日本キリスト教団 大塚平安教会 

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敵意の炎 驕り高ぶる大水

2021-09-12 15:24:06 | 礼拝説教
2021年9月12日(日)聖霊降臨節第17主日 隣人

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 詩編124編1~8節
     ペトロの手紙一 2章9~10節

説教題 「敵意の炎 驕り高ぶる大水」

説 教 菊池丈博牧師
 

敵意の炎 驕り高ぶる大水



以下 原稿になります。

 先日、家内が助手席に座って、私が運転しておりました時に、何気ない会話をしながら、ある拍子で私が、「自分はポンコツだから」と話しました。あまり表現が良くないかなと自分でも思ったのですが、つい、言ってしまいました。
すると、家内から「自分はポンコツだ、なんて言っていると本当にポンコツになるから言わないほうが良いんじゃない」と言われ、そうだなと思いまして、言わない方が良いねと返事をしました。少し反省しました。
 
 けれど、その後に改めて思わされた所がありました。先週、木曜日に、コロナ禍ではありますけれど、月に一度の「発展・聖書に親しむ会」を行いました。 
手指消毒・マスク・換気に気を付けて行いました。久しぶりに教会に来られた方もいて、開催するとやって良かったと思います。短い礼拝を献げて、それぞれが一言ずつ話すのですが、ある方がこんな話をされました。子どもがスポーツクラブに入っていて、自分は親としてそのクラブのお世話をしているけれど、新しく変わったコーチと中々上手くいかないというのです。
新しいコーチには、コーチなりの考え方があって、自分はこうしますと主張してくるというのです。けれど、クラブのこれまでの流れもあるし、子ども達のためにも、コーチとの関係を良くするためにも、意志の疎通を良くしたいと思いながら、話をしたり、メールをしたりしているそうですが、中々思うようにいかないし、受け入れてくれないというのです。
 
 ところが、自分ではなく、違う子どものお母さんが意見したところ、その意見がすぐに受け入れてくれたというのです。同じ意見なのに、なんで私がダメで、あの方なら良いのか。と少し憤慨していました。どう受け止めたら良いでしょうか。と言われるものですから、私も困りました。

 それで思い出したのが、先ほどのポンコツの話でした。家内との会話を紹介しながら、自分はポンコツだと言うのも良くないけれど、でも、自分はポンコツだからと心で受け止めて、結果としては良かったのだから全て良しと受け止められたら良いかもしれません、と話しましたが、恐らくあまり理解されず、受け入れられなかったかもしれません。

 話は変わりますが、先週の礼拝に久しぶりにK先生が出席されました。K先生は上倉田教会の牧師で、大塚平安教会出身教職でもありますから、久しぶりにお会い出来て、会話が弾んだ方もおられると思います。礼拝が終わりまして、私も少し話をしました。「菊池先生、今日の説教、とっても良かったですよ」と言われまして、私も調子に乗って「いつも言われますよ」と答えましたら、大笑いされて背中を叩かれました。勿論、お世辞だと分かっていても、お世辞でも嬉しいものです。いずれにしてもあの牧師の説教はポンコツだ、と出来れば言って欲しくないと、どの牧師も思っているでありましょう。

 何を申し上げたいのかと言いますと、私たちは、誰であっても他人から良い評価を得たいと思っていますし、あの人は、一丁前だ、一角の人だと言われたいものです。そう思うのが普通で、あの人はポンコツだなどと聞こえてきたら、どんなに憤慨し、また落胆するでありましょうか。ましてや、自分はポンコツだなどと思いたくもないし、思わないものです。
 
 今日はペトロの手紙一2章から読みました。主イエスの弟子として、また、聖霊を受けて立ち上がった使徒として、1章1節にありますように「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている」人々に対して、生き生きとした主にある希望を伝えるために記された手紙としてペトロの手紙があります。ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア、この名前は都市の名前ではありませんで、地域の名称です。日本で言えば、相模の教会の皆さんへ、駿河の教会の皆さん、武蔵の教会の皆さんへという感じであろうかと思います。

 更に、その後に、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」と続きます。大切なところは「選ばれた人たち」という御言葉です。
 
ペトロは意識してこの言葉を使ったのではないかと思います。ペトロは漁師でした。ガリラヤ湖のほとりで網を繕っていたところに、主イエスが現れて「わたしについて来なさい」という言葉を聞き、網を捨て、主イエスに従った人でありました。ですから、神に選ばれた人だと言えるでしょう。
 その後、ペトロは主イエスの一番弟子として活躍することになりますが、時々ヘマをして主に叱られたりする場面があることを私たちは知っています。

 主イエスが私を何者だと言っているのかと尋ねた時、ペトロは「あなたこそ、メシアです。」と答えた場面があったかと思うと、直ぐに主が御自分の死と復活の話をされて、脇へ呼んで、主イエスをいさめ、逆に「だまれ、サタン」と言われた場面は良く知られています。
 
 主イエスが捕らえられる前夜、最後の晩餐のおりに、主イエスはペトロに話しかけました。「シモンよ、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」その言葉を聞いたペトロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても、死んでもよいと覚悟しております。」とその信仰の決意を告げました。けれど、実際は、その後主イエスが捕らえられ、裁判に架けられている様子をそっと見ていた時、側にいた人々に、あなたも仲間だと指摘された言葉に恐ろしくなり、「わたしはあの人を知らない」と三度も否定するのです。しかも前もってそう言うよと主イエスに指摘されていたことを思い出して、激しく泣いたというのです。
今日の言葉で言えば自分のポンコツさに涙が溢れでた場面でありましょう。

 主イエスを信じるという信仰はどこからやって来るのでしょうか。ペトロは「自分は死んでもついていきます」と言いました。裁判の席で、あなたも弟子の一人だと指摘されたら、その通り、私は主の弟子ですと言って、共に十字架に付けられる覚悟はありますと立ち上がった、としたら、その様子を見た主イエスは喜んだでしょうか。
 私たちはそのようなペトロの姿を期待するかもしれません。私達にも分かりやすいからです。信仰はどこからやって来るのか、信仰は何よりも、自分の努力、聖書を読み、祈り、礼拝に駆け付け、何を起ころうと、雨が降ろうと槍が降ろうとも、私は神様から離れません。という思いによって守られるものなのでしょうか。

 もし、そうだとしたらペトロは信仰者失格となるのではないでしょうか。しかし、ペトロは失格者とされませんでした。なぜか、信仰とは、神の前にいかに、自分が力なく、欠け多く、つまずきやすい者であるかを知らされるところからのスタートだからではないですか。そのような自分を、自分の行動や自分の能力や功績によらず、ペトロの手紙にありましたように神の「選び」によって神の民とされ、神の愛に招かれ、自力では神に従えない、そんな弱さしか持ち合わせていないこの自分を無尽蔵に愛してくださり、十字架の死と復活を通して、神の愛の業を示して下さり、神の聖霊を授けてくださった。

 神の選びの理由は、こちら側には何も持ち合わせていないにも関わらず、神の選びがあったことをペトロは心から感じたに違いありません。
だから、選ばれた人々よと、ペトロの手紙の最初で記したのだと思います。

 先ほど詩編124編を読みました。1節からこう記されています。「イスラエルよ、言え。「主がわたしたちの味方でなかったなら 主がわたしたちの味方でなかったなら わたしたちに逆らう者が立った時 その時、わたしたちは生きながら 敵意の炎に飲み込まれていたであろう。そのとき、大水がわたしたちを押し流し 激流がわたしたちを越えて行ったであろう。」
 
 私達の人生は、その歩みの内に、時には敵意の炎が、時には大水が、私達に襲い掛かる時があります。そのような事態が起こると、体や生活、つまり見える外側にも影響を受けて、自信を無くしますし、心の見えない内側にも影響を受けて、自分を自分で蔑むようなことをして、自分で自分を価値無しとしてしまう、としたら、その時、まさにポンコツとなります。
 
 けれど、そのような者をもあなたは主の愛する大切な人だよ。あなたは値高く、誰のも変えられないかけがえのない一人だと告げて下さる方がおられるのです。だから救い主ですよ。
 人の評価はあまり当てにしてはなりません。時には高く評価されるし、時にはポンコツ扱いされるのです。一年前にはあれほど期待された総理大臣が、一年後には辞めることになったように、人の評価は移り行き、変わり続けるのです。

 私たちは出来るならば、人の評価によってではなく、神様が価値あり、と評価されるその愛によって、御霊の力を得て、元気をいただきつつ、過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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