日本キリスト教団 大塚平安教会  

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2018-05-06 14:13:34 | 礼拝説教
【イザヤ書40章27~31節】【エフェソの信徒への手紙1章1~7節】

 過ぐる4月22日の礼拝後に2018年度の教会総会が行われました。2017年度の締めくくりとして、また2018年度の新たな歩みの節目として良い時が与えられました。2018年度の大塚平安教会の主題聖句をエフェソの信徒への5章1節から取りまして「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」といたしました。

 私たちの大塚平安教会は、「神に倣う者として」生きていこう、それが2018年度の合言葉のようになれば良いのではないかと思っています。神に倣う者とはどういう生き方なのか、具体的には続く5章の2節を読みますとこうあります。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

 キリストに倣う者の特徴の一つは「愛によって歩む人」であるということではないでしょうか。

 マタイ福音書の7章7節には「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」とあります。主イエスの教えです。愛によって歩む人とは、そのようにして、その与えられた状況の中に飲み込まれていくのではなく、与えられた状況の中にあってもなお、求め続ける人、探し続ける人、そして門をたたき続ける人として生きていく、主イエスもまた、そのようにしてご自身の地上での歩みを諦めることなく、十字架の死に至るまで、父なる神に従順であり、また、そのような状況で自らを殺そうとする者までをも含めて神に赦しを願った姿を思います。諦めないで祈り続けること。そこに愛がある。そういう歩みを主なる神は、私たちの教会にも求めておられるのだとも思います。

 しかしまた一方では、私たちが生きていく中で、求め続け、探し続け、門をたたき続ける、このようにして生きていくには中々骨が折れるわけで、疲れるなぁと思わないでもない。出来る人には出来るだろうけれど、とても、私には難しいと思われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 先日の夕方、娘がツタヤに行きたいというので、一緒に行きました。娘が映画を選んでいる間、私は本を立ち読みしておりました。今、ツタヤで六番目に売れているという本を読んでいたのですが、タイトルが「禅僧が教える 心がラクになる生き方」南直哉というお坊さんが記した本でした。これがなかなか、面白いのです。いきなり「自分を大切にすることをやめよう」とありました。

それで立ち読みしながら、少し癪な思いもありましたが、(笑)思わず購入しました。中身をご紹介しますと、例えばこう記されていました。

「人の存在は、誰もが生まれた瞬間に「他人に着せられた服」をそのまま着続けているようなものです。生まれる日も、場所も、性別も、体の特徴も、自分で選んだわけではありません。名前も、親に決められました。その親すら、たまたま「親」になっただけです。そもそも、自分から「この世に生まれたい」と希望して生まれてきたわけでもありません。
もし仮に、自分で望んで生まれたのであれば、生まれる日も、場所も、親も、自分で思い通りに決められて「望んだとおりの自分」になっているはずです。でも、「私は、何もかも望みどおりの自分だ」と言える人がいるでしょうか。
人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。」
とありました。

 なるほどと思います。私も同じような思いを持っておりましたから、納得しながら読み進めたわけですが、人はこの世に「たまたま」生まれたのだから、どう生きるのかというと、あなたは頑張らなくても良いし、生きる意味をみいだそうとしなくても良いし、なりたい自分になれなくても良いし、置かれた場所で咲かなくても良いし、人生は嫌なことも多いので、ネガティブで当たり前だと続くのです。ですから、良く読んでいきますと、そんなに無理して生きなくて良いし、力を入れて生きなくても良い、つまり、自分を大切にしよう、大切にしようと頑張れば頑張るほど、疲れるから、そういう意味で自分を守るな、つまり自分を大切にしなくてよい、となるわけです。

 自分を大切にするとは、人と人との関係の中で、良いこと、悪いこと、気に入らないこと多く、様々な出来事が起こりますが、必死に自分のプライドを守ろうとしたり、優越性を守ろうとしたり、劣等感を感じないようにしようと努力しますので疲れるのだと思います。ですから、そんなに努力しない、頑張らなくても良い、なりたい自分になれなくてもよい、自分を大切にしなくて良いのだと続きます。  

 人は、案外多くの方が、今のままの自分では嫌だなと思っています。現代の多くの若者や、悩みを抱えている人の特徴は自分で自分を嫌いだと思っているところにあります。昨日、さがみ野駅に向かって歩いていましたら、二十歳過ぎ位のヘッドホーンを付けた青年が、音楽か何か聞きながら私の横を早足で歩いて行って、その前を歩いていたご婦人に「ババア、邪魔だ」と言って速足で去っていきました。私はすごく驚きました。これから何か起こるのかと身構えましたけれど、何事も起こらずホッとしましたが、きっとこの青年はどこかで病んでいると思いました。自分で自分が嫌だなと思っている一人ではないかとも思います。

 著者のお坊さんは、そのような自分の頑張りでは、頑張りきれない、なりたい自分になりきれない、そんな自分が嫌だなと思うよりは、たまたま「生まれてきた」自分だから、そんなに無理しなくていいよ、夢も希望も持たなくても大丈夫と、徹底的に、頑張るなと記すのです。頑張って、頑張って、なんとかしようと生きている人々にとっては、確かに読めば心が楽になるだろう、それだけの説得力もある文章だと思いながら読みました。

 私自身の経験からしても、十代後半から二十代前半にかけて、私なりの当時としては相当深い悩みを抱えながら、同時に自分が自分を嫌いで、将来も見えず、夢も希望も無く、刹那的に、その時その時を生きていた時代に、共感してもらえている、そのままの思いを受け止めてくれると思う小説や音楽にどれほど自分が支えられたかと思います。幾度も幾度も本を読み、また何度も繰り返し音楽を聴いては、気持ちが治まる思いがしたことを思い出しました。

 けれど正直にいうと、どんな言葉も、音楽も、しっかりと受け止めてくれはするのですが、それだけなのです。確かに一時的に気持ちは癒されます。けれどそこから新たな力が起こってくるわけではなく、生きるエネルギーの源には結局なりませんでした。
 自分だって生まれたくて生まれて来たんじゃない、たまたま「生まれてきた」のさと思って開き直りながら、求めても、探しても、門を叩いても、続かないのです。むしろ疲れるのです。先に繋がる力がどこからも与えられないからです。

 私にとって、決定的であったのは、やはり「聖書」でした。聖書はなぜ人は生きているのかを明確にはっきりと示します。なぜ人は生きるのか。ローマ書14章に7節に「わたしたちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」とありますように、私たちの人生はたまたま与えられたのではなく、主なる神が、あなたは生きろと命を与え、生きる意味は「このわたしのため」なのだと説明しているのです。私たちはだれ一人として、たまたま生まれてきたのではありません。

 主なる神が私たちに命を与え、命を支え、命の主として、しかも共にいて下さる。そういう意味においても、エフェソの信徒への手紙の1章4節、5節の御言葉は深いと思います。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

 私たちの命は、私たちが生きているのは、神の選びの中にある。神の選びとは神の愛の印です。それは、頑張らなくて良いというよりは、あなたが頑張っていても、頑張れないとしても、生きる意味を見出しても、見出していないとしても、どんな状態でも、無条件、無尽蔵に神はあなたを愛している、ということなのです。私はここにこそ神の救いがあると本当に思います。自分が自分を嫌いでも、それでも神は私を愛すると言って下さる。あなたの存在がそのまま愛の対象である。

 私たちに命を与えたもう方が私たちを愛する、しかも、神が自分の命さえ惜しくないと思えるほどの愛をもって、あなたを選び、あなたの存在が愛おしいと、接して下さるので、その愛によって、私たちは、求め続け、探し続け、門を叩き続ける力が与えられるのではないでしょうか。そこには、諦めるのでもなく、悟るのでもなく、刹那的に生きるのでもなく、神の愛があるのです。私たちは神に愛されている子供です。

 私達が新しくされる。特に今日は、これから新しい役員をはじめとする、奏楽者、また、子供の教会の担当者の皆さんの任職式があります。任職される方々もまた、自分で、自分でというよりはまさに神の選びの中で立てられたお一人お一人であります。それ故に、その役割は自分が頑張って行うものではないとも思います。神の愛の中に導かれ、愛の中に包まれてこそ、行える業ではないでしょうか。

 旧約聖書イザヤ書40章には「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と記しています。そのような望みをしっかりと置いて、私たちは共々に歩んで参りたいと思います。

 本日のエフェソの信徒への手紙の聖書個所をもう一度読みましょう。3節、4節にはこのように書かれてあります。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
 
 この聖句は、神は転地創造以前から、私達を愛し、私達を聖なる者とし、私達を汚れのない者にしようとしてキリストにおいて、私達を選ばれたと説明するのです。決してたまたまではなく、私達が生まれる前から、いや、私達の両親が、おばあちゃん、おじいちゃんが生まれる前から、私達の祖先が誕生する以前に、すでに、神は天地創造の前から私達を選んでいると言うのです。

 私達がなんとか自分でクリスチャンとして聖なるものになろう、汚れの無いものになりたいと思いつつ働く、勿論、それはとても大切な事です。けれど、人の業ですから、どうしても限界があります。もとより私達人間は限りがあるのです。
自分達の力だけでは、どうしても聖なる者となりきれません。しかし、その限りある私達を、限りのない神がすでに、捕らえて下さっておられるのです。

 今日は、沢山の聖書箇所を申しましたが、もう一箇所だけ聖書を読ませていただきます。ヨハネによる福音書15章16節、そこを読んでみますと主イエスが直接弟子たちに語りかけている御言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
 私達が神を選んだのではないのです。神が私達を選んで下さった。これ以上の幸いはありません。感謝して新しい1週間を過ごして参りたいと思います。 お祈りいたしましょう。
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