詩編145編1~9節
ルカによる福音書18章9~14節
「神に祈り続ける」
今回、説教を準備する中で気がついたのですが、ルカによる福音書18章1節~8節までの聖書箇所、「やもめと裁判官」のたとえという箇所を先月、1月16日の礼拝で読まれ、また説教をしておりました。
その時の説教題は「気を落とさずに絶えず祈る」という説教題でありました。この説教題は18章1節の御言葉から付けたのですが、そこを読みますとこうあります。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」弟子たちに絶えず祈ることの大切さを教えるために、どのようなたとえをされたかと言うと、裁判官とやもめが登場するたとえでした。
「神など畏れないし、人を人とも思わない裁判官」がいて、その裁判官のもとに一人のやもめがやって来て、裁判をしてくれと頼んだという話です。当初はやもめなど相手にしなかった裁判官でしたが、裁判官のところに来ては「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言って来る。
「来ては」という言葉は、何度もうるさく、しつこいぐらいに、絶えず繰り返してという意味です、と話しましたけれど、しつこくされて根負けした裁判官が、やもめのために裁判を開いたわけでした。
それから主イエスは弟子たちに話された。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わず、彼らをいつまでもほおっておかれることがあろうか」
神を畏れず、人を人とも思わない裁判官でさえ、しつこつやって来たやもめに対して裁判を行うように、ましてや、あなたがたよ、あなたがたもしつこい程に祈り続ける、あたかも神様が参ったと言うほどに、絶えず祈り続ける、そのような姿勢が求められるのだと話された、といった個所でありました。
今日の聖書箇所は、すぐその後の話となるわけですが、弟子達に対して祈りについて話された後、更に続けて話をされた。祈りについての話が続きます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。自分は正しい人間で、人を見下している人は誰か、と言えばタイトルからも分かりますように、「ファリサイ派」と呼ばれる、時の宗教的指導者、ユダヤ教の導き手ということになります。
たとえの中でもファリサイ派と徴税人が登場してきます。たとえ話は少々極端な方が分かりやすいわけで、裁判官とやもめは、いわば社会的に最も高い立場にある代表的な人と、最も低い立場とみなされる代表的な人とが対比されて話され、今日の箇所は、社会的というより宗教的にもっとも高く、もっとも敬虔と見なされるファリサイ派と、宗教的には罪人とか、人々の蔑みの対象となっていた徴税人という設定となるわけです。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』
ファリサイ派と呼ばれる人たちは祭司ではありませんし、聖職者でもありません。いわば普通の人々です。色々な職業についていたとも思われます。けれど、律法に忠実に生きること、旧約聖書の教え、伝統的宗教観を厳格に大切に守ろうとした人たちでありました。彼らの生き方は人々の手本であり、尊敬を集め、それゆえ宗教的指導者としての役割も果たしていたと思われます。
そのような一人が神殿にやって来て祈ったわけです。祭司は、この人が祈りを献げている間、香を焚き、祈りに相応しい状況を演出していただろうと言われます。
この人はモーセの律法に従った祈りを献げました。それは整えられた祈りの姿であって、主イエスの周りで、たとえを聞いていた人たちには、よく考えられた良い祈りの姿であると感じたと思われます。また、そのように感じるように主も話されたのでしょう。
勿論、良く読んでみれば分かりますように、このファリサイ派の祈りは、「神様」と祈った後に、わたしはという言葉が入ります。「わたしは、他の人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく」ですからね、如何に自分は社会的、道徳的に正しく生きているかを主張しているわけで、更に「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と続いて「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」この箇所はいわば、宗教的な教えに対しても正しく生きているのかを告げているわけです。神様、私は道徳的にも宗教的にも正しく生きています。
神様に自らを自慢しているような祈りであることはどの注解書にも記されているわけです。けれど、当時の習慣からすれば、驚くべき祈りではなかったようです。ですからイエス様のたとえを聞いていた人たちは、ファリサイ派の祈りにびっくりして、酷い祈りだと思ったわけではないと思われます。
むしろ驚いたのはそれからの話です。一人の徴税人は遠くに立っていました。どこから遠くなのか、ファリサイ派から遠くだったのでしょうか。神殿から遠かったでしょうか。神様のおられる場所から遠いという意味かもしれません。
「目を天に挙げようともせず、胸を打ちながら」。当時の祈りの姿勢は、手と目を天に挙げて祈る、そのような姿勢が求められていたようです。徴税人の姿勢からして祈りの姿ではありません。目を伏せて、胸を打ちながら、これは、自らの罪を感じながら、という事です。そしてこう祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。これだけです。祈る姿勢としても、祈る言葉としても整えられているわけでもなく、聞いている者の心を動かすこともありません。
けれど、主イエスは「言っておくが、義とされた家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と話されました。
このたとえを聞いた人々は驚いたと思います。日頃自分達が考えている思い、聞いている教えと逆の話をされたからです。けれど、そこにこそ主イエスが人々に伝えたい思いがあったことは間違いありません。
一つは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」話されたということです。このような人の特徴は、自分と人を比較する。わたしはこのような者ではありませんと主張する。それは他人の罪は良く見えるけれど、自分については見えていないということでしょう。ある牧師は「独りごとのような祈り」という表現を用いていました。
むしろ、義とされたのは徴税人の祈りでした。徴税人は「罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。自分自身の内に罪を見いだし、人の前に神の前にも誇れるものは何もないと知っていたと思います。
この聖書箇所を何度も読み、また、良く知っている話、これまで何度も読んでいる話、として読んでいる方も多いことでしょう。でも私は改めて思いました。私たちは本当によく知っているのだろうか。主イエスが教える祈りの姿勢、祈りとはどういうことかを理解しているのだろうかと改めて感じました。
教会という場所には、色々な方がやって来ます。これまでそれほど多い経験でもありませんが、刑務所から出て来たばかりの方がやって来たことがありました。その方は、最初、酔っぱらっていたと思いますが、その後も数回話にやって来て、礼拝にも二度程出席されました。でも、それ以降はどうなっているのかわかりません。ある時は、明らかに夜の商売をしている一人の女性がやってきたことがありました。私と話をした後、これから礼拝に来ますと言って帰って行きましたが、その後、教会に来ることはありませんでした。他にも様々な方々がやって来られます。
私は今日の話を準備しながらそんな方々を思い出していました。きっと世の中において神様からもっとも遠いと考えられる一人一人に対して、私自身がどこまで受け入れようとする思いがあるのだろうか、刑務所から出て来たばかりの堅気ではない男性、夜の商売の女性、徴税人と似ていると思います。
何が似ているのかというと、魂の渇望です。普段なら、全くと言っても良い程に教会に来て祈ろうなどと思わないでしょう。でも、人は魂が渇き、神を求め、御霊の潤いを求める時があるのだと思います。
奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者の一人ひとりでさえ、時には霊的渇望を感じる時がやって来るように思う。自分は自分に対しても、神様に対しても何も誇るものが無いと思う時があると思います。私たちはそのような人たちに比べるとしたら、かなり神様に近いのでしょうか。
主イエスは「だれでも高ぶる者は、低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられました。周りで聞いていた人々は本当に驚いたと思います。私たちは、御言葉を読みながらも、彼らほどは驚いていないかもしれません。
聖書を読むとは、きっと驚くことです。徴税人が神の前に頭を垂れて、私を憐れんでくださいと祈る祈りを義としてくださる方の業を前にして、私たちは驚き、驚くばかりでなく、神の愛の深さに感動さえ与えられるのではないかと思う。そのような方が、自分の人生と深く関わりを持って下さろうとして、私たちの世に誕生された神の業を改めて受け入れる、それが今、この時なのだと思います。
私たちは、時にはファリサイ派の人のように生き、時には徴税人のように生きるのだと思います。けれどどんな時も、私たちを神の子として選び、全てを赦し、罪無しとして下さるために、主イエスは働かれ十字架につけられました。
私たちの救いはここあります。既に神の前にいることを赦されているのです。だから、私たちが祈る時には、神よ、憐れんでくださいと祈らなくて良い。
既に神の憐れみの内に招かれています。だから、神よ、あなたを信じますと祈り続けるのです。祈り続けて生きていきましょう。 お祈りします。
ルカによる福音書18章9~14節
「神に祈り続ける」
今回、説教を準備する中で気がついたのですが、ルカによる福音書18章1節~8節までの聖書箇所、「やもめと裁判官」のたとえという箇所を先月、1月16日の礼拝で読まれ、また説教をしておりました。
その時の説教題は「気を落とさずに絶えず祈る」という説教題でありました。この説教題は18章1節の御言葉から付けたのですが、そこを読みますとこうあります。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」弟子たちに絶えず祈ることの大切さを教えるために、どのようなたとえをされたかと言うと、裁判官とやもめが登場するたとえでした。
「神など畏れないし、人を人とも思わない裁判官」がいて、その裁判官のもとに一人のやもめがやって来て、裁判をしてくれと頼んだという話です。当初はやもめなど相手にしなかった裁判官でしたが、裁判官のところに来ては「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言って来る。
「来ては」という言葉は、何度もうるさく、しつこいぐらいに、絶えず繰り返してという意味です、と話しましたけれど、しつこくされて根負けした裁判官が、やもめのために裁判を開いたわけでした。
それから主イエスは弟子たちに話された。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わず、彼らをいつまでもほおっておかれることがあろうか」
神を畏れず、人を人とも思わない裁判官でさえ、しつこつやって来たやもめに対して裁判を行うように、ましてや、あなたがたよ、あなたがたもしつこい程に祈り続ける、あたかも神様が参ったと言うほどに、絶えず祈り続ける、そのような姿勢が求められるのだと話された、といった個所でありました。
今日の聖書箇所は、すぐその後の話となるわけですが、弟子達に対して祈りについて話された後、更に続けて話をされた。祈りについての話が続きます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。自分は正しい人間で、人を見下している人は誰か、と言えばタイトルからも分かりますように、「ファリサイ派」と呼ばれる、時の宗教的指導者、ユダヤ教の導き手ということになります。
たとえの中でもファリサイ派と徴税人が登場してきます。たとえ話は少々極端な方が分かりやすいわけで、裁判官とやもめは、いわば社会的に最も高い立場にある代表的な人と、最も低い立場とみなされる代表的な人とが対比されて話され、今日の箇所は、社会的というより宗教的にもっとも高く、もっとも敬虔と見なされるファリサイ派と、宗教的には罪人とか、人々の蔑みの対象となっていた徴税人という設定となるわけです。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』
ファリサイ派と呼ばれる人たちは祭司ではありませんし、聖職者でもありません。いわば普通の人々です。色々な職業についていたとも思われます。けれど、律法に忠実に生きること、旧約聖書の教え、伝統的宗教観を厳格に大切に守ろうとした人たちでありました。彼らの生き方は人々の手本であり、尊敬を集め、それゆえ宗教的指導者としての役割も果たしていたと思われます。
そのような一人が神殿にやって来て祈ったわけです。祭司は、この人が祈りを献げている間、香を焚き、祈りに相応しい状況を演出していただろうと言われます。
この人はモーセの律法に従った祈りを献げました。それは整えられた祈りの姿であって、主イエスの周りで、たとえを聞いていた人たちには、よく考えられた良い祈りの姿であると感じたと思われます。また、そのように感じるように主も話されたのでしょう。
勿論、良く読んでみれば分かりますように、このファリサイ派の祈りは、「神様」と祈った後に、わたしはという言葉が入ります。「わたしは、他の人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく」ですからね、如何に自分は社会的、道徳的に正しく生きているかを主張しているわけで、更に「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と続いて「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」この箇所はいわば、宗教的な教えに対しても正しく生きているのかを告げているわけです。神様、私は道徳的にも宗教的にも正しく生きています。
神様に自らを自慢しているような祈りであることはどの注解書にも記されているわけです。けれど、当時の習慣からすれば、驚くべき祈りではなかったようです。ですからイエス様のたとえを聞いていた人たちは、ファリサイ派の祈りにびっくりして、酷い祈りだと思ったわけではないと思われます。
むしろ驚いたのはそれからの話です。一人の徴税人は遠くに立っていました。どこから遠くなのか、ファリサイ派から遠くだったのでしょうか。神殿から遠かったでしょうか。神様のおられる場所から遠いという意味かもしれません。
「目を天に挙げようともせず、胸を打ちながら」。当時の祈りの姿勢は、手と目を天に挙げて祈る、そのような姿勢が求められていたようです。徴税人の姿勢からして祈りの姿ではありません。目を伏せて、胸を打ちながら、これは、自らの罪を感じながら、という事です。そしてこう祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。これだけです。祈る姿勢としても、祈る言葉としても整えられているわけでもなく、聞いている者の心を動かすこともありません。
けれど、主イエスは「言っておくが、義とされた家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と話されました。
このたとえを聞いた人々は驚いたと思います。日頃自分達が考えている思い、聞いている教えと逆の話をされたからです。けれど、そこにこそ主イエスが人々に伝えたい思いがあったことは間違いありません。
一つは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」話されたということです。このような人の特徴は、自分と人を比較する。わたしはこのような者ではありませんと主張する。それは他人の罪は良く見えるけれど、自分については見えていないということでしょう。ある牧師は「独りごとのような祈り」という表現を用いていました。
むしろ、義とされたのは徴税人の祈りでした。徴税人は「罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。自分自身の内に罪を見いだし、人の前に神の前にも誇れるものは何もないと知っていたと思います。
この聖書箇所を何度も読み、また、良く知っている話、これまで何度も読んでいる話、として読んでいる方も多いことでしょう。でも私は改めて思いました。私たちは本当によく知っているのだろうか。主イエスが教える祈りの姿勢、祈りとはどういうことかを理解しているのだろうかと改めて感じました。
教会という場所には、色々な方がやって来ます。これまでそれほど多い経験でもありませんが、刑務所から出て来たばかりの方がやって来たことがありました。その方は、最初、酔っぱらっていたと思いますが、その後も数回話にやって来て、礼拝にも二度程出席されました。でも、それ以降はどうなっているのかわかりません。ある時は、明らかに夜の商売をしている一人の女性がやってきたことがありました。私と話をした後、これから礼拝に来ますと言って帰って行きましたが、その後、教会に来ることはありませんでした。他にも様々な方々がやって来られます。
私は今日の話を準備しながらそんな方々を思い出していました。きっと世の中において神様からもっとも遠いと考えられる一人一人に対して、私自身がどこまで受け入れようとする思いがあるのだろうか、刑務所から出て来たばかりの堅気ではない男性、夜の商売の女性、徴税人と似ていると思います。
何が似ているのかというと、魂の渇望です。普段なら、全くと言っても良い程に教会に来て祈ろうなどと思わないでしょう。でも、人は魂が渇き、神を求め、御霊の潤いを求める時があるのだと思います。
奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者の一人ひとりでさえ、時には霊的渇望を感じる時がやって来るように思う。自分は自分に対しても、神様に対しても何も誇るものが無いと思う時があると思います。私たちはそのような人たちに比べるとしたら、かなり神様に近いのでしょうか。
主イエスは「だれでも高ぶる者は、低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられました。周りで聞いていた人々は本当に驚いたと思います。私たちは、御言葉を読みながらも、彼らほどは驚いていないかもしれません。
聖書を読むとは、きっと驚くことです。徴税人が神の前に頭を垂れて、私を憐れんでくださいと祈る祈りを義としてくださる方の業を前にして、私たちは驚き、驚くばかりでなく、神の愛の深さに感動さえ与えられるのではないかと思う。そのような方が、自分の人生と深く関わりを持って下さろうとして、私たちの世に誕生された神の業を改めて受け入れる、それが今、この時なのだと思います。
私たちは、時にはファリサイ派の人のように生き、時には徴税人のように生きるのだと思います。けれどどんな時も、私たちを神の子として選び、全てを赦し、罪無しとして下さるために、主イエスは働かれ十字架につけられました。
私たちの救いはここあります。既に神の前にいることを赦されているのです。だから、私たちが祈る時には、神よ、憐れんでくださいと祈らなくて良い。
既に神の憐れみの内に招かれています。だから、神よ、あなたを信じますと祈り続けるのです。祈り続けて生きていきましょう。 お祈りします。