日本キリスト教団 大塚平安教会 

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「神の子となる資格」

2022-05-01 15:01:40 | クリスマス
【創世記15章1~6節】  
【ヨハネによる福音書1章6~13節】

 今日はヨハネによる福音書1章6節から13節までを読んでいただきました。12節にこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」そこから「神の子となる資格」とタイトルを付けました。
 資格(エクソーシア)という言葉は、ギリシャ語から日本語に訳するのが難しい言葉のようで、新改訳聖書では「神の子となる特権」と訳されていますし、口語訳聖書では「神の子となる力」と訳されています。どの訳が良いのかよく分かりません。と言うより、ある説明には、神の子となる資格であり、特権であり、力である、と考えれば良いとありました。
 
 中川健一という牧師がおられます。中川先生は私が以前に奉仕していた町田の教会から100mほどしか離れていない「町田クリスチャンセンター」という名称の教会の牧師をしておられた先生で、1980年代からテレビ伝道に力を入れていた先生のようです。日本のテレビ伝道の先駆者と言えるかもしれません。ここ数年はネットのユーチューブを中心に聖書の話をしておられるようです。

 最近時々見て、学んでいるのですが、この聖書箇所で中川先生は、神の子となる「力」が良いのではないかと話していました。
 どうしてかというと、言語的な問題から考えたのではなくて、ヨハネによる福音書を記したヨハネはもともと漁師であった。ガリラヤ湖で網を打って生計を建てていた。そこに主イエスがやって来られて、私について来なさいと言われて従ったヨハネでしたが、魚を獲る時のことを考えてみたというのです。
 
 世の中には釣りを趣味としている人は大勢います。なぜ釣りが人気かというと、「手ごたえ」のようです。釣り針に魚がかかった手ごたえ、これは経験したことが無い人には分からないかもしれません。と言っても私も釣りは趣味でもなく、そういう経験は僅かしかありません。でも魚がかかったとなると、釣り竿が急に重くなって、グイグイと引っ張られます。思った以上の強い力です。釣り竿がしなり、割と小さい魚でも十分な手ごたえがあって、釣り上げるまでは魚との勝負になるわけです。
 
 ヨハネは釣りというより網だったと思いますが、魚が入っている網を船にあげるまでにはどれほどの力が必要であったかと言うのです。そこには命と命の戦いがあったであろう、人が主イエスをメシアと受け入れ、主イエスを信じるに至るまでには、主なる神と自分との、あたかも命と命がグイグイ引っ張り合うような、そのような神の力が働いたのではないかというのです。私はその説明を聞いてその通りだと思いました。

 私たちの国では、日曜日のこの時間、教会の礼拝に向かう人々の数は多くありません。全体から見たら僅かしかおられません。なぜ僅かなのかと問うよりも、なぜ、僅かでも教会に向かう方がいるのかと考えると、教会に向かう一人一人の人生のいつかの時に、主なる神と自分の命がグイグイと引っ張り合うような経験があって、そしてグイっと神様の方向に引き上げられた。引き上げられてみると、なんとそこに自分が願っていた、求めていた以上の「まことの光」、神の栄光を見る、感じることが出来た、そのような経験を味わった者こそが、教会へ、この礼拝へと導かれているのだと思います。
 
 今、「まことの光」と申しましたが、9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」とあります。日本人は宗教というものに距離を置いたり、関わりを持たなかったり、関心が無いという方々が多いと言われます。様々な理由によってそうなのだと思いますが、世の中には、まことの光でない、光もどきといいますか、偽物の光があまりにも多いからではないでしょうか。時として私たちは本物より偽物に安心するところがあります。
 
 私の好きな映画に「プロヴァンスの贈り物」(2007年)という映画があります。ビデオで10回も20回も見ているかもしれません。主人公の男性はイギリス、ロンドンの大きな会社で株のトレーダーをしているのですが、あるきっかけがあって、自分が生まれ育ったフランスのプロヴァンスの田舎町で幼馴染の女性が彼女となって付き合うことになるのです。時々休暇を取り、結婚は望むけれどイギリスにはいかないという彼女と過ごしているうちに、会社の社長がしびれを切らして、イギリスに呼び戻され、社長室で相談を持ち掛けられます。それは会社の共同経営者となって一緒にやるか、会社を辞めるかどちらかを選んでくれというのです。
 主人公は悩みます。会社の共同経営者となれば、社会的なステータス、多くの資産、人生の成功者という立場を得ることが出来ます。悩みながら社長室を見渡すと、ゴッホの絵が飾ってあるのに気が付くのです。「社長、このゴッホの絵は高いのではないですか。」「そうだ、何億もした。私の宝物だ。」「宝物ですか」「そうだ、だけど本物は金庫にしまってあって、これは偽物だよ」と社長は笑って答えたのです。
 その答えを聞いた主人公は決心したようにこう語りかけました。「社長、偽物を見ているのですか、なら本物はいつ見るのはいつですか、なぜ本物を見ようとしないのですか」そして会社を辞めて、全てを捨てて偽物ではなく、フランスの田舎で待つ彼女への愛を選んだという映画です。観終わるとつくづく本物は良いと思います。
「まことの光」としてこの世に来られた主イエスです。それはすべての人を照らすまことの光です。真実の光です。ここで「まこと」と訳されている言葉の元々の意味は、信用出来る、信頼できる、生涯をかけても悔いはないという意味だと言われます。だから「まことの光」なのです。その光はすべての人を照らす光です。子どもも、大人も、女も男も、人種、民族を越えて、国や地域を越えて、思想、信条を越えて、全ての人を照らすまことの光がこの世に来られた。一人ひとりの心をグイグイと引っ張り上げ、命をその人生を神の光で照らし、導こうとされる主なる神の御計画によって、主イエス・キリストはこの世に誕生されました。

 けれど、聖書は「世は言を認めず」「民は受け入れなかった」とも記します。皆様がご存知の通り、主イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑となり、そして死なれました。自分の心が持っていかれる、本物の力によって持っていかれそうになることが困ると思う人々が大勢いました。自分が自分ではなくなると困るのです。偽物に慣れてしまっているような人であろうと思います。だから、主は十字架につけられ、死に葬られました。人々はこれですべてが終わったと思ったことでしょう。

 けれど、主なる神は、そこから更にまことの光、主イエスを三日の後の日曜日の朝早くに復活させてくださいました。復活された主イエスは弟子たちのところへ現れ、弟子のトマスのところへ現れました。主イエスを見たトマスは主を見つめつつ、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白した場面を私たちは先週の礼拝で読んだわけでありました。トマスもまた主の名を信じる者の一人となり、神の子となる資格が与えられた一人となった場面でありました。

 私たちが生きている世、この世界は「まことの光」に照らされる時、様々な罪が明らかにされるようです。13節には、その罪が三つ記されます。一つは「血によって」とあります。血によるとは自分の先祖、両親の血によってということです。ユダヤ人は特に特に血筋、家柄を大切にしていたと言われます。自分がどこの出であるのか、どの家系であるのかが重要であったようです。日本人の私たちも、現代であってもそういう考え方があるのではないでしょうか。

 二つ目に「肉の欲によって」とあります。肉の欲、それは目に見える世界ということでしょう。私たちは無いよりもあった方が良い、不便よりも便利な方が良いと考え、目に見える物を求めて生きているようなものです。テレビ、マスコミ、雑誌は購買意欲を掻き立て、人を限りない欲望の世界へ、貪欲の罠へと誘い込もうとしているかのようでもあります。
 三つ目は「人の欲によって」とあります。人の欲とは、様々な社会的ステータスを意味しているかもしれません。
「血」も「肉の欲」も「人の欲」もその特徴は、人が人の手によって、手に入れられると思うものかもしれません。「まことの光」の輝きは、は人の罪を浮き彫りにする力があるのです。

 しかし、「まことの光」はその光を受け入れた者にとって、その名を信じる者にとって神の子となる資格を与えてくださいました。

 先ほど創世記の15章を読んでいただきました。まだ子どもを授からず、途方に暮れるような思いで過ごしていたアブラハムに主なる神が声をかけられた場面であります。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラハムはこの時既に多くの財産を得ていたと思われますが、でも、子どもを授かってはいませんでした。命の誕生は神の領域だからです。しかし、既に年老いていたアブラハムを外に連れ出し「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい」そして言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた。と記されています。アブラハムの信仰は肉の欲によってではなく、ただ神によって与えられた信仰でありました。

 信仰とは、まだ見えないけれど、神のまこと光に照らされて、見えない将来を既に見る、希望を持ち続けて生きていこうとする思いです。暗闇であり、悲惨な状況だと思うこの世にあって、しかし、まことの光が輝くとき、そこにまだ希望があり、命が躍動する世界があると信じて生きることです。そのような物こそが、神の子となる資格が与えられるのでありましょう。そのまことの光の中に、教会の歩みもあるのだと私は信じています。

 お祈りいたしましょう。