日本キリスト教団 大塚平安教会 

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子育ての心 第2回 一体となる大切さ

2019-01-12 16:10:44 | 子育ての心

 このファリサイ派の答えにイエスは少し感情を強く表に出したように私は感じます。イエスは、当時としては全く違った、つまり律法とは違う話をされました。

 「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は、父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる。だから二人はもはや別々ではなく一体である。従って神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」(マルコによる福音書10章6~9節)
 
 キリスト教の結婚式等で用いられる有名なフレーズがここにあります。私もこれまで何度、この言葉を宣言したでしょうか。私の司式で結婚された皆さん、幸せにしていますか~(笑)
 
 恐らく、イエスの思いがけない返答を聞いたファリサイ派の人々は、かなり戸惑い、驚いたでしょう。離縁そのものがおかしい。これがイエスの答えです。
 
 現代でも、厳格なカトリックの信仰を守っている人々は、この教えを大切に守っています。カトリックには七つの秘跡(ひせき)と言って、「洗礼」、「堅信」、「聖体」、「赦し」、「病者の塗油」、「叙階」、「結婚」があります。秘跡とは、「神から教会に委ねられた、神の恵みの印」と説明されます。教会だけが行うことが出来る(ことになっている)特別な役割とも説明出来ます。その中に「結婚」があるのです。先ほどのイエスの言葉が理由の一つとなり、教会はイエスが直接話された「結婚」の意味を大切にしてきた証しでもあります。その為、離婚などとんでもないと思っている方々は世界中に沢山おられるでしょう。

 ただ、実際は、カトリックでも離婚する方はいるわけで、その方法は、結婚そのものを無効とすることのようです。離婚という形ではない別れ方をとっているようです。ただこれは教会でのことで事実上法律で離婚は認められているようです。プロテスタント教会はもともと、「結婚」が秘跡ではありませんので、もっと緩い扱われ方です。教会によっては同性愛者の結婚も容認される時代です。法的にも同性愛者の結婚を認める国もあります。
 現実的には、カトリックでも、プロテスタントでも、キリスト教国と呼ばれる国の多くは、離婚率が高いのが現実かもしれません。

 その背景には経済的な状況が加味されているわけで、いわゆる先進国と呼ばれる国の多くが、女性一人、男性一人でも十分に生活が可能で、生きていくのにさほど困らない体制が取られていることも、皮肉なことに離婚しやすい社会を生み出していると言えるでしょう。

 今回のテーマはあくまでも、「子育て」ですから、離婚のことはあまり長く記さない方が得策でしょう。大切なことはイエスの言葉、「人は、父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる。だから二人はもはや別々ではなく一体である。」この言葉です。この言葉によって二人が一体となり、二つのものが一つになって、夫婦となり、家庭が築かれていく、このことこそ大切なのだとイエスは語ります。

「子育て」に必要なこと、それは二人が一体になるということです。
「二元論」という言葉があります。多くは哲学用語として用いられています。フランス生まれのデカルトという人の「実体二元論」などは有名です。世の中は、相反するもので構成され成り立っているという考え方です。例えば「善」と「悪」、「心」と「体」、「光」と「闇」、「生」と「死」など二つのものが世の中にあると言われると、なるほど、そうかなと思ったりしませんか?特に世にある理解不能な「不幸」に遭遇するような時、この二元論は説明がしやすい論理と傾向だと考えられたりします。

 聖書の中にも、「生まれつきの盲人をいやす」出来ごとが記されています。イエスと弟子達が歩いている通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけます。弟子たちはイエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか?」つまり、目が見えない原因は、彼の先祖の誰かが悪さをして、それが原因でこの目の見えない人に影響したのか、両親が悪さをしたのか、それとも生まれつきなのにもかかわらず、本人の責任なのですか?と尋ねたわけです。

 そこには正しい人であれば目が見えないような不幸にはならない、目が見えないのは何らかの悪を行ったからである。という二元的思想の中でイエスに問うたというわけです。しかし、イエスは「本人が罪を犯したらからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えました。この答えについてはまた後ほど触れたいと思いますが、イエスは誰かのせいにするのではなく、「神の業」が現れるためと答えました。誰のせいでもない、いわば神の責任だと答えたのです。ここに一元的な答え方が読み取れます。この答え方はキリスト教の思想に深く影響を与えていると私は思っています。世の中には二つのものがあるのではなく、一つなのだ。その中に、「女」と「男」という考え方も含まれるわけで、つまり、結婚する男女は二つではない、そこにおいて一つであるという考え方です。

 キリスト教は、二元論的哲学的思考を支持しません。男も女も大切なことは、二つのものが一体となる、一つになることだと考えるのです。

 この教えは、興味深いことに、仏教とも共通していると私は考えています。鈴木大拙という近代日本の最大級の仏教学者が「日本人的霊性」という著書を著しています。「霊性」と言う言葉は、恐らくどの宗教においても大切にされる言葉だと思いますし、キリスト教でも近年、大きな注目が注がれている言葉です。宗教がこの言葉によって、一つにつながる可能性さえあると私は思っています。

 その著書の中で大拙は「霊性」の定義を、二元的世界のその先に、もうひとつ越えた世界があると考えています。「精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何かをみなければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾、闘争、相克、相殺などいうことは免れない、それでは人間はどうしても生きていくわけにいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」 と定義付けます。つまり、二つのものあるという世界観では、人は生きていくことが困難であると訴えているのです。
 
 私の出身は岩手県の花巻市です。花巻の教会でも牧師として数年働いておりました。今思うと、長男の誕生、二男の誕生など、私たち夫婦の家庭生活もそこから始まっています。花巻というと温泉が有名ですが、何より有名なのは、宮沢賢治の出身の土地として知られているのではないでしょうか。宮沢賢治は童話作家として、また、詩人として、また、地質学者として、天文学者として、非凡な才能を持ち、裕福な家庭に生まれながらも、生前は案外不遇な生涯を過しました。賢治が世に知られるようになったのは賢治の死後に弟の宮沢清六に発見され、世に出された「アメニモマケズ カゼニモマケズ」という詩がきっかけとなったことは良く知られています。

 花巻市には「宮沢賢治記念館」があります。お土産として売られている色紙や手帳、手ぬぐいなどに記されている言葉は、「世界全体が幸せにならなければ、個人の幸せはあり得ない」 という言葉です。この言葉も賢治の言葉として大変良く知られています。
 私個人の思いとしては、むしろ「個人が幸せにならなければ、世界全体の幸せはあり得ない」と表現したい思いがありますが、どちらでもあまり違いは無いかもしれません。

 この言葉の中で賢治が用いた「世界全体」という言葉の意味が大切です。賢治はこの言葉に、人間社会だけではなく、動物も植物も生きるもの全てが含まれると考えていたようです。それだけでもなく、地質学者としての賢治は、鉱物や金属といった無機物までも含んで、つまり生きてはいないけれど地上や地中、空中にある物質、世界の全てのものを含んで「幸せになる」必要があると考えていたとも言われます。恐らくその「幸せ」の延長上にある言葉が「イーハトーブ」 という言葉ではないでしょうか。

 賢治には、花巻で最初のクリスチャンとなった友人の斎藤宗次郎がいました。実の妹の宮沢トシは、日本女子大を出て、花巻に戻り英語の教師をしていましたが、盛岡市の内丸教会にいたタッピング宣教師御夫妻にネイティブの英語を習い、また、聖書の学びも受けていたようです。賢治もその学びを共にしていたと言われています。ですから、実際に、教会の礼拝にまで行ったかどうかは定かではありませんが、キリスト教の教えや、聖書の内容、思想をよく理解していたと思われますし、宗次郎の話からもキリスト教思想について、多く影響を受けたであろうと思います。賢治の童話の中には聖書の話しがベースとなって創作された作品がいくつもあります。

 賢治自身は仏教徒でしたが、例えば、幸福についての考えるとき、誰かの不幸の上にある「幸福」という考え方を支持していなかったと私は思います。それはつまり、キリスト教の影響を強く受けていたからではないかと思うのです。
命あるものも、命の無いものも全体が幸福になる、そうでなければ幸福はありえない。そう考えた賢治の思想には尊いものを感じるのです。つまり、全体が一つになることです。

「子育て」に必要なことは一つになることです。母親と父親が一つになる。実際、心も体も、「生」も「性」も「聖」も一つにならなければ新しい命が宿らないように、そのように私たちは神様に造られているのです。

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子育ての心 第1回 離婚は法に適うのか

2018-05-08 08:55:16 | 子育ての心
  「離婚は法に適うのか」

 「子育ての心」の冒頭で、いきなり離婚の話しから恐縮ですが、聖書に、こう記されています。

「『ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻と離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。」(マルコによる福音書10章2節)

 ファリサイ派の人々とは、現代でいうところの法律家であり、宗教学者のことです。ファリサイという言葉は「分かたれている」という意味があります。あなたと私は違うという意味です。「私たちは真面目で、あなたがたとは違います。」そんな皮肉が込められているのかもしれません。

 「律法」とは法律のことです。英語でいえば、どちらもLaw です。聖書が意味する律法とは、「神様から授かった教え」という意味で用いられています。現代の民主主義政治の中で、人の手による法とは少し意味が違います。とは言え、どちらも人間世界が安全で円滑に生きていけるように考えられた「決まり事」であることには違いありません。ファリサイ派とは、その「律法」の番人のような人達だったのです。
 昔の話しですから、政教分離などありません。ですから、宗教的指導者であり、且つ政治的、社会的指導者という側面もありました。当時のイスラエルの国会にあたる「70人議会」と呼ばれる議員メンバーに何人ものファリサイ派の人々が選ばれていました。

 現代は離婚するカップルが増える傾向にあるようです。少し古い資料ですが、厚生労働省の記録によると、2002年に離婚件数が29万組となり、一つのピークを迎えています。それ以降は、経済面、教育面等、複雑な社会状況の影響、また、大きな自然災害の影響もあるのでしょうか、緩やかな減少傾向にあるようです。それでも、2016年には凡そ21万7千組が離婚しました。1970年代の2.5倍以上のカップルが離婚していると統計は示しています。

 そんな社会になっているのは、結婚式を司ることもある牧師としては大変残念です。無理して我慢しながら一緒にいるより、仲良く離婚するほうが良い。といった雰囲気を感じますし、「離婚」そのものが社会に受け入れられるようになりました。それは必ずしも悪いとは言えないと思いますが、だから余計に離婚が増えて来ているとも言えるわけで、微妙な思いがします。その背景を考えると結婚そのものが軽んじられる社会になっているからとも言えるのではないでしょうか。
 
 知人の家に、アメリカの女子高生がホームステイしたことがありました。ホストの知人に彼女はアメリカの故郷には友達が10人いて、そのうち8組の親は離婚していると話していたそうです。

 ある宣教師夫婦と仲良くなり色々な話をしているうちに、アメリカの両親や兄弟は、あなたがたはいつ離婚するの?と普通に尋ねられると戸惑いながら言っているのを思い出します。

 ヘレン・フィッシャーという人類学者は夫婦の離婚は4年目が危険と唱えています 。フィンランドの統計等を示しながら説明しています。アメリカではもっと早く、2~3年が危険なようです。恋愛結婚して大体4年すると、結婚当初の恋愛感情が次第に薄れてくる。更に別の異性へと気持ちが移っていく。動物学的には不自然ではないそうです。当然のことながら、年齢的に若い世代にそのような傾向が多く現れるようです。 たとえ子どもがいる夫婦でも、案外障害ともならず普通に離婚し、そして、更に再婚すると記されています。つまり、動物学的に生殖能力が高い年代層であると、より優れた男性、女性に目移りする、不倫する、離婚する、再婚するというパターンが現代社会の、主に先進国と呼ばれる国の中で起こっていることなのでしょう。
ある側面から見れば、なるほどとも感じます。特に経済的側面、本能的な側面から考えると説得力を感じます。けれど、彼女は人類学者ですから、どうしても人間を動物として見る視点が強調されすぎているようにも感じます。

 私は人間を考える場合には、「生」や「性」も大切ですが、もう一つの「聖」の側面を正しく捉えないといけないと思っています。動物的な側面からの見方をすると、あたかも、離婚することは合理性があり、不自然ではない、と考えてしまいそうになるからです。
 子孫が繁栄する為に、つまり動物的「生」に求められていることは何か?沢山の、しかも能力の高い子孫を残すことへの希求、確かにそれは動物的な面、本能と言えるかもしれません。その面だけが強調されるとすれば、「性」としての人間がクローズアップされなければなりません。

 けれど、「聖」としての人間、つまり、「人の微妙に揺れ動く心」についての側面はそれほど簡単に割り切れるものではないと私は思います。確かに、結婚も離婚も法的には一つの制度ですから、その背景には社会情勢や状況、文化、思想が入り組んでいることでしょう。古い旧約聖書の時代であっても、イエスが誕生され、地上に生きられた2000年前の時代でも離婚は一つの必然的な法であったことは間違いありません。 

 私は結婚20年となった今も、妻を愛する気持ちが薄れているとは思いません。むしろ無能で凡庸とも思える私を、夫として受け入れてくれている妻に感謝するばかりです。勿論、日常生活の中で些細な喧嘩をするとしても、それによって離婚が頭によぎることは、まあ考えられません。二人の間には真面目に「聖」なるものを感じます。

 結婚する前のことですが、私が神様の導きのままに、自分が牧師として立てられているのかもしれないと思いながらも、今後、神様の福音を担っていけるのだろうか?そんな思いの中で一心に祈りを捧げ、「神様、私のものは全てあなたのもの、私の人生は全てあなたのもの、ですからあなたの導きのままに私を用いて下さい」と熱心に祈りながら、けれど、その祈りの隅で願っていたのは、傲慢にも「でも、出来れば伴侶だけは私に選ばせて下さい」そんなひどい祈りをしておりました。

 けれど、そんな祈りをも神様は聞き入れて下さったと思います。というより、私が願った以上の伴侶が与えられたと思います。結果的にはやはり、神様の方が何枚も上であったと本気で思います。だから、いつも私の妻でありながら、神様から預かっている方としか思えないのです。それがとても健全な夫婦生活をさせて頂いている秘訣だとも思っています。

 しかし、これからの日本が、益々「離婚」は当たり前となり、もしそうなっていくとしたら、やっぱりどこかで、何かが違ってはいないか?と思うのは私だけでしょうか。何よりも、生まれて来る子ども達に対する愛情や責任が置き去りにされていく現実を私たちは忘れてしまってはいけないと思います。

 さて、聖書に戻りますが、どうしてファリサイ派の人々がイエスに「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と尋ねたのかというと、イエスの時代よりも、もっと古い時代に定められた律法にはこう定められていました。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気にいらなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24章1節)男女関係には、いつの時代も結婚と離婚は最大の問題なのかもしれません。
 この律法の何が問題かというと、「妻に何か恥ずべきことを見いだし」という部分です。現代の法律の専門家も、同じ法律でありながら、それをどのように解釈するかで意見が分かれ、司法の手に委ねられるように、神様から与えられた律法についても同様の状態だったようです。律法学者によって解釈が随分と違っていたようです。妻の「恥ずべきこと」とは何か?「恥ずべきこと」の明確な一つは、子どもが授からないことだったでしょう。古代の話しですから、子どもが授からない責任が、男性の側に問われることは殆ど無かったのではないでしょうか。女性の責任として扱われたと考えられます。子どもが授からない、それは離縁するに値する最も「恥ずべきこと」でした。

 更に「恥ずべきこと」について、ある律法学者は妻が他の男性と関係を持つ、つまり、「不倫関係、浮気関係」にある状態であると説明しました。それは当然離縁状を書けると説明したようです。しかしまた、ある律法学者は、例えば、妻がまずい食事、焦げたおかずなどを食卓に出したとすれば、それもまた、「恥ずべき」ことであると解釈して、離縁状を書くことが出来るとしたようです。更には、夫が自分の妻よりも、美しいと感じる女性に心が移ってしまった、そこで男性は離縁しようと考えて、何か妻に対して「恥ずべきこと」を主張して離縁状を出す。それも可能だったようです。

 解釈に大きな幅があります。結局のとことは、恐らく現代とは全く違う思考回路の中で、私たちには考えられない程の男性優位社会の中で、圧倒的に夫には有利に、妻には不利に律法が用いられていたのです。夫の思い通りに物事が運べるように出来ていたということでしょう。そもそも、妻が夫に「離縁状」を突き付けることは出来ませんでしたし、「離縁状」そのものが妻に対する配慮であったと言われています。離縁状を持たない元妻は再婚出来ないのです。「離縁状」は、妻が再婚出来るようにと配慮の中で、夫が渡して、今の夫とは正式に別れましたという証明書のような役割を果たしたのではないでしょうか。

 男女関係はいつの時代も複雑なものです。ファリサイ派の学者達の間でも、「離縁」することについては、考え方にも幅があり、案外厄介な問題ではなかったでしょうか。そんな厄介な問題をイエスに問うたのでした。ですから、問うた後の聖書の言葉は「イエスを試そうとしたのである」と書かれてあります。

 試された側のイエスは答えました。「モーセはあなたたちに何と命じたか」

 モーセとは、これまた古い時代の人物ですが、聖書について知らない人でも、むしろ映画などではよく知られています。1956年に作成されたモーセを主人公とした「十戒」 は壮大なハリウッドのスペクタル映画として知られ現代でも見ることが出来ます。「ベン・ハ―」などにも出演しているチャールトン・ヘストン演じるモーセや、ユル・ブリンナーなどが活躍しています。まだ見たことがない方は是非、お勧めの映画です。

 ここで、モーセの話しに深入りしますと、先に進みませんので少し急ぎますが、モーセは神様から、シナイ山の山頂で「十戒」を受け取った本人であり、自分たちは神の民と信じていたイスラエル民族の指導者です。「十戒」は文字通り、十の戒めが書かれた文章ですが、律法の中心でもあり、その他、沢山の細かい律法が聖書に記されています。その律法はモーセが神様から基本的には、口伝によって伝えられたことになっています。勿論、当時の羊皮紙とか、パピルス紙にも書き写され、その完全なものは残っていませんが、断片が現代でも時々、新たに発見されることもあるようです。
 
 そのモーセが律法の中では、「離縁することは許されている」とファリサイ派の人々は答えました。つまりファリサイ派の人々が問うたのは、「離縁」が良いのか、悪いのか、ではなく、どのような状態なら離婚出来るのか、という一つ踏み込んだ質問だったと思われます。離婚出来るか、出来ないかではないのです。

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