日本キリスト教団 大塚平安教会 

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わたしたちの間に宿られた方

2022-05-08 14:29:54 | 礼拝説教
【出エジプト記25章1~9節】
【ヨハネによる福音書1章14~18節】

 本日は、ヨハネによる福音書から1章14~18節を読んで頂きました。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。

 ヨハネによる福音書は、マタイ、ルカといった福音書とは違い、御子イエスの誕生の物語が具体的に記されているわけではありません。
処女マリアも、羊飼いも、博士達も登場しません。けれど、むしろそれらの御子の誕生にまつわる物語以上に、私たちの信仰生活にとって大切な言葉を慎重に選ぶようにして、「言は肉となって」というわずかな表現の仕方で、神の子イエスがこの世に誕生されたと示しています。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4節に「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれたものとしてお遣わしになりました。」と記されています。ガラテヤ書は使徒パウロが紀元50年代の初期に記した手紙と考えられていますが、既にその頃には、神の独り子としての御子イエスがこの世に誕生されたという教え、「受肉」という言葉を用いますが、受肉された神という教理が確立されていたと思われます。
ヨハネによる福音書の特徴は、パウロが記したガラテヤ書から更に50年近く過ぎて記されましたが「言葉は肉となって」、つまり「言が人となった」と言い換えた所に大きな特徴がある、とある神学者は説明いたしました。

 ある時、祈祷会に集われた方が祈りの中で「神様、人が神様となるのでなく、神様が人となられた事に感謝します」という祈りを捧げられた事を覚えております。人が神となるという考え方は、私たちの国の歴史観や宗教観からすれば、受け入れやすいかもしれません。人が亡くなればその人は仏となって、更に、いつの日か、仏が守り神のようになって存在する、このような風習は、多くの人々に受け入れられ、又、受け継がれているとも言えるでありましょう。
 けれど、キリスト教の教えは人が神となるという教えはありません。(人が神のようになる所に恐ろしさがある。)

 私たちには神ではなく、私たちを造られ、私たちに命を与えてくださった方がおられるのです。この方の側にいて、この方の栄光、輝きを受け続けてる必要があるのです。けれど、神から離れ、神と分断しようとする悪の力も働きます。そこに人の罪が明らかにされていくのでありましょう。そのような罪に生きてしまっていた私たち人間の歴史に、ロゴス、言が、つまり神様自らが人の形をとられイエス・キリストという方が誕生された。それはなぜか、徹底的に人を愛されたからです。私たち人間は、「肉体」を持っているという点において、実に様々な、又、具体的な誘惑と限界とを合わせ持っています。

 誘惑というとマイナスイメージですが、プラスイメージで言えば、肉体を持っているということは自分の人生に多くの可能性や希望とが与えられていると言えるでしょう。けれど肉体は同時に、「病気」、「障害」、「死」というような限界をも合わせ持っています。そのような肉体的な限界の中に、神は同じ状況を体験され、同じ苦しみを味わう為に、完全に私たちの思いに寄り添って下さろうとして、神が神のままでいることを良しとされず、人の形を取り、謙り、謙遜になって神の愛を示して下さった。それが「言が肉となった」ということでしょう。

 更に、「言が肉となった」ばかりではなく、大切な事はその言が「私たちの間に宿られた。」という事です。

 「宿られた」という言葉の語源は、天幕を張って住むという意味を持っているそうです。天幕とは主なる神がおられる場所です。出エジプト記において、指導者モーセがシナイ山で主なる神から律法を教えられ、イスラエルの民は律法を守りつつ荒野の旅をしました。旅から旅ですから神殿ではなく、主なる神がおられる天幕を張り、天幕の中に聖所を造り、聖所の奥には至聖所を作り、神を崇め、犠牲の献げ物を献げて旅をしました。その後時代は移って、ダビデ、ソロモンの時代に神殿が建てられ、更にバビロン捕囚が終わり、帰還した民によって二度目の神殿が建てられ、更に御子イエスが誕生した時には、三度目の神殿が建てられていました。しかし、その神殿もまた、紀元70年に起こった戦争によって、ローマ軍に破壊され、ヨハネによる福音書が世に出された時代には信仰の拠り所としての神殿は存在していませんでした。けれど、だからこそヨハネはここで深い思いを込めて語ったのではないでしょうか、

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。言は人の姿を取られて、そして私たち一人一人の間に、私たち一人一人の心の中に、天幕を張り、そこに住んで下さった。その言は人となられた神、主イエス・キリストです。主なる神が、その独り子をお与えになった。それほどに世を愛され、その証しとしての御子イエスが誕生されました。その誕生の出来事は、私たちを決して忘れない、決して見捨てるような事をされないという印なのです。

 人の愛を遥かに越える神の愛、私たちも日常生活の中で、多くの人を愛します。家族を愛し、友を愛し、隣人を愛し、子どもを愛し、夫を、妻を愛し、愛の中で暮らしているのです。素晴らしいことです。けれど、人が示すところの愛は、どこかで条件が付くもので、又、これほど愛したのだからと、見かえりを求めてしまうと所がありますけれど、神の愛は見かえりを求めない、徹底的な、又、無条件で、更に「私たちの間に宿られた」ということは、私たちの間に天幕を張ってお住まいになっておられるということは、私たちの隅から隅まで、私たちが自分自身でさえも、自分の事がわからないと思ってしまう、その気持ちまでも知っておられるという事なのです。

 神の愛は私たち一人一人を知っておられ、決して忘れません。今から15年程前45歳頃の時、教会の集会があって、殆ど毎日のようにお会いしているような方が近くにおられましたのですが、突然、名前がどうしても出て来なくなったことがありました。どうしてこの方の名前が出て来ないのか、自分でも驚きまして、何かの病気が始まったのかと思いました。思い出そうと思っても、全然出て来ない、でもそのことを悟られないようにと顔は笑顔で対応していましたが、もう内心、どうして名前が出て来ない。名前は出ないで、冷や汗が出てくる。もう私の経験の中でも始めての出来事で、そのことは決して忘れないのです。今となっては、そういうことは何度もありますから、あまり驚かないようにしようと考えていますが、

 名前が出て来ないというのは、本当に恐ろしいものだという経験を致しましたが、年を取りますと、話しがですね、「ほらあれよ、あれ」「ああそうそう、あれのことね」というような会話が増えて、「あれがあれして、こうなった」で話が通じる事もあるわけですが、それが又、限りある人の姿を現していると言えるかもしれません。
けれど、神様の愛はあなたを決して忘れないというのです。神が私たちの間に宿られたということは、私たちを愛するということは、私たちを完全に知っているということなのです。
先日、2022年度、これから暫くは結婚式ブームになるかもしれないという話を聞きました。アメリカでは実際にこれまで二年間コロナ禍によって式を挙げていなかった方々も多く、これからそういった方々も含めて式場も取れないし、料金も上がっているそうです。
もし、あなたが結婚されるとする。いや~、おめでとうございます。それでお相手のお名前は、「どんな名前かな?」「お仕事は何をされて?」「何の仕事かな?」「そうですか、どちらの出身の方ですか?」「どこで生まれたのかな?」「男ですか、女ですか」「いや~どっちだろう」ねえ、滅茶苦茶な話しですけれど、こんなことは無いわけで、要するに、愛しているということは、その人の名前も、仕事も、性格も、その人の事をよ~く、知っているということなのです。
野球の好きな方もおられるでしょうが、ひいきの球団もあると思いますけれども、そういう方はねその球団に所属している選手については良く知っているものです。愛するということは知っているという事なのです。

 神様は、誰が誰を知らないとしても、全ての方々、皆さんの隅から隅までご存知です。神はこの自分と共に喜ぶために、共に悲しむ為に、共に苦しむために私たちをよくご存知なのです。
言葉が肉となり、私たちの間に宿られた方は、私たちを主なる神にしっかりと執り成して下さるために誕生されました。私たち一人一人の思いをしっかりと受け止めくださり、愛して止まない方として、言が肉となり、そして私たちの間に宿られました。

 人と話をする時に、しっかりと受けとめるという事について、新たにされた思いがしています。それは、しっかり聞き取るということは、途中で話をさえぎらない、むしろこちら側は殆ど話さなくて良いのだということでありました。
頭では分かっていても、中々難しいのですが、でもそれが感覚的に少しだけ理解出来たような気がしております。ただずっと聞き続ける、それだけで十分かもしれないと思っております。
心の隅々まで人となられた神が、私たちの間に宿られた方がしっかりと聞いてくださっている。そう思えることは私たちにとって真に幸いなことであろうと思います。主我と共におられる信仰を持って新しい一週間も過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。