日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の正しさを知る時にこそ

2021-10-17 15:45:59 | 礼拝説教
【詩編129編1~8節】
【ルカによる福音書18章9~14節】

 本日は詩編129編を読みました。1節、2節に同じ御言葉が繰り返されます。「イスラエルは言うがよい。わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが、 わたしが若い時から 彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった」
 この御言葉をどう読むのかが一つのポイントですが、「わたし」はイスラエルの国といいますかイスラエルの民、彼らとは一言でいえばイスラエルの周りの異民族と考えられます。
 
 今、毎週水曜日の祈祷会では旧約聖書の出エジプト記を読んでいますけれど、イスラエルの異民族として、代表的な民族はエジプトです。

 創世記のヨセフ物語り以降、イスラエルの民は400年に亘りエジプトに住みました。大臣ヨセフがいた頃は、丁寧な扱いを受けていましたが、時代が進み、イスラエル人が増えて、エジプトはイスラエル人を厭うようになり、ついにイスラエルは奴隷とされ強制労働が強いられることになります。

 労働のゆえに助けを求めた叫びが主なる神に届き、出エジプトの出来事となります。

 それから40年、荒野の旅を経て、主なる神がアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地、カナンの土地に到着します。しかし、その土地には既に多くの異民族が住んでいるわけで、主なる神はモーセに「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と密の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」と告げましたが、カナンの土地に進み入るためには、多くの異民族との争いは避けられませんでした。
 
 しかし、それだけでなく、その後も混乱が続き、士師記という箇所では、士師ギデオンとミディアン人との戦いが記され、力持ちのサムソンはペリシテ人と戦い、少年ダビデが戦った3mもあったと言われるゴリアトもペリシテの戦士でした。
 その後、ダビデが王となり、息子ソロモンが後を継いだ頃、イスラエルが最も繁栄をきわめたわけですけど、その繁栄も長くは続かず、ソロモンの後の後継者争いによって、イスラエルは北と南の二つに別れ、北イスラエルは、その後メソポタミアから出たアッシリアとの戦いに敗れ、更に南ユダも更にその後、強国バビロンに滅ぼされ、捕囚の民となるわけです。
 
 更に50年後、ペルシャがバビロンを破り、捕囚の民は、イスラエルに戻り神殿を建て、イスラエルは復興していきますけれど、ペルシャの次にはアテネを中心としたギリシャが台頭してきて、大きな争いが起こり、ギリシャが世界を支配し、アレキサンダー大王と呼ばれる王が出た時には、ペルシャを破り、エジプトを支配し、当時の西欧世界の殆どを支配するのです。

 しかし、その次にはローマが現れてくるといった、高校の世界史のような話となりましたが、つまりは、イスラエルはほぼ全ての時代にあって、詩編129編の「彼ら」異民族との争いが続き、多くの時代は異民族に支配され、「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続け」とありますようにイスラエルは「苦しみ」続けたのです。そのような歴史をイスラエルは生きて来ました。

 3節に「耕す者はわたしの背を耕し 畝を長く作った」とありますが、聖書の他の箇所にはない独特な表現だと言われます。旧約聖書学者の権威ある先生によれば「敵による強奪・蹂躙を意味する」と記されていました。
イスラエルを囲む異民族の強奪、蹂躙によって、幾度も血を流し、土地を追われ、時には捕囚の民とされた苦しい歴史を生きて来ました。

 でも、詩編は何を伝えたのかというと、2節にある御言葉です。「彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった」これが詩編の作者の伝えたいところでありましょう。

 続く4節に「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。」と記されてありますように、天地創造の主であり、私達の命の主である方、主なる神の正しさによって、どのような力、どのような支配、どのような束縛でさえ、その縄目から断ち切って下さる方がおられる。我らはこの方にこそ、従って生きていこう。そう告げるのが詩編129編です。

 この詩編は都に上る歌、巡礼の歌の一つとされているわけですが、エルサレムの神殿に向かう巡礼の人々が、この詩編を口ずさみながら、礼拝で唱えながら、「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる」と共に唱和しながら、歩む様子を思い浮かべる事が出来るでありましょう。

 このような歴史を歩みつつも尚、詩編の作者が私達に伝えようとしていること。それは主の正しさです。「主は正しい」この御言葉をですね、私たちはしっかりと受け止めたいと思うのです。

 私は明日の月曜日、町田市にある「保育園」で礼拝を頼まれています この保育園は、キリスト教の教えを大切にしながら歩み続けている保育園で、私が町田の教会におりました時から20年近くの関わりを持っているのですが、コロナ禍により、ここ数ヶ月は伺うことも適いませんでした。

 先日、久しぶりに電話がありまして、お出でくださいと連絡がありまして、伺うことにしました。聖書箇所はどこですかと聞きましたら、ダニエル書をお願いしますというのです。ダニエルがライオンの洞穴に入れられても、噛み殺されずに生きて出て来たところをお願いしますと言われました。4歳、5歳の子ども達にダニエルについて話すのは中々、勇気と根気が要りますが、それでも子どもたちは熱心に聞いてくれますので、ありがたいと思っています。

 ダニエルは、バビロン捕囚の時代に生きた人です。10歳の時に、国がバビロンに負けて、捕虜として連れていかれますが、能力が高いことを認められ、後には何十年にも亘り、バビロンで大臣にまでなった人です。けれど、それだけに周りからは妬まれ、嫉妬されて、妬んだ人々によってダニエルを陥れる策略が練られます。バビロンの王は神と等しいから、王様以外のものを拝み、礼拝してはならないそういう勅令が出されるのです。

 ダニエルは10歳でバビロンに連れて来られてから、何十年間、一日も欠かさず行っていたことがありました。それは家の窓を開けて、エルサレムの方向を向いて、朝に、昼に、夕に、一日三回、神に祈りをささげることでありました。それだけは一度も欠かしませんでした。王様以外のものを拝み、礼拝してはならない、ダニエルは大臣ですから、そのことを知っていました。

 でも、主なる神に対する祈りを止めることはありませんでした。しかし、その様子を見て、直ぐに王にその様子が知らされ、罰としてライオンの洞穴行きが決定されるのです。ダニエルを信頼する王のほうが、謀られたことを知り、しまったと思うのですが、時既に遅く、ダニエルはライオンの洞穴です。けれど、一晩たち、食事もしないで王はダニエルの様子を見にいくのですが、ダニエルは傷一つなく洞穴から出てきて、逆に策略を仕組んだ人々が捕まり、ライオンにかみ殺される結果となるのです。

 皆さん、どんな状況にあっても、ダニエルはエルサレムの方向を向き、神に祈り、神を信頼し、神によって生かされる喜びを生きました。戦争に負けても、家族と離れたバビロンにあっても、出世しても、大臣になっても、妬まれても、策略に会っても、それは変わることがありませんでした。なぜか、ダニエルは主なる神こそ、正しい方だと信じて疑わなかったからだと思います。主なる神以外のどんな束縛にも束縛されることなく、しかも、王からも多くの人々からも信頼され、でも、状況によらず神を礼拝していました。

 そのような神に対する信仰、神に対する深い信頼、イスラエルの人々は、そのような主に信頼する人々の生き方によって、歴史の中にあっては、真に翻弄されながらも、しかし、主なる神こそ私達の導きて、主は正しいと、信じて生きて来たのです。

 先ほど、ルカによる福音書から読みました。主イエスが話してくださった「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえです。二人が神殿に上った。一人はファリサイ派の人、一人は徴税人です。ファリサイ派の人が祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。また、週に二度の断食、収入の十分の一を献げています。」と心の中で祈りました。徴税人は遠くに立ち、目を上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、徴税人のほうだ」と話されました。

 その理由は難しいわけではありません。人は神の御前にあって、どれほど罪深く、神に対して、「どうぞわたしを憐れんで下さい」と祈るしかない、そのような存在です。神の前に神ではなく、自分が正しくなる時、神ではなく自分を称賛しているようなものです。

 徴税人は、自分がいかに罪深い者であるかを仕事柄からして、良く知っていたことでしょう。けれど、もっとよく知っていたのは、神は正しい方である、という一点ではないでしょうか。ダニエルにしても同じだったと思います。神は正しいかたである。この信仰と信頼に生きることだと思います。

 私達が生きる時に、神様、なぜですかと叫びたくなる場面がいくらでもあります。思いがけない病気、怪我、事故、不幸と思われる出来事は数限りなくあります。そして、その都度に、多くの人々は、神様なんてと思うのです。神様がいるのだったらこんなことは起こらないはずだと思い、神様なんて当てにならないと思うのです。

 いや、そんなことはない、主なる神はおられ、私達を必ず守ってくださっていると信じる私たちも、いつのまにか神の前に自分の正しさを示したくなる、そのような誘惑に惑わされることもしばしばかもしれません。

 けれど、なお、そのような傲慢になりそうな私達を、しっかりと支え、状況に依らず、支え続けてくださる方がおられ、私達と共に歩んで下さっている方おられます。この方こそ正しい方、そのような信頼を持って、私達は歩んで参りましょう。                      
 お祈りします。
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