日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

主の御言葉

2021-05-09 11:47:49 | 礼拝説教
【詩編110編1~7節】
【ルカによる福音書20章41~44節】


 今日は五月の第二日曜日です。週報にも記してありますが、「母の日」の礼拝となります。

既に多くの方がご存知のように、母の日と大塚平安教会とは、深い関わりがあります。幼稚園の門に、像が立てられています。ウイニフレッド・ドレーパー先生の像です。ドレーパー先生が幼子の手を引いています。像の台には石板がありまして、文字が記されています。
 
「信仰・希望・愛」と記され、その下にはマルコによる福音書から「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と記されています。
更にはドレーパー先生の簡単なプロフィールが記されています。ギデオン・ドレーパー宣教師夫妻の娘として日本で生まれ、昭和初期より神奈川県県央地域にてキリスト教の宣教活動に尽力し、現在の大塚平安教会の礎を築く。とあります。特にこの地域の子ども達を集めて託児所を開設し、幼児教育に目を注がれた様子が記されています。
 
 そのようなドレーパー先生の働きを偲びつつ、ドレーパー記念幼稚園が今から凡そ60年程前に、この地に誕生したわけですが、ウイニフレッド・ドレーパー先生のお母さんがマイラ・ドレーパー先生と言いまして、マイラ先生が青山学院で教えていた時代の、1913年、大正2年に、日本で初めて青山学院で母の日の礼拝を行い、「母の日」を伝えたと言われています。

 その娘がこの地域で子ども達を集め、子ども達に神様の愛を伝え、子ども達と共に遊び、過ごしてくださった。私達の教会の心の原風景ともなる場面ではないでしょうか。特に、ウイニフレッド・ドレーパー先生は日本で生まれ、日本育ちですから言葉の問題も殆ど無かったろうと思われます。

 当時としては大変珍しい、外国の若い女性が自分達の先生だと思うだけでも、子ども達はどんなにか誇らしかっただろうとも思います。残念ながら、その当時の記録と言えるような記録は残っていませんのでこれ以上のことは申し上げられませんが、ドレーパー先生のお働きは、子ども達と繋がるだけでもなく、地域の人々にも受け入れられ、良い関係を築き上げていったのではないでしょうか。

 毎月、幼稚園が「園だより」を発行していますが、園だよりに聖書の御言葉の欄を私が担っています。五月はヨハネの手紙3章から「神は愛である」という御言葉について記しました。
 私達の国、だけでもなく、今、世界中はコロナ禍の中で生きています。今のこの時代はこれから100年後、200年後、更にその先と、人類が新型コロナウィルスによって、実に多くの人々が感染し、何百万人もの人々が召され
て行ったと伝えられることになるでしょう。

 私達の国も、コロナ禍にあって、緊急事態宣言の延長が報道されました。思えば今年の1月、正月過ぎに緊急事態宣言が出され、それが3月末まで続き、終わって、ホッとしたのも束の間、4月末からまた緊急事態宣言となりました。私達の地域はギリギリ宣言下ではありませんが、厳しい状況は少しも変わりません。

 更に、宣言下、連日、行政のトップである大臣や知事が記者会見を開き、状況を話し、自粛を求めていますが、既に自粛疲れもあり、行政の言いなりばかりにもなれないと思う人たちも大勢いるように思います。どうしてなのか、法律をどうこうしようという動きも出ているようですが、スピードはのろく、この状況で、オリンピックは開催するのか、開催したとして、医療体制が確保できるのか、本当に開催できるのかどうか、不安要素が沢山あるように思われる。

 何がいけないのか、私は園だよりに、行政の「愛」が足りないのではないかと記しました。愛をもって国民に訴えかけているのかどうか、責任ある者の言葉、その行動に「愛」を感じることが出来るなら、私は、多くの人が我慢しましょうとなるのではないかと思うのです。どんなに言葉を並べるとしても、愛を感じなければ心に響いて来ないのではないか。でも、そこに愛を感じることが出来たなら、人々は愛に応えようとするのではないでしょうか。
 
 今日は詩編の110編を読みました。短い詩編です。短いですがこの詩編は、神を信じつつ、旧約聖書を読んでいた人々にとって、大切な詩編でありました。最初に「わが主に賜った主の御言葉」とあります。ここに主という言葉が二度使われていますから、私達には分かりにくいのですが、分かり易くするとすれば、「わが主人である王に賜った、主なる神の御言葉」となるようです。(永遠なる神の御言葉)とある。
 
 主なる神が、当時の王、タイトルが「ダビデの詩」とありますから、ダビデかもしれませんし、その子のソロモン王であるかもしれません。いずれにしてもその時代の王に、主なる神が伝えたのです。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵を、あなたの足台としよう。」
 主なる神が、王を愛し、イスラエルの民を愛して、王よ、私はあなたといつも共にいる、という愛を示して下さった詩編として記されています。後の時代、主イエスを知る者にとって、更にこの詩編に登場する主なる王こそ、自分達のメシア、救い主である、主イエスであると読み直され、理解し直されて、それ故に更に人々に愛された詩編として110編があります。主なる神がいつも私達と共にいて下さるのだという安心と、神の祝福を感じる詩編でもあります。

 そのような神が遣わして下さった王としての主イエス、しかし、与えられた王としての立場、自分の地位を守るために、奔走する王ではなく、民を愛し、人々を愛して下さる王としての主イエス。私たちは主の祈りにおいては、「天にまします我らの父よ」と祈ります。神は父親のような人と連想出来ます。けれど一方においては、神の愛は、母の愛に似ているとも言われます。カトリック教会は、どの教会にいっても必ず主イエスの母、マリア像が置かれています。まことに優しそうな慈愛に満ちた顔立ちのマリアです。神の愛がマリアの姿と重なる、そのほうが分かり易いかもしれませんし、私はそれも許されると思います。許されると思いますが、そこで終わるのではなく、より一層マリアより生まれ、神の子として誕生された、主イエスの愛がどれだけ深く、慈しみに満ちているかを私達は知る必要があるのではないでしょうか。

 多くの皆さんがご存知のように、私の母は今、相模原市にある、といっても殆ど山梨県境にある病院に入院しています。昨年の暮れに骨折して入院して以来、コロナ禍の中で、数回しか会っていませんから、私のことを覚えているかどうか分かりません。

 今から8年程前に、岩手からやって来まして我が家の家族として一緒に過ごしてまいりました。認知症が進みまして、次第に世話をする、話をすることが大変でした。私自身が自分の母親だと思うと悲しくもなり、時には怒りも出て来るのです。でも、元気な頃の母を思い、母の愛を思い出しながら接してきました。
 けれど、ある時から、それだけでは世話が出来ないと気付いたのです。自分の母親だと思うと腹が立つのです。でも病気を患った一人の女性として世話をしないと自分の心が持たなくなると気付いた時がありました。母であることを忘れなければならないと気付いたのです。でも、そう思えた時に、とても自分が楽になりました。楽になり、話をしたり、世話をしたり、続けることが出来たのです。
 
 海よりも深い山よりも高い母の愛とも言います。でも、私は母の愛よりも、更に深い神の愛を思います。

 イザヤ書49章15節にこうあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」

 神様の愛が、自分を捕らえ、神の愛が自分を捕まえていて下さっていたから、母を迎え入れ、母とも共に過ごすことが出来、世話をし続けられていると思います。勿論、教会の多くの皆さんにどれほど助けられたのは言うまでもありません。
 母がこれからどうなっていくか分かりませんが、最後の最後まで「生きてきて良かった」と思ってくれるならと願っています。

 私達もまた、主なる神の御前にあって、私達に与えられた人生を生き抜いて、神様、あなたの愛によって、私は生きてきました。私は生きて来て本当に良かったと、あなたが共にいてくださって本当に良かったと、祈れるように生きていきましょう。コロナ禍にあって、尚慎重に、でも、しっかりと希望をもって過ごして参りましょう。
 
 お祈りします。
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口をもって、感謝を献げ

2021-05-03 09:23:12 | 礼拝説教
【詩編109編21~31節】
【ペトロの手紙一 3章8~12節】

  先日、4月に大学生になった娘が、歯医者で親知らずを抜く、という日がありました。近くの歯医者から大和の歯医者を紹介されまして、午後に出かけていきました。心配していましたが、手術は20分程で終わって順調だったようです。それで、今から帰るとメールで連絡があり、帰宅を待っていましたが、なかなか帰って来ないのです。

 どうしたかなと思いましたら、途中で通学定期を落としたらしい。今はパスモというカードが定期券になっているわけで、詳しくは分かりませんが、定期を探して、病院から駅までの道のりを歩き、また、駅で探していたのかもしれません。でも見つけられず、ほとほと疲れたから家に帰るというのです。
 
 大和の駅に行って駅員に説明して、相談したら良いと家内もメールしたようですが、メールを見たのか、見ないのか家に帰って来てしまいました。
 
 思えば、口は手術したばかりで、顔周りには麻酔が残っているし、痛み止めは飲んでいるし、定期は落とした。どれだけ心が折れて帰って来たかと思います。それでも半年分の定期券ですから5万円程入っていますから、(おお~)知らんぷり出来ないだろうと、駅に行って状況を話して来なさいと言いましたら、とうとう泣いてしまいました。しまったと思いつつ、家内も私もオロオロしたわけでありました。
 口は痛いし、定期は落とすし、心は折れるし、親は怒るし、泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、弱り目に祟り目であったと思います。

 落ち着いて考えてみると家内も私も、同じように定期を落としたり、財布を紛失して慌てたり、怒ったり、落ち込んだりしたこれまで何度も経験があるわけです、その時のことを思いますと、どんなに精神的に辛く、悲しいものであるか、理解は出来るのですが、人は人の失態には冷たいもので、誰も自分の心を分かってくれないと悲しくなったかもしれません。こんな日は自分がどんなに不幸なのかと思ったりしたかもしれません。
 
 今日は、新約聖書ペトロの手紙3章という箇所を読みました。3章10節にこう記されています。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」

 幸せな日々を過ごしたい人とあります、言語的には、「幸せな日々を見たい人」のほうがより近いようです。先週木曜日は一日中雨が続きましたが、金曜日はカラリと晴れました。晴れた空を見るだけで幸せを感じるものです。なぜかといえば、雨の間は、晴れた空を見失っていたからでしょう。
 
 晴れた日が何日も続くと、雨が欲しくなります。雨を失っているからです。
人は健康な時は、健康が幸せだと感じることは滅多にありません。けれど、病気になった、怪我をした、入院した、健康を見失った時、どれほど健康が幸せなのかと改めて思うものです。
 
 見失うものなく、出来るなら幸せに暮らしていきたい。出来るならば幸いを生きていきたい。そんな思いは信仰のある、なしにかかわらず、私達の誰もが思う願いではないでしょうか。
 
 これまた十日程前のことでした。晴れた気持ちの良い日に、教会の前のベンチに幼稚園の保護者のお母さんが二人座って話していました。少し暗い印象でしたので、どうしたかなと声をかけましたら、子育てで悩んでいるというのです。それなら聖書に親しむ会にでも来たら良いでしょうとお勧めしましたら、とてもそんなところでは話せませんというのです。いや、来ているお母さん方はなんでも話しますよ、と答えましたが、泣いてしまいそうだから恥ずかしいと言っていました。
 独身の時は、結婚こそが幸せだと思うものです。結婚したら、子どもが授かってこそと思うものです。子どもが授かったら幸せかというと、子育てがなんでこんなに思う通りにいかないのだろうと、私たちは不思議なほどに、与えられた幸せを生きるよりも、これもない、あれもないと思い悩むのだと思います。

 幸せな日々を過ごしたいと人は、「舌を制して」、「悪を言わず」、「善を行い」とあります。実際の所、「悪を言わない」これだけでもどれほど大変かと思います。私たちは悪を言われたら、悪で返したくなります。意地悪されたら、やっぱり意地悪したくなるものです。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えて下さいました。それが信仰を持つ者の生き方だと理性の部分では分かっています。分かっているつもりです。そのようにして生きた信仰の先達も多くいることを私たちは知っています。
 
 先ほど読みました詩編109編の作者、タイトルにダビデの詩とありますからダビデかもしれませんし、違うとしても恐らく社会的にはそれなりに地位を持っていた人だろうと考えられています。けれど、社会的な地位を持っている、それなりに責任がある人は、敵も多いものです。

 今日は109編の後半部分を読みましたが、聖書をお持ちの方は開いてみるとわかりますが(951頁)、8節から20節までが、段落が低く設定されています。
 
 どうしてかというと詩編の作者には何らかの敵がいて、その敵が作者に対して呪いの祈りを献げているという設定だからです。8節からの所を少し読みますと「彼の生涯は短くされ 地位は他人に取り上げられ 子らはみなしごとなり 妻はやもめとなるがよい」とあります。彼とは詩編の作者のことです。彼に対してずっと呪いの言葉が続きます。そのまま21節まできて、作者自らが「主よ、わたしの神よ 御名のために、わたしに計らい 恵み深く、慈しみによって わたしを助けてください」と改めて主なる神に祈っている、そういう構成をして詩編を綴っているのが109編です。
 
 この詩編は後半になれば、なるほどに心が高まり、28節には「彼らは呪いますが あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥におとされますが あなたの僕は喜び祝います。」とあり、更に30節「わたしはこの口をもって 主に尽きぬ感謝をささげ 多くの人の中で主を賛美します。」と祈りが続きます。
 
 この祈りの言葉に、詩編の作者の信仰が示されているのでしょう。与えられている状況の中で、幸せを探し求め、無いものを求め、訴えることも私たちは許されているでしょう。敵と思われる者の呪いの言葉に対して、更に数倍の懲らしめをと願うことも許されているでしょう。でも、この作者は、「わたしはこの口をもって、主に尽きぬ感謝をささげる」と告げました。敵が呪うとしても、悪さしてくるとしても、でも、神に感謝をささげる、それが何より、幸せに生きる秘訣だと、彼は分かっていたのだと思います。

 話は最初に戻りますが、娘の定期は、夜になって駅から電話が入りまして、誰かが届けていたことが分かりました。私は勿論、良かったと思いましたし、娘も喜んで心を取り戻したようでしたけれど、私はその後も暫く心が引っかかっていました。ロマ書12章には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。一緒になって泣いて、一緒になって喜べなかったかなと思いました。5万円と思うと、なかなかねぇ。(笑)

 私たちが与えられている状態、今は何より新型コロナウィルス感染の脅威でありましょう。インドでは毎日30万人以上の方が感染し、医療が崩壊している様子がテレビに映し出されています。それが日本で起こらないとは限りません。けれど一方では自粛疲れもありますし、経済が停滞している不安は私達の生活と直結しています。更にはオリンピックもこのまま開催するのかもしれませんし、願いのワクチンもオリンピックまでに届くのかどうかよく分かりません。

 私達の周りにこれほど不安材料が積みあがっている状況は、少なくとも戦後無かったかもしれません。人の不安や悲しみは怒りとなり、怒りは増幅されて争いを引き起こします。けれど皆さん、私たちは状況、状況に翻弄されることなく、願わくは、主なる神に祈り、人の怒り、人の呪いに屈することなく、舌を制して、悪を言わず、悪から遠ざかり、善を行い 平和を願って過ごしていきましょう。

 わたしはこの口をもって、主に尽きぬ感謝をささげと告げた詩編の作者のように、主なる神を見つめて、生きて参りましょう。

 私達の教会も、なんとか無事に教会総会が終了し、いよいよ2021年度が始まっています。感謝と希望をもって一日を過ごしてまいりましょう。


 お祈りします。
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確かな心

2021-04-25 12:30:07 | 礼拝説教
【詩編108編1~7節】
【ローマの信徒への手紙5章6~11節】

 年に四回程発行される「教団ジャーナル」という内部会報誌と言いますか、情報誌といいますか、12頁のものですが教会に届きました。私はあまり丁寧に読む方ではありませんが、説教のページに台湾に宣教師として派遣されている、うすきみどり先生の説教が記されていました。
 
 うすき先生とは、今から25年程前に、日本基督教団と、スイスの教会との宣教協力の一環として、日本からスイスに派遣されたメンバーで一緒になりまして、その後は、殆ど交流が無かったのですが、牧師として台湾の国際日本語教会に派遣されまして、長く台湾で活躍しておられることは知っておりました。

 名前を見て、懐かしく感じながら読みましたが、コロナ禍の中の台湾の教会について記されてありました。まず礼拝を休むことについて、台湾では年に数回礼拝を休む時があるそうです。いつかというと、台風がやって来た時、私達の国も年に数回台風が来て、大きな被害が出ますけれど、それでも教会が休むまではいきません。ですから、うすき先生も牧師一人でも礼拝は守ると意気込んでいたそうですが、台湾に来る台風は凄まじいようで、政府が国民に休むよう指示を出すそうです。命を守ることが大切だと教会員に諭されたとありました。

 マルコによる福音書3章に記されている安息日の礼拝堂に、手の萎えた人が座っていた、その様子を見て主イエスは「真ん中に立ちなさい」と言われた。人々は主イエスを注目していた、そのような人々に主はこう言われました。「安息日に律法で許されていることは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」
 うすき先生はこの箇所から、安息日に律法で許されているのは、何よりも命を救うことではないのか。なんとしても礼拝を守ろうとして、頑なな心となり、命を殺すようなことがあってはならないと告げておられました。私自身が読みながら「ハッと」させられるような思いでありました。

 東京に今日からコロナウィルスによる緊急事態宣言が出されました。神奈川県は分かりませんけれど、大丈夫とは言えないと思います。非常に厳しい状況で私たちは礼拝を守っておりますが、これからも神様から与えられた命を救うために、私たちは祈りつつ、より慎重に行動していかねばならないと改めて思います。
 
 説教はその続きがありまして、記してある文書をそのまま読みますと、こう記されています。
「台湾の政治家は国と民を愛していると、うちの教会の日本人の長老が言われた。国のリーダー達と民が信頼し合い、互いに応援し合いならが働く様に胸があつくなりながら、教会のあり方はどうかと振り返る」

 今、台湾の政治情勢について述べる暇はありませんけれど、「台湾の政治家は国と民を愛している。互いに信頼し、応援し合っている」と説教の中で言える。これは凄いことだと思います。日本の教会の牧師が説教でこんな言葉を言える人がどれだけいるだろうかと思います。
 調べましたが、4月9日時点で、コロナの感染者が累計ですよ、1050人、死者10人、治療中の人33人とありました。そんな状況において、国民は安心して政策を受け入れているともありました。

 国と国民が安心できる、信頼できる、そのような関係を私達の国でも是非と願います。しかしまた、その為にも、この礼拝においては、私たちは主なる神との確かな関係を改めて見直していく、それも大切だと思います。

 今日は詩編108編を読みました。2節からの御言葉にこうあります。「神よ、わたしの心は確かです。わたしは讃美の歌を歌います。「わたしの誉れよ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」この詩編はダビデの詩とタイトルが付けられていますが、ダビデが主なる神に対する思い、その信頼をより強く、より確かな思いを持って歌い上げている様子が記されています。
 
 詩編108編、特に読みました前半の箇所は、詩編57編からの引用と言われます。詩編57編8節~12節を引用して詩編を作り上げているようです。どうしてそうしたのかよく分かりません。けれど、57編の詩編は、「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいた時」というタイトルが付けられた詩編で、より具体的にダビデの様子が分かります。
 
 サムエル記という箇所に記されているのは、ダビデがサウル王の追っ手から逃れて、エン・ゲディと呼ばれる荒野の洞窟にたどり着きます。サウル王にその情報を伝える者があり、サウルは三千人の兵士を率い てダビデを追跡しエン・ゲディの荒野に向かいます。そこでサウルは、気が付かないまま、ダビデが潜んでいた洞窟に一人で入って行くことになります。
ダビデにしてみれば、サウルを仕留めるに、絶好の場面がやって来たのです。ダビデの兵は、今こそ主なる神が与えてくださった時と、サウルを襲いましょうといきり立つのですが、ダビデは彼らを勇めて、危害を加えてはならないと告げるのです。
 そんな出来事に気が付かないまま、洞窟を出たサウルの後を追って、ダビデも洞窟を出て、サウルに声をかけます。「わが主君、王よ。」サウルは驚いて振り向きます。その時ダビデは地に伏して言葉を告げました。「今、あなたを狙おうと思えば、出来たけれど、王よ、私は決してあなたの命を狙うようなことはしない。なぜなら主なる神が油を注がれた方ですから」と訴え出るのです。
 サウルは驚きと共に、ダビデの言葉に感動して涙を流し、「わが子ダビデよ、お前はわたしよりも正しい。お前はわたしに善意をもって対した。今、私は悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立されることになろう」とダビデに告げました。
 
 ダビデはサウル王に追われて、洞窟に隠れていました。いつ見つかるか、いつ殺されるか、神様、絶体絶命です。助けてくださいと必死に祈っていたと思います。けれど一方では、ダビデは自分の心を失ってはいませんでした。むしろ詩編に「神よ、わたしの心は確かです。わたしは讃美の歌をうたいます。」とあるように、与えられている状況によらず、主なる神との関係をより強く、より確かなものへと気持ちを集中し、主なる神に信頼を置き続けていたと思います。
主なる神に対する確かな心、全幅の信頼を持って、サウルに対峙し、主を見上げて生きたからこそ、ダビデが王となる道は開けていったのでありましょう。

 新約聖書ローマの信徒への手紙5章を読みました。8節の御言葉を読みます。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
 キリストがわたしたちのために死んでくださった、それは、ダビデが神を見上げて、サウルを殺してしまうのではなく、サウルの前にひれ伏し、自分が死んで、サウルを生かそうとしたように、神に対する確かな信頼無くしてはなし得ないことだと思います。

 先週、一冊の本を読みました。短いエッセイのような小説でした。その小説の中に、本当にエッセイストの女性が出てきました。その女性はフランスで長く過ごし、フランス人の彼氏がいる。彼氏は毎日、「愛しているよ」「愛しているよ」と言って来るのです。でも、日本人の彼女は、日本人はそんなに簡単に「愛している」などとは言わない、それどころか生涯に一度も言わない人も大勢いるはずだと思い、彼の軽薄さに耐えきれず、ついに決心してフランス人の彼から離れて日本に帰国してしまうのです。
 けれど、それから5年後、フランス人の彼が、彼女を追って日本にやって来て、語学教師をしながら日本で彼女をずっと探し続けていたことが分かるのです。なぜ、分かったのか、その女性が「愛していると日本人は言わない」というエッセイを書いたからです。
 たまたま、その文章を読んだ彼は、自分のことを書いたのではないかと、連絡があり、ついに繋がり、5年の間、彼の「愛している」はゆるぎないものであったと分かり結ばれていくのです。単純と言えば、単純な内容です。
 
 私たちが思う、私達が日頃感じている「愛」はどこかで信用できないものかもしれません。恋人に対しても、家族に対しても、隣人に対しては尚更です。人の愛はめったなことでは信用出来ません。
でも、神の愛は違います。キリストは私達に対して、死ぬほどに、というより、死んでくださったことにより、神の愛を示されました。私達に対して、愛とはこういうことだと教えて下さいました。
 この方の愛無くしては、私たちは、今与えられている状況を乗り越えるのは難しいかもしれません。けれど、既に私達に神の愛は御言葉を通して伝えられているのです。キリストが命を失う程の愛を示してくださって、あなた方は生きろと言われる神を御前にして、感謝して、この一週間も過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。

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望みの港に導かれて

2021-04-18 12:28:30 | 礼拝説教
詩編107編23~32節
マルコによる福音書4章35~41節

 詩編107編23節からの箇所を読みました。今日の説教題を「望みの港に導かれて」としましたが、30節に記された御言葉から付けたタイトルであります。
 詩編107編は43節まで記される割合に長い詩編です。丁寧に読むとしたら四つに分類して読むことが出来ると注解書にありました。
 
 なぜ、四つかというと、この詩編にはキーワードとなる御言葉がありまして、6節、13節、19節、28節に殆ど同じような御言葉が記さています。6節を読みますと「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。」とあります。13節には「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らの苦しみに救いを与えられた」とあります。19節、28節もほぼ同様の御言葉が記さていまして、つまり同じ御言葉が四回繰り返されている。それで四つに分類してとなるわけです。

 中を読みますと最初は砂漠の中にいる民が叫ぶ、二度目は貧困と鉄の枷の中で叫ぶ、三度目は、背きと罪の故に叫ぶ、四番目は海の嵐の中で、苦難の中からイスラエルの民が叫ぶのです。状況がそれぞれ違って記されています。けれど内容としては一つです。

 この詩編はイスラエルの民が何らかの苦難を体験していた。恐らくバビロン捕囚の出来事に関係しているであろう。イスラエルの民が、バビロンとの戦いに敗れ、捕囚の民となり、その苦難を主に叫び続けた。凡そ50年後、ついにその叫びは主なる神の耳に入り、神は、民を苦しみから救い、導き出してくださった。その出来事を思い、神に感謝を持って歌い上げている、そのような神の働き、神の業を思い讃美を献げている、それが詩編107編の内容となります。

 特に先ほど読みました23節以下の場面では、イスラエルの民が船で旅する貿易商と設定されています。彼らは大海を渡って商う者となった。けれど、嵐が起こり、波が高くなり、彼らは天に上り、深淵に下り、つまり嵐となったということでしょう。そうなると人のどのような知恵も呑み込まれてしまい、もはや打つ手無し、万事休すとなり「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出され」そして、「望みの港に導かれていった。主に感謝せよ」となるわけです。
 
 私が持っている聖書の一つは「望みの港」が「望みの天」とありました。主なる神はイスラエルを、嵐の中から天の国、神のもとへとぐいっと引っ張り上げてくださった。
 
 嵐の中から、いきなり天の国ですからね。人々からすればバビロンからの解放は、そう思える程の奇跡としか思えない出来事だったと思います。苦しみの谷が深ければ深い程に、喜びの峰は高いと言われますけれど、その格差が人に感動を与え、あるいは信仰を深める働きとなったとも言えるでしょう。
捕囚の民となっていた人々が解放され、自分達の土地に帰り、主に感謝の礼拝を献げられる喜び、どれほどの感動を持って礼拝を献げたことであろうかと思います。
 
 4月に入りまして、緊急事態宣言も解けて教会の礼拝がなんとか再開されています。段々とまた怪しい雰囲気となっていますけれど、なんとか続けていきたいと願っています。教会の礼拝だけでもなく、綾瀬ホーム、さがみ野ホームでの礼拝も再開しました。4月1日には、綾瀬ホームでクリスマス礼拝以来、の礼拝を行いました。丁度桜が満開で、ホームの庭にある桜の木の下での礼拝となりましたが、3か月ぶりの綾瀬ホームです。外で礼拝の準備をしておりましたら、中の良い利用者の女性の方でしたが、私を見つけて、感動したのでしょう。喜んでね「菊池先生~」と叫びながら、子どものように、抱き着いて来られた。私も驚きましたが、職員の方も、こんな姿これまで見たことないと驚いておられました。それから一緒になって礼拝を献げましたけれど、人の思いを越えたところで、思いがけない感動がそこに生まれるのだと思います。

 神が与えてくださる奇跡は、驚きと共に私達に感動を与えます。人生成功の秘訣は何か、それは人に感動を与えることですと、偉い先生は話されました。このラーメン、思っていたより美味いなぁ。こんな仕事をされるなんて思っていたより凄いなぁ、そのようにして人に感動を与えることが出来たなら、そこに成功の秘訣があるようです。

 主イエスが与えてくださった感動、奇跡の物語として、今日はマルコによる福音書から「突風を静める」という箇所を読みました。夕方になってイエス様が「向こう岸にわたろう」と言われ、弟子達と共に舟で漕ぎ出しました。時間的には既に夕暮れか、もっと遅い暗い時間だったでしょう。突然に激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになる程でありました。弟子たちの中には漁師もいましたが、それでも、大分慌ての様子が見て取れます。殆ど諦めながら、漕ぐのを止めて、艫の方で枕をして寝ていた主を起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」大混乱だったかもしれません。

 主イエスは、起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になったというのです。主は弟子たちに向かって「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われました。弟子たちは非常に恐れて「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったとあります。

 嵐の中を進む舟、それはあたかもコロナ禍を生きる私達の社会でもあり、私達の教会もそうだと言えるのではないでしょうか。2021年度が始まっています。礼拝の後には皆さんの週報ボックスに総会資料が入っているはずです。来週、出来るだけ短く教会総会を行いたいと思いますので、是非、この一週間で資料を読んで下さればと願いますが、数年前から教会資料の最後に、一年間の年間スケジュールを入れるようにしていました。今回も入れましたけれど、2021年度は、実際の所、色々な予定を書き入れないまま印刷しました。
 けれど、それは何もしないというわけではなく、決めきれないでいますという意味です。テレビ、報道などでは夏のオリンピックは本当に行われるのかと言われていたりしますが、これほど先が見えない状況はコロナ前の時代では考えられないことでありました。
 
 しかし、ここで改めて思わされていること、また互いに確認しあうこと、それは教会の歩みは、主イエス・キリストの働きに参加させていただているということです。主イエスが教会の歴史をつくり、神の歴史をつくられ、その働きに私たちは召され、参加させていただいているのです。
 教会が年間計画を練りに練る。それも実に大切だと思います。けれどそこで逆に体験するのは、自分達の計画にない出来事が時として起こるのです。計画は違うと腹を立てたくなるような全く違ったことが起こる。けれど、そこで求められるのは、そこで尚、働き続ける思いであろうと思います。
 
 主イエスは弟子たちに対して「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と話されました。弟子たちは嵐に恐れて神を信じきれず、神の奇跡の業を見てもなお信じられないと思ったのです。そんな弟子を笑うわけにはいきません。それは私達の姿ではないでしょうか。
 
 今、私達の社会も、私達の教会も、いわば嵐の中を進んでいると言えるでしょう。神様がおられるならなぜこんなことが起こるのかとつぶやきたくもなります。頼りのワクチンも予定よりは大分遅れているようです。でも、人の業とはそのようなものでもあります。この嵐の先に、私達がやっぱり信じられないと思う程の神様の感動する業が働くかもしれません。神様ならそうさるでしょう。

 でもだから、大丈夫、だから安心して何もしないではなく、嵐の中だからこそ、必死になって私たちは漕ぎ続けていきましょう。がむしゃらに、どこに向かうかは分からないとしても、漕ぎ続けていきましょう。漕ぎ続けるその先に、必ず神の「望みの港」が備えられていると信じて、神の「望みの天」に引き上げられることを信じて、そして、大きな感動を持って、本当に漕ぎ続けて来て良かったと皆が笑顔で語り合える時まで、励んで参りましょう。
 神の時は必ずやって来きます。その時を目指して、互いに信仰を養い、今もまた祝福と感謝しながら過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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忍耐される神

2021-04-13 10:02:36 | 礼拝説教
【詩編106編39~48節】
【ヨハネによる福音書20章24~29節】


 キリスト教の信仰について考える時、避けて通れない大きな問題に「罪」とは何かという問いがあります。今、教会のSさんが、神学校の4年生となりまして、最後の大切な一年を過ごそうとしていますが、神学校においても、キリスト教が伝えるところの「罪」とは何か、そのようなテーマの授業は一つや二つではないと思います。古来、多くの偉大な神学者と言われた人々も、罪とは何か、問い続けて来ました。

 古代のキリスト教世界最大の神学者と言われるアウグスティヌスが、「告白」という書物を記しました。その中にアウグスティヌス16歳の時に、梨の木から実を盗んで、豚にやったり、自分で食べたりしたという文章があります。十戒には「盗んではならない」とありますが、なんと自分は罪人であったと嘆いている、盗んだ梨は美味しくなかったとありました。「神よ、わたしはあなたから離れました」とあります。梨を盗んで、回心した後でしょうけれど、神よと、嘆くわけですからアウグスティヌスも凄いなと思います。大事なところは、罪とは神から離れようとすること、というところでしょう。罪とは神様から離れていこうとすることですよと説教で話し、また、私たちは聞くわけですけれど、そうだなと思いながらも、私は梨も盗んだことも無し(笑)、それでもまたどこかでストンと心に落ちない問いとして、「罪」という問題が私達に与えられているのかもしれません。

 でも、どれだけ人が神から離れようとするのか、今日読みました詩編106編は人の罪について考えることが出来る聖書箇所だと言っても良いと思います。

 先週のイースター礼拝では詩編105編を読みました。そこには創世記に記されているアブラハム、イサク、ヤコブに主なる神が約束をし、契約を交わされたとあります。彼らは神様との契約を信じ、あなた方の子孫は空の星程になると、海の砂の数ほどになるよという約束を信じて、そして生きた偉大な信仰の先達であった、そのことを詩編105編が記し、更にヤコブの子どもであるヨセフがエジプトで大臣になって、子孫が増え、それから数百年後、奴隷とされたイスラエルがモーセによって出エジプトを果たしました、神様、ハレルヤという、いわばイスラエルの神と人との歴史が綴られているそれが詩編105編です。

 106編はその続きの詩編ですけれど、105編とは対照的に記されていまして、出エジプトを果たしたイスラエルの民は頑固な民で、神に対して、何度も罪を繰り返す民であった、その内容が記されています。
主エジプトを果たした民に対して、前は海、後ろは追いかけてきたエジプト軍、絶体絶命の民は、モーセに叫ぶのです。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何のためにエジプトから導き出したのですか。」出たのは良いが、ここで死んでしまうと思ったのでしょう。不平不満の嵐ですよ。

 二つ目は、その後、神様の力により葦の海の奇跡の出来事が起こり、海が割れてイスラエルの民は、その中を無事に渡り、渡り終わった時には、讃美の歌声、大合唱だったのですが、食べものが無くなった途端に、「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、キュウリやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。」とぶつぶつ言いだしたとあります。
 
 三つ目は、106編で言えば16節17節、主が立てられた指導者であるモーセを信用しないで、更には仲間割れを起こす。四つ目は、106編19節「彼らはホレブで子牛の像を造り鋳た像に向かってひれ伏した」とありますように、モーセが山に登っている間に、待ちきれなくなった民が、金の子牛を神として崇めたという場面が記されています。
 五つ目は24節以降ですが、目的の土地である、カナンの土地に到着したにも関わらず、御言葉を拒み、信じることをせず、ついにカナンの土地に入ることをしなかったという罪、六つ目は偶像礼拝の罪、七つ目は「メリバの水のほとりで主を怒らせた」という罪、そして八つ目は、カナンの土地に入ったのに、主の御言葉を聞こうとしなかったという罪、詩編106編は、事が起こる度にイスラエルの民が主の前に頑なで、言うことを聞かなかった出来事が、延々と綴られているわけです。

 神から離れる罪とはこういうことだと、後の世代の人々に対して、この詩編の作者は訴えかけようとしたのかもしれません。
 
 先ほど、罪とは、神様から離れようとするところにあると申しましたけれど、具体的には、神と人との関係、人と人との関係が現れる場において「否定的、破壊的」な考え方、物の言い方、その行動において人の罪が明らかにされるのではないかと改めて思います。

けれど詩編106編は人の罪とはどういうことかを明らかにしながら、尚、大切なところは、主なる神が人の罪に対してどれほど忍耐されたか、という点です。先ほど後半の39節からを読みましたが、43節から読みますとこうあります。「主は幾度も彼らを助け出そうされたが 彼らは犯行し、思うままにふるまい 自分たちの罪によって堕落した。主はなお、災いにある彼らを顧み その叫びを聞き 彼らに対する契約を思い起こし 彼らをとりこにしたすべての者が 彼らを憐れむように計らわれた。」

 主なる神様が、イスラエルの人々に対して、その罪に対してどれほど忍耐をされて、耐えて、導こうとしたかということ、このことを詩編の作者は何よりも伝えたかったのだと思います。
 
 なぜ、神様は忍耐しながら、尚、諦めず、支えようとされたのか。ある牧師は「知る、分ける。出来る」の三つが大切だと教えておられます。

 「知る」それは色々な情報を集めることです。自分達の人生に起こる出来事を通して、自分達に与えられる情報が沢山あります。現代は特に情報社会と言われ、とにかく早く情報を得ることが成功の秘訣とさえ言われる時代です。情報を知る。けれど、集めた情報、知った情報をどう判断するのか、それが「分ける」となります。「分ける」は「分かる」ことだと説明されます。一つ一つの情報、出来事を通して、大事なところは何かが分かり、大切な情報をしっかりと分けることが出来る。そのようにして、初めて自分の人生にそれを生かすことが出来る。つまり、出来るようになるというのです。

 知って、分けて、出来るようになるために、つまり、人は多くの罪を犯し、罪を繰り返し犯し、でも繰り返すことによって知るが分かるになっていく。

 旧約聖書の世界であれば、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主こそ、私達の神としっかりと分かり、この方をこそ頼りとしながら生きていこう、そのように出来るようになるまでの訓練として、旧約の民は罪を犯しつつも、しかし、それによって訓練され、「否定的、破壊的」な思考から離れて、肯定的で「前向き、建設的」な思いへと変えられていくようにと、主なる神の忍耐があると言えるのではないでしょうか。
 
 新約聖書からはヨハネによる福音書20章、「イエスとトマス」という箇所を読みました。週の初めの日、すなわち日曜日の夕がた、弟子たちが集まっていました。ユダヤ人が捕らえに来やしないかと恐れて、戸には鍵をかけていました。しかし、そこに復活された主イエスが姿を現されて、彼らの真ん中に立って「シャローム あなたがたに平和があるように」と言われた。弟子たちは喜びに包まれましたが、そこに弟子のトマスがいなかったというのです。
 なぜいなかったのかわかりません。けれど、トマスは他の弟子たちが喜ぶ姿を見ながら、何と自分は仲間外れにされたことよ、と思ったでしょう。妬ましく悔しかったのではないでしょうか。否定的、破壊的な心によって、物事を見たようです。そして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、」と仲間を信用せず、復活の主イエスを信じませんでした。
 
 その一週間後、状況は殆ど同じです。違いはトマスが一緒にいたということでした。そこに復活の主イエスが現れてくださり、トマスに対して、「トマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と話された。
 
 トマスはどれ程驚いたことでしょうか。トマスは指や手を入れて確認などしなかったと思いますけれど、でも、驚きと共に、主イエスの愛をつくづくと感じ、他の弟子たちにもまして、復活された主イエスを自分の人生の主として受けとめたでありましょう。
 
 私たちは、罪を犯します。時には人を妬み、時には人を恨み、時には人を信用せず、状況に大きく流されていきます。それが私達の姿だと思います。けれど、主なる神は、忍耐して下さいます。トマスに対して愛を注がれた主イエスのように、人の罪のその先に、確かな宝物を供えてくださる方が私達と共におられるのです。
 
 諦めず、忍耐しながら、私達を導いてくださる方がおられる。私たちはこの方にこそ、望みを置ける、望みを置いていきましょう。この新しい一週間、主の忍耐に感謝しながら過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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