日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

聖霊をうけると、人は変わる

2020-05-31 13:37:21 | 礼拝説教
【詩編60編12~14節】
【使徒言行録2章1~13節】


 先月、4月の第一主日に礼拝を守り、その後は緊急事態宣言により7週間に亘り礼拝を休みました。これほど長い期間礼拝を執り行えなかったのは、大塚平安教会の歴史70年の中でも初めてだと思います。
新型コロナウィルスの脅威は、私たちの思いを越えて遥かに強力でした。現在もその脅威が軽くなったわけではありませんし、これから暫くの間は、相当用心しながら日常の生活を進んで行かなければならないと思います。
けれど、今は、家にじっとしているだけでも良く無いと思います。
 
 私たちはもともと、主なる神によって作られ、与えられた命を生きています。その命に対して、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。私たちはもともと、独りでは生きていけません。
人生の歩みの中で、自分の歩みに伴ってくれる人を求めるわけですし、互いに助け合い、支え合いながら生きていくようにと神様がそのようにされたのだと思います。
 今、ソーシャルディスタンスと言われています。ウィルスが感染しないように、私たちは本当に注意しなければなりません。しかしまた距離を取りながら、という生活は、普通ではないと思います。
 私たちは、その歩みの中で嬉しい時も、悲しい時も、人生の節目、節目においては集まっては共に喜び、共に悲しみ、共に互いの感情を分かち合いながら生きて来ました。感情の分かち合いは人の心を開放するだけでなく、互いの絆を深めあうものでもあります。

 礼拝をこの場で行えなかった2か月の間、せめて説教の文章だけでもと思いながら、説教は作成して教会のホームページに掲載しておりました。でも、近隣の礼拝を行えないでいる幾つかの教会が、映像によるビデオ礼拝をしていることが分かりまして、私もなんとかビデオでメッセージを流せないだろうかと考えました。その後なんとか、苦労しましたが録画でき、ネット上に載せることが出来ました。
ご覧になられた方もおられるかと思います。家内が賛美を歌い、私は説教をこの礼拝堂で話しをしました。自分の説教を後で、自分が見るというのは思っていた以上に勉強になりました。これまで良く分かっていないことが良くわかります。思っていたより自分の活舌が悪いとか、色んなことが分かりました。

 今ここでそういう話しをしますと、長くなりますのでしませんが、でも、何が辛いのかというと、ビデオを撮っている家内一人に向かって説教するというのは、これは中々寂しいといか、厳しいものでした。礼拝堂に誰もいない、反応もない、頑張って一人で盛り上がっていこうとするのですが、中々上手くいきません。やっぱり礼拝は、人と人とが集まるところに意味があるのだろうと思います。

 今日は2020年度のペンテコステ礼拝です。神の聖霊が、互いに祈りあっていた弟子たちの元に降り、聖霊を受けた弟子たちは、この時、大いに力を得て、喜びに満ちて主イエス・キリストの福音を五旬際の祭りに集まっていた人々に語り伝えました。
 その働きこそ、人と人の互いの心を深く結びつける働きそのものであったと思います。この働きが、後の教会へ発展したと言われますから、ペンテコステは教会の誕生日でもあります。しかも、弟子達が話した言葉は、聖書に記されていますように、それぞれに集まっていた人々の言葉で話したとあります。
 
 私が生まれ育った岩手県花巻の地域では、「いんずい」という言葉があります。奥歯にものが挟まっていんずいといいます。靴の中に小石があって、いんずい、といいます。
標準語ではもどかしいとか、しっくりこないという意味に近いのですが、圧倒的に「いんずい」のです。もし、この意味が分かると言われたとしたら、その人との距離はあっという間に近づくことでしょう。
教会でも私たちは、殆ど気づくことないけれど、教会用語があります。「みことば」とか「みこころ」、「みむね」私たちにとってはあまりにも普通に使いますが、初めての方は、何を言っているのか分からないと言われます。けれど、分かる人には通じ合う、ですから大切なことは、その人には、その人に通じる言葉で話しが出来る、ことではないでしょうか。すると距離が、ぐっと近づくのではないでしょうか。
人と人とが集まり、そこで心と心が通じ合える、そのような状況で、私たちは神の力を得て、しっかりと元気になって、立ち上がって前に進んでいくことが出来るのだと思います。
 
 けれど、そういった神の聖霊降臨の出来事に驚き、怪しむ人々も多くいたとあります。「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言い、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける人もいたというのです。今起こっている出来事の中で、人と人の繋がりに入れない、自分は外にいると、疎外感を感じた人々も沢山いたと思いますし、もともと五旬際と言われる祭りの日ですから、エルサレムには、大勢の人々が集まっていたでありましょう。
 その中で、十一人の弟子たちと共に立ちあがったのが、弟子のペトロでありました。今日読んだ聖書箇所の次の箇所になります。
 ペトロは聖霊に満たされて、大勢の人々を前にして神の福音について話し始めました。ペトロの説教とタイトルがつけられていますが、使徒言行録2章14節から36節までの箇所となります。
 ペトロは旧約聖書のヨエル書、また詩編に記されている御言葉を用いながら、主イエスの十字架と復活について、また主イエス・キリストこと、私たちの救いであり、私たちの主であることを、心を込めて人々に話し語り掛けました。
 
 私たちが思い描くペトロの姿はどうでしょうか。ガリラヤの村カファルナウムの漁師であり、弟子の中では一番先に主イエスに従った弟子ですが、熱心な信仰を持っていた反面、失敗も多く、イエス様に叱られる場面も記されています。大変行動的でありながら、おっちょこちょいでもありました。
 けれど、ペトロはこの時、聖霊に満たされていました。聖霊に満たされるとどうなるのか、一つは冷静さをしっかり保っている姿を見ることが出来ます。自らの感情を抑え、見事に人々の心を捉えました。
二つ目に聖書の御言葉に対する深い洞察力を備えています。もともと、ユダヤの民は子どもの頃から旧約聖書を暗記するほど、教えられたそうです。ですから話しの中に、自然と聖書の御言葉が出てきたのかもしれません。けれど、ペトロが用いる聖書箇所の一つ一つが適確であり、心がこもっていました。
三つ目に、勇気です。主イエスの裁判の場面には、密かにそっと忍び込みましたが、それでも人々に見つけられ、恐ろしくなり、ついに逃げ出してしまいました。しかし、この時、大勢の人々を前にして少しも怯まず、少しも慌てず勇気をもって神の福音を話しかけました。

 人は神の聖霊を受けると、その人生が大きく変わります。人生が変わるとは、自分の考え方が変わるということです。考え方が変わると、その人の行動も、言葉も変わります。後ろ向き人生から前向き人生に変わります。聖霊の力は、なによりも、神が自分と共におられる、という信仰を強めるものでありましょう。神が共におられるなら、人の言葉に左右される必要はありません。今日読みました詩編60編には「人間の与える救いは空しい」とありましたが、その通り、人の言葉の空しさを理解し、神の御言葉によって立つ者にされます。そして、ついにペトロの説教を聞いた三千人が洗礼を受けたわけでありました。
私たちも今、この困難な時代を生きながら、神の聖霊をしっかりと受け止めて生きてまいりましょう。どんな時も主がともにおられ、力付け、励まして下さる。だから、冷静に、また思慮深く、勇気を持って、この6月を歩んで参りましょう。 お祈りいたします。

 
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後で、分かるようになる

2020-05-24 09:30:00 | 礼拝説教
2020年5月24日(日) 復活節第7主日(キリストの昇天 アジア・エキュメニカル週間)

黙 祷

招 詞 コリントの信徒への手紙二 4章14節
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」

讃美歌363番「み神の力は」 菊池典子姉


聖 書 
(旧約聖書)詩編59編17~18節

わたしは御力をたたえて歌をささげ 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。
わたしの力と頼む神よ あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。

(新約聖書)ヨハネによる福音書13章1~7節

  さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。


説 教 「後で、分かるようになる」 菊池丈博牧師



(以下 原稿です。)

 皆さん、おはようございます。5月24日となりました。緊急事態宣言も、私たちが住んでいる東京、神奈川、千葉、埼玉の首都圏、それと北海道を残すのみとなりました。恐らく明日の25日には解除されるのではないかと思われます。解除されたら、31日のペンテコステ礼拝は、短い時間でもこの礼拝堂で、礼拝を共に執り行いたいと、今の所考えております。
 とわいえ、まだまだ楽観できない状況が続いていますから、もう暫くの間、私たちは出来るだけ自粛しながら過ごして参りましょう。
けれど来月6月からは2020年度の大塚平安教会の礼拝と共に、様々な活動を少しずつ再開していこうと考えています。宜しくお願いします。
 
 未だ、教会総会は開催されていませんが、2020年度の主題聖句として選びました御言葉は、詩編30編6節の御言葉です。こういう御言葉です。

「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」

 2020年度、この詩編の御言葉を選んだのはただの偶然ではないと今は感じています。主なる神の働きがあったのではないか、そんな思いがしています。
「泣きながら夜をすごす。」その様子は今、自粛生活を強いられながら過ごしている私たちの状況と重なるように思います。しかし、主なる神は、喜びと共に朝を迎えさせてくださる方である。その思いを胸に私たちも過ごしていきたいと思います。
 
 今日の礼拝に、読まれました詩編は59編です。お手元に聖書を開いてご覧になれる方は、是非ご覧下さればと思いますが、59編1節、表題にはこうあります。「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」
この御言葉に該当する聖書箇所は、旧約聖書のサムエル記上19章となります。4月、5月の礼拝は、ビデオでの礼拝となりましたが、詩編56、57、58編と読み続けて参りました。その詩編はいずれもサウル王がダビデの命を狙う中で、ダビデが神の守りと祝福を願い求める詩編でありました。

 今日の59編も同じ状況です。サウル王がダビデの命を狙っている。その様子がうかがえます。サウル王の攻撃を逃れて、なんとか家に逃げ帰ったダビデでしたが、サウルは家臣をダビデの家に向かわせ、ダビデを殺すようにと命じていました。夜の暗闇の中、家臣はダビデの家を見張っていた。
ダビデはこのままでは朝までには殺されると感じ、妻のミカルに手伝ってもらいながら、窓から脱出に成功した。そういう場面が記されています。
ギリギリの所で命拾いをし、朝を迎えることが出来たダビデでありました。「喜びの歌と共に朝を迎える」ことが出来たと思います。

 詩編59編17節の御言葉にはこうあります。
「わたしは御力をたたえて歌をささげ、朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場」

 夜から朝になる。それは闇から光へ、苦難から祝福へ、絶望から希望へ向かう道が備えられているということではないでしょうか。

 私たちが生きていて辛いと思うことの一つは、どこへ向かっていけば良いのか分からない、という悩みでありましょう。
 高校三年生の娘は、3月、4月、5月と、既に三か月近く、学校に行っておりません。一時期、9月始業式という案が出て来ていましたが、簡単にはそうならないようです。ですから、受験生としての焦りがありありと見えます。
でも、もっと焦っているのは、果たして自分はどのような道を進めば良いのか、分からない。自分はどう生きていこうとしているのか分からないという点です。時々、相談されますけれど、どう助言したら良いのか、私も、いつも迷います。
進路が決まる。入りたい学校が決まる。自分はこう生きると決まってくるなら、大分スッキリするでしょう。でも、どこに向かえば良いのか分からない。光が見えない、それが夜、暗闇という状況ではないでしょうか。
聖書を読めばそこに解決の御言葉が記されている、ということもあります。主イエスは、山上の説教の中で「思い悩むな」と教えられました。「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」あなたがたは何も思い悩まなくて良い、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。と教えられました。
個人的には、私はこの御言葉がどんなにか自分の人生を支えてくれたか、どんなに聞きたかった御言葉であったかと思いますけれど、でも、それは長い悩みと苦しみの果てに、ついに与えられた御言葉であることも思います。

 ですから、人は時として悩むことも必要で、大切だろうとも思います。
 特に、10代、20代という世代は勿論、けれど、どの世代であろうと、与えられている状況が、深い霧に包まれたような、闇の中にいて、光を見出せないような状況を生きている方も少なくないと思います。

「思い悩む」と言われても、悩まずにはおられない。今が悩みどころ、という方もおられるでしょう。受験、就職、結婚といったより具体的な、人生の節目、節目においては、悩みが無いということも無いと思います。
それでは、私たちはどのように悩めば良いのでしょうか。

 今日は新約聖書からヨハネによる福音書13章を読みました。そこは、主イエスが弟子の足を洗うという表題が付けられていますが、過越しの祭の前の日、つまり「最後の晩餐」と一呼ばれる日の前の日の出来事と思われます。

 主イエスは、この世から、父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟られたとあります。それから夕食の時に、主は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い始められたとあります。
その様子に弟子たちは驚きました。驚きの中で弟子のペトロは主に尋ねました。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」この問いかけに、主イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われています。

 この「後で」とは、主イエスの十字架と三日の後の復活を暗示していると思いますけれど、この時の弟子たちには、主イエスの言葉も行動も理解出来なかったでしょう。十字架の死の後の、復活された主イエスの姿を見た時に、初めて全てを理解出来たのではないでしょうか。
信仰を持って歩んでいる者にとって、悩み深い生活を送ること自体、何か自分は不信仰ではないのか、神を信じていないのではないかと、自問自答したくなるかもしれません。あるいは神様は一体何を考え、どう思われているのか、と疑いたくなるかもしれません。

 旧約聖書のヨブ記のヨブは、天上の神と地上のヨブがそれぞれに、それぞれの姿で登場します。しかし地上のヨブにとって、天上の神の様子を知る余地はありませんでした。だからヨブは、長く思い悩み、苦しみ、もがき続けました。もし、ヨブが財産を失い、家族を失い、病に倒れたとしても、天上の神の様子を知っていたとしたら、悩みは随分と少なかったでしょう。

 そのようにして、私たちは、ヨブのように、理解できないこと、分からないこと、それ故に悩み続ける状況があると言っても良いでしょう。
でもみなさん、そういう時にこそ、主イエスが言われた「今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」という御言葉を思い起こしましょう。
今わからない、それはまだ夜だからです。暗闇の中でどこに進めば良いのか分からない、でも確かなことは、「後で、分かるようになる」と主が言われていることです。信仰を持つとは、そういうことではないでしょうか。

 皆さん、私たちが置かれている状況もそのようなことかもしれません。世界中では、まだまだコロナウィルスの脅威は収まっていません。世界中では凡そ500万人の方が感染し、30万人の方が亡くなっています。
どうして、こんなことがと神を見上げて、呻きたくなります。けれど、この先に今はわからないけれど、必ず朝が与えられる、そう信じて私たちは過ごして参りましょう。もうすぐ、主なる神は、神の朝を与えて下さいます。その時を望みつつ、この一週間も過ごして参りましょう。 お祈りします。

讃美歌 463番「わが行くみち」(ご自宅で賛美して頂ければ、幸いです。)

主の祈り

黙 祷

※ 献金についてですが、教会の2020年度の活動を覚えて、貯金箱献金をお願いします。 それぞれのご家庭にある貯金箱に「席上献金」を貯金して、礼拝堂での礼拝がはじまりましたら、お献げ下さい。 ご協力宜しくお願いします。

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神の正義を生きる

2020-05-17 09:30:00 | 礼拝説教
2020年5月17日(日) 復活節第6主日(キリストの勝利)

黙 祷

招 詞 コリントの信徒への手紙一 15章20~21節
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」

讃美歌499番「平和の道具と」  菊池典子姉


聖 書 旧約聖書 詩編58編1~12節

【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。】
2 しかし、お前たちは正しく語り 公平な裁きを行っているというのか 人の子らよ。3 いや、お前たちはこの地で 不正に満ちた心をもってふるまい お前たちの手は不法を量り売りしている。4 神に逆らう者は 母の胎にあるときから汚らわしく 欺いて語る者は 母の腹にあるときから迷いに陥っている。5 蛇の毒にも似た毒を持ち 耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで6 蛇使いの声にも 巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。
7 神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。主が獅子の牙を折ってくださるように。8 彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい。神の矢に射られて衰え果て9 なめくじのように溶け 太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。10 鍋が柴の炎に焼けるよりも速く 生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。11 神に従う人はこの報復を見て喜び 神に逆らう者の血で足を洗うであろう。12 人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」

新約聖書  ルカによる福音書6章39~42節

39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

説 教 「神の正義を生きる」 菊池丈博牧師



(以下、原稿です。)

「神の正義を生きる」

 皆さん、おはようございます。コロナウィルスの拡大も、ついにピークを越えて来たように報道されています。国内39の県では、先月4月7日依頼の緊急事態宣言が解除されました。私たちが生活をしている首都圏、東京、神奈川では引き続き緊急事態宣言が続いています。自粛疲れで焦れてしまいそうになりますが、もう少しのところまで来たという思いもあります。
 大塚平安教会は、今日の17日、また引続き次週の24日の日曜日の礼拝は、既にお知らせしていますように礼拝堂での礼拝は行いません。5月31日のペンテコステ礼拝からは、執り行えるのではないかと前向きに考えております。それまでもう暫く辛抱して過ごして参りましょう。

 昨年2019年の年度当初より、礼拝説教の中で詩編を取り上げながら説教してまいりました。今日は詩編58編です。今、ここで改めて読み直すことはしませんが、特徴的な言葉がいくつかあります。「不正に満ちた心」、「不法を量り売りする者」、「神に逆らう者」、「欺いて語る者」このような言葉が続きます。
 詩編が記された詳しい背景を探るのは難しいようですが、神を神としない不信仰な者がいて、不正、不法を犯し、神を信じる人々を混乱に陥れていた状況と思われます。いつの時代であろうとも悪人が栄え、善人が虐げられる、この世ではそういったことが度々起こります。
 
 そのような悪人に苦しめられる人々が、必死に神に祈りを込めて記しているのが58編だと思われます。しかし、更に特徴的なのは、神を信じる人々であっても非常に強い言葉で、徹底的に悪人を懲らしめて欲しいと願っている様子が記されています。
 
 7節、8節にはこうあります。「神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。主が獅子の牙を折ってくださるように。彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい。神の矢に射られて衰え果て なめくじのように溶け 太陽を仰ぐことのない 流産の子となるがよい。」
 皆さん、歯を抜き取る、牙を折る、捨てられる、なめくじのように溶ける、流産の子となる、これらの言葉、大分強い言葉ではないでしょうか。

 私はこの詩編58編を読みながら、信仰を持つ者として、違和感を覚えないわけにはいかないと思いました。
 神を信じるものが、こんな強いというか、恨みを込めた言葉を持ちるのだろうか、ここからどういう神の福音を紡ぎだせるのだろうか、戸惑いを感じる詩編だなと思いながら読みました。

 けれど皆さん、色々と考えるうちに、思いが変わり、これほどまでに相手をけなし、憎しみを露わにする程に、悪人と呼ばれる人々は、酷い仕打ち、残酷な業を働いてきたのではないだろうか。心も体も徹底的に虐げられてきたのではないだろうか、そんな思いに至りました。
 
 自分達が徹底的に窮地に追い込まれてしまう、その時、心の余裕は無くなり、自分を守るために、必死の反撃に出ようとする、そんな心境をつづった詩編ではないかと思います。
 
 最近、テレビや報道などで、「自粛警察」とか「自粛ポリス」という言葉を頻繁に聞きます。緊急事態宣言中で、外出自粛要請中にもかかわらず出歩く人を見つけ、営業する飲食店を見つけ、自分達と違う県のナンバーを付けた車を見つけたりすると、正義のためと思うのか、嫌がらせなのか、張り紙をしたり、石を投げたり、誹謗中傷を繰り返す人々がいるというのです。
自粛を守っていない人を見つけては、取り締まっているような様子から「自粛警察」といった言葉になったのでしょう。
 脳科学者の中野信子さんという方がそのような誹謗中傷を繰り返す人々のことを「正義中毒」という言葉で説明しています。
 
 営業している店がどんなにコロナ対策をしていても、その店が潰れるかどうかの瀬戸際であっても、ここで止めたら従業員が路頭に迷うからと必死にやっていたとしても、店の事情には関心を示さず、ただ自粛しいていないという一点で、制裁が下されて当然であり、制裁を下す自分達は正義である。
 全てはコロナ予防の為にという印籠を引っ提げて、嫌がらせの紙を貼ったり、警察に通報したり。嫌がらせというより、自分は正しいことをしていて、自分は正義で、相手は悪である、だから懲らしめるのが当然と思っているようです。
中野さんは、懲らしめれば懲らしめる程、脳の中が気持ち良くなると説明しています。だから、いよいよ止められない、益々エスカレートしていくのだそうです。

 中野さんは、そんな人は、アルコール中毒とか、ギャンブル依存症と同じように、脳が依存状態となり、人を責め、弱い所を叩くことによって気持ち良くなり、憂さ晴らしをしているのだと説明してありました。
でも、憂さ晴らしですから「正義中毒」となっている側の人も、本当は多くのストレスや不安、悩み、重荷を抱え込えている人々であって、はけ口を探し、叩ける相手を探し回っているのかもしれないと思います。

 詩編の著者は神に祈りつつも、徹底的に敵を倒し、打ちのめし、なめくじのように溶けて欲しいとさえ願い、祈っています、その怒りにも似た願い、祈りは、長く続く争いと争い、例えば詩編56編、57編で、先週も先々週も話しましたが、イスラエルとペリシテとの間の争いが記されてありますが、長い間のストレスと、どこにも出せない苛立ちを、神にぶつけるようにして祈っていたのではないか、そしてその姿は、まさに自粛疲れを感じている私たちの心の中でも、起こり得るのではないかと思うのです。
 私たちは、正義中毒にならないように、そのような依存症状が出ないように気を付けて過ごして参りたいと思います。

 先日、私が尊敬している牧師がショートメッセージを記して、送って来て下さいました。内容は、ダスキンという掃除会社を創設した鈴木清一さんという方を紹介したメッセージでした。鈴木さんは昭和初期にロウソクに変わる、ワックスを開発して、戦後は会社を設立して大成功したそうです。その後アメリカのジョンソンワックスという会社と合併し、更に規模を拡大していったのですが、いつの間にかジョンソン側の社長と意見がぶつかり、自分が造り上げて来た会社からたたき出されたそうです。
 もう、こうなるとジョンソン憎し、となって鈴木社長、まさに恨み、妬み、徹底的に争いたい、とは思わなかったそうです。鈴木社長は、ある宗教を信じていたそうですが、更にキリスト教の精神にも触れる機会があり、この事をバネとして、『ダスキン』を創設したそうです。ダスキンのダスは「ホコリ」のダスで、ダスキンのキンは、雑巾のキンだそうです。そこで更に力を得た鈴木社長は、以前の自分を遥かに超えた、素晴らしい働きをされたそうです。

山が高いなぁ、谷が深いなぁ、それが人生、一つも上手くいかないと思われますか。あの人がいなかったら、この人さえ違っていたら、と思われますか。
 
 主イエスは、「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。まず、自分の目から丸太を取り除け。そうすればはっきり見えるようになる」と話されました。私たちは自分のことは分からなくとも、人のことは良く見えるものです。ですから、自粛警察のような人も現れます。でも、そんな人こそ自分の目の丸太は見えていないはずですよ。私たちはそのような罠にまるまらずに、人ではなく主なる神を見て、何があっても尚、その先に確かな宝物があると信じて、歩んで参りましょう。

お祈りします。

讃美歌 448番「お招きに応えました」(ご自宅で賛美して頂ければ、幸いです。)

主の祈り

黙  祷

※ 献金についてですが、教会の2020年度の活動を覚えて、貯金箱献金をお願いします。 それぞれのご家庭にある貯金箱に「席上献金」を貯金して、礼拝堂での礼拝がはじまりましたら、お献げ下さい。 ご協力宜しくお願いします。





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成し遂げてくださる神

2020-05-10 09:30:00 | 礼拝説教
2020年5月10日(日)復活節第5主日 母の日)

黙 祷

招 詞 ローマの信徒への手紙8章11節
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

讃美歌226番「輝く日を仰ぐとき」 菊池典子姉


聖書  詩編 57編 1~3節
【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。】
憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。
いと高き神を呼びます/わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。

マタイによる福音書5章17、18節
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

説教 「成し遂げてくださる神」



(以下 原稿です。)

 皆さん、おはようございます。5月10日の主日礼拝の日が与えられました。政府からの緊急事態宣言が、本来であれば5月6日までの予定でしたが、既に皆さんご存知のように、5月31日まで延長されました。
 その為、大塚平安教会の礼拝は、次週の5月17日、次の24日までは礼拝を執り行わないといたしました。31日は、礼拝を執り行えるかもしれません。この礼拝をご覧の皆様のお手元には既に、連絡の葉書か、あるいはメールでのお知らせが届いているかと思います。

 けれど、一方においては明るい兆しが見えて来ました。4月一杯、5月のGWと私たちは精一杯の自粛を行いました。5月に入りますと、天候も安定して、一年の中でも一番過ごしやすい時期となります。今が丁度その時期です。
外で羽を伸ばしたいと思う日が何日もありました。でも、じっと我慢しながら、過ごして参りました。その成果が確かにあったと思われる数字が出ています。コロナウィルスの感染者数が減り、場所によっては、緊急事態が解除される県も出て来ています。
 ですから、長いトンネルの出口が見えて来たと思います。もう暫くの間、特に首都圏に住む私たちは、自粛生活を継続していかなければなりません。それぞれに、もう少し辛抱の中で過ごして参りましょう。

 今日選ばれました聖書箇所は、詩編57編です。この詩編のタイトルはこうあります。「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。」
サムエル記の24章には、ダビデがサウルから逃れて洞穴に隠れていた場面が記されていますが、その箇所の出来事であったかもしれません。けれど正確にはわかりません。

 いずれにしてもサウル王の追っ手に追われて、ダビデが逃げる。
 先週読みました詩編56編は、逃げた先に敵国ペリシテの軍隊がいて、ダビデは絶体絶命の危機の場面の詩編でありました。今日のこの57編も、そのようにしてサウルの手から逃れようとしているダビデの姿が記されます。
ダビデが洞窟に隠れ、一生懸命に主なる神に祈りを捧げている場面だと思われます。
「憐れんで下さい 神よ、憐れんで下さい」という祈りの御言葉で始まり、続く3節には「いと高き神を呼びます。わたしのために何事も成し遂げてくださる神を」と記されます。
今日の説教題を「成し遂げてくださる神」といたしました。どんなに危機的な状況でも、どんなにか忍耐が必要だと思える環境であっても、主により頼む、その思いがあるなら、主なる神は「成し遂げて下さる」それが、ダビデの祈りの心であり、信仰の現れだと思います。

 洞窟でじっと耐えているダビデの姿を思う時、今の私たちの生活と重なるところがあるのではないでしょうか。私たちも、殆ど丸一か月、出来るだけ人と会わないように、家にいるように、ステイ・ホームの日々を過ごしています。それが、自分の為でもあり、人のため、と思いながらじっと耐えています。

 仕事も出来るだけ、自宅で行っているそんな方々も随分とおられるでしょう。先日、ネットに、小さな記事でしたが「自宅で仕事をするようになって、社員には概ね好評、でも上司は不満が多い」といったような記事が出ていました。
社員は上司と一緒に仕事をしないので気楽になり、上司は周りに部下が誰もいないので、イライラしたり、不安感に駆られたり、ということのようでした。
 
 私はなんとなく上司の思いが分かるなぁ、そんな思いが致しました。孤独な思いを感じているのかなぁ。そんな思いを持ちつつ、教会の礼拝堂で礼拝が執り行われないという状況は、もしかしたら牧師が一番動揺しているのではなかろうか、そんなことを思わされました。

 ダビデが洞窟でじっと身を潜めるように、じっと家にいる。身も心も平安の中で休暇を過ごすように家にいる、なら良いのですが、今の状態も不安、先の見通しも不安の中で、しかもじっとしていなければならない。そのような精神状態は体にも心にもよくありません。焦れてくるような思いで、何かしなければならない、何かしなければ落ち着かない。と何もしていない自分を、いつのまにか自分で攻めてしまう思いが沸き上がります。
 
 そんな思いがする中で、ダビデの祈り、その詩編の御言葉は、私の心を捉えました。3節の御言葉です。「いと高き神を呼びます。わたしのために何事も成し遂げて下さる神を。」
 主なる神は、私を忘れることなく、何事をも成し遂げて下さる、とダビデは祈りました。今与えられている状況を自分でなんとかしようと、もがくのではなく、むしろ祈り、そして、主よ、あなたは成し遂げて下さる方だと告白するのです。この成し遂げるとは、「完成する」という意味の言葉です。
 
 マタイによる福音書5章17節で主イエスはこう話しています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」主イエスは、律法や預言者、つまり、旧約聖書の考え方を廃止するためにやって来たのではなく、完成するためにやって来た、と教えられます。
完成は主なる神がなされる、私たちは、いつのまにかこのこと忘れます。忘れてどうなるのか?
旧約聖書の考え方、世界観、すなわち、完成していない律法の世界観の中に落ち込んでしまうのです。
律法は主なる神が、人と神との間に、良い関係を作り上げるために与えて下さった教えですが、それがいつの間にか、人は人との関係の中でばかり見るようになりました。そして、何が起こったかというと、「~でなければならない」、「~してはならない」。ねばならないという考え方で動くようになりました。
あ~、じっとしておられない。何かしなければならない。行動を起こさねばならない。人が人の思いで、完成させなければならないと思うところで、しかし、人は完全ではありませんから、完成は出来ません。そして、そこでイライラしたり、怒りや不安を抱え、神の前に罪を犯すことになる、のではないでしょうか。
主イエスこそが、私は完成するために来たというのです。

 岩手県に住んでいた子どもの頃、父に連れられてあるお寺に行ったことがありました。そのお寺の住職は、当時恐らく80歳を超えていたと思います。既に息子さんがあとを継いでおられた。その住職さんと父が会話をしていたのです。住職は、「私はここにいるだけで、皆さんからありがたいと言われます」と言って笑っていたのをなぜか忘れません。自分がもし80歳を過ぎて元気にしていたら、こういう言葉を言ってみたいなぁ。私は、いるだけでありがたいと言われるんですよ、と言ってみたい、そんなことを牧師仲間に言いますと、いつも笑われ、バカにされます。でも「あなたは、いるだけでいいんだよ」というメッセージは人をどんなに勇気づけることでしょうか。

 私たちはいつの間にか、いるだけではだめだ、と、いつの間にか、自分が決めた律法、人が決めた律法、社会が決めた律法に縛られて、このままではダメだ、このままではダメだ、と律法を秤にして、自分の不十分さをあぶりだして、そして、自分にダメだしをしてしまうのではないですか。
皆さん、そのようにして自分で何とかしよう、としないことです。今日という一日を、喜んで生きることです。ダビデのように、どんな時も祈り、どんな時も前を向き、私たちには主イエス・キリストがおられる。だから大丈夫。そのようにしてこの時期、過ごして参りましょう。

 ドイツの詩人、ゲーテという人は、何よりも勇気を出すことだと教えました。財産を失う、それは僅かを失ったこと。また手に入れればよい、信頼を失う、これは多く失ったことだ、再び得るには努力が必要だろいう。しかし、勇気を失ったことは、全てを失ったことだ、もはや埋葬されるしかないだろう、と教えています。
私たちは、生きる勇気、生きていく勇気を、私たちの人生の完成者である主イエス・キリストから頂いて、この一週間も前を向いて励んで参りましょう。過ごして参りましょう。 お祈りします。

讃美歌 141番「主よ、わが助けよ}(ご自宅で賛美して頂ければ、幸いです。)

主の祈り

黙  祷

※ 献金についてですが、教会の2020年度の活動を覚えて、貯金箱献金をお願いします。 それぞれのご家庭にある貯金箱に「席上献金」を貯金して、礼拝堂での礼拝がはじまりましたら、お献げ下さい。 ご協力宜しくお願いします。

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私の嘆きを数えてくださる神

2020-05-03 09:30:00 | 礼拝説教
2020年5月3日(日) 復活節第4主日 (弟子への委託)

黙 祷
 
招 詞 ヨハネによる福音書11章25~26節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。」
 
讃美歌 508番「救い主 イェスこそは」 菊池典子姉



※ 「サレナム」(Sarennam)は「避けどころ」、「避けどころに隠れる」という意味。

聖 書 詩編56編9節 ローマの信徒への手紙8章31~39節

「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」(詩編56編9節)

説 教 「わたしの嘆きを数えられる神」 菊池丈博牧師



詩編56編9節
ローマの信徒への手紙8章31~39節
 
 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
 「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、 屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙8章31~39節)



 みなさん、おはようございます。今日、5月3日の朝が与えられました。4月7日に「緊急事態宣言」が発令されて、凡そ一か月になります。礼拝もこれまで三回お休みしました。今日で四回目の休みとなります。
新型コロナウィスルの拡大はピークを越えて来たと報道されていますが、予定の5月6日までの「緊急事態宣言」は、更に一か月程継続される見込みです。ここで、私たちがじれて、礼拝を開催しましょうとするのは得策ではないと思います。引続き5月10日、17日までは確実に、恐らく24日までの礼拝もお休みとしたいと考えています。

 出来れば、31日に礼拝は短縮された形でも開催出来るようにと願いますが、難しいもしれません。教会総会を5月中には開催したいと願っていましたが、それも適いそうにありません。けれど、もう一度申し上げますが、ここでじれないようにしましょう。今、私たちに求められているのは忍耐でしょう。

 ローマの信徒への手紙5章に記されているように「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。この御言葉を忘れないようにしましょう。それぞれに置かれているご家庭において、その場において、健康が支えられ、心が支えられ、神様の祝福に預かれますようにと願い、祈っております。

 今日は詩編56編の御言葉です。9節を読みました。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。」とあります。

 詩編56編は、ダビデの詩とあります。表題に「ダビデがガドでペリシテ人に捕らえられたとき」とあります。
 この時の状況は、旧約聖書サムエル記上21章に記されています。

 ダビデはイスラエルの初代の王であるサウル王から狙われていました。
ダビデの人間的な能力の高さから、サウルが妬んだ、とも言えますが、何よりも主の霊がサウルから離れ、ダビデの上にありましたので、サウル王は妬み、というよりは、怒りを持ってダビデの命を狙っていました。サウルの追っ手から逃れ、逃れ、逃れて辿り着いたのは、ペリシテ人が支配するガドと呼ばれる町でありました。
 しかし、その時代、イスラエルとペリシテ人は互いに敵対し戦は止むことがありませんでした。あの少年ダビデが、六アンマ半、すなわち2m90㎝のゴリアトと一対一で勝負した場面はよく知られていますが、ゴリアトこそペリシテ人の兵士でありました。

 ダビデがサウル王から逃れて、辿り着いた先は敵軍であるペリシテの土地でありました。更に、ペリシテ軍に捕らえられてしった。その時の苦しみを神に祈る詩編として詩編56編は記されています。

1節から「神よ、わたしを憐れんでください」と始まり、「わたしは人に踏みにじられています。」と続きます。その通りです。ダビデは仲間であるはずのサウル王から追われ逃げた場所は、敵のペリシテ軍、前も敵、後ろも敵、まさに絶体絶命、八方ふさがり、万事休すの状態です。この時、ダビデの周りはダビデに戦いを挑む者ばかりだったようです。

 皆さん、ダビデの窮地は、今、私たちが置かれている状況によく似ているではありませんか。
 新型コロナウィスルの脅威から逃れるために、緊急事態宣言が発令され、一月経ちました。この一ヶ月間、自粛した効果は確かにあったと思います。しかし、誰もが思っていたより、願っていたより効果があった、わけではありませんでした。ですから政府はもう一か月、この状態でと、伝えようとしています。
 しかし、一方においては、日本の経済状況は、少なくとも戦後、経済成長を遂げて来た日本の社会、私たちの生活の安定が覆されようとしているとも言えるでしょう。これからのひと月、生活が持つのか、と真剣に悩んでいる方々、少なくないと思います。
 私たちの、前には伝染病が後ろには生活苦が、非常に切実で、しかも前には進めない、後ろにも戻れない、そのジレンマというより恐怖が私たちを苦しめているかのように感じるのは、私だけではないと思います。

 けれど皆さん、このような状況でダビデはどう願い、祈ったのか、大切な鍵は人を頼りにしたのではなく、神を頼りとしたということです。
 ダビデに、戦いを挑むのは人です。陥れようとするのも人です。そのような人と人との間にあって、ダビデも悩み私たちもまた悩むのです。
 しかし、ダビデは神を頼りとして祈り続けました。

 9節をもう一度読みます。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。」とあります。「あなたの記録にそれが載っているではありませんか」とあります。
「わたしの嘆き」とありますが、「嘆き」という言葉の元々の意味は「流離い」とか「放浪」という意味があります。ダビデは逃げまどい、流離っていました。
しかし、主なる神はそのようなダビデの嘆き、流離いを数え、その一つ一つを記録しておられる。主なる神は、決してダビデを忘れない方としておられる。そのことをダビデは知っていました。それ故に前にも敵、後ろにも敵、でもなお神に望みを置き、神よ、あなたはこの状況を知っておられるはずだ、記録しておられるはずだと祈り願いました。
 この時、ダビデの祈りは、この世界の、人間の支配からの解放と、主なる神こそが真の支配者であるとの絶大な信頼に置かれていたのだと思います。

人は、この世界は、人が支配していると思うと大きな不安に包まれます。けれど、この世の真の支配者は主なる神、あなたこそが私の神、あなたこそが私の主、その思いが私たちを不安から平安へと、安心へと導いていくのです。
 新約聖書ローマの信徒への手紙8章31節にこうあります。
「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。少し飛んで、35節には「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
 更に38節に飛びますが、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 皆さん、ローマ書は使徒パウロという人が記した手紙です。パウロが福音宣教の為に、どれほど苦労して、どれほど酷い目にあい、どれほど苦難したのか、ここでは申し上げませんが、聖書を読む者には良く知られるところです。
 
 パウロは、「死も命も」と記しました。自分が死ぬとしても生きるとしても、です。もうどちらでも神様、あなたがあなたの望むままに、この私を用いてください。私がなすべき道は既に与えられ、既にあなたによって支えられています。だから、何も恐れず、私は歩んでいける。それがパウロの姿でした。
 けれど、その背景は詩編のダビデと同じように、前にも敵、後ろにも敵という状況であったことも確かです。でも、心に揺るぎはありませんでした。
 
 私たちが、今なすべきことは人の命を守ることです。政府がそう言っているからでもなく、人の命令だからでもなく、むしろ愛を持ってそのように生きていきましょう。経済的なひっ迫が後ろから追いかけて来ます。けれど焦ってはなりません。医療崩壊は、感染者によってではなく、愛の足りない人々によってこそ起こることを忘れてはなりません。

 私たちは神の愛に包まれて、安心して、だからしっかりと用心しながら、この5月を過ごして行きましょう。神様は私たちの嘆きを、流離い、放浪をしっかりと記録しておられ、全てをご存知です。だからこの方から離れず、この一週間もしっかりと平安の内に過ごして参りましょう。 
 お祈りします。

讃美歌 512番「主よ、献げます」(ご自宅で賛美して頂ければ、幸いです。

主の祈り

黙  祷

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