日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

信じて生きる

2020-12-21 10:53:12 | クリスマス
【詩編87編1~7節】
【ルカによる福音書2章8~20節】


 皆様、クリスマスおめでとうございます。

 2020年のこの一年は、新型コロナウィルスが世界中に広がり、昨日までの報告では世界中の約7500万人が感染し、160万人が亡くなったとありました。これまで経験したこととは全く違う大変な一年を過ごして参りました。これからも更に暫くの間、私たちは感染予防に気をつけながらの生活です。
 それでも、そのような中にあって、クリスマス礼拝を献げられる幸いを感謝して、過ごして参りたいと思います。
 
 毎年行われるクリスマス、御子イエスの誕生を喜び、主なる神に感謝する時でもありますが、今日は「羊飼いと天使」という箇所を読みました。クリスマスの時期に最も多く読まれる箇所の一つです。
聖書に即して読みますと、御子イエスが誕生された夜、母のマリアと父のヨセフ以外で、最も早く御子の誕生を知らされた人たちが羊飼いでした。
彼らは夜通し羊の群れの番をしていました。焚火をして暖をとりながら、羊たちが泥棒や野生の熊、狼に襲われないように気を付けながらの夜通し見守っていたのでしょう。
 
 そのような彼らの所に、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしました。羊飼いたちは驚きましたが、天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げたわけでありました。
 その後、天の大軍がやって来て、神を賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」羊飼いたちは相談しました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」

 羊飼いたちは神の御言葉を信じてベツレヘムに向かいました。今日の説教題を「信じて生きる」としました。それは羊飼いたちが神様の言葉を信じてベツレヘムに向かった、この様子を思い巡らしたからです。主の天使は羊飼いたちに、「今日、ダビデの町に救い主がお生まれになった。この方こそメシアであり、飼い葉桶の中に寝かされている」と伝えましたが、御子の生まれた場所を、この宿屋のこの馬小屋だよと教えたわけではありません。あなたがたは会いにいかなければならないと言ったわけでもありません。

 でも、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。羊飼いたちは、立ち上がり、真っすぐベツレヘムに向かったと思います。
 けれど、そこから先、寝静まっている夜の夜中、生れたばかりの御子を探して、誰かに聞くことも出来ず、簡単には探せない状況の中で、ついに飼い葉桶の乳飲み子を探し当て、喜びに満たされたわけでありました。

 皆さん、羊飼いの所に現れた天使は、神の御子の誕生を知らせました。羊飼いたちはその声を聞いて、御子イエスのもとへと向かいました。御子イエスに出会い、神をあがめ、賛美しながら帰っていきました。私たちも私たちのところに天使が来てはくれまいか。と思うところがあります。でも、天使との出会いは恐らく無いかもしれません。 
 けれど、主なる神は、天使ではなく、私たちが生きていく中で経験する、実に様々な出来事を通して御子イエス・キリストのもとに向かうようにと示し続けてくださっているのではないでしょうか。

 そのように促されているのではないでしょうか。けれど、どうも「なるほど」と喜んで、実際に決心して行動に移す人はそう多くはありません。なぜかでしょうか。一つは勇気と決断が求められるからです。羊飼いたちがベツレヘムに向かった、その姿は日常から離れたという意味でしょう。人が日常の生活から離れるには、多くのものや、多くの事を手放さなければなりません。手放してまで行こうとする勇気が求められると思います。

 主イエスと金持ちの青年との会話で、あなたに足りない物が一つあると言われました。彼が持っていた財産でした。それを手放しなさい、金持ちの青年は悲しみながら主のもとを去っていきました。私たちは自分の日常を手放す勇気と決断がどこまであるのか、なかなか難しいと思います。
 行動を阻害する二つ目に、知識が邪魔をするかもしれません。羊飼いたちは毎日羊と共に過ごしていたでしょう。羊についての知識は沢山あったと思いますが、世の動き、政治、経済について殆ど知る術も無かったのではないでしょうか。だから逆に、素直に御子イエスの元へと向かえたとも言えるでしょう。心の内に様々な知識や、経験がありますと、それらが邪魔をする時があります。
 主イエスは「自分を捨てて私について来なさい」と教えられましたが、能力があればあるほどに捨てられない、と思うのかもしれません。

 三つ目に、私たちが経験する出来事が、一体何故に、それが起こっているのか、その訳が分からない、なぜこんなことが起こるのか、どう考えても理由が分からないし、理不尽だと思う、例えば、病気なるとかね、事故に遭うとかね、そんな出来事を通して神様に向かう、そんなことはありえないと思うし信じて生きていけない、信じてなんになるのかと思うこと、多いのではないでしょうか。

 私たちは、今コロナウィスル感染の恐ろしさの中で過ごしています。今年の2月、3月には大変な騒動となっていましたから、この一年、コロナウィスルとの戦い続けて来たことになります。これからも暫く続くと思われます。多くの人々が亡くなり、病院は悲鳴を上げ、政治は混乱しています。コロナウィルスは忖度してくれませんから、政府も大変だと思います。これのどこに神の光を見いだせるのか多くの人は思っていることでしょう。私もそう思います。

 感染症の特徴は人を選ばないことです。国を選ぶこともなく、民族を選ぶことも無く、男女差で違うわけでもないでしょう。若い人は症状が軽いと言われますけれど、それは恐らくどの国、どの地域でも同じことでしょう。
そこで改めて思わされるのは、私たちが日ごろ意識している、していないに関らず、私たち人間が、今こそ一つになって生きていこうとしなければ解決しない問題なのだろうと思います。今ここで国の優劣とか、民族の違い、イデオロギーの違いを越えて、政治の違い、考え方の違いを越えたところで一つにならなければ、みんなで助け合っていかなければ解決していかない、そういう課題だからと一つになる、そのことが求められているように思います。

 今日は、詩編の87編を読みました。短い詩編ですが、それだけに特徴も明らかです。詩編の中にラハブという言葉が出てまいりますが、ラハブとはエジプトを意味するとどの注解書にも記されています。ですから87編に記されている、ラハブ、バビロン、ペリシテ、ティルス、クシュ、これらの国の特徴はすべてイスラエルの敵国とみなされている点にあります。多くの詩編では、このような敵国に対して、主よ、あなたが先頭に立って、滅ぼして下さいとか、あなたを憎むものが屈服しますように、との祈りが多いなかで、87編は、これらの諸国の民も皆、シオンで生まれた、つまりエルサレムで生まれた人々だと告げ、全ての人々が、共に歌い、共に踊り、敵、味方ではなく、仲間となって私たちの基は主なる神、あなたにあると告げる、そういう日がやって来ると示す詩編であります。

 今日、このクリスマスの礼拝に、この詩編はなんとも相応しい箇所であろうかと思いました。

 羊飼いの所に現れた天使は、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜び」を告げました。民全体とは、イスラエルだけではありません。民全体、世界に住む一人一人、国を越えて、民族を越えて、御子イエスの誕生は民全体の喜びだと告げているのです。
 勿論、私たちもその中のメンバーです。御子イエスの誕生の喜び、それは教会の中だけの喜びではなく、地域、社会、国、世界全体の喜びとなれる時であろうと思います。

 だから、私たちは「信じて生きて」生きましょう。勇気と決断を持って、神の業は人の知識を超えることを知って、どんな出来事の中にも、神の宝物が隠されていると信じて、「信じて生きて」いきましょう。
主イエスは、目の見えない人に対して、この人を通して神の業が実現すると言われました。それは、過去に原因を探すのではなく、これから将来において、神様の業が明らかにされるという意味でありました。今、与えられている状況だけで判断するのでなく、必ず将来に神の祝福がある、だから希望を持って生きていきましょう。

 羊飼いたちが、立ち上がってベツレヘムに向かったように、私たちも主なる神から力を得て、信じて生きて参りましょう。
 
 お祈りします。
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いつでも、どんなときも

2020-09-14 09:49:29 | クリスマス
【詩編74編1~17節】
【ペトロの手紙一 3章13~17節】

 牧師が礼拝で説教する。それは当たり前のことです。私は神学校を卒業して教会に派遣され、数えると25年目を迎えております。25年の中で、来週の礼拝を休みますと告げたことは、恐らく無かったと思います。10数年前に、町田の教会で、幼稚園の運動会で金曜日に足を骨折して、そのまま病院に運ばれて入院したことがありました。

 土曜日の内に、信頼のおける牧師に電話して礼拝説教をお願いしたことがありました。大塚平安教会では、四、五年前にインフルエンザと分かったのが金曜日、朝に病院に行きましてインフルエンザと診断されて、そのまま教会に向かって、週報を作り終えて力尽きました。後はもう寝ているしかありませんでした。
 その時は、教会の役員のどなたかに代わりに説教を受け持っていただこうと思いまして、電話しようとしましたが、誰もが驚き、誰もが断るだろうと推測して、きっと断らないだろう人がいる。今、神学校に通っておられるSさんに、説教してと、無理にお願いして、引き受けますと、言われてからは、安心して、ぐっする寝ることが出来ました。特別伝道礼拝の日に、説教者が来なかった、遅れて来ましたけれども、そんなこともありました。
 
 色々なことがありましたが、礼拝そのものを行わない、そういう時が来るとは思ったことはありませんでした。風邪のような症状が出て、金曜日にPCR検査を受けて、検査結果が月曜日、ですからどうしても礼拝を行うことが出来ないであろう。そのように考えまして、役員の皆さんに協力していただき休みとさせて頂きました。結果としては月曜日の朝に、陰性ですということでホットしたわけですが、でも、その金曜、土曜、日曜と生きているここちがない訳です。
 体の具合も良くなるわけでもなく、特に夜になるとまさに、まんじりともしない。夜、布団に寝ながら、もし陽性ですと言われたらどうなるのかな。
どう見ても軽症でだろうから、病院ではなくホテルに連れて行かれるだろうか、ホテルのご飯は美味しいのだろうか、でも、家族はどうなるのか、教会はどうなるのか、まあ気持ちが落ち着かない。祈って心を落ち着かせる以外にないわけです。
 昔の偉い学者は「牧師は礼拝で説教する。しかし、神は生活の現実の中で説教する」と記しました。その人、その人に与えられているその場所、状況の中で、主なる神がそこで説教して下さる。それは私たちにとって幸いなことだと思います。
 
 今日は詩編の74編を読みました。その16節にこうあります。「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。」
 天地創造の神は、私たちに昼も夜も造って下さった。日曜日の朝、昼の時間に私たちは礼拝を守ります。コロナウィルスの感染拡大を防ぐ努力を行いながらも、静かなこの明るい昼の時間に、穏やかな空気が流れる、初めて来られる方には木の香りがするとさえ言われる礼拝堂で礼拝を献げることが出来る。まことに幸いなことだと思います。神がこの場におられる、そのように感じながら過ごせる礼拝です。

 勿論、ここにも主なる神はおられます。しかし、ここにだけにおられるわけではありません。私たちの生きるその場所、その状況の中におられる。しかも、私たちの昼の人生、すなわち、幸いな時に共にいてくださるのは勿論ですが、しかし、最も神様が共におられるのは、私たちの人生の夜、辛い時、苦しい時にこそおられるのではないでしょうか。
 
 先ほどの学者はこうも伝えました。「病人が深夜12時に寝ている、その病床の夜の時間は、どんな偉大な説教者よりも、神は強力に説教するのである。」
 私はこの言葉が良くわかるような思いがします。私たちの人生の夜にこそ、主なる神は直接的に私たちに語り掛けて下さるのだろうと思います。
 
 私たちの人生の歩み、誰もが願うことですけれど、昼の間、光の中で、光の子として歩んでいけるならばまことに幸いです。しかし、必ずと言える程に、私たちには夜だな、暗いな、先が見えないなと思う時がやって来ます。
 コロナの影響を強く受けながら、今、世界中が混乱の中にある、こんなことになるとは誰も想像していませんでした。旅行関係の会社、レストラン、食堂、ホテル、観光業界の方々などは、経済的にやっていけるかどうか、というところまで追い込まれていると言われます。命の危機とも言えるでしょう。

 それは他人事でもなく、私たちの人生にも大きく影響しているとも言えるでしょう。だから主よ、どうか、私たちに夜を与えないでくださいと祈る必要もあるかもしれません。

 でも、聖書を読みますと「昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです」とあります。「夜もあなたのもの」それは、たとえ、夜が与えられるとしても、夜もまた、主が備えられたものとして、しっかりと夜を生きなさい、ということではないでしょうか。

 しかしなぜ、私たちの人生に夜がやってくるのか、エフェソ書3章には16節にパウロが祈っている御言葉があります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように。」私たちの内なる人が弱る時、内なる土台が弱る時、その人に夜がやって来るのだろうと思います。
 
 先週の礼拝で、韓国の方で、御家族3人がやって来られた。
 その前の前の週にもやって来られましたが、私が具合悪くなる前でしたけれど、電話がありまして、いつも仕事で教会の前を車で通っているから、いつか礼拝に来たいと思っていたというのです。
是非、お出で下さいと申し上げましたが、でも、話を聞いていきますと、どうもコロナの影響で仕事が無くなったというのです。それは大変ですねと申し上げましたら、それで相談ですが、先生、教会でキムチ売れますか?と聞いてくるわけです。キムチですか、まあ、その流れでダメですとも言えず、礼拝終わったら売れると思うから持って来てみてと申しましたら喜んで来て下さいました。皆さん買って下さって、優しいから、喜んで先週も来られました。今日は来てません。
毎週来たら、売れるものも売れなくなるからと、話しましたら、他所の教会でにも行って見ると話していました。

でもね、先週の方々に限らず、教会というところには、色々な人がやって来られます。先日は他所の教会に行っていたけれど、そこで辛い目にあって相談に来ましたという方もおられました。今朝ほども、あるお母さんから、「相談があります、時間ありますか」と言われました。あまり詳しく話せませんけれど、実に色々な方がこの場にやって来られます。なぜやって来られるのか。内なる土台が弱って来るからです。内なる土台が崩れそうになっているからです。
 
 そんな一人一人がやって来られた時に、皆さんならどうされますか?どうぞ、この昼の明るい教会にお出で下さいましたと話されるでしょう。

 先ほど、ペトロの手紙というところを読みました。3章15節にこうあります。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい、」とあります。
 
 皆さんなら「夜だな、暗いなと思っている方よ、ここに来ればキリストを主とあがめる希望があるよ」と伝えて下さるでしょう。主イエス・キリストは人間の最大の夜である、死という暗闇から復活という希望を示して下さいました。人の目から見たら完全にお終いだと思える死、のその先にもまだ希望があると教えて下さいました。
 
 夜だな~と思っている人の多くは希望を見失っています。将来が見えなくなっています。もう無理だと思っています。人はそういった罪を背負っていると言ってもいいかもしれません。神様と出会う前には、私もそういった夜を、ずっと過ごしていました。

 でも、その夜のその先に、神の光を見つけ、昼の明るい礼拝堂でこうして礼拝を献げることが出来る幸いを生きていますと、私たちは伝えることが出来るでありましょう。あなたも共に喜びの笑顔を生きることができると、主にある希望を伝えることが出来るでありましょう。昼も夜も、どんな時も私たちは主の恵の中を過ごして参りましょう。

 お祈りします。
 
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主がつかわすメシアにあうまでは

2019-01-05 17:47:58 | クリスマス
【詩編77編1~16節】
【ルカによる福音書2章22~38節】

 本日、2018年、最後の主日礼拝を迎えました。先週までの少し慌ただしい思いで、また賑やかな思いでクリスマスを過ごして参りました。聖夜礼拝では100名の方々が集まって下さり、本当に素敵な礼拝を守りました。
 それから、あっという間の一週間という思いが致します。本日は年末の少し落ち着きを取り戻している礼拝です。しかし、本日読まれましたシメオンとアンナが登場する聖書箇所も御子イエスの誕生に深く関わりを持つ、クリスマスの出来事の一つと言えるでしょう。
 と言っても、あまりクリスマスのメインで読まれる箇所でもありません。これまでこの12月、御子イエス、母マリア、父ヨセフ、天使ガブリエル、羊飼い、東からの博士達が何度も何度も登場しましたが、シメオン、アンナはそこに含まれることは殆どありません。むしろ、この本日のようなクリスマスの後の、一年の締めくくりのような週の礼拝にこそ選ばれる箇所であると言っても良いでしょう。

 しかし、あのクリスマスの出来事に登場した様々な人々に勝るとも劣らない程に、神の愛を受け取り、喜びに生きた人として記されている美しい場面であると思います。

 「モーセの律法に定められた彼らの清めの帰還が過ぎたとき」とあります。出産後の清めの期間、律法で定められていた日数がありました。男の子が誕生したら、八日目に割礼を施し、名前を付ける。それから33日間は清めの期間とされていた。合わせると40日となります。その期間が過ぎたら、神殿に行って授かった子供を感謝して神に献げる儀式を行いました。具体的には、子どもを連れて鳩なり、財産のある家は子羊なりを献げるようですが、決められた献げ物を献げて、それによって改めて自分達の子として返してもらうわけです。
 
 マリアとヨセフもまたそのような習慣、儀式を大切にしていたと思います。特に、マリアとヨセフにとって、御子イエスの誕生は特別な意味を持っていたことは間違いありません。この御子の誕生に、自分達だけではなく、主なる神が直接的に関わりを持っていてくださる。マリアのもとに、またヨセフのもとに天の使いが現れて、「恐れることはない。」と話しかけ、そして御子の誕生を告げられる。その言葉が全て現実となって、自分達の腕に今抱かれている幼子がいるのです。
 先ほど、儀式、習慣と申しましたけれど、二人にとっては習慣だからとか、儀式だからとか、決まっているからを越えて、圧倒的な神の力の中に自分達が包まれていることを感じながら過ごした40日間であり、そういう意味では、一日でも早く神殿に行って、この御子の誕生を、クリスマスの出来事を主なる神と共に喜び合いたいと思っていたのではないでしょうか。

 エルサレムの神殿、その大きさの程はよく分かりません、賽銭箱が13も置かれていたと言われますから、相当大きな建物であったことは間違いありませんし、礼拝の日だけでなく、一日に朝から晩まで実に多くの人々が、巡礼の旅をして、あるいは献げ物を献げるために神殿を訪れていたに違いありません。
 
 マリアとヨセフも勿論、特別な思いで御子イエスを抱えながらやって来たに違いありません。しかし、神殿の側から見れば、祭司の側から見るとすれば、何人、何十人、あるいはそれ以上の人々が毎日のようにやって来る、幼子を抱えてやって来る親子も何組もいたでしょう。彼らは、その中の一組でしかなかったと思います。何月何日に行きますからと祭司と約束があったとも思われない、

 祭司の側から見れば、殆ど記憶にも残らない程の、ささやかな親子でしかなかったと思われます。

 しかし、御子イエス・キリストの誕生の喜びを、あるいはその「喜び」の為にこそ、命与えられ、生きてきた一人の人、シメオンと呼ばれる恐らく老人だと考えられますが、霊に導かれて神殿の境内に入って来ました。

 シメオンは「正しい人で信仰があつい」人でした。「イスラエルの慰められるのを待ち望み」続け、主の宮を訪ね続けた人でありました。そして「聖霊が彼にとどまり」、「主が遣わすメシアにあうまでは決して死なない」というお告げを聖霊から受けていたというのです。

 神殿には多くの祭司がいたでありましょう。けれど、その殆ど誰もマリアとヨセフの家族に目を留めなかったかもしれない、でも、このシメオンこそが、この家族を待ち望み生き続けていたのです。そして聖霊に導きによって、御子イエスを見つけました。 
 喜びに溢れ、御子イエスを抱き上げて、神をたたえて祈りました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と神をほめたたえるのです。

「僕を去らせて下さいます。」という言葉の意味を、注解書や多くの説教者が共通の理解としているのは「死ぬ」ということを意味しているということです。地上の生涯を終えること、命が取られることです。終わりを意味するといこともあり、ですからこの聖書箇所は、今日のような年末の主日礼拝にふさわしいとも考えられています。

 シメオンはクリスマスの出来事によって、誕生された御子イエスを手に抱いて、「今こそ、あなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださる」つまり、私はもはや、いつ死んでも悔いのない人生を生きることが出来ました。という感謝の思いを告げているのだと思います。
 
 聖書にはこの場面でしかシメオンについて読むことが出来ません。ですから、この後、シメオンがどう生きたかわかりません。けれど私は、神の恵みに生き、そして静かに召されていったであろうと思います。

 この2018年を振り返りますと、私たちの教会員でありました、S兄が天に召されたのは今年の1月7日でありました。1月7日は2018年の最初の礼拝の日でもありました。私が最後にSさんとお会い出来ましたのは、更に半年前の事でした。奥様と共にホームを訪問することが出来、その時は私が牧師であることもチキンと理解しておられましたし、寝たきりの状態でも、随分と話が弾み、行って良かったなと思いながら帰って来たことを思い起こします。
けれど、それら凡そ半年、元々、心臓も、お体全体も、弱っておられましたけれど、頑張って生きて来られて、1月7日に召されて行かれました。

 夏の7月11日にはM姉が召されて行かれました。教会では夜の祈祷会が行われていたその時に、連絡が入りまして倒れられたこと、危篤であることが告げられ、慌てて駆け付けましたが、殆ど手当も出来ないままに、苦しむ間もなく召されて行かれました。
 そして先月、11月29日には、M姉のご主人T兄が思いがけなく召されて行かれた。葬儀は12月3日の日曜日の夕と4日の月曜日にかけて行われました。

 10月の第2日曜日の礼拝後、各部集会の日に、私は青年会の方々と一緒にT兄を訪ねて、聖餐式を行うことが出来ました。

 訪問聖餐、病床の聖餐式、そのような式に一緒にいてくれた青年の皆さんは良い経験をされたと思います。パンを口にするのは殆ど無理ではないかと案じておりましたが、でも、杯のほうはしっかりと口を付けて飲んで下さった。
その飲んで下さった後に、いきなり目が大きく開いて、何か、どこかに行っていた心が、帰って来たかのように顔の表情が変わり、いきなり顔の血色が良くなりました。聖餐式を行ったことを理解して下さったのだと思います。そのことを、皆で喜んだことは忘れられません。

 この2018年、ですから少し極端かもしれませんが、葬儀で始まり、葬儀で終わるような一年であったと言えるかもしれません。今、ここでこれ以上は三名の方々の思い出や、偲ぶ言葉を話す暇はありませんが、でも、この三名の方々に共通しているのは、死のその時まで、最後まで信仰者であったということです。教会から離れず、信仰の兄弟、姉妹として、救い主である主イエス・キリストを遥かに仰ぎ見て、それぞれに与えられた人生を、特に三人とも幼少期には戦争という時代に生き、自分達の人生の価値観が大きく揺さぶられるような経験を通しても尚、あるいは、そのことによってより強く神と繋がり、インマヌエルの神、主我と共にいます信仰を持って歩まれた方々でありました。

 そして、改めて思うことは、人の死とは、いつでも突然であり、思いがけないことなのだと思います。予定通りの死というのはあり得ません。なぜなら、命の生きるも、死ぬも私たち人間の領域ではなく、神の領域だからです。だから死はいつも、突然です。
 
 だからこそ、ここで問われることは、このシメオンのように、シメオンが御子エスを抱きながら「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」と神を褒めたたえた信仰、自分はいつ召されるとしても、悔いなしと思える信仰に、私たちも生きていきたいものだと思います。

 しかしここで大切なのは、シメオンは御子イエスに出会えたから、そんな思いに至ったわけではないということです。もともとシメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んで」生きていました。イスラエル、勿論シメオン自身をも含めて、自分達が、全てのイスラエルの全ての人々が、慰めを受けることが出来るようにと、待ち望みつつ生きていたのです。

 神がどのようにしてシメオンに約束されたのかはわかりません。まさに聖霊によって約束がなされたとしかいいようがありません。しかし、シメオンはその約束を信じ、長い年月に亘り、誠の主の到来を待ち、主が到来される日を遙かに仰ぎ見ながら、イスラエルの慰めを祈り、生活をしていたのであろうと思います。そのような信仰がシメオンを支えていたのではないでしょうか。

 高齢化社会と呼ばれるこの時代に、生きる私たちですが、私は決して年齢ではないと思います。私たちは日本の伝統的な暦によれば、新年になると、また一つ年を取ることになります。けれど、大切なことは「年齢によらない信仰」ではないでしょうか。
 本物の、実体のある信仰とは、昨日よりも、今日、今日よりも明日と、信仰が日々深まっていくものだと思います。年を取る、体が思うように動かなくなってくる。昔はあんなに働く事が出来たのに、頭があんなにくるくると回転したのにと思うことがあると思います。人の名前は出て来なくなり、今、自分は何をしようとしていたのだろうかと思う時もある。年を取るとはそういうことかもしれません。

 シメオンもアンナも決して例外ではなく年を取り、体は若い頃のようでは無かったでしょう。体は衰え、目は見えなくなり、耳も遠くなっていたかもしれない、しか、だからこそ一層、その信仰は衰えない、それどころかその信仰が益々深くなってきていたのではないでしょうか。

 スイスのトゥルニエという医者は「年を取っていくごとに大切なことは、自分の生きて来た人生の全てを、イエスと受け入れることだ」と説明しました。

 老いを受け入れるとは、老いていく事を受け入れるだけで無く、自分のこれまでの人生の全てを受け入れる事です。私達の人生は、必ず一方通行であって戻る事はありません。又、人生は必ず前に向かって進むものでありますが、といって前に突然飛んでいってしまうという事もなく、一年に一つ年齢を重ね調和を保って流れていくのです。

 だからこそ、若い人は若いなりに、又、年を取った方は取ったなりに、その時その時、人生の各段階において精一杯生きる事、それが人生を受け入れる事であり、大切な事であるとトゥルニエは説明致しました。

 少年少女時代の自分、青春時代の自分、大人としての生活の自分、その自分を自分が受け入れる事が出来る時に、老年時代をも受け入れる事が出来、そして又死をも受け入れる事が出来るのだと記されています。

 「全ての事が相働きて、益となる」。あの事も、この事も、神が共におられ、確かに大きな辛い出来事だったけれど、けれど、それもまた自分にとって宝とされて、今を生かされていると喜ぶことが出来る。あるいはいつ死ぬか、明日死ぬか、今日か、明後日かと心配、患いの中で生きるよりは、昨日よりも今日、今日よりも明日と確かな人生の前進を目指して生きて行ける信仰、御子イエスに出会い、より一層確かな信仰に生きたシメオンのように、私たちの生涯も、人生を貫いて主イエスが共にいて下さる。こんな感謝なことはない。だから、また私たちは歩き出せるのです。 お祈り致します。
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ナザレからベツレヘムへ

2019-01-05 17:32:01 | クリスマス
【サムエル記上16章14~23節】
【ルカによる福音書2章1節~21節】


 来年春に、娘が人生初めての海外、オーストラリアに2週間行くことになりました。学校が計画して、何人かの学生がホームステイ先に泊まり、語学や日本の外の世界を学んでくるという企画のようです。正直、費用の面は大変痛いのですが、でも良い機会だと思います。その為に、娘のパスポートを作らなければなりません。パスポートを作るには戸籍謄本を取り寄せなければなりません。我が家の戸籍登攀は岩手県の遠野市にあります。

 私の父が、幼い頃に住んでいた小さな家がありまして、今は完全に山の中に埋没しているはずですが、私も子どもの頃にしか行ったことがない。今どうなっているのかもわからない。それでも、そこにほんの少しの土地があって、私はあえてその土地の本籍をそのままにしております。
 本籍など普段の生活とは全く関わりもない、でもこんな時は戸籍謄本を取り寄せなければなりません。案外面倒で少し苦労しました。それでも今は電話もあり、メールもあり、通信、情報網もありますから、少し面倒なだけで手続きを済ませました。

 今日、今年のクリスマス、説教題を「ナザレからベツレヘムへ」といたしましたが、主イエスの父であるヨセフの本籍地はベツレヘムでありました。ヨセフは、この本籍地に行って住民登録をしなければなりません。そのようにするようにと勅令が皇帝アウグストゥスから出されたと。アウグストゥスの本来の名前は、オクタビアヌスと言います。

 ローマ皇帝最初の皇帝として知られています。この時代の頃の歴史は中学、高校の世界史の時間には必ず学ぶ内容でもありますし、大変、興味深い時代です。今日は、その歴史的経緯に深く触れるつもりはありませんが、一つ確かなことは、皇帝アウグストゥスの時代、しかもキリニウスという人がシリアの総督であった時に、御子イエスが誕生されたとルカは記しているわけです。それが一体何年なのか、研究者の間では数年から10年程の意見の差があるようですが、いずれにしてもその時代であった。つまり、昔話とか神話として、いつの頃かよく分からないけれどもということではなく、御子イエスは、人の世の、人の歴史のこの時代に誕生された。確かにマリアとヨセフの子として誕生された。それを歴史的事実としてルカは記したかったのだと思います。
 ユダヤの人々は、本籍を大切にしたと言われます。自分がどの家柄か、どの血筋かを大切にした。それは貴族とか、名門の家というよりも、ユダヤ、イスラエルは古来、基本的には12部族が集まり、連合国家のような形で国を形成していました。ですから自分がどの部族に属し、どのような家系なのか、これはユダヤ人にとっては、自分自身のアイディンティテーにも関わる大切な事であったと思われます。

 「ヨセフもダビデ家の家に属し、その血筋であった」とあります。ダビデは先ほど旧約聖書も読んで頂きましたが、イスラエルの二代目の王として活躍し、歴代の王の中でも、最も愛された王として知られます。ダビデはユダ族の出身でありました。初代の王であるサウル王はベニヤミン族出身です。旧約聖書を丁寧に読んでいきますと、案外ユダ族出身の人々が、大切な場面で活躍しているように私は感じます。恐らくユダ族出身の人々が旧約聖書の箇所の多くを記し、また編纂したのだろうと私は想像しているのですが、学者の賛同を得られるかどうかは分かりません。
 
 ヨセフは、なぜ住民登録をしなければならなかったのか、それは長く続いた争いの時代に終止符が打たれ、ついにローマが世界を支配した。アウグストゥスが初代の皇帝となった。それぞれの国や地域が、支配、被支配の関係であるとしても、世界史的に見れば暫くは大きな戦争もなく平和な時代が続くことになります。

 しかし、この平和な時代になると大切なことは、ローマに所属している国や人々がどの位いるのか。あるいは税金をどれだけ徴収出来るのか。そして、何よりもいざ、争いとなった時に、戦士、兵隊となる人数がどれほど見込まれるのか、その把握の為の住民登録であったと考えられます。
 
 娘のパスポートの時は何も必要無かったのですが、小遣いを稼ぐ目的もあり、最近アルバイトを始めました。その仕事先でマイナンバーを聞かれたというのです。私の番号は一体何番かと聞かれました。マイナンバーは人に番号を付ける制度ですが、欧米諸国ではかなり昔からこの制度があるようです。皆それぞれ自分のカードを持って、身分証明書として使っています。日本も基本的にはそのようにしたかったのだと思います。

 マイナンバーについて改めて調べてみましたら、その目的は社会福祉面において公平、公正に対応するために、また、税金の徴収の為に、あるいは災害時対策の為にとありました。デメリットとしては、一括管理ですから、もし情報が洩れたら、全てのことが公に晒されたり、犯罪に悪用されたりする恐れもあると記されていました。

 私はマイナンバーのことを思いますと、どうしても徴兵制度導入に向かって、あるいは軍隊のある国に向かっていこうとする、そしてそのような意図が現在でも色濃く、政治、政権の中にも出ているように思えてなりません。

 時の政治、また支配者の思い一つによって翻弄されるのはいつも庶民、住民です。ヨセフとマリアは、特にマリアは身重の体で、登録をするために、ナザレを出発してベツレヘムへ向かいました。凡そ、120キロの旅です。二人にとって、決して短い距離ではありません。馬を持っていたとは考えにくい、ですから徒歩であったのか、あるいはマリアはロバに乗っていたのか、いずれにしても厳しい旅ではなかったでしょうか。

 しかしまた、この旅を終えて、目的地のベツレヘムに到着して、それで良かったね、という訳にもいきません。「宿屋には彼らの泊まるところが無かった」とあります。ですから、二人は止む無く、馬小屋、家畜小屋の片隅に泊まり、そこでマリアは御子イエスを出産したわけでありました。ここに神の御子が誕生した。この世の最高の喜びの瞬間です。

 しかし、その時、御子イエスの泣き声だけは大きかったと思いますけれど、周囲はあまりにも静かであったかもしれません。喜びの中で慌ただしく動いていたのは、天の国であったと、ミルトンという小説家が記しました。

 その後、展開が変わり、8節以降では、羊飼いと天使の物語、羊飼いの所に天使が現れ、「今日、ダビデの町で、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げて、その後、天使の大軍があらわれ、神を賛美したという後半の部分においては、実に華やかなクリスマスにふさわしい場面であろうと思います。

 神への賛美の歌声、私達も共に祝える喜びの表現です。本日のクリスマス礼拝にこそ読まれる聖書箇所であろうとも思います。

 しかしまた、羊飼いの話から戻るようにして話しますが、この12月に入りまして、今年度、これまで読んできておりましたエフェソの信徒への手紙から離れて、ルカによる福音書の1章から、祭司ザカリアの場面から出来るだけ丁寧に読んで参りました。祭司ザカリアの所に、天の使いが現れて、あなたの妻のエリサベトが子どもを宿すであろうと告げた場面がありました。ザカリアはその言葉に驚き、信じられずに「どうしてそんなことがありましょうか。私たちは既に年を取りすぎています。」と告げました。しかし、ザカリアの言葉と思いは覆され、エリサベトは子どもを宿しました。

 それから六か月後、天の使いは処女マリアの所に現れ、「おめでとう、めぐまれた方、主があなた共におられる」と告げました。マリアは驚き、戸惑います。天の使いは続けて、「あなたは身ごもって、男の子を産む、その名をイエスと名付けなさい」と告げるのです。
 マリアは、「私は男の人を知りませんのにと」幾らかの抵抗を示しますけれど、最後にマリアは「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」と告げたところ、天使は去っていったとあります。

 その後、マリアはザカリアの妻、エリサベトの所に向かい、神に祝福され、子どもを宿した二人は多いに喜んだ場面をも読むことも出来ました。そして主イエスの誕生に先立ち、ヨハネの誕生の場面を先週の礼拝で読みました。
 
 マリアの夫となるヨセフについては、これまで礼拝で触れませんでしたが、ルカによる福音書よりはマタイによる福音書に、ヨセフについて記してあります。そこには夫ヨセフは「正しい人であった」と記されています。ですから、マリアが身ごもっていると知った時、どんなに驚き、狼狽したであろうかと思います。そしてヨセフは色々と考えた末、このことを表ざたにすることを望まずマリアと密かに縁を切ろうと決心したともあります。

 表ざたにするのを好まずとは、二つのことが考えられます。一つは、マリアが姦淫の罪を犯したと思われる、それを公表せず、律法の罪に問わないということです。罪に問うとしたら最悪の場合、石打の形、死刑にされる恐れさえあります。そのことを望まなかった、そういう正しさであったかもしれません。
 二つ目は、マリアが既に身ごもっている、それなのに二人の婚約を破棄して、マリアは結婚前にして、やもめとして子を産まなければならない、世間はお腹の子どもはヨセフの子と考えるでしょうから、婚約を破棄するなんて、なんと薄情な、愛の無い男であるかと非難し、厳しい言葉が浴びせられるであろう。しかし、そのことをも覚悟して、全て自分が悪者になって、マリアを守ろうと対応しようとした、そうよう正しさであったかもしれません。

 いずれにしても、ヨセフは厳しい判断をしなければならならないと思ったと思います。しかし、ヨセフは正しい人であったので、少なくとも密かに分かれる決心をしたのです。

 けれど、天の使いが現れて「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む、その子をイエスと名付けなさい。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。そうヨセフに告げました。ヨセフはこの主の天使が告げる言葉を信じて、自分の計画を止めて、マリアを妻として受け入れました。

 そして、マリアが臨月となっている時に、二人はナザレからベツレヘムへと厳しい旅を強いられて、馬小屋で御子イエスが誕生する。それがクリスマスの出来事です。

 先週の水曜日に、幼稚園で、クリスマスの祝いの時を持ちました。最初に私が礼拝で話させて頂いて、その後、園児たちがこれまで一生懸命に練習を繰り返してきた、クリスマス・ページェント、御子イエスの生誕劇を行いました。マリアの役、ヨセフの役、羊飼い、博士、天使、羊、それぞれに配役されて、かわいい歌声と共に、素敵に演じてくれました。

 保護者の皆さんは、もう幼稚園のホールに入りきらない程に満杯で、手に、ビデオ、カメラを持ってファインダー越しに覗いています。個人的には、ファインダー越しじゃなくて、直接その目で見て欲しいと思いますが、でも親御さんの気持ちも良く分かる。いずれにしても大きな喜びに包まれた良い時間であったと思います。

 この年、幼稚園のクリスマスだけでなく、私は毎年の事ではありますが、クリスマスの礼拝を数えましたら全部で11回ありました。今日のこの礼拝は9回目となります。明日も明後日も予定されています。そして、その中でマリア、ヨセフ、羊飼い、博士、天使、そして御子イエスについて、今年も色々な話をさせていただき、また、それぞれに楽しいひと時と交わりの時間を計画して、この時期過ごしているわけで、本当に心暖まる時間だと思うのですが、それらの一連のクリスマスの礼拝、祝いの中で、まだ、まだまだ、伝えきれないと思う大切なことがあるのです。そして、そのことを伝えるためにこそ礼拝が行われているとも言える。そして、それはとても簡単なことでもあります。

 それは、「信じる」ということです。皆さん、このクリスマスを通して、神様は「信じなさい」と何度も何度も告げている。祭司ザカリアを通して、エリサベトを通して、ザカリアの親戚たちを通して、マリアを通して、ヨセフを通して、羊飼いを通して、博士たちを通して、神が私たちに見せてくれていることは、この時代にただ中で、馬小屋で誕生された御子イエスの誕生劇を見せてくれているのはありません。

 主なる神が、私たちに示して下さっているのは、たった一つの事です。天の使いが現れた、ザカリアは信じられなかった、そうだろうなと思います。マリアにも天の使いが現れた、マリアは当初、そのことを信じられませんでした。そうだろうなと思います。夫ヨセフはこの出来事を正しい人であったので、ひそかにマリアと縁を切ろうとした、そうだろうなと思うのです。

 更に、私たちはザカリアでもないし、マリアでもないし、ヨセフでもありません。だから御子イエスの誕生の物語を、時としてあたかも幼稚園の園児が演じる素敵な一連の劇のようにして聖書を読んでいるとしたら、それは決して、主なる神の意図するところではないと、私は思います。

 主なる神の思い、それは、私たちに、このことを通して「信じなさい」と告げているのだと思います。アウグストゥスの時代の出来事です。キリニウスがシリアの総督であった時の出来事ですと申し上げましたが、それは昔の出来事でしたという意味ではなく、その時代に主なる神を徹底的に信じて生きた人々を通して、御子イエスが誕生したと聖書は告げているのだと思います。身重のマリアを連れて、住民登録をしなければならなかたヨセフ、ナザレからベツレヘムへ、120キロの道程を厳しい状況で旅をしたでしょうと申し上げました。実際に大変辛い旅であったに違いありません。

 でも、二人は本当に辛かったのでしょうか。大変だなと思っていたのでしょうか。厳しい旅だと思っていたのでしょうか。恐らくそう思っていたと思います。でも、それだけではない。マリアもヨセフも、主なる神を「信じて」、マリアに「おめでとう」と告げた主を信じて、ヨセフに「インマヌエルの主、神我と共におられる」という意味であると告げた主を信じて、二人はこの旅の中にも、神の大いなる恵みがあると信じて、ベツレヘムで向かったに違いないと私は思います。

 更には宿屋には泊まるところがなかった、だから、御子イエスの出産は馬小屋であった、どの注解書も、どんな説教も、その場面は誠に小さい、また弱い、御子の誕生であったと記します。しかし、それが神の思いであったと記しています。確かにその通りだと思います。

 でも、もっと大切なことがあると思う。それはたとえ馬小屋の中であろうと、どこであろうと、二人は主なる神に対して、どこまでもこの方を信じ続けて、旅をしてこの場で御子イエスを出産し、そしてその全てを喜んだということです。

 皆さん、何よりも信じることです。私たちのところには中々、天の使いはやって来ないかもしれません。直接神の言葉を聞くことも無いかもしれません。でも、信じることです。教会の宣べ伝えは、聖書に記されている内容の説明ではなく、神を信じることです。決して学校では教えてくれないし、親だって滅多なことでは教えてくれません。私たちは信仰者の一人一人でありますけれど、この一年間、本当に信じて生きて来たのか、私も含めて振り返らなければなりません。

 昔も、今も、この世の政治、政権に翻弄される私たちです。今年の漢字は「災」という一文字で、この年、どんなに災害が多かった、今も苦しんでいる方々がどんなに多いことか、国際社会を見れば、心配なことも多いし、来年は消費税もあがるという、嫌な事ばかりだと思う強い力が、どうしても心の中に満たされるのです。しかし、そこで忘れていくことは「信じる」ことではないでしょうか。

 「信じること」そのことによって、本当にこの世は変わっていくはずです。そのために御子イエスが誕生されました。神の業を心から信じて、私たちはこの時、過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。

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わたしの民を慰めよ

2017-12-24 10:04:14 | クリスマス
【イザヤ書40章1~11節】 
【マルコによる福音書1章1~8節】

「わたしの民を慰めよ」

 クリスマスを目前としているこの主の日でありますが、旧約聖書イザヤ書40章を読んで頂きました。イザヤ書は全部で、66章から構成されていますが、一般的には研究者が考えるには、少なくとも三つのイザヤ書で成り立っていると言われます。

 一つは1章から39章まで、二つ目が40章から55章、三つ目が56章から66章。それぞれ第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれています。記されている年代や内容がそれぞれ違っていると考えられているようです。

 今日はそういうことで言えば、第二イザヤ書と呼ばれる最初の40章を読んで頂きました。時代的には、イスラエルがバビロン帝国との戦いに負けて、首都エルサレムが陥落する。首都が陥落するとは、日本なら東京が陥落するということですから、その意味は国としての機能を失うということです。その為イスラエルの民も、既に国の形を維持することが出来ず、しかも、主だった人々は、バビロンに捕囚の民として、強制移住させられ、強制労働や奴隷のようにして強いられたと思われます。そのような生活が結局の所、凡そ50年続きました。その50年の間、悲しみと、疲労と、涙と、絶望の中で過ごして来た。けれど、ついに一つの希望が見えて来た。そんな場面がイザヤ書40章に見られます。

 その希望の源は、バビロンの北に位置していたペルシャという国が、成長し、領土を大幅に広げて、力を付け、ついにバビロンを滅ぼすという出来事が起こった。バビロンの支配体系は、中央政権的といいますか、専制政治のようにして全ての民を支配下に置くという考え方でしたが、ペルシャはむしろ、その支配した国の体制を大切にして、無理なことをしないという政策を取りました。ですから、これまで50年間の捕囚の民としての苦しみにあったイスラエルに対しても捕虜の状態から解放し、自分達の国に帰っていいよ、そして、自分たちの信仰を守ってもいいよ、神殿を建てたかったら建ててもいいよと告げるのです。イスラエルの解放の喜びが特に今日、読んで頂いた箇所から読むこと出来ると思います。

 40章1節にはこうあります。「慰めよ、わたしの民を慰めよ、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼び掛けよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた。と」このようにして、ついにイスラエルに大きな慰めと希望が与えられるのだと言うのです。

 私達が生きていく中で、その人生の中で、様々な試練が与えられます。その試練は、それぞれに全く違った試練であり、人によって様々です。学生さんは勉強が試練であり、人によっては家庭が試練、また人によっては仕事がそうだという方もおり、お金がという人もいる、あるいはこの病気さえと、試練を感じている方もおられるわけです。その与えられている試練は、また二つに分けて考える事も出来ます。

 問題と艱難の二つです。何が違うのかと言えば、問題とはまさに問題ですから答えを見出すことが出来る。例えば勉強の事、仕事の事、自分で頑張れば解決していくと思われるような試練、例えば我が家の子ども二人は、来年の春には受験を控えていまして、今、それなりに大分苦しんでいるようです。試練だなあと思っていると思いますけれど、でも、こういう試練はね、努力次第ということもある。自力によって乗り越えていけるといいますか、ある意味乗り越えていかなければならない試練であろうとも思います。ですから周囲の励ましや協力なども必要でしょうし、そんな中でいずれにしてもいつかはどのような形であれ解決していくものでしょう。

 けれど、同時に、このような試練、つまりこのような問題は、答えを見出すことが出来るだけに、いつの間にか時として神を忘れることがあると思います。自分に試練だなと思われる問題が与えられる、でも、それを、自力で自分の頑張りで乗り切ることが出来る。それは人生においては大きな自信となり、決して悪いことではないと思いますが、しかし、それはまた神から離れていく誘惑が伴うのではないでしょうか。

 しかしまた、先日、ある本を読んでいましたら、ある女性が自分の願いを叶えたいけれど、叶うでしょうかと牧師に相談に来たという話が記されていました。その相談を聞きながら、牧師は、いずれにしても教会に通うことを勧め、その女性もその勧めを受け入れ、熱心に教会に通い、ついには洗礼を受け、奉仕を怠らず、熱心に学び、すっかり仲間の一人として牧師が安心していたその頃に、突然、その女性がやって来て、私の願いは結局叶わなかったので、もう教会には来ないと言ったと言うのです。牧師は本当に驚いたそうですが、誰が悪かったのか、何が悪かったのか、それはなんとも言うことが出来ません。

 ただこの女性が、主なる神や、あるいは教会に見切りをつけたということなのかもしれません。

 最後まで彼女の心の中は、自分の問題であり、それが解決するか、しないかそれだけが最大の関心事だったのでしょう。願いを叶えない神は必要無いと思ったのでしょう。
 様々な試練、問題や艱難が与えられる、頑張れは解決出来る問題や、自力でやり切れると思うのであれば、神は必要でないと思う人がいるだろうと思います。けれど、逆にどんなに祈っても、願っても、必死に望んでも、叶えられないこともあって、それなら、そんな神はこっちから願い下げだと思う、どちらにしても、自分の心の中心に自分がいて、その中心を神などには明け渡すものかと頑張っているのであれば、主の慰めを受けるのは難しいのではないでしょうか。

 実際のところ、イスラエルの捕囚の期間は50年と申しましたが、当初、捕囚の民は、自分達はすぐにでも帰れると思っていたようでうす。エゼキエル書などを読みましても、そのような雰囲気があることがわかります。エゼキエル書が記された頃、まだエルサレムも陥落せず、頑張っておりましたし、難攻不落と言われたエルサレムを攻め落とすことは出来まいと高を括っていたところがあったようです。けれど、その思いは虚しく過ぎて、思いがけない50年もの長期にわたる、捕囚の時期を過ごすことになります。
 
 50年とはもうその土地で、捕囚の民として連行された第一世代の人々よりは、その場で誕生した第二世代、あるいは第三世代の人々が大勢いたに違いありません。そして、そのようにして世代が移っていく中で、自分達はイスラエル人であること、自分達は、神の民であること、自分達は神の民として、律法が与えられていること、そういった信仰の継承こそが、イスラエル人、ユダヤ人としてのアイデンティティを支えるために、どれだけ有益であり、また大切にされたであろうか、実際そうであったとも言われています。

 どんな状態の時もイスラエル人として、ユダヤ人として、希望が見えない時代にこそ、信仰がより一層強められるそういうこともあったでしょう。
しかし、一方では、その50年の間、願い、祈り、信仰を磨き、神に祈る、でも実際には、尚、捕囚の状態は変わらないのです。やっぱりこれは試練ですよ。答えが与えられない艱難としてずっと与えられ続ける、これこそ試練ですよ。

 ですから、イスラエルの民の中には、先ほどの女性のように、主なる神に見切りをつける人々もいたでしょうし、祈ったところで、願ったところで、それが一体何になるのか、神は本当におられるのか、おられたとしても、私たちは見放されているのではないかと絶望の淵で、虚しく生きていた人々も少なくなかったと思うのです。

 けれど、それでもなお、多くのイスラエルの人々は一所懸命に祈ったでありましょう。主なる神よ、私たちは今、私たちの力では何も出来ない状況です。毎日が苦しい日々です、それでも主よ、私たちはあなたに祈り続けます。
 その祈り、特に自分達ではもはや解決出来そうにないわけですから、毎日が虚しいものであったでしょう。でもね、そのよう繰り返し、繰り返しの中で、いよいよ自分達の信仰が強められ、このことを通しても尚、主が働かれるときがやって来る、そのように信じて生きた人々も多かったことでしょう。

 そして、ついに、ペルシャという国が登場しバビロンを打ち負かし、自分達は帰還の希望が見えて来た、その喜びを、主なる神が、第2イザヤと呼ばれる預言者に伝えるのです。41章25節で、主なる神がイザヤに告げています。「わたしは北から人を振るい立たせ、彼は来る」というのです。「北からやって来るのは」ペルシャの国です。この国がバビロンを滅ぼし、イスラエルの民よ、希望が見えて来たというのです。その希望がはっきりと見えてきた、そんな時代です。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」まず、希望には何よりも慰めが必要だというのです。
 
 慰めとは何か、慰めとは「とりなして下さる方の力」だと言えるでしょう。とりなす力、具体的には「聖霊なる神」の働きです。主イエスが、弟子たちを前に、人々を前にしてこう告げて下さいました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である」と告げるのです。非常に有能な弁護士がいるとして、どんなに苦しい状況にあっても、尚、確かな助け手となるように、この方がいるのなら、この状況では、無理、難しいというと思えるそのような状況でも尚、希望が見えるよと告げて下さる方の力なのです。

 皆さん、艱難、自分ではいかんともしがたい状況が起こる時、自分の努力ではどうにもならないと思えると、何かが起こるのかというと、一方においてはそれでもなお、主に頼り、主に祈り、主への信仰にゆらぐことなく生きていける、そのような人がいることは確かです。けれど、また一方では、何ともならない思いを、誰にもその怒りや悩みの持って行きようがありませんから、ついには、誰を責めるかというと、自分を責めるようになる。なんで戦争に負けたかな、自分が弱気になったからだ。なんで最後まで祈れなかったのかなぁ、自分が諦めたからだな。なんで病気になったかな、あの時、薄着で歩いたからな、毎日手を洗って、うがいしていたら大丈夫だっただろうに。そうやってどんどん、自分を責めて、責めて、それで何とか納得しようとするといいますか、折り合いをつけるようとするのです。

 天上に向って、ツバを飛ばすと、自分に帰って来るように、そうだからなと思う。自分で蒔いた種は、自分で刈り取るという御言葉がありますが、これはだから良い種を蒔けば、収穫も多いよという教えですけれど、悪い種を蒔いたから、それも自分が刈り取らねばと思ってしまう。
 
 いつの世でも、つまり現代もまた、決して良い時代ではないと言われます。なぜ、そう言われるのか、私は究極的には、この世にあまりにも沢山の自分で自分を責めている人がいるからではないかと、最近すごく思うようになってきました。この事は子どもに対する教育や、道徳観や、宗教観にまでも広がっていて、自分を責めて折り合いを付けようとするのです。自分で解決するのはそうするしかないと思ってしまうのです。そうやって自分を責めていると、結局は自分が持ちませんから、自分を責めるその量でもって、相手を責めるのです。だkら、状況はもっと悪くなっていくことにもなりかねません。

 慰めとは、そうじゃない、あなたは悪くない、あなたが悪いのではない、それどころか、あなたが置かれている状況では、あなたはあなたの最善を尽くしていた、あなたは本当に頑張っていたよ、そう言ってとりなして下さる方がおられる。それが聖霊の力ですよ。もうダメだ、無無理だという思いに支配されている自分に対して、でも、大丈夫。
 
 このことを通しても、私はあなたを責めることをしないし、あなたが精一杯であることを良く分かっている。だから、あなたはあなたの心に支配されないで、自分の方向ではなく、私の方向に、その姿勢を正し、主なる神に向かえと主なる神はイザヤを通して、イスラエルの民に、そして、私たちに語りかけるのです。

 主なる神は、そのとりなしの証として、何を示して下さるのか、続くイザヤ書の40章3節ではこう記されます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え 私たちの神のために、荒れ野に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ、主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。」

 荒れ野に道を備えて下さる方が現れるというのです。そのような栄光を見る日がやってくるというのです。何年も、何年も祈って来た、願って来たその試練を越えて、「草は彼、花はしぼむが、わたしたちの神は言葉はとこしえに立つ」その日がやってくるというのです。

 皆さん、この荒れ野は、イスラエルの民にとってみれば、まさにバビロンと、自分達の故郷との間にある道であったでしょう。山あり、谷あり、道なき道であり、そして、帰るにも、帰れないと思われる道、それこそが試練です。でも、その道をまっすぐにする者が現れる、この時、イザヤは何を預言したのか、あなたがたは帰ってもいいよと言ってくれる支配者が現れると預言したことは確かでしょう。
 
 けれど、新約聖書の時代となって、主イエス・キリストを指し示す洗礼者ヨハネが現れた時にも、この言葉が示されました。ヨハネは真の救い主である主イエスに向かう民の為に、その道を整ええ、その道筋をまっすぐにするものとして人々の前に現われました。「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とヨハネは語りました。
 
 聖霊で、すなわち、あなたに本当の慰めを届けるために、主イエスに向かうその道を、艱難だ、試練だと思っているだろうその道を、私は整え、そして、あなたがたは確かな慰めを受けることが出来ると宣言したのです。

 皆さん、私たちの人生に、主なる神がいつも共におられ、確かな慰めを与えて下さる為に、御子イエスはこの世に誕生して下さいました。ローマの支配の中で、苦しんでいる人々、弱っている人々の為に、そして現代を生きながら、神を見失ってしまいそうになっている私達の為に、自分ではなんともしがたいと思っている私達の人生の上に、確かな希望の光として、御子イエスは誕生して下さいました。だから、私たちはしっかりと主なる神から慰めを受けて、そして神様に感謝して生きていける。希望をもって、いつまでも、何度でも神の祝福を受け取ることが出来るのです。そのような恵みに私たちは、この週も共々に過ごして参りましょう。お祈りします。


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