日本キリスト教団 大塚平安教会  

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先を見通す力

2018-03-19 10:44:35 | 礼拝説教
【マルコによる福音書9章2~13節】


 2011年の3月11日に起こりました東日本大震災から今日で丸7年目となりました。

 あの時の地震、津波、原発事故、私たちは信じられない出来事と、これまで見たこの無い光景に遭遇しました。その出来事によって天に召された方は凡そ25,000名とされています(※ウイキペディアより)。あの出来事と、被害を負った方々を覚えて、主に祈りを献げるためにも私たちはこれから一分間の黙とうを共に行いたいと思います。

 黙祷いたしましょう。

 ありがとうございました。7年前の2011年3月11日、2時46分に地震が発生しました。幼稚園では降園時間を過ぎておりましたので、子どもたちはおりませんでしたが、婦人会の方々が、当時はまだ古い会堂でマーマレード作りをして下さっていました。何度も大きな揺れが来るものですから、園庭に避難して、しかし、その後はこの地域でも電車が止まり、停電が起こり、交通網が麻痺し、帰宅するにも帰宅する術がない方が続出しました。

 当時長男がまだ中学生で、町田の中学まで迎えに出て往復6時間かけて、帰って来たことを思い起こします。
 自然災害はいつやって来るのかわかりません。だから、「先を見通して」大切なことはそのような時の為に備えをしておく。だけでもなく、やっぱり大切なのは、あの出来事を忘れないということではないでしょうか。
 忘れなければ出来るだけの備えも出来ます。当時、小学校2年生だった娘に聞きましたら、怖いという感覚はあまりなかったようです。私も小学1年の時に、当時としてはかなり大きな北海道の十勝沖地震という地震を経験しましたが、その時には殆ど怖さを感じた記憶はありません。子どもとはそういうものなのかもしれません。
 
 ですから、本当にその時、怖さ、恐ろしさを経験した者が、後の時代の人々に語り継いでいくことが大切なのだと思います。

 主イエス・キリストの福音が記されている聖書もまた、当時主イエスと共に歩んだ弟子たちをはじめとして、主イエスの福音にふれた一人一人の手によって話され、語り継がれ、また、書き記され、書き写されて今日にまで至っている文章です。歴史的に、これまで一言では表現しようもない様々な出来事を乗り越えつつ、しかし多くの人々に希望と復活の主にある平安を聖書は伝え続けて参りました。

 今日読んで頂きましたのは、マルコによる福音書9章2節からの箇所ですが、主イエスの姿が変わる、山上の変容と呼ばれる箇所です。この出来事もまた、弟子たちにとって決して忘れることの出来ない、また、語り継いでいかなければならないと思う出来事であったに違いありません。

 先週の礼拝ではマルコによる福音書の8章を読みました。場面はフィリポ・カイサリア地方での出来事であったと記されていますが、その地域には、高い山脈があります。その中の一つにヘルモン山という山があって、その山での出来事ではなかったかと言われます。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて主が登っていかれた。標高は2814m、山頂まで行かれたのかどうかわかりません。けれどその地域の所謂、神聖な山とみなされていたようでもあります。
 
 その場所にまで来ると、主イエスの姿が真っ白に輝いて、この世のどんなさらし職人の腕にも及ばぬほど白くなり、そこにエリヤが現れ、モーセが現れて、彼らと会話をしたというのです。更に雲の中から声が聞こえてきて「これは私の愛する子。これに聞け」というのです。もう弟子たちはどんなにか驚いたことでしょう。

 山に登る前に、弟子のペトロが「主よあなたはメシアです」と主イエスの問いかけに答えた場面が8章にありますが、まさにメシアとしての主イエスの姿をこの目で見た、と思えた感動の瞬間であったと思います。

 彼らは、その姿を見て、どんなに嬉しかったか。どんなに誇らしく思ったことか。嬉しいこと、誇らしく思えることは、黙っていることは難しいものです。悲しさや、辛い出来事は一人胸の中で耐える、あまり人に話したくないと思う時もあります。けれど、喜びや嬉しさは、人に話せば共に喜べますし、喜びが倍になるのです。
 感動したまま山を下りて行ったと思います。三人の弟子たちは、このことを何よりも麓で待っている外の弟子たちに伝えたい、そして一緒に喜びたいと思っていたと思います。
 
 けれど9節の箇所を読みますとこうあります。「一同が山を下りるとき、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。」ルカによる福音書にも同じ出来事が記されているのですが、そこに「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」とありますから、弟子たちは主イエスの言葉を聞いて、この出来事を心に収めて、本当に話さなかったのでしょう。
 
 でも、それならいつの時点で話したのか、主は「人の子が死者の中から復活するまでは」と話されました。この時、弟子たちにはこの言葉の意味が良く分からなかったと思います。8章でも、ペトロが「主よ、あなたはメシアです。」と答えた後に、主自らが、御自分がこれから受ける苦しみ、長老、祭司長、律法学者達からの排斥、そして御自分の死と復活を話されましたが、その話を聞いて、ペトロが主を脇にお連れして、いさめ始めて、逆に「サタン、引き下がれ」と叱られた場面がありますように、弟子たちは、主イエスの話される主の死と復活については、どうしてもよく分からないのです。

 でも、分かる時があるのです。分かる時がやって来ます。それはいつなのか。それは神が定められた時です。旧約聖書にコヘレトの言葉という箇所があります。口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれていましたが、その3章に「何事にも時があり」と記されています。「天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えた物を抜く時、殺す時、癒す時 破壊する時 建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時」と続きます。
 「全ての出来事、すべての行為には、定められた時がある」とあります。

 既にお知らせしておりますように、家内の父が先週の日曜日に召されまして、あまりのも突然の出来事でしたので、未だに私は心が落ち着きません。入浴中に血圧が下がって意識を失ってそのまま召されたのだろうと思われますが、当日も一人でいつものように、教会の礼拝に出かけようと駅まで行ったそうです。でも、なんだかフラフラすると電車に乗らず、帰宅して休んでいたそうです。
 ですから調子は良くなかったと思いますけれど、これまで小さな病気やケガはあるにしても、特別命に関わるような病気があったわけでもなく、召される前の日は、自分で車を運転して、夫婦で買い物をしていたとも聞きましたから、とにかく突然だと思います。余計に受け入れがたい思いがします。

 それだけでもなく、私が牧師になろうとしていく中で、身内で最も応援して下さったのが間違いなく家内の父です。私の家族はキリスト教ではありませんし、私が神学校に行くと言った時にも、お願いしたのはお金の話ではなく、保証人の欄に名前とハンコを押すだけでしたが、それすらも渋々ですよ。

 なんでお前がと言われて気まずい思いをしたことを思いますが、家内の父はどんなにか応援して下さったか、そして、辛い時も、嬉しい時も、いつも一番側に寄り添って下さった。勿論、それは私というよりは、家内の為だとは思いますが(笑)
 でも、そういう打算的なところを微塵も感じることはありませんでした。本当に心から応援して下さったと思います。

 けれど、葬儀が終り、火葬を済ませ、また、皆さんのお祈りにも覚えて頂きながら、一連の儀式を終了しまして、やっと少しずつ、これも受け入れなければならないのだろうと思うようにしています。いずれにしても、この時が義父にとっては「召される時」として定められていたのだと思います。いくら家族や、遺族がもがいても神の時に打ち勝つことは出来ません。

 私たちは、例えば何でもがくのかというと、神の時ではなく、自分の時をなんとかしたいと思うからではないでしょうか。自分もOK,皆もOK,でも神様が今は違うよとなれば、皆もがOKでも進まない時もあるし、自分もどうかな、と思う、皆も反対する、でも神様はOKを出すという時もあると思うのです。ですから、私たちは何よりもその「時」を知りたいと思うのです。
 
 自分の親の死だけでもなく、例えば、自分の子どもが中々成長しない。もう一人前になっても良い時だと思うのに、いつまで家にいて、いつまで親のすねをかじって、いつまでいるのか、神様、とっくに時が来ても良いのではありませんか。と思ったりするものです。何よりもわが家が既にそうなりつつあります。でも、本人はもっと真剣ですよ。神様、私の時はいつですか、あなたが私に備えて下さっている時はいつですか。親も子も、何も親子の話だけでもない、神様、いつ、私に健康が与えられますか、神様、私に相応しい仕事が見つかりません。神様、わたしはどう生きて行けばよいのですか、私たちは、その時を知りたいのです。

 でも、必ず神の時がやって来る、その時をしっかりとらえて、その神の時の流れに乗るために、だから、求められるのは、自分の信仰という翼を、いつでも、しっかりと広げておくことです。その信仰と言う翼に神の時という風がしっかりと当たる、そしてその風に乗って羽ばたく時が必ずやって来ます。

 エフェソの信徒への手紙5章15節、16節にこうあります。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」時をよく用いることですよ。とあります。今は悪い時代なのですともあります。今が悪いと思うか、良いと思うかはそれぞれであるかもしれませんけれど、悪い時だなぁと思われている方がいるとすれば、それは自分の信仰の翼を広げているかどうかを確認することです。

 神の時、その時の風が吹いても、それに乗り切れないでいるかもしれません。信仰の翼を広げることです。

 主イエス・キリストの弟子たちが本当に信仰の翼を広げた時、それは主イエスが、福音伝道を行いながら、ガリラヤや、フィリポ・カイサリアや、エルサレムで活躍された時ではありませんでした。ましてや、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、死刑の宣告を受けて、十字架で死なれて行かれる、その時には、翼を広げるどころか、自分達の存在さえ、隠してしまう程でした。

 けれど、そのようにして死んで行かれた主が、三日の後に、週の初めの明け方、早くに復活されて、その後弟子たちの前にその姿を現した時、更には、復活の主は弟子たちと共に40日間おられましたが、天に昇り、それから10日後のペンテコステの日、聖霊が天から下り、神の霊が弟子たちの心の中に、しっかりと納められた時、その時にこそ、神の時が明らかになったではありませんか。弟子たちはその時にこそ、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と言われた言葉の意味の全てを理解して、そして、今この時にこそ、あのヘルモン山で見た、主イエスが白く輝いたこと、そこにエリヤとモーセがやって来て、主イエスと話された事、更には雲の中から声がして「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が聞こえて来たことを、人々の前で、堂々と、自信をもって何度も話し始めたのでありましょう。

 だから、この出来事は、マルコにも、マタイにも、ルカにも三つの福音書の中にしっかりと納められることになったのであろうと思うのです。

 今日のタイトルを「先を見通す力」と致しました。私たちには「先を見通す力」が必要だと思います。先を見通す、先を見越すためには、それ相応の知識、見識が求められます。少なくとも一つの会社の社長であるとか、組織のリーダーにとって、例えば経済的な面において、政治的な面において、また、学校であれば、子どもたちがそれぞれに置かれている社会的境遇に即した対応であるとか、人の親であれば、子どもたちの確かな成長を支えるためにも、出来るだけの先を見通す力が求められるのだと思います。

 しかし、それでもなお、私たちの予測通り、思った通りに、自分の想定内に物事が収まるわけではありません。時には思いがけない、大きな災害が起こることもあります。今、九州では火山が爆発して、少しずつ被害が出ていると聞いています。自然災害はいつでも私たちの想定外の出来事です。あるいは人生において、思いがけない人の死と向き合うこともあるのです。自分の思う通りにはいかないことが多いのです。だからこそ、皆さん、私たちは、信仰の翼を閉じないことです。いつでも、どんなときでも信仰を翼をしっかりと広げることです。

 そして、そこに聖霊を風をしっかりと受け止めることです。

 神の時を待つことです。神の時、その時に、主の最善が示されると信じて、私たちは神から生かされ、与えられている命をしっかりと受け止めながら、これからも共々に歩んで参りましょう。

                                                            お祈りいたします。
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