し希望が見えて来た感じがしております。けれど、一方においては、ロシアがウクライナに侵攻し、考えてもいなかった戦争となり、世界中は混乱に陥りました。世界全体が不安と怒りと悲しみを抱えています。私たちが目に見える世界はそのような世界です。

 この2年間の教会も本当に厳しい状況を過ごしてきました。時には礼拝すら守ることすら出来ませんでした。十分な伝道活動を出来ずに過ごしてきました。それが私たちの目に見える世界です。

 でも、目に見える世界を私たちはどう見て行くのか、そこに私たちの信仰が問われるのだと思います。主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と話されました。
 主イエスは、私たちに見ないけれど、見る信仰を求めておられます。ヘブライ人への手紙には、信仰の父、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、多くの預言者も、神の国の実現をその目で見ることなく、しかし、遥かにそれを望み見て、生きた人々の名前が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。
 
 私たちは、復活された主イエスの姿をこの目で見ることは出来ないかもしれません。けれど、信仰によって遥かに仰ぎ見る時、今与えられている世界のその先に、神は、神の栄光を現わしてくださるに違いない。そう信じる信仰こそ、今求められているのではないでしょうか。厳しい世界を生きていくためにも、主にある希望を失うことなく過ごして参りましょう。

 お祈りします。

 

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