日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

近づかれる方

2022-05-15 14:46:02 | 礼拝説教
【イザヤ書50章4~9節】
【ヨハネによる福音書1章29~34節】


 毎週の木曜日、綾瀬ホームで礼拝を守っております。8時30分から職員礼拝を行い、9時からは利用者の皆さんと礼拝を守ります。

 先週の木曜日、9時からの礼拝ではルカによる福音書から木に登ったザアカイさんの話をしました。利用者の皆さんは、こちらが気を抜くと、すぐにその空気が流れまして、礼拝がざわめきますので、原稿は見ないで一人ひとりの目を見てお話しを致します。一生懸命に話していましたら、シーンとして来まして、今日は良く聞いてくださっているなと思いながら礼拝が終わったら、ある方が大きな声で「ずっと寝ていた」と言われてしまいました。

 あら寝てたの、どうりで静かだったと笑ったのですが、寝ているようにして、でも実は起きているのが綾瀬ホームの礼拝かもしれません。他所の教会の礼拝では、起きているようにして、実は寝ている人が多いと聞いていますけれど、それも平和なことかもしれません。
 それに先立って、8時30分からの職員の礼拝では、マタイによる福音書からイエス様が漁師であった弟子たちを招いて「わたしについて来なさい、人間を取る漁師にしよう」と言われた聖書箇所を読みました。その箇所を読んで、人は自分が与えられた仕事はこれだと心から思えるなら、どんなにそこに幸いがあるだろうかという話をしました。
 
 私自身のことを考えても、子どもの頃には、大きくなったら何になりたいかと考えるわけですけれど、岩手の田舎で育つ中で、私はあんなふうになりたい、こんな風になりたいと考える中で牧師になりたいと考えたことは一ミリもありませんでした。
 聖書を初めて読んだのは二十歳を遥かに超えてのことですが、それまで紆余曲折を繰り返しながら生きていました。自分の人生をどう生きるのか、どう生きていこうとしているのか、苦しい時を過ごしていました。でも、聖書を読む機会が与えられ、イエス様が漁師たちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と語り掛ける。

 もしかしたら、私にも語り掛けておられるのではないかと思い、自分も神の福音を宣べ伝える者として生きていきたいと願った時、心のざわめきが止まり、生きる目的が定まったようにも思います。自分の人生をこの方にかけてみようと決心して、神学校に進む決断をしたわけですが、何が幸いかというと、一度本当に人生の目的を持てたということです。目的を持つと、もはやそれ以外の全てが心から消えるわけです。だから、迷いが無くなる。迷いが無い人生は実に幸いだと思います。
 漁師であったペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの四人も主イエスに声をかけられ、主イエスと会話をする中にあって、人生の大きな決断をしたのではないか、その決断はまた自分の人生をかけるに値すると確信を持ったからではないかと思うのです。自分の人生において、そんな思いに至ることが出来るとしたらどれほど幸いなことでありましょうか。

 今日読まれました聖書箇所は、バブテスマのヨハネが登場している場面です。ヨハネによる福音書の中でバブテスマのヨハネが登場しますので、私たちは聖書を読みながら、このヨハネは誰かと時々混乱をすることがあるのですが、ヨハネによる福音書でヨハネという名前がありますと、95%はバブテスマのヨハネです。残りの5%はペトロの父親がヨハネというのですが、この福音書では二回登場します。福音書を記したヨハネが、自分で自分をヨハネと記した箇所はありません。ですから、この福音書でヨハネとあればバブテスマのヨハネのことだと理解すると分かりやすいようです。

 バブテスマのヨハネは、主イエスの福音宣教に先だって、イスラエルの人々に対して神の前に悔い改めを求める運動を行い、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を施していました。その働きは割合に大きな成功を収めていました。多くの弟子たちも集まり、新しい宗教運動のようになっていたと言われます。

 通説ではヨハネはユダヤ教でも厳格に律法を守ろうとする「エッセネ派」と呼ばれるグループ属し、俗世間から離れて、荒野に住み、質素な衣服と食事、また共同生活を行っていたと言われます。福音書では預言者としての側面も強調されます。

 バプテスマのヨハネは他の福音書にも登場しておりますが、この福音書におけるヨハネの働き、ヨハネの生き方、その目的は一つです。それは来るべき救い主、メシアである主イエス・キリストを示し続けることでありました。ヨハネは自分自身の全生涯をかけて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と語り「この方こそ神の子である」と告げる、それがヨハネの人生であり、そう語り続けて人生を終える人でもあります。生涯を通じてキリストを証し続ける、素晴らしい生涯だと思います。

 ヨハネはなぜ主をメシアであると確信できたのか、主イエスがヨハネのもとに現れて、ヨルダン川で洗礼を受けた。その時に、霊が鳩のように天から降ってきて、主イエスの上に留まったのを見たからです。ヨハネはそのような人が、あなたの所へやってくると既に主の使いから教えられていました。以来、救い主の到来を待ち望み、その願いは主イエスによって叶えられたのです。ヨハネは嬉しかったと思います。自分はまさにこの方をこそ待っていた。そして、これからはこの方を宣べ伝えることを、我が働きと確信しながら生きたでありましょう。

 ヨハネの厳格な生き方、粗末な衣服、質素な食事、荒野での生活から、私たちはイメージとして真面目で、厳つい人という思いがあります。
でも、主イエスと出会ったヨハネはどんなに喜びに満ちたことであろうか。自分の人生の目的、自分がこの世に生まれてきた、その理由さえも明らかにされた思いを持って、喜びを持って主イエスを宣べ伝えたことでありましょう。
 皆さん、伝道とはするとは喜びを生きることです。私たちは一言で「神の恵みによって」と話したりしますが、「恵み」の意味は、それを受けるに値しない者が、それを受けられるところに「恵み」があって、神様は、こんな自分をも忘れることなく、顧みてくださったという実感があればあるほど、恵みを感じ、それが喜びに変えられるのです。
 
 29節に「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った」とあります。神の恵みとは、自分の方から神様に向かっていくのではなく、神様が自分の方に向かって来られていると知らされる時にこそ、感じるものであろうと思います。

 私たちは信仰者として、神のみ言葉を宣べ伝えて生きていきたいと願います。イエス様の信仰を伝えながら生きていきたいと願います。けれど、そこで大切な事は、その実体というか、その喜びがその人の中にあることが大切なのは言うまでもありません。

 笑顔の無い人に対して「その苦虫を噛み潰したような顔はなんだ、少しは笑ったらどうだ」と自分の方が苦虫のような顔で忠告しても、相手の顔に笑顔は出てこないでしょう。自分自身の内に笑顔が無い人が、人に対して「はいスマイル」と言ってもそこには実体はありません。
 証しするとは、実体があるかどうか、喜びがあるのかどうか、そこが勝負かもしれませんね。皆さんのご家庭で奥様に、ご主人に、子ども達に、おじいちゃん、おばあちゃんにこうなって欲しいなぁと思う事がおありかもしれません。実は割合に簡単なのです。相手がそうなって欲しいなぁと思うように自らが生きる事です。

 ですから、教会が成長するかどうか、それは牧師にかかっている、とも言えるかもしれませんが、もっと言えば、相手にそうなって欲しいなぁと思うように、自分がそのように生きることですからね。どんな状況にあっても、大丈夫、主が共にいて下さる。喜びを持って生きている人が大勢いる教会は、何かをしている、していないにかかわらず、きっと成長し続けるのではないでしょうか。

 昔、読んだ本に書かれてあったのですが、人が納得するという事は、論理的にいかに正しく正確に伝えたとしても、それで人が納得するかというと、そんな事はなくて、こう人間の頭の中にある論理的に考える部分と更にその奥にある、なるほどと納得する感情を司る部分があるそうですが、その奥の感情の部分が納得しなければ、なるほどとは思わない、論理的には理解しても、よしやろうとは思わないそうです。

 言葉だけでは足りないのです。何が必要かといと、言葉だけではなく、その言葉のように、そのように生きているかという事です。そのように生きる。その実体が問われているのだと思います。
 
 ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と主イエスを指さし、その先に、主イエスのうちに真の救い主を見いだしました。ヨハネの弟子達はその言葉と指に注目したことでしょう。なぜその言葉に力があったのか、その言葉のうちに喜びがあったからです。
 ヨハネは荒野でらくだの毛衣を来て、イナゴと野蜜を食べながら、孤独な時を随分過ごしたでしょう。時には誤解され、嫌な思いをしたでありましょう。けれども、彼は証しする事を止めませんでした。
 なぜなら、主イエスが洗礼を受けた時、聖霊が降るその姿をみながら、自分の孤独な働きは決して孤独ではなく、神が自分と共にずっとおられ、ずっと見守ってくださっていたと信じられたからです。そう思える喜びを体験したからです。

 私たちの社会は未だ不安定な状況が続いています。第二世界大戦後、もっとも不安的でもっとも多くのリスクを含んでいる状態と言えるでありましょう。けれど、そのような状況の中にあっても、私たちは主にある喜びを忘れることなく、神の恵みに希望を持って生きて参りましょう。世界平和の始まりは、私たちの平和からスタートすることだろうとも思います。神に希望を持ち続けて、新しい一週間を過ごして参りましょう。

 お祈りします。

わたしたちの間に宿られた方

2022-05-08 14:29:54 | 礼拝説教
【出エジプト記25章1~9節】
【ヨハネによる福音書1章14~18節】

 本日は、ヨハネによる福音書から1章14~18節を読んで頂きました。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。

 ヨハネによる福音書は、マタイ、ルカといった福音書とは違い、御子イエスの誕生の物語が具体的に記されているわけではありません。
処女マリアも、羊飼いも、博士達も登場しません。けれど、むしろそれらの御子の誕生にまつわる物語以上に、私たちの信仰生活にとって大切な言葉を慎重に選ぶようにして、「言は肉となって」というわずかな表現の仕方で、神の子イエスがこの世に誕生されたと示しています。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4節に「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれたものとしてお遣わしになりました。」と記されています。ガラテヤ書は使徒パウロが紀元50年代の初期に記した手紙と考えられていますが、既にその頃には、神の独り子としての御子イエスがこの世に誕生されたという教え、「受肉」という言葉を用いますが、受肉された神という教理が確立されていたと思われます。
ヨハネによる福音書の特徴は、パウロが記したガラテヤ書から更に50年近く過ぎて記されましたが「言葉は肉となって」、つまり「言が人となった」と言い換えた所に大きな特徴がある、とある神学者は説明いたしました。

 ある時、祈祷会に集われた方が祈りの中で「神様、人が神様となるのでなく、神様が人となられた事に感謝します」という祈りを捧げられた事を覚えております。人が神となるという考え方は、私たちの国の歴史観や宗教観からすれば、受け入れやすいかもしれません。人が亡くなればその人は仏となって、更に、いつの日か、仏が守り神のようになって存在する、このような風習は、多くの人々に受け入れられ、又、受け継がれているとも言えるでありましょう。
 けれど、キリスト教の教えは人が神となるという教えはありません。(人が神のようになる所に恐ろしさがある。)

 私たちには神ではなく、私たちを造られ、私たちに命を与えてくださった方がおられるのです。この方の側にいて、この方の栄光、輝きを受け続けてる必要があるのです。けれど、神から離れ、神と分断しようとする悪の力も働きます。そこに人の罪が明らかにされていくのでありましょう。そのような罪に生きてしまっていた私たち人間の歴史に、ロゴス、言が、つまり神様自らが人の形をとられイエス・キリストという方が誕生された。それはなぜか、徹底的に人を愛されたからです。私たち人間は、「肉体」を持っているという点において、実に様々な、又、具体的な誘惑と限界とを合わせ持っています。

 誘惑というとマイナスイメージですが、プラスイメージで言えば、肉体を持っているということは自分の人生に多くの可能性や希望とが与えられていると言えるでしょう。けれど肉体は同時に、「病気」、「障害」、「死」というような限界をも合わせ持っています。そのような肉体的な限界の中に、神は同じ状況を体験され、同じ苦しみを味わう為に、完全に私たちの思いに寄り添って下さろうとして、神が神のままでいることを良しとされず、人の形を取り、謙り、謙遜になって神の愛を示して下さった。それが「言が肉となった」ということでしょう。

 更に、「言が肉となった」ばかりではなく、大切な事はその言が「私たちの間に宿られた。」という事です。

 「宿られた」という言葉の語源は、天幕を張って住むという意味を持っているそうです。天幕とは主なる神がおられる場所です。出エジプト記において、指導者モーセがシナイ山で主なる神から律法を教えられ、イスラエルの民は律法を守りつつ荒野の旅をしました。旅から旅ですから神殿ではなく、主なる神がおられる天幕を張り、天幕の中に聖所を造り、聖所の奥には至聖所を作り、神を崇め、犠牲の献げ物を献げて旅をしました。その後時代は移って、ダビデ、ソロモンの時代に神殿が建てられ、更にバビロン捕囚が終わり、帰還した民によって二度目の神殿が建てられ、更に御子イエスが誕生した時には、三度目の神殿が建てられていました。しかし、その神殿もまた、紀元70年に起こった戦争によって、ローマ軍に破壊され、ヨハネによる福音書が世に出された時代には信仰の拠り所としての神殿は存在していませんでした。けれど、だからこそヨハネはここで深い思いを込めて語ったのではないでしょうか、

「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。言は人の姿を取られて、そして私たち一人一人の間に、私たち一人一人の心の中に、天幕を張り、そこに住んで下さった。その言は人となられた神、主イエス・キリストです。主なる神が、その独り子をお与えになった。それほどに世を愛され、その証しとしての御子イエスが誕生されました。その誕生の出来事は、私たちを決して忘れない、決して見捨てるような事をされないという印なのです。

 人の愛を遥かに越える神の愛、私たちも日常生活の中で、多くの人を愛します。家族を愛し、友を愛し、隣人を愛し、子どもを愛し、夫を、妻を愛し、愛の中で暮らしているのです。素晴らしいことです。けれど、人が示すところの愛は、どこかで条件が付くもので、又、これほど愛したのだからと、見かえりを求めてしまうと所がありますけれど、神の愛は見かえりを求めない、徹底的な、又、無条件で、更に「私たちの間に宿られた」ということは、私たちの間に天幕を張ってお住まいになっておられるということは、私たちの隅から隅まで、私たちが自分自身でさえも、自分の事がわからないと思ってしまう、その気持ちまでも知っておられるという事なのです。

 神の愛は私たち一人一人を知っておられ、決して忘れません。今から15年程前45歳頃の時、教会の集会があって、殆ど毎日のようにお会いしているような方が近くにおられましたのですが、突然、名前がどうしても出て来なくなったことがありました。どうしてこの方の名前が出て来ないのか、自分でも驚きまして、何かの病気が始まったのかと思いました。思い出そうと思っても、全然出て来ない、でもそのことを悟られないようにと顔は笑顔で対応していましたが、もう内心、どうして名前が出て来ない。名前は出ないで、冷や汗が出てくる。もう私の経験の中でも始めての出来事で、そのことは決して忘れないのです。今となっては、そういうことは何度もありますから、あまり驚かないようにしようと考えていますが、

 名前が出て来ないというのは、本当に恐ろしいものだという経験を致しましたが、年を取りますと、話しがですね、「ほらあれよ、あれ」「ああそうそう、あれのことね」というような会話が増えて、「あれがあれして、こうなった」で話が通じる事もあるわけですが、それが又、限りある人の姿を現していると言えるかもしれません。
けれど、神様の愛はあなたを決して忘れないというのです。神が私たちの間に宿られたということは、私たちを愛するということは、私たちを完全に知っているということなのです。
先日、2022年度、これから暫くは結婚式ブームになるかもしれないという話を聞きました。アメリカでは実際にこれまで二年間コロナ禍によって式を挙げていなかった方々も多く、これからそういった方々も含めて式場も取れないし、料金も上がっているそうです。
もし、あなたが結婚されるとする。いや~、おめでとうございます。それでお相手のお名前は、「どんな名前かな?」「お仕事は何をされて?」「何の仕事かな?」「そうですか、どちらの出身の方ですか?」「どこで生まれたのかな?」「男ですか、女ですか」「いや~どっちだろう」ねえ、滅茶苦茶な話しですけれど、こんなことは無いわけで、要するに、愛しているということは、その人の名前も、仕事も、性格も、その人の事をよ~く、知っているということなのです。
野球の好きな方もおられるでしょうが、ひいきの球団もあると思いますけれども、そういう方はねその球団に所属している選手については良く知っているものです。愛するということは知っているという事なのです。

 神様は、誰が誰を知らないとしても、全ての方々、皆さんの隅から隅までご存知です。神はこの自分と共に喜ぶために、共に悲しむ為に、共に苦しむために私たちをよくご存知なのです。
言葉が肉となり、私たちの間に宿られた方は、私たちを主なる神にしっかりと執り成して下さるために誕生されました。私たち一人一人の思いをしっかりと受け止めくださり、愛して止まない方として、言が肉となり、そして私たちの間に宿られました。

 人と話をする時に、しっかりと受けとめるという事について、新たにされた思いがしています。それは、しっかり聞き取るということは、途中で話をさえぎらない、むしろこちら側は殆ど話さなくて良いのだということでありました。
頭では分かっていても、中々難しいのですが、でもそれが感覚的に少しだけ理解出来たような気がしております。ただずっと聞き続ける、それだけで十分かもしれないと思っております。
心の隅々まで人となられた神が、私たちの間に宿られた方がしっかりと聞いてくださっている。そう思えることは私たちにとって真に幸いなことであろうと思います。主我と共におられる信仰を持って新しい一週間も過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。


見ずに信じる人の幸い

2022-04-24 14:46:55 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章19~29節】


 昔、教員の免許取得の為に、高校に教育実習に行きました。フランス語の教員の資格ですから実際は何の役にも立たないのですが、それでも高校でフランス語の授業がある学校に行きまして無事に免許だけは取りました。
 
 一応、担当のクラスもありまして、学校の終わりの時間、ホームルームの時間に、急に担任の先生から菊池さん何か話をしてくださいと言われまして、びっくりしました。その時に話しをしたのが人間の感情についての話をしました。
クラスの皆さん、もし皆さんに彼氏、彼女がいるとして、その相手に振られてしまったらどう思いますか。と聞いたのです。すると当然のように「悲しい」とか「腹が立つ」とか「学校に来たくない」とった返事がありました。
 そうですよね。でも出来事には感情がありません、と話しました。出来事に感情があるのではなくて出来事をどう受け止めるのかによって感情が代わり、全く違った世界が見えることになるという話をしたわけです。なぜなら、あの相手は見る目が無い、ろくでもない人だと思うと、悲しいだけではなくなりますし、早速新し相手を見つけようと思えば、むしろ元気も出て来ます。といった話をしたのです。
 そんな時間はフランス語の授業の何倍も盛り上がったことを覚えています。(笑)
 
 私たちの目に見える世界は何で出来ているのかというと、私は人間の感情という目に見えない心の動きで出来ていると考えています。「喜怒哀楽」という言葉もありますが、私たちは生きていると様々な出来事に遭遇します。その出来事や状況を、自分の感情でもって受け止め、その受け止め方によって、どう受け止めるかによってそれからの方向もかなり違うのです。
 あまり良い例ではありませんが、アメリカで弁護士になろうとした人が一回目の試験に落ちて、二回目の試験にも落ちたようです。それは出来事です。でも、その出来事をどう捉え、どう考えるのかによって、これからの生き方や方向が変わって来るでしょう。弁護士試験は大分難しいですから、三回、四回と落ちる人も多くいます。中には八回目、九回目に合格した人もいるでしょうから、なにまだまだと考えるか、もうおしまいだと考えるのか、その違いは人生をも変えるほどの違いです。
 
 私たちは目に見える世界に大きく左右され揺さぶられます。3月に神学校を卒業して横須賀の教会に赴任されたSさんが、ある時、話しに来ました。牧師のガウンはどのようにして購入したのかというのです。ちょっとびっくりしました。私の前任の鈴木伸治先生は、礼拝にはガウンを着ていたという話も聞きまして、私は初めて知りました。確かにそういった目に見える所の世界もあって、案外大切なところであろうとは思います。
 警察官は警察官の服装をしていますし、消防士は消防士の服装をしていますし、医者は患者を診る時は大抵白衣を着ています。服装がその人の仕事や、その人自身を現わすことも世の中には案外ありますから、服装を気にしなくて良いということはありません。

 イエス・キリストを信じる私たちはどのような服装をするのでしょうか。西欧の所謂古き良き時代には、日曜日となり、教会に行くとなると、それぞれにきちんとした身なりをして教会の礼拝に出席したと言われます。整った服装は整った心へと人を導きますから、礼拝には礼拝に相応しいと考える服装が良いでしょう。
 でも、服装がその人の信仰を現わすわけではありません。信仰は目に見える世界で見る事が出来る、測ることが出来る、数えることが出来るのかと問われたら、そうではないと答えられるでしょう。私の母教会で牧会されていた熊野義孝先生は、信仰はあるのか、ないのかが大切ですと教えておられたそうです。
 
 今日は、ヨハネによる福音書から、復活された主イエスが弟子たちの前に現れる場面を読んでいただきました。主イエスは週の初めの日の朝、まだ暗い時間に復活されました。その場面を先週のイースター礼拝で読んでいただきました。復活の主イエスはマグダラのマリアのところへ現れてくださった。今日の聖書箇所は、同じ日の夕方の場面となります。弟子たちはユダヤ人を恐れて、家に鍵をかけて隠れるようにしていました。不安でいっぱいの弟子たちの、その場に復活の主イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と告げられました。さらに御自分の手とわき腹とをお見せになりました。そこには十字架の釘の跡、また刺し傷があったのでしょう。弟子たちは驚いたと思いますけれど、驚き以上に喜びに満たされた様子が聖書に記されています。弟子達は、人には出来ないけれど、神にはできる神の業を見る思いに至ったのでしょう。

 けれどその時、弟子のトマスが、その場にいませんでした。ですから、その喜びを共にすることが出来ませんでした。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と告げてもトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指に釘跡を入れてみなければ、手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と答えました。
 トマスの感情としては、自分だけが差別されたと感じたか、あるいは弟子たちが揃って悪い冗談で自分をだまそうとしているかもしれないと思ったかもしれません。
いずれにしても、トマスは復活の主と出会うという出来事を経験していませんから、信じるもなにも、復活されたという根拠が何もないと思っていたと思います。それから一週間、主と出会った弟子たちは喜びに満たされ、力与えられ、トマスだけがその喜びに加わることが出来なかったわけです。

 けれど、それから八日後、八日後とは、一週間後という意味です。弟子たちは、同じ家で祈りを共にしていました。今回はトマスも一緒でした。

 そこに復活された主イエスが現れました。「あなたがたに平和があるように」そして更にトマスに話しかけました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」更に続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。

 トマスは驚いたと思います。仲間の言葉は本当であった、自分もまた復活の主イエスと出会うことが出来た。トマスは他の弟子たちと同じように神の業を前にして心が燃えたでありましょう。「わたしの主、わたしの神よ」というトマスの言葉は、私たちに感動を与える言葉です。なぜ感動するのか、ヨハネによる福音書を記したヨハネが、福音書を読む読者に対して、時代を越えて私たちに対して、主イエス・キリストこそが私たちの主であり、私たちの神である、そのことを伝えたいという思いで記し、その思いがこの「わたしの主、わたしの神よ」に集約されているように感じるからです。この場面のために福音書が記されたと言っても良いと言える程だと思います。

 けれど皆さん、実はトマスも他の弟子たちも少しも変わりません。一週間前に復活の主と出会ったのか、一週間後に出会ったのかの違いがあるだけで、弟子たちは皆、復活された主イエスの姿をその目で見て、確認して信じたのです。

 人は目に見える世界、見える状況を見て判断します。でも見える世界、見える状況をどう判断しますか。私たちはどのように判断しますか。コロナ禍となって2年以上経過しました。最近はコロナウィルスの感染も停滞か幾らか減少傾向となり、少し希望が見えて来た感じがしております。けれど、一方においては、ロシアがウクライナに侵攻し、考えてもいなかった戦争となり、世界中は混乱に陥りました。世界全体が不安と怒りと悲しみを抱えています。私たちが目に見える世界はそのような世界です。

 この2年間の教会も本当に厳しい状況を過ごしてきました。時には礼拝すら守ることすら出来ませんでした。十分な伝道活動を出来ずに過ごしてきました。それが私たちの目に見える世界です。

 でも、目に見える世界を私たちはどう見て行くのか、そこに私たちの信仰が問われるのだと思います。主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と話されました。
 主イエスは、私たちに見ないけれど、見る信仰を求めておられます。ヘブライ人への手紙には、信仰の父、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、多くの預言者も、神の国の実現をその目で見ることなく、しかし、遥かにそれを望み見て、生きた人々の名前が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。
 
 私たちは、復活された主イエスの姿をこの目で見ることは出来ないかもしれません。けれど、信仰によって遥かに仰ぎ見る時、今与えられている世界のその先に、神は、神の栄光を現わしてくださるに違いない。そう信じる信仰こそ、今求められているのではないでしょうか。厳しい世界を生きていくためにも、主にある希望を失うことなく過ごして参りましょう。

 お祈りします。

 

神の栄光が現わされる時

2022-04-17 15:25:59 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章1~18節】

 皆様、イースターおめでとうございます。今日の礼拝はヨハネによる福音書20章、少し長い箇所を読んでいただきましたが、主イエスが復活された場面、この箇所には復活された主イエスの他に、メインとして登場するメンバーは、マグダラのマリア、弟子のペトロ、それからヨハネ、この三人が主イエスの復活に際して、どう動いたのかが記されているわけです。
 
 その中で、今日はマグダラのマリアに目を向けて、特にマリアの心がどう動いていったのかを見て行きたいと考えています。
 
 話は少し変わりますが、私が神学生であった頃に、春になる前の寒い頃であったと思います。私自身北国の生まれですけれど、寒がりで体温も上がりません、そういう体質なのだと思いますけれど、アルバイト先で一緒に仕事をしていた女性がいて、その人が漢方のお茶のようなものを飲んでいたわけです。それで話しましたら漢方は良いよと言うのです。それを聞いて、漢方に興味を持ちまして、漢方高いですけども、何か安くて良いものが無いかなと思って、バイトが終わって漢方の薬局に行ってみた、
 そしたら安いといっても安くもないのですが、それでも何とか購入出来るものを紹介してもらって、買って神学校の寮に帰って早速、お湯を注いで飲んだのです。
 すると、ほんとに体がポカポカし始めて、凄く調子が良かったのです。嬉しくなりました。人は嬉しいことがあると黙っていられません。人に話したくなるものです。ですから、寮の仲間にこの漢方は良く聞いたと宣伝して回りました。
 そしたらね、三日後位には、寮の何人もがその漢方を飲んでいました。びっくりしました。でもね、喜びを伝えると、伝わるんだな、伝道するとはこういう事だなと改めて思わされた出来事でありました。

 今日の聖書箇所は、マリアも主イエスの復活を通して伝道する者へと変えられていく様子が記されている、そういう聖書箇所であると思っています。
 週の初めの日、朝早く、まだ日が上がり切らないうちに、マグダラのマリアは主イエスの墓に向かっていました。他の福音書にも、女性たちが主イエスのご遺体が納められた墓に向かう場面がありますが、マグダラのマリアは、誰よりも早く、しかも一人で行動したと思います。マグダラとは地名です。ヘブライ語ではミグダルと言うそうですが、ガリラヤ湖の北西に位置する場所の町のようです。主イエスの母もマリアで、他にもマリアが登場しますから、マグダラのマリアと呼ばれたのでしょう。
 
 彼女の性格を想像してみますと、決断力があり、思うことはしっかり話す人であったように感じます。安息日が終わり、まだ暗いうちに、とにかく主イエスのご遺体がある墓に行ってみよう、そう決心したのでしょう。手にはご遺体に塗る香料を携えていたと思われます。問題は墓をふさいでいる石をどうやって取り除けるのか、そういう課題があったのですが、到着してみるとその石が取り除けてあるのを見ることになります。
 
 石が取り除けてあるのを見て、すぐにマリアの脳裏に浮かんだことは、誰かが主イエスの墓に入って、ご遺体を持ち去ったのだろうということでした。ローマ兵の仕業かもしれないし、墓荒らしかもしれないし、いずれにしても大変だと思い、弟子のペトロとヨハネのもとへ急いで向かい「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と告げるのです。
 
 主イエスは、福音伝道の旅をする中で、弟子たちに問いかけたことがありました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」弟子たちは互いに「洗礼者ヨハネ」という人もいれば旧約聖書の預言者である「エリや」だとか、「エレミヤ」だと言う人もいますと答えます。それでは、あなたがたわたしを何者だと言うのか」と再び問われた時に、弟子のペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と素晴らしい答えを口にしました。主イエスはペトロに対して「ペトロよ、あなたは幸いだ。私もあなたに言っておくあなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と二人の心が通った場面がありました。
 けれど、そのすぐ後で、主イエスは御自分がこれからエルサレムに向かい、長老、祭司長、律法学者から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明けるのです。その時、ペトロは主をわきに連れ出して、いさめ始めたわけでありました。主はペトロに「サタン、引き下がれ」と強く叱った場面が記されています。恐らく、主イエスの旅は12弟子の他に、数人の婦人たちも一緒だったろうと考えられていますが、その場面にマグダラのマリアも伴っていたかもしれません。
 
 そうだとすると、ペトロも、ヨハネも、マリアも主が三度、三度という言葉は何度もという意味があると言われますから、三度以上に何度も、主イエスの死と三日後の復活について話を聞いていたかもしれません。でも、彼らは理解していませんでした。
 
 主イエスの十字架の死から三日目の週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアも、その後マリアから話を聞いたペトロも、ヨハネも慌てて主の墓に向かうのですが、主イエスは復活された、聞いていた通りであったと理解した人はいませんでした。

 「人は信じたいと思うことを信じる」という言葉を聞いたことがあります。「人は教えられたことを信じるのではなく、自分が信じたいと思うことを信じる」のです。
 ロシアでは、プーチン大統領の支持率が80%を超えていると報道されています。ロシア国内では報道が規制され、ロシアにとって都合の良い報道がなされ、ロシア軍は民間人を殺すようことはしていない、そういった報道はフェイクニュースだと言われると、そう言われているし、報道内容も理に適っていると、客観性を持って信じる、そういう人もいるでしょうが、それ以上にロシア国民も報道の通りであって欲しいと信じたいのです。信じたいことを言われているのでそう信じているのだと思います。
 それが正しいかどうかではなく、自分が信じたいと思うことを信じるのです。

 真実は主イエス御自身が死から三日の後、復活されたのですが、マリアは墓の外に立って泣いていました。なぜ泣いていたのか、主イエスのご遺体が無くなっていて、誰かが持ち去ってしまった。と信じていたからです。それ以外に自分が納得できることはありません。主イエスが話されたこと、教えられていたことをこの状況にあっても、思い出さなかったというよりも、信じてはいなかったのです。
 
 身をかがめて墓の中を見ると、主イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。マリアは天使さえも天使だという理解はありません。天使が声をかけ「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねても「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えます。
 更に、振り向いてみると、主イエスがそこに立っているのが見えました。しかし、それも主だとは分かりません。目が涙で霞んでいたかもしれません。神様が一時的に見えなくされたのかもしれません。色々と言われますが、でもマリアは自分が信じたいと思っていることを信じているのです。

 主イエスは三日前に十字架で死なれ、この墓に葬られた。そのことを自分はすべて確認している。しかも今、その墓の石が取り除けられて、主イエスのご遺体が無い、これ以上確かなことは無いのです。主は「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」と尋ねましたが、マリアは園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。と答えました。
マリアはただ泣いていただけでもありません。マリアはこの状況に出来る冷静に対応しようともしました。思っていることをしっかり伝える能力を持ち合わせていました。「ご遺体の場所を教えて欲しい、わたしが引き取ります」強い決意でもって、応答しようとしています。精一杯の姿であったと思います。

 そのようなマリアに対して、主は突然に「マリア」と話しかけられました。マリアは突然に自分の名前が呼ばれたのです。自分を知っている者の声がしたのです。そしてその声は自分を愛し、自分を助け、自分を救ってくださった者の声でありました。

 その時、初めてマリアは自分が信じていたことではない状況であったと気が付いたのでありましょう。「ラボニ」、「先生」、その応答はマリアが主イエスにそのように話しかけていた言葉であったと思います。
自分が信じていたこと以上の事が起こる。それがイースターの喜びです。聖書は、ここでマリアは躍り上がって喜んだとか、泣き顔が笑顔になったとは記していません。
でも笑顔が戻り、喜びのあまり主イエスを抱きしめたい思いに駆られたことは間違いありません。今、マリアは神を信じるとは、自分が信じていること以上のことが起こり、そしてそれは喜びをもたらす知らせであると信じるに至ったと思います。

 復活の主は、マリアに話しかけます。あなたはわたしの兄弟たちのところへ行って、このことを宣べ伝えなさい。マリアの足取りはどんなに軽くなったでありましょう。
イザヤ書52章(7節)に「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」とあります。マリアは良い知らせを携えて弟子たちのもとへ行き、「私は主を見ました」と告げたのです。
復活の主イエスを信じる者は、自分の思いを越える所で神様は働かれ、自分が思う以上に祝福が与えられると信じる者たちであります。今、私たちの不安定で、不確実な社会状況にあって、そこで打ちひしがれずに、尚、頭を高くあげて主の復活を宣べ伝える者として過ごして参りましょう。

 お祈りします。

御心に適うことが行われますように

2022-04-10 15:59:00 | 礼拝説教
【イザヤ書50章4~7節】
【マルコによる福音書14章32~41節】

 本日は受難週の礼拝です。先ほど9時からの子どもの教会では、伝統的に受難週の礼拝で読まれるマルコによる福音書11章から、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された場面を読んで礼拝を守りました。今日は、私が説教当番ではありませんでしたが、先日その箇所を改めて読み直しました。読み直す中で、分かっていたようで分かっていなかったなぁと改めて思わされたことがありました。
 
 単純なことですが、主イエスは、なぜ子ロバに乗ってエルサレムに入られたのかということです。馬ではなくロバであった、しかもロバの子であった。それは真の「平和の主」という姿を人々に見せるためであった。そのように思っておりましたが、それだけでは足りない、もともと、なぜ、主イエスがエルサレムに入られようとした時に、エルサレムの人々は棕梠の葉を敷いて、自分達の着物まで敷いて大歓迎して迎えたのか。
 
 棕梠の葉を敷く、自分達の着る物を敷く、その様子は現代に照らし合わせるとすれば、例えばレッドカーペットを敷いたような様子ではないでしょうか。
 先日アメリカで行われたアカデミー賞で、日本の「ドライブ・マイカー」が栄誉ある賞を受賞したことで話題となっていましたが、女優さん、俳優さんが会場に入る際に、通路にレッドカーペットが敷かれていて、その上を歩いては入ることが栄誉だと言われます。
多くの女優さん、俳優さんがいつかは自分もその上をと願っているでしょう。あるいは国が国賓として招いた国の元首、要人が飛行機を降りた際に敷かれるのもレッドカーペットです。調べましたら、このような習慣は紀元前5世紀までにも遡れるようです。
 
 主イエスがエルサレムに入城する、棕梠の葉を敷いて、着物まで敷いて、人々は大歓迎して出迎えた。なぜ、そうしたのか、主イエスが特別な業をなされ、神の国を宣べ伝えておられる、そのような噂がエルサレムにも流れてきていたのでしょう。この方は、これから私たちの国の王となられる方ではないか、ローマ帝国にも打ち勝つ、我らのヒーローとなる方ではないか。そのような大きな期待を膨らませて迎えた、最高、最大の迎え方をしたのだと思います。

 けれど、主はそのような人の思いを知っていて、だから、馬でもなく、ロバに乗って、しかもロバの子に乗って入られた。まだ誰も乗せたことのない子ロバです。ロバはフラフラ、ヨロヨロと歩いていたと思われます。その姿はあるいは笑いを誘うような様子であったかもしれません。
 それは、主イエスが伝えようとする神の国と、人間の思う神の国の姿との大きな違いが、エルサレム入城の場面に記されたのではないか、改めてそのように思いながら読んだわけでありました。
 
 先ほど、読んでいただいた場面、主イエスがゲッセマネで祈っている場面もまた、神の思いと人の思い、その違いがはっきりと読み取れる箇所であると思います。
 何によってその違いが明らかになるのかと言えば、祈りの姿によってです。
 
 主イエスがエルサレムに入られて行われた最初の出来事は、エルサレムの神殿で、両替人の台や鳩売りの腰かけをひっくり返されて「わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われた場面です。人々はその姿に驚いたと思います。この方こそ、我らのヒーローと思っていたけれど、一体これはどうしたことか、少し様子が違うと感じたでありましょう。
 けれど、主イエスは人からどう思われようとも、この神殿は祈りの家である、そこから外れてはならないのだと教えようとされたのでしょう。大切なのは、神殿が祈りの家である、それは建物というより、そこで祈る者の姿勢が問われているということでしょう。

 エルサレム入城から数日経ち、過越しの祭りとなり、主は弟子たちと共に過越しの食事をされました。食事は酵母を入れないパン、苦菜と呼ばれる野菜、火で焼いた羊です。規定ではそれらは必ず食べきらなければなりません。ワインを飲み、弟子達のお腹は膨らみ、気分良く過ごしていたでしょう。ユダが出て行ったことも弟子たちは大きな関心を払いませんでした。

 食事の後、主イエスは弟子たちと共にゲッセマネと呼ばれる場所に移り、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて更に奥に進み、自らが祈りの家となったかのように、地面にひれ伏すほどの祈りを捧げられました。これからすぐに起るであろう、ユダの裏切り、逮捕、裁判、そして十字架、そのことを既にご存知であった主は、悶える程の祈りを献げました。「悶える」の元々の意味は「人々から捨てられている」という意味のようです。
 
 けれど、弟子の三人は寝ていたというのです。鎌倉雪ノ下教会で牧師をしておられた加藤常昭先生の説教集がありますが、その説教を読みましたら、こんな言葉がありました。「主イエスは、目を覚まして祈っているようにと言われた。弟子たちは、目を覚ましていられなかった。眠ってしまった。ある神学者が、そのことについてこう書いた。『なぜ弟子たちは眠れたのだろうか。自分を信じていたからである』」そう記されてありました。
 
 弟子たちは過越しの食事、羊の肉で満腹の上に、少しの酔いも手伝っていたでしょう。とても眠かったろうと思います。眠いだけでなく実際に眠ってしまった。なぜ眠ってしまったのか、『自分を信じていたからである』私はこの言葉は人の思いを良く言い当てているように思います。
 コロナ禍となって、どの教会も大変な状況を歩んで来ましたが、今、どことは言えませんけれど、ある割合に大きな教会の主任牧師と副牧師と二人がユーチューブに撮って、教会員向けに、信仰についての話をすることにしたそうです。その一回目を見ていましたら、一回目なのに既に質問が来ていて、その質問は「牧師は家でも祈っているのですか」という質問でした。主任の牧師が読み上げたのです。ですから若い副牧師が答えなければならないのですが、明らかに驚いたようになって言葉が出なくなった。見ていてちょっと笑いました。どこの教会かは言えませんが、主任の先生が上手にフォローしていて、その掛け合いが愉快でありました。私は人が、どこかで自分に自信があると思っているとしたら、神よりも、自分を信じている者は、いつの間にか自分で祈らなくなるのではないかと改めて思いました。

 自分でどのように祈らなくなるのかというと、主イエスが祈ったように「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったような、自分自身の全てを傾けて祈る姿勢が無くなってくるということでしょう。
主は三度祈られましたが、弟子たちは三度とも眠ってしまいました。一度の失敗を悔いて、二度目からは主と共に祈ったのではなく、二度目も三度目も弟子たちは眠さに負けたのです。その姿は人の罪がどれほど重いのか、それ故に主イエスは、益々真剣に、益々悶える程の祈りを献げなければならなかったことが分かります。

 人は神の前にあって、十分に祈ることも出来ず、目を覚ますことも出来ず、神の御心に従うことも出来ず、その姿は、人には少しの足りないところがある、どころではない。どんなに大きな罪を負っているのか、人の思いと、神の思いの違いがこれほどに明らかにされた場面も無い程であるとさえ感じます。
その為に、いよいよ主イエスはその人の罪を負うために、十字架への歩みを、主の御心のままに受け入れ、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられ、血を流し、死んでいかれました。その死は私たちの罪故なのです。
私たちは主イエスの死が、私たちの罪故であることを忘れてはならないと思います。

 今、私たちの社会は現実に起こった、起こっている戦争に心が翻弄されています。武器を持ち、ミサイル、爆弾によって、何百、何千、何万人というウクライナの人々も、ロシアの兵士も死んでいる現実を知らされています。知らされる報道を見ていますと、まさに言葉が出て来ません。私自身、戦争についても情報をこれまで何度も聞かされ、伝えられて、教えられて来ましたが、心で思っていた何倍もの凄惨さ、次々と起る悲惨な状況を知らされます。神様はおられないのかと呻きたくなるほどです。何より人はこれほどまでに残酷になれるのかと思う。そして人の罪の深さ、主さを思わざるを得ません。
殆ど絶望に近い感覚にさえ陥りますけれど、今、このような状態であるからこそ、私たちは共々に神に祈ることを忘れてはならないと思う。

 自分に自信がある者は祈らなくなると申しましたが、また、一方では、絶望している者も祈らなくなるのです。だから、祈りは諦めていないという証しでもあります。どのような状況においても、暗闇の中でも、主なる神が光を指し示し、私たちが歩む道を、歩む人生を指し示してくださる、だから絶望せず、十字架の死から復活の命を示された方に希望を繋ぎ、生きる中にあって、祈らなくなる罠に陥ることなく、この方を見つめて私たちは生きていくしかその道はありません。

 来たる次週のイースターに向けて、主の復活に臨みをつないで、私たちは共々にこの週も過ごして参りましょう。
お祈りします。