日本キリスト教団 大塚平安教会 

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祝福のしるし

2022-06-05 14:14:34 | 礼拝説教
【詩編124編1~8節】
【ヨハネによる福音書2章1~12節】

 本日は、2022年のペンテコステ礼拝です。通常ペンテコステ礼拝では使徒言行録2章に記される、弟子達のところに神の聖霊が降る場面が読まれます。
 私たちの教会においても多くの年、そのようにして聖書箇所を選んで参りました。
今年はイレギュラーにというわけでもありませんが、ヨハネによる福音書2章に記される「カナでの婚礼」と呼ばれる箇所、主イエスが最初の奇跡を行われた聖書箇所をそのまま読むことにしました。また、ペンテコステ礼拝にこの箇所が与えられ礼拝で朗読される、それにも一つの意味があると私は思います。

「カナでの婚礼」の特徴は幾つか指摘されています。一つ目は何より婚礼、結婚式なのに、結婚式の中心とも言える花嫁が誰で、花婿が誰であるか記されていません。一体誰と誰の結婚式なのか分かりません。元々この婚礼の箇所の主人公は花嫁、花婿ではないようです。とは言え誰でも良いわけでもありません。状況から推測するしかありませんが、ヒントとなる場面は、イエスの母、マリアの言動です。
当時、ユダヤの結婚式、その祝いは一週間も続いたと言われます。ですから、ぶどう酒が無くなるのはいくら何でも初日ではありません。三日、四日過ぎた頃と思われますが、思いがけなくぶどう酒が無くなってしまった。婚礼を主催する側からすれば驚きであり、恥ずかしい事であり、大慌てであったと思います。

 それを知った主イエスの母、マリアが主イエスに相談に来て、「ぶどう酒がなくなりました」と伝えました。マリアの困ってしまった様子が伺えます。つまり、この式の花嫁、あるいは花婿はマリアの親戚だとか、近しい人の結婚式ではなかったか、古来言われている推測です。
 マリアは裏方であったかもしれません。すっかり困ってしまって、息子のイエスに相談した。この時、マリアは主イエスに奇跡を起こして欲しいとか、解決策を探して欲しいとか思っての相談ではなかったでしょう。でも「困った~」と伝えに来た様子は見て取れます。
 主イエスも「わたしの時はまだ来ていません。」と答えられていますが、マリアにはその言葉の意味も良く理解していなかったと思われます。でも、マリアはなんとかならないかと思いつつ、召し使いたちには「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えました。これが5節までの内容です。

 1節から5節までは母のマリアが主人公です。6節から10節は主イエスが主人公となります。主は水をぶどう酒に変える奇跡を起こされました。そこにはユダヤ人が清めに用いるための石の水がめが六つ置いてありました。いずれも二ないし、三メトレテスとありますが、80リットルから120リットルの大きな水がめです。
 主イエスは召し使いを呼んで、水がめに水をいっぱいに入れなさいと伝えます。召し使いは言われた通りにして、それを世話役のところへ持っていきますと、果たして水がぶどう酒に代わり、世話役が味見をすると大変上等な味だったのでしょう。花婿を呼んで「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものをだすものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と話しました。この言葉は、花婿に対して、あなたは粋な計らいをするといったニュアンスの褒め言葉であったようです。

 この場面において主イエスが何か行動を起こしたとか、「水よぶどう酒に変われ」と言ったとか、そういったこともありません。ただ水をカメにいれさせて、世話役のところへ持って行かせた。それだけです。でも、水はぶどう酒にかわり、婚礼の席に混乱が起こらないばかりか、更に婚礼の席は盛り上がっていったと思われます。この出来事が、主イエスがその栄光を現わされた最初のしるしであったと聖書は記します。
水がぶどう酒に変わったと知っていたのは、主イエスの他には、水がめを運んだ召し使い、マリアも知っていたかもしれません。あるいはぶどう酒が無くなったと花婿も知らされていたかもしれません。ですから、その窮地を救ったのは主イエスであって、花婿は喜んで主のもとに駆け寄って感謝したとか、主を信じるようになったとは書いてありません。

 信じたのは11節に、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあるように、この最初のしるしを知った弟子たちが、主イエスを信じるに値する方であると、心からそう思うようになった。それが「カナでの婚礼」の特徴の大きな二つ目だと思います。

 主イエスが、この世に誕生され、しかし福音書に記されている公生涯と言われる期間は長く考えても3年です。3年の歩みの最初に主は弟子を集められました。これまでの礼拝でヨハネの福音書1章を読んで来ましたが、そこでは主が弟子を集められた様子が記されています。最初の弟子はアンデレとヨハネ、それからペトロ、フィリポ、ナタナエル、カナの婚礼前には少なくとも五人の弟子たちが主と共にいました。

 彼らは、主イエスと共に歩み始めたばかりでありました。ヨハネによる福音書の1章を改めてみてみますと、気が付いている方もおられるかもしれませんが、「その翌日」と言う言葉が連続し記されています。29節に「その翌日」とあります。バブテスマのヨハネが歩いている主イエスを見つけて、「見よ、神の小羊」と言った場面です。35節にも「その翌日」とあります。アンデレとヨハネが弟子となった場面です。更に43節「その翌日」フィリポとナタナエルが主の弟子となって、更にその三日後に「カナでの婚礼」に主は弟子と共に参列する。日数にすれば、彼らが弟子となって一週間程しかたっていません。けれど、その間弟子たちは主イエスと話しをして、対話を繰り返しながら、更に主の教えに従っていこうと気持ちは強くなってきていたでしょう。

 そして、ついにカナの婚礼において、水がぶどう酒に変わる奇跡を見ることになりました。そのしるしを見た時に、弟子たちは主を信じるようになった。それは主イエスこそ我らの主であり、師匠であり、導き手である、そういう確信に至ったということであるかもしれません。

 けれど、この水がぶどう酒に変わるしるしは、「最初のしるし」でもありました。ヨハネによる福音書だけでもなく、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書において、主イエスは幾度も、奇跡の業と思わる働きを成されます。ヨハネによる福音書においても、死にかかっていた役人の息子を癒し、ベトザタの池で病人を癒し、時には二匹の魚と五つのパンから五千人の空腹を満たし、時には湖の上を歩かれて、盲人の目を開かれました。弟子たちは繰り返し主の奇跡の業をその目で見せられ、また、その度に弟子たちの主に信頼する思い、信じる思いは強くなっていったと思います。
 
 でも、その信じる思いは、強くなっていったとしても決定的に信じたまではいきません。決定的な信仰に至るには、聖霊降臨の出来事、主なる神は、そこまで弟子たちを訓練しつつも、しかし待たなければなりませんでした。
 
 「ナルニア物語り」の作家として良く知られているCSルイスという人がいます。CSルイスは熱心なキリスト教徒としても良く知られていますが、その宗教著作集の中で「愛」について記している箇所があります。愛について大きく二つに分けると「求める愛」と「与える愛」があると記しています。

 キリスト教はどちらの愛かと言えば、勿論、「与える愛」でしょう。心を尽くし、精神を尽くして神を愛し、隣人を愛しなさい、それが主イエスの教えです。神を信仰する者は「与える愛」を生きる、それが大切だと言われます。カトリック教会、プロテスタント教会という壁を越えて、多くの信仰の偉人と言われる先達を思い浮かべても「与える愛」を生きた方々であったことを思わされます。
 
 でも、CSルイスは「求める愛」の大切さも記します。幼子が母親に愛を求めるように、主イエスが「子どもたちを私たちのところへ来させなさい」と言われたのは、「求める愛」を受け止める為であったと考えられますが、人は「求める愛」を求めて、求めて、求め尽くすように求めて生きているのではないでしょうか。そしてその求めに応じてくれる人をこそ信じて生きていくのです。
 
 でも、実際は人に対して求める愛は成就することはありません。人は完全ではないからです。だから、求める愛は人ではなく、神様に対してこそ求めなければなりません。主なる神は、人の求めに十分に答えてくださり、与えてくださり、そのつどに弟子たちと同じように、私たちにも「しるし」を見せてくださるでしょう。
 
 そのようにして、神様の圧倒的な、無尽蔵、無条件の「与える愛」を受けながら弟子たちも、私たちも成長するのだと思います。そして神の「与える愛」の最後のしるしこそが、聖霊が降る、ペンテコステの出来事があるのです。
 五旬際の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然激しい風がふいてくるような音が聞こえ、音が響き渡り、天から現れた聖霊が弟子たちの上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。
 
 弟子たちの福音伝道が開始されたのです。主イエスの働きを通して、何度も何度も信じて来た弟子たち、でも、その最後は神の霊を自分の身に受ける必要がありました。それは「受ける愛」を受け尽くした者が、「与える愛」を生きる者へと変えられた瞬間であったと思います。
 
 聖霊の働きは、私たちの信仰を「受ける愛」から「与える愛」を生きる者へと導かれます。与える喜びを生きる者へと変えてくださいます。
そこに神のまことの平和があり、平安があるのです。神様の働きに感謝して、この一週間を過ごして参りましょう。

 お祈りします。


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