日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

今日を喜び祝い、喜び祝おう

2021-07-13 08:51:02 | 礼拝説教
【詩編118編22~25節】
【コリントの信徒への手紙二 6章2~4節】


 紀元前の600年後半~500前半年にかけて、イスラエルは、当時大国であった新バビロニア帝国と戦います。力の差は歴然としていまして、あっという間にイスラエルは滅ぼされました。生き残っていた人々は、バビロン地方のケバル川流域に連行され、ほぼ、強制労働、奴隷のような生活を送っていたものと思われます。当初は、すぐにでも解放されて、自分達の故郷に帰ることが出来ると楽観的だったとも言われますけれど、結果的には捕囚は50年続きました。
 
 50年の長さですから、その地で生まれ、育った人々も大勢いたでしょう。もはや自分達の国に帰ることを諦めていたかもしれません。そのような折に、時代が動き、アケメネス朝ペルシャという国が力をつけて来て、バビロニア帝国を破りました。ペルシャは割合に寛容な政策を取りまして、イスラエルの人々は帰ってよろしいとなりまして、人々は大喜びで帰還することが出来たわけでありました。

 けれど帰って来たものの、首都エルサレムはがれきの山と化し、50年前には見事であった神殿も破壊され、無残な様相でした。「家を建てる者が退けた」わけではありませんが、がれきの町を見て、人々はどんなにガッカリし、落胆したことでありましょう。
 
 でも、人々は力を落としたままではなく、ここにまた、新しいイスラエル、新しいエルサレムの町を作ろうと、主に祈り、何よりもこの地に生きて帰って来られたことを喜び、神の恵み感謝して礼拝を献げました。礼拝を献げるだけでなく、具体的に主なる神から力を得て、町の再建に乗り出して行ったことでありましょう。旧約聖書エズラ記6章には、前536年頃、新しい神殿が完成し、神殿奉献の礼拝が行われた様子が記されています。その神殿奉献で歌われたのが詩編の118編だと言われます。イスラエルは雄牛百頭、雄羊二百匹、子羊四百匹を献げて、詩編を心を込めて歌ったのではないでしょうか。

 118編24節には「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう」とありますが、私達もこの礼拝を通して、主なる神から力を得て進んでいくためにも、「今日こそ主の御業の日」。この御言葉に生きていきたいと思います。

 先日、政府により東京都は4度目の緊急事態宣言となりました。明日の7月12日から8月22日までの一か月以上に亘る長い期間となります。

 2021年も既に半分を過ぎましたが、結果的には半年の殆どが緊急事態宣言の中で過ごしているようなものです。更には、7月に入り、梅雨の終わりの集中豪雨が続いています。静岡の熱海では大変な土石流が起り、甚大な被害が出ました。山陰や、広島、九州の各地においても連日雨の被害が報道されています。召された方々、被災された方々を覚えて私たちは祈り続けていきたいと思います。
 コロナ禍は収まらず、雨の被害も収まらず、オリンピックは無観客の開催と言われ、8月の観光シーズンも殆ど動くことが出来ず、飲食店経営者はお酒を出さないように言われ、観光、航空、運輸、各種イベント、芸術といた各業界、さらには運動会や、修学旅行など、楽しみの殆どが取り上げられている形の子ども達、状況としては一年前よりも、更に窮地に社会が追い込まれてきている感覚さえあります。

 このような状況になりますと、人の不満は、怒りとなり、怒りは争いへとなりますから気を付けなければならないと思いますが、このような時代だからこそ、「今日こそ、主の御業の日」ですよ。マザー・テレサの名言に、「昨日は去りました。明日はまだ来ていません。今日だけがあるのです。さあ、はじめましょう」という言葉があります。

 過ぎた昨日に引きずられず、まだ来ない明日に思い悩まず、今日をしっかりと生きていく、なぜなら「今日こそ、主の御業の日」だからです。今日こそ、今こそ、神が働かれる日だからです。

 先日、先輩牧師から聞いた話ですが、一人の雑誌の編集者の方がいたそうです。その方の特技というか、得意技があって、本の速読だったそうです。普通の本なら、一冊読むのに一時間半あれば読み切れたそうです。一ページが写真のように入って来るのでしょう。それで本当にちゃんと読んでいるの?と聞いても、読んでいるというのです。
仕事も雑誌の編集ですから、読む量も大変な量であったと思いますが、でも、そのようにしてバリバリと仕事をしていたわけです。けれど、ある時50代で、病気になった。脳梗塞とか、そういった脳の病気となって、半身不随となって、車椅子の生活です。ですから本人も本当に落胆した。一生懸命にリハビリをしながら、体は段々に動かせるようになっていくけれど、何が大変かというと本を読んでも、3時間読んでも、20ページも行かない。どんなに辛かったと思います。

 でも、この方は病気だから仕方ないと諦めませんでした。「今日こそ、主の御業の日」今日を大切に生きていこうと決心し、これまで考えてみることさえしなかったけれど、世の中は自分と同じように、体が不自由な方とか、辛い思いをしている方が大勢いることに気が付いて、決心して編集の仕事は辞めて、友達と二人で福祉の仕事を始めて、体の不自由な方々が大いに喜び、慰めを得ている、そういう仕事を一生懸命している人がいる、そんな話を聞きました。

 私たちはいつでも与えられた状況に飲み込まれそうになります。だって、コロナだから、だって、雨だから、だって、晴れたから、だって、あの人がこう言ったから、とどうしても言いたくなるものです。
 
 でも皆さん、「今日こそ、主の御業の日」主なる神様が、このような状況でも確かに働いてくださっているのであれば、「家を建てる者が退けた石」でさえも、隅の親石となります。
 
 隅の親石とは、石でアーチの形に積み上げていって、右側と左側とがちょうど、真ん中で合わさる所、右も左も支える大切な石、これを「隅の親石」と言うそうですが、そのようにして、私達が体験する様々な出来事、時にはマイナスと思えるような出来事の数々さえも、それらの全てを合わせてなお、全てが相働いて、益となるように、神様が祝福に変えて下さる、何よりも新約聖書が伝える福音は、この「隅の親石」こそが、主イエス・キリストだということでしょう。
 時の指導者の誰もが、この男は生かしておけないと、十字架刑が下され、捨てられるように、実際に十字架刑で死んだ方が、しかし、復活されて、弟子達のもとに現れ、聖霊が下り、弟子達を励まし、祝福を与えてくださったこの方こそが、隅の親石となって、父なる神と私達をつなげ、結び合わせてくださいました。

 この方によって、私たちは生きる生き方が変えられて「今日こそ、主の御業の日」の意味を知り、主我と共におられる信仰によって、元気を得て生きているのです。
 
 コリントの信徒への手紙を読みましたが、そこには「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とあります。福音伝道の為に命をかけて、旅をしつつ、更にはその旅の殆どが苦労と、迫害の連続だったにも関わらず、「今や恵みの時」と使徒パウロは綴りました。そのような前向きな信仰こそ、主イエスがパウロに与えた信仰であったと思います。
 
 ここに記されている「恵み」という言葉は「受け入れられている」という意味があると言われます。主なる神が私達を覚え、いや、この私をしっかりと受け入れ、喜び、歓迎してくださっている。だから恵みなのです。
 
 世の中は、私達を受け入れようとしないところがあります。子どもを育てる親が、朝一番で子どもに言う言葉は、「早く起きなさい」です。そして「早くご飯食べて」「早く歯を磨いて」「早く学校に行って」「早く帰って来るのよ」帰ってくれば「早く宿題やって」「早くお風呂に入って」「早くお夕飯食べて」「早く寝て」そして、最後の言葉は、「早く明日起きるのよ」これではね、子供の心に「受け入れられている感」が育ちません。

 コロナ禍にあって、居酒屋が受け入れられない。観光業が受けいれられない。先日、車で走っていましたら、「県境はまたがないように」とか、「不要不急の移動はしないようにしましょう」とありました。今どき、不要不急でなく移動する人がどれだけいるのでしょうか。今、世の中は「受け入れない」感、が溢れています。
 
 だからこそ、皆さん、主なる神は、わたしたちをしっかりと受け入れ、受け入れるだけでなく、励まし、励ますだけでなく、力付け、愛して下さっていることを受け止めていきたいと思います。「今日こそ、主の御業の日」大切な今日を、喜びを持って過ごして参りましょう。

 お祈りします。
コメント