日本キリスト教団 大塚平安教会 

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熱心な祈り

2017-03-02 18:17:59 | 礼拝説教
【使徒言行録12章1~12節】

 昨日は、神奈川教区総会が清水ヶ丘教会で行われまして、昨日朝、車ではなく、電車で出かけました。電車にしましたのはその行く道、帰り道の電車でどうしても読みたいと思っていた本がありまして、タイトルに惹かれて購入したのですが、日本赤十字看護大学の先生をしておられる武井麻子さんが記した本で、『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか』という本です。
 
 看護大学の先生ですから、将来看護師になりたいと思っている学生に対して教えている先生ですからね、患者に対して、心に傷を負っている方々に対して、どのような心構えで接するのか、がテーマの一つなのですが、その書き出しに、一つの例が記されてありまして、多くの日本人が、ディズニーランドに行きたがる、その理由は、やっぱりあそこにはファンタジーがあって、夢があるというのです。
 私はこれまでの人生、過去に一度だけ行ったことがあるのですが、それほど楽しいわけでもなく、疲れて帰ってきたのを思い起こします。それでも実際大勢が詰めかける、年に何度も行く人もいるわけです。

 ディズニーランドのスタッフは、パレードの主役も後で踊っている人も、案内の人も、掃除の人も、全員がいわば出演者であり、製作者であり、入場した人達がどんなに楽しい雰囲気になってもらえるのか、元気はつらつ、素敵なホスピタリティ、全身でハッピーな感じを醸し出すのかが大切ですと、教わるのだそうです。ですから夢のような世界がそこにあって、やってきた人々はまた来ようと思う。そういう仕組みになっているそうです。
ディズニーランドは「癒しとホスピタリティの精神を通して真心こめたサービスに努めている」というわけです。ところが著者の武井先生、その「癒しとホスピタリティの精神を通して真心を込めたサービス」、全く同じ精神をモットーにしていている全く違った会社を見つけたそうです。
 どういう会社だと思いますか、その会社は葬儀社だったそうです。こちらは悲しみに暮れるご遺族の思いをしっかりと汲んで、真心を込めて死者を葬る仕事です。

 ここで武井先生は何を告げようとしているのかというと、日本の会社、あるいは仕事、あるいは日常生活の中で、人は「感情労働」をしているのだと説明します。
 感情労働とは、会社や人の関わりの中で、例えば学校でもそうだと思いますが、つまりは人の集まるところ全てと言っても良いかもしれません。自分の感情を殺して、その場の雰囲気を壊さないように努める。上手にそのような働きが出来ることが私たちの社会では強く求められていて、これが出来ないと変な人とか、空気を読めない人と言われてしまうのだというのです。
 例えば、学校の先生が、病気になって入院したとする。学校の先生でも痛い時は痛いし、辛い時は辛いのですが、でも、あんまり痛いと言ったり、辛いと愚痴を言ったりすると、あの人学校の先生なのにねと言われてしまうから、ろくろく入院も出来ないという具合のようです。
 
 なるほど、と思いながら、まだ半分位まで読んで、結論まで読んではいないのですが、こういった感情を殺して、働きが求められるケースは日本人社会の中で非常に多いと伝えます。看護師や医者もそうですし、学校の先生もそうですし、警察官や公務員、勿論、牧師やお坊さんもそうだと思いますが、でもそれだけでもない。
 大人も子どもも、人の目を気にしながら生きている人は皆、いつでも感情労働という作業をしていると言えるのではないでしょうか。
 もう、何をするにも人の目、自分の目に囚われて、自分で自分を縛って、なんだか不自由だな、窮屈だなと思う生活を自らが作り上げて、酸素の薄い水の中の金魚のようにアップアップしている人多いのではないでしょうか。

 今日、読んで頂きました聖書箇所は、復活された主イエスとの出会いを通して、また、聖霊降臨の出来事を経て、心から主イエスを自分達の救い主、メシアと信じた弟子たちが御言葉を語り始めている場面です。しかし、その最中に一つの事件が起こりました。ヘロデ王がヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したところ、大変ユダヤ人が喜んだので、更に迫害の手を伸ばして、ペトロをとらえて牢に閉じ込めてしまったというのです。捕えられ牢に閉じ込められたペトロ、ヤコブが死に、ペトロまでもがと教会も必死であったと思います。一同が教会に集り、ペトロの為に熱心な祈りが神にささげられていたとあります。
 そんな中、捕らわれていたペトロのもとに天使が現れ、解放して下さったという場面を読んで頂きましたが、そのようにして神を信じる人生とは、あたかも様々な物や出来事に囚われているかのような人生を生きながら、しかし、神を信じるとは、熱心な思いとは、祈るとは、そのことにより、人は、必ず神による自由が与えられ解放されるのだということではないでしょうか。

 私たちは何もペトロのように獄に繋がれているわけではありません。でも囚人の囚という文字は、くにがまえの中に人と記すわけで、人は誰もが皆、実に多くの事柄に囚われていると言えると思うのです。
 
 こんなことをしてはいけない。あんなことは言ってはいけない。こうありたい、でも出来ない、そんな囲いの中にいるのだと思います。不思議なことに、こうありたいけれど、そうなっていない自分を顧みてね、自分はダメだ、自分はダメと思いながら生きて、さらに周りからもそう言われたりする。先週も幼稚園の聖書に親しむ会がありましたが、もう、誰がとはいえませんけれど、子どもの事で、夫のことで、お姑さんのことで、おしゅうとのことで、もうね諦めている方もいる。あの人は変わらないから、もう考えないようにします、と話された方がいました。考えないようにする、その人はそこにいるけれどいないかのようにする。それもまた感情労働の一つで、自分の感情に蓋をして生きていきますと言っているようなものなのです。
これは辛いですよ。

 だからその囲いを破って行かなければならないわけですが、一体何が必要かというと、聖書では囚われていたペトロの所にやってきたのは主の天使でした。この天使がやってこなければペトロは牢から抜け出すことは出来ませんでした。けれど、なぜ主の天使がやってきたのか。その理由は記されてありません。
 これこそ神の業と言えるかもしれません。けれど、12章5節にはこうあります。「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」
 ここに「教会では、彼のために熱心な祈りがささげられている」ここに教会とあります。教会とは何か、説明するのも変かもしれませんが、神を信じている者の集まりではありませんか。神を信じる者の一人ひとりが熱心な祈りをする。その祈りによって天使がやって来るほどの奇跡とも言えるほどの出来事が起こったのだと考えることも出来ると思うんのです。

 最初に武井麻子さんの話をしましたけれど、この感情労働を営む人達、看護師もそう、医者もそう、教員や警察官と申しましたけれど、現代で言えば老人ホームとかね、年老いた方々や障害を負っている方々に対するケアをするような方々が、おられます。人手不足とも言われますが、そのような方々に対するわたしたちの印象は、いつも熱心でいつも優しく、穏やかな人、そんな印象です。
 
 でも、最近は時々ニュースで見ますが何かの拍子に時に人を傷つけたり、時に命を奪うことさえする人がいたりして驚きます。学校の教師が子どもに対して、病院の看護師が患者に対して怪我をさせ、命を奪うことさえするのです。
 私たちはそんなニュースを見ますと、とても考えられない出来事だと思って、大変な時代になったなと思ったりもするのですが、武井先生はこれまで一生懸命に感情を殺して、感情を表に出さないで、感情をコントロールしながら生きてきた、仕事してきた、でも、もう限界となった時に、人によっては内側に出れば、うつ病にもなるだろうし、精神的に追い詰められて様々な病気になることもあり、しかしそれが内側ではなく、外側に出れば、日ごろ、上手に感情を出せない人ほど、人を傷つけることがあるのだと説明していました。

 更に、武井先生は一つの話をします。それはアメリカのまさに囚人の話です。アメリカは州によっても違いますが、死刑執行を禁止している州があります。調べましたら少なくとも17の州では死刑が廃止されています。ですから無期懲役とか終身刑とか、懲役100年とか、つまり社会復帰出来ない仕組みになっているわけですが、そうなった人達は当然いわゆる極悪人と呼ばれる人たちでしょうけれど、そんな彼らの心の支えとなっているのが友情、友愛という意味を持つアミティと呼ばれる支援グループなのだそうです。このアミティと呼ばれる支援者は極悪人と呼ばれる人々の中に入っていって、その一人ひとりの感情と向き合う働きをしているそうです。その人の感情と向き合いながらその人がなぜ、罪を犯したのか、罪を犯そうとしたのか、なぜそんな思いや考え方を持つことになったのか、その人の子どもの時代にまでさかのぼって自分たちの過去を見詰めなおし、自分の感情に向き合い、自分と向き合いながら自分自身を取り戻していく作業をしていくのだそうです。そのような働きの中で、自分を取り戻した囚人は、取り戻しただけでもなく、取り戻した喜びを得て、また、今度はその人が他の囚人の感情と向き合いながら、その人の心に豊かな感情を取り戻していくように働きかける。
そのような働きがある、ということを知ったとありました。

 その働きを知ったのは、坂上香さんと言う一人の女性から知ったというのです。私はもうびっくりしました。なぜかというと、坂上香さんとは、今、私たちの教会のSさん御家族の弁護士として一生懸命、殆ど無給で働いて下さっている岩井弁護士の奥さんです。
 彼女は今、国際ジャーナリストとして、また、一橋大学や青山学院大学でも教えているようですが、私たち夫婦が若い頃に通っていた母教会のお仲間でもあります。

 岩井さん夫婦はもともと、アムネスティと言いまして、世界中の国が死刑を禁止するようにと願って働いている団体におられました。アムネスティは国際的人権団体です。キリスト教と言うと、入国出来ない国も沢山ありますので、あくまでも人権団体として働きますけれど、けれど、その思想の背景には人が死刑になったらもう、その人は神に対して悔い改めて、赦しを受けることが出来なくなるからという話を聞いたことがあります。
 だからではないとは思いますけれど、香さんはものすごくアクティブな方で、単身アメリカに渡り、終身刑や無期懲役の判決を受けた人々の収容所での生活やアミティの働きをドキュメント映画にして、アメリカでは幾つか受賞を受ける程の作品と評価されています。人はしっかりと感情を取り戻して、自分自身があたかも囚われ、囲いだと思っているものさえも、破ることは可能なのだと知らせたかったのではないかと改めて思いました。

 収容所と教会では例えが悪いかもしれません。しかし、教会もまた、自分が自分として自分は自分で良いのだ。私もまた神様に造って頂いた神の作品として誰とも変えられないまさにユニークな人生を歩んでいるのだということをしっかりとこの礼拝で、神と出会いしっかりと自分取り戻すところなのだろうと思うのです。
 
 電話で教会はどこですかとよく聞かれます。ハイ、大塚本町の交差点にあります。よくわかりませんが、本町郵便局の向かいです。ああなんとなくわかります。ドレーパー記念幼稚園の隣です。ああ幼稚園ですかハッキリとわかります。大体こんな会話になるのですが、いつか、幼稚園はどこですか、ああ大塚平安教会の隣ですと言ってみたいものです。でも、言えると思います。なぜなら、教会は、人が人としてしっかりと回復して、自分を取り戻して、今日もしっかり生きていこう、そのようにして既に、皆さんが囚われている人を解放する働きをされているではありませんか。
 ですから、私たちの所にも目には見えませんけれど、神の聖霊という名の天使がやって来ます。必ずやって来ます。それは教会だからです。けれどまた、その神の聖霊という名の天使がやって来るには、教会の熱心な祈りがまた求められているのだと思います。
この祈りこそが奇跡とも思える出来事を起こすのではないでしょうか。

 教会は学校でもありませんし、会社でもありません。教会は主なる神を信じる神の家族の集まりです。ですから、私たちは兄弟、姉妹と呼ぶのです。兄弟、姉妹と呼びますけれど、一人ひとりが皆違っています。今、話題になっている北朝鮮が何かの記念や祭りで軍事パレートを時々行っている場面を見ますけれど、皆が一矢違わぬ動きの行進をしている。あの動きは個人を出さないということでしょう。同じ動き、同じ制服、同じ行動、個人ではダメなのです。

 でも、教会はそうではありません。一人ひとりが皆、足のようであり、手のようであり、耳のようであり、目のようであり、皆がそれぞれで、しかも、要らない人は一人もいない。
 コリント書の12章には「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立てて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」とあります。
これが教会でしょう。そして多くの部分が集まって、神の家族として一つにされるために大切なことは「祈り」だと思います。祈祷会は勿論ですけれど、教会のどの集会にも祈りの言葉が告げられます。その祈りによって私たちは一つになるのではないでしょうか。祈っていると、愚痴が減っていきます。希望が与えられます。心が整理されて行きます。
でも、もっと更に熱心に祈ることですよ。もっと熱心に祈ると何が分かって来るのか、熱心に祈っていると、主なる神が私のことを、私たちのことを決して忘れていないのだな、いうも一緒にいて下さっているのだなということが分かるのです。

 だから、私たちは何者にもとらわれないで、この教会で、熱心に祈って参りましょう。ここにこそ、人が本当に解放される場所があるのだと宣べ伝えて参りましょう。

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