日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神が建ててくださらなれば

2021-10-03 10:02:37 | 礼拝説教
【詩編127編1~5節】
【マタイによる福音書7章24~27節】

 本日は「神が建ててくださらなければ」という説教題としました。マタイによる福音書7章24節以下の箇所を読みましたが、この箇所は、主イエスが多くの人々を前にして話をされた「山上の説教」と呼ばれる箇所の、締めくくりとして話された箇所となります。
 二人の人が登場して、一人は岩の上に家を建てた人、一人は砂の上に家を建てた人、その結果はすぐにわかりますように、雨が降り、川があふれ、風が吹いても岩の上に家を建てた人の家は倒れず、砂の上に建てた人の家は倒れたというのです。
 
 二日前の金曜日は、首都圏に大きな台風が近づきまして、この地域も雨風の激しい状況でした。時として、そのような嵐が私達の人生の上にもやって来ることがあります。そんな時、何が大切かというと、家というよりも土台ですよ。見える部分ではなく、見えない部分だということでしょう。
 目に見えるわけではないけれど、土台となるところが岩なのか、砂なのかによって、その人の人生は大きく変わるというのです。
 岩を土台とするとは、言うまでもなく、主イエス・キリストのみ言葉を聞き、メシアとする信仰、主なる神が自分と共におられるという信仰に生きているかどうかが問われるということでしょう。

 もう一度申し上げますが、主イエスは、山上の説教で人々に、長い時間をかけて、心を込めて神の愛と、神の教えと、神を信じる者の生き方を示してくださいました。その締めくくりで岩を土台とする者と、砂を土台とする者のたとえを話されました。
 主イエスが話す言葉を聞いて、あなたがたはどのように聞き、どのように生きようとするのか、と問われたのだと思います。

 今日は10月となり、最初の礼拝でもあります。長く続いていたコロナ禍による緊急事態宣言が解除されて最初の礼拝でもあります。私たちはこれまで讃美歌を歌わない礼拝を続けて参りましたが、今月からは、マスクをしたままでも賛美する、に戻しました。未だ、コロナ前の礼拝に戻すまでにはいかず、少なくとも今月一杯は出来ないかなと思っておりますけれど、それでも僅かな光が射し込み、その光は確かな希望となっていると感じます。
 
 私たちは、これまで一年半以上に亘るコロナ禍での礼拝で、短縮された礼拝を執り行って参りましたが、短縮したとしてもはずすことの出来ない物は何かがより明らかにされたとも思います。その一つに何よりも聖書朗読があります。礼拝において御言葉が読まれる。いつかの説教で申し上げましたが、聖書朗読は礼拝の中心です。私たちは御言葉による礼拝を重んじています。礼拝が最も短縮されたとしても、聖書朗読は必ず残ると私は思います。
 
 それから説教。御言葉の取り次ぎ、短縮した礼拝だとしても大切にされてきました。聖書のみ言葉を聞き、御言葉を取り次ぐ者を通して、聞く一人一人に対して、主なる神は何を、どう語り掛けてくださっているのか。神の言葉を聞く者は自ずと背筋が伸びることでしょうし、語る者はまさに一週間をかけて、何をどう語ろうとするのか毎日が問われていると思いながら過ごします。私などは、気持ちが小さいものですから、牧師として25年を過ぎようとしていますけれど、未だに土曜日の夜は、寝つきが悪く、眠りが浅く良く寝られません。緊張しているのが原因だと思います。日曜の夜はぐっすり寝られますので間違いありません。
 
 それはともかく、毎週執り行われる礼拝は、キリスト者にとって、聖書の御言葉、また御言葉の取り次ぎによって、私達の生活の土台に、目に見えない部分に神の聖霊が送り込まれ、力を得て生きていく、いわば原動力となる時でもあります。
 ある時、主イエスと弟子たちがエルサレムを歩いていると、弟子の一人がエルサレムの神殿を見て、主に話しかけました。「先生、ご覧下さい。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」けれど主はこう答えられました「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」

 また、ある時、一人のやもめが神殿にやってきて、レプトン銅貨二枚を入れて祈りをささげている時に、主イエスは弟子達を呼び寄せて話をされました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。この人は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからである。」
皆さん、目に見える神殿は、いつかは無くなるのです。でも、目に見えない信仰、信頼、祈りは、いつまでも残るのではありませんか。名も記されていない一人のやもめの行動は、長い時を越えて、私達に感動を与え続け、語り継がれていくのではありませんか。

 今日は、詩編127編を読みました。短い詩編ですが、大切な御言葉が告げられています。「主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」とあります。
3節以降は読みませんが、子どもは神の嗣業であることが記されています。ある牧師はこの詩編は「仕事と家庭」について伝えていると教えておりました。自分達の仕事と家庭、それは人生そのものだと言ってもよいかもしれません。

「主御自身が建ててくださるのでなければ」で始まる1節、2節の特徴は、「むなしい」という言葉が三度、用いられている点です。
「主御自身が建ててくださるのでなければ」、「主御自身が守ってくださるのでなければ」そうでなければむなしいというのです。「朝早く起きて、夜遅く休む人よ、焦慮してパンを食べる人よ」それはむなしいことではないかと言うのです。

 私たちは「仕事と家庭」において目に見える部分で成功したいと願います。その為に、目に見える建物、目に見える自分の能力、目に見える仕事、目に見える財産を、なんとしても手に入れたいと願います。けれど、いつの間にかそれらのものを手に入れようとしながら、肝心の土台が砂だとしたら、それはどんなにかむなしいことだと詩編の作者は伝えているのではないでしょうか。

 私たちが良き人生、良き歩みを生きていくために、確かな土台、硬い、強いというだけでもなく、より深い土台を築いていかなければなりません。

 先日、私が尊敬する熊本で伝道されている米村英二牧師の説教集を読んでおりましたら、哲学者の西田幾多郎が自分の息子に送った手紙を紹介していました。私もそれを引用して読みますけれどこう記されています。「人は真摯に努力すべき目的なきより、淋しいものはない。すぐ人に迷うてはならぬ。人の甘い言葉はなににもならぬ。深いまじめな努力をせねばならぬ。それがなく、薄っぺらな生活から心の淋しさが生じてくる。大きい、深い人にならねばならぬ。君には、何とかしてただ一つのまじめな目的に向かって邁進してもらいたいとのみ、私は思うている」深く生きる事の大切さを記していると思いますし、また、西田幾多郎に限ることなく、親としては誰もが、自分の子どもに対して同じように思っているのだと思います。

 そうでなければ「むなしさ」に飲み込まれてしまう、そしてその空しさは、主なる神を頼るのでなく、自分を頼り、自分で頑張るとしてもどうしても感じてしまうところの空しさなのです。自分自身で、自分に岩の土台を築くことが出来ないのです。

 太宰治が記した短い小説で「トカトントン」という小説があります。ある青年が四年間の軍隊生活を経て、終戦となる。敗戦の時、玉音放送を聞いている時どこかで「トカトントン」という大工が金槌で釘を打っている音が聞こえてきて、その音を聞いたら、自分は何をしているのだろうとやる気がなくなって、空しくなって、地元青森に帰って、郵便局に勤めるのです。
郵便局に務めながら、小説家を目指して小説を書き始めるのですが、完成間近となった時にどこからか「トカトントン」と音が聞こえてきて、空しくなって小説をやめてしまいます。その後政治運動にのめり込み、熱心に参加するのですが、「トカトントン」と聞こえてくると、気持ちが冷めてやめてしまい、花江という女性に恋をして、ある時、海辺に二人となって、ついに思いを打ち明けようとするのですが、「トカトントン」と聞こえてきて、空しくなって別れてしまうのです。
 そんな具合で、何か新しいことをしようとしても、トカトントンと聞こえると、空しくなる、火事があって、人助けと思っても「トカトントン」で止めて、酒を飲んでもトカトントン、最後には自殺をしようとしても「トカトントン」と空しくなるのです。
 全ての事が「トカトントン」と聞こえてくると空しくなる。これは一体なんなのか、という悩みを友達の作家に相談している全体としては手紙となっている短い小説です。

 手紙を読んだ友は、こう答えました。あなたに必要なものは叡智よりも勇気である。それから、マタイによる福音書10章28節の御言葉を記しました。

 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」
 
 私たちは、何に恐れていますか、体を殺す者どもを恐れるとしたらそれは空しいかもしれません。私たちは、魂も滅ぼす方をこそ恐れる必要があるのではないですか。けれど、その方は滅ぼすのではなく、私達を生かすために、十字架という命がけの業によって、私達の人生の土台となって下さり、私の人生を建ててくださり、どんな時も共にいて励まし、力付けてくださっているのです。主イエスの愛を知る時、前を向くときに、もはや空しくない人生を確かに生きていけるのではないでしょうか。
 
 お祈りします。
コメント
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