日本キリスト教団 大塚平安教会 

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口をもって、感謝を献げ

2021-05-03 09:23:12 | 礼拝説教
【詩編109編21~31節】
【ペトロの手紙一 3章8~12節】

  先日、4月に大学生になった娘が、歯医者で親知らずを抜く、という日がありました。近くの歯医者から大和の歯医者を紹介されまして、午後に出かけていきました。心配していましたが、手術は20分程で終わって順調だったようです。それで、今から帰るとメールで連絡があり、帰宅を待っていましたが、なかなか帰って来ないのです。

 どうしたかなと思いましたら、途中で通学定期を落としたらしい。今はパスモというカードが定期券になっているわけで、詳しくは分かりませんが、定期を探して、病院から駅までの道のりを歩き、また、駅で探していたのかもしれません。でも見つけられず、ほとほと疲れたから家に帰るというのです。
 
 大和の駅に行って駅員に説明して、相談したら良いと家内もメールしたようですが、メールを見たのか、見ないのか家に帰って来てしまいました。
 
 思えば、口は手術したばかりで、顔周りには麻酔が残っているし、痛み止めは飲んでいるし、定期は落とした。どれだけ心が折れて帰って来たかと思います。それでも半年分の定期券ですから5万円程入っていますから、(おお~)知らんぷり出来ないだろうと、駅に行って状況を話して来なさいと言いましたら、とうとう泣いてしまいました。しまったと思いつつ、家内も私もオロオロしたわけでありました。
 口は痛いし、定期は落とすし、心は折れるし、親は怒るし、泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、弱り目に祟り目であったと思います。

 落ち着いて考えてみると家内も私も、同じように定期を落としたり、財布を紛失して慌てたり、怒ったり、落ち込んだりしたこれまで何度も経験があるわけです、その時のことを思いますと、どんなに精神的に辛く、悲しいものであるか、理解は出来るのですが、人は人の失態には冷たいもので、誰も自分の心を分かってくれないと悲しくなったかもしれません。こんな日は自分がどんなに不幸なのかと思ったりしたかもしれません。
 
 今日は、新約聖書ペトロの手紙3章という箇所を読みました。3章10節にこう記されています。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」

 幸せな日々を過ごしたい人とあります、言語的には、「幸せな日々を見たい人」のほうがより近いようです。先週木曜日は一日中雨が続きましたが、金曜日はカラリと晴れました。晴れた空を見るだけで幸せを感じるものです。なぜかといえば、雨の間は、晴れた空を見失っていたからでしょう。
 
 晴れた日が何日も続くと、雨が欲しくなります。雨を失っているからです。
人は健康な時は、健康が幸せだと感じることは滅多にありません。けれど、病気になった、怪我をした、入院した、健康を見失った時、どれほど健康が幸せなのかと改めて思うものです。
 
 見失うものなく、出来るなら幸せに暮らしていきたい。出来るならば幸いを生きていきたい。そんな思いは信仰のある、なしにかかわらず、私達の誰もが思う願いではないでしょうか。
 
 これまた十日程前のことでした。晴れた気持ちの良い日に、教会の前のベンチに幼稚園の保護者のお母さんが二人座って話していました。少し暗い印象でしたので、どうしたかなと声をかけましたら、子育てで悩んでいるというのです。それなら聖書に親しむ会にでも来たら良いでしょうとお勧めしましたら、とてもそんなところでは話せませんというのです。いや、来ているお母さん方はなんでも話しますよ、と答えましたが、泣いてしまいそうだから恥ずかしいと言っていました。
 独身の時は、結婚こそが幸せだと思うものです。結婚したら、子どもが授かってこそと思うものです。子どもが授かったら幸せかというと、子育てがなんでこんなに思う通りにいかないのだろうと、私たちは不思議なほどに、与えられた幸せを生きるよりも、これもない、あれもないと思い悩むのだと思います。

 幸せな日々を過ごしたいと人は、「舌を制して」、「悪を言わず」、「善を行い」とあります。実際の所、「悪を言わない」これだけでもどれほど大変かと思います。私たちは悪を言われたら、悪で返したくなります。意地悪されたら、やっぱり意地悪したくなるものです。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えて下さいました。それが信仰を持つ者の生き方だと理性の部分では分かっています。分かっているつもりです。そのようにして生きた信仰の先達も多くいることを私たちは知っています。
 
 先ほど読みました詩編109編の作者、タイトルにダビデの詩とありますからダビデかもしれませんし、違うとしても恐らく社会的にはそれなりに地位を持っていた人だろうと考えられています。けれど、社会的な地位を持っている、それなりに責任がある人は、敵も多いものです。

 今日は109編の後半部分を読みましたが、聖書をお持ちの方は開いてみるとわかりますが(951頁)、8節から20節までが、段落が低く設定されています。
 
 どうしてかというと詩編の作者には何らかの敵がいて、その敵が作者に対して呪いの祈りを献げているという設定だからです。8節からの所を少し読みますと「彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ 子らはみなしごとなり 妻はやもめとなるがよい」とあります。彼とは詩編の作者のことです。彼に対してずっと呪いの言葉が続きます。そのまま21節まできて、作者自らが「主よ、わたしの神よ 御名のために、わたしに計らい 恵み深く、慈しみによって わたしを助けてください」と改めて主なる神に祈っている、そういう構成をして詩編を綴っているのが109編です。
 
 この詩編は後半になれば、なるほどに心が高まり、28節には「彼らは呪いますが あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥におとされますが あなたの僕は喜び祝います。」とあり、更に30節「わたしはこの口をもって 主に尽きぬ感謝をささげ 多くの人の中で主を賛美します。」と祈りが続きます。
 
 この祈りの言葉に、詩編の作者の信仰が示されているのでしょう。与えられている状況の中で、幸せを探し求め、無いものを求め、訴えることも私たちは許されているでしょう。敵と思われる者の呪いの言葉に対して、更に数倍の懲らしめをと願うことも許されているでしょう。でも、この作者は、「わたしはこの口をもって、主に尽きぬ感謝をささげる」と告げました。敵が呪うとしても、悪さしてくるとしても、でも、神に感謝をささげる、それが何より、幸せに生きる秘訣だと、彼は分かっていたのだと思います。

 話は最初に戻りますが、娘の定期は、夜になって駅から電話が入りまして、誰かが届けていたことが分かりました。私は勿論、良かったと思いましたし、娘も喜んで心を取り戻したようでしたけれど、私はその後も暫く心が引っかかっていました。ロマ書12章には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。一緒になって泣いて、一緒になって喜べなかったかなと思いました。5万円と思うと、なかなかねぇ。(笑)

 私たちが与えられている状態、今は何より新型コロナウィルス感染の脅威でありましょう。インドでは毎日30万人以上の方が感染し、医療が崩壊している様子がテレビに映し出されています。それが日本で起こらないとは限りません。けれど一方では自粛疲れもありますし、経済が停滞している不安は私達の生活と直結しています。更にはオリンピックもこのまま開催するのかもしれませんし、願いのワクチンもオリンピックまでに届くのかどうかよく分かりません。

 私達の周りにこれほど不安材料が積みあがっている状況は、少なくとも戦後無かったかもしれません。人の不安や悲しみは怒りとなり、怒りは増幅されて争いを引き起こします。けれど皆さん、私たちは状況、状況に翻弄されることなく、願わくは、主なる神に祈り、人の怒り、人の呪いに屈することなく、舌を制して、悪を言わず、悪から遠ざかり、善を行い 平和を願って過ごしていきましょう。

 わたしはこの口をもって、主に尽きぬ感謝をささげと告げた詩編の作者のように、主なる神を見つめて、生きて参りましょう。

 私達の教会も、なんとか無事に教会総会が終了し、いよいよ2021年度が始まっています。感謝と希望をもって一日を過ごしてまいりましょう。


 お祈りします。
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