日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

「神の子となる資格」

2022-05-01 15:01:40 | クリスマス
【創世記15章1~6節】  
【ヨハネによる福音書1章6~13節】

 今日はヨハネによる福音書1章6節から13節までを読んでいただきました。12節にこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」そこから「神の子となる資格」とタイトルを付けました。
 資格(エクソーシア)という言葉は、ギリシャ語から日本語に訳するのが難しい言葉のようで、新改訳聖書では「神の子となる特権」と訳されていますし、口語訳聖書では「神の子となる力」と訳されています。どの訳が良いのかよく分かりません。と言うより、ある説明には、神の子となる資格であり、特権であり、力である、と考えれば良いとありました。
 
 中川健一という牧師がおられます。中川先生は私が以前に奉仕していた町田の教会から100mほどしか離れていない「町田クリスチャンセンター」という名称の教会の牧師をしておられた先生で、1980年代からテレビ伝道に力を入れていた先生のようです。日本のテレビ伝道の先駆者と言えるかもしれません。ここ数年はネットのユーチューブを中心に聖書の話をしておられるようです。

 最近時々見て、学んでいるのですが、この聖書箇所で中川先生は、神の子となる「力」が良いのではないかと話していました。
 どうしてかというと、言語的な問題から考えたのではなくて、ヨハネによる福音書を記したヨハネはもともと漁師であった。ガリラヤ湖で網を打って生計を建てていた。そこに主イエスがやって来られて、私について来なさいと言われて従ったヨハネでしたが、魚を獲る時のことを考えてみたというのです。
 
 世の中には釣りを趣味としている人は大勢います。なぜ釣りが人気かというと、「手ごたえ」のようです。釣り針に魚がかかった手ごたえ、これは経験したことが無い人には分からないかもしれません。と言っても私も釣りは趣味でもなく、そういう経験は僅かしかありません。でも魚がかかったとなると、釣り竿が急に重くなって、グイグイと引っ張られます。思った以上の強い力です。釣り竿がしなり、割と小さい魚でも十分な手ごたえがあって、釣り上げるまでは魚との勝負になるわけです。
 
 ヨハネは釣りというより網だったと思いますが、魚が入っている網を船にあげるまでにはどれほどの力が必要であったかと言うのです。そこには命と命の戦いがあったであろう、人が主イエスをメシアと受け入れ、主イエスを信じるに至るまでには、主なる神と自分との、あたかも命と命がグイグイ引っ張り合うような、そのような神の力が働いたのではないかというのです。私はその説明を聞いてその通りだと思いました。

 私たちの国では、日曜日のこの時間、教会の礼拝に向かう人々の数は多くありません。全体から見たら僅かしかおられません。なぜ僅かなのかと問うよりも、なぜ、僅かでも教会に向かう方がいるのかと考えると、教会に向かう一人一人の人生のいつかの時に、主なる神と自分の命がグイグイと引っ張り合うような経験があって、そしてグイっと神様の方向に引き上げられた。引き上げられてみると、なんとそこに自分が願っていた、求めていた以上の「まことの光」、神の栄光を見る、感じることが出来た、そのような経験を味わった者こそが、教会へ、この礼拝へと導かれているのだと思います。
 
 今、「まことの光」と申しましたが、9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」とあります。日本人は宗教というものに距離を置いたり、関わりを持たなかったり、関心が無いという方々が多いと言われます。様々な理由によってそうなのだと思いますが、世の中には、まことの光でない、光もどきといいますか、偽物の光があまりにも多いからではないでしょうか。時として私たちは本物より偽物に安心するところがあります。
 
 私の好きな映画に「プロヴァンスの贈り物」(2007年)という映画があります。ビデオで10回も20回も見ているかもしれません。主人公の男性はイギリス、ロンドンの大きな会社で株のトレーダーをしているのですが、あるきっかけがあって、自分が生まれ育ったフランスのプロヴァンスの田舎町で幼馴染の女性が彼女となって付き合うことになるのです。時々休暇を取り、結婚は望むけれどイギリスにはいかないという彼女と過ごしているうちに、会社の社長がしびれを切らして、イギリスに呼び戻され、社長室で相談を持ち掛けられます。それは会社の共同経営者となって一緒にやるか、会社を辞めるかどちらかを選んでくれというのです。
 主人公は悩みます。会社の共同経営者となれば、社会的なステータス、多くの資産、人生の成功者という立場を得ることが出来ます。悩みながら社長室を見渡すと、ゴッホの絵が飾ってあるのに気が付くのです。「社長、このゴッホの絵は高いのではないですか。」「そうだ、何億もした。私の宝物だ。」「宝物ですか」「そうだ、だけど本物は金庫にしまってあって、これは偽物だよ」と社長は笑って答えたのです。
 その答えを聞いた主人公は決心したようにこう語りかけました。「社長、偽物を見ているのですか、なら本物はいつ見るのはいつですか、なぜ本物を見ようとしないのですか」そして会社を辞めて、全てを捨てて偽物ではなく、フランスの田舎で待つ彼女への愛を選んだという映画です。観終わるとつくづく本物は良いと思います。
「まことの光」としてこの世に来られた主イエスです。それはすべての人を照らすまことの光です。真実の光です。ここで「まこと」と訳されている言葉の元々の意味は、信用出来る、信頼できる、生涯をかけても悔いはないという意味だと言われます。だから「まことの光」なのです。その光はすべての人を照らす光です。子どもも、大人も、女も男も、人種、民族を越えて、国や地域を越えて、思想、信条を越えて、全ての人を照らすまことの光がこの世に来られた。一人ひとりの心をグイグイと引っ張り上げ、命をその人生を神の光で照らし、導こうとされる主なる神の御計画によって、主イエス・キリストはこの世に誕生されました。

 けれど、聖書は「世は言を認めず」「民は受け入れなかった」とも記します。皆様がご存知の通り、主イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑となり、そして死なれました。自分の心が持っていかれる、本物の力によって持っていかれそうになることが困ると思う人々が大勢いました。自分が自分ではなくなると困るのです。偽物に慣れてしまっているような人であろうと思います。だから、主は十字架につけられ、死に葬られました。人々はこれですべてが終わったと思ったことでしょう。

 けれど、主なる神は、そこから更にまことの光、主イエスを三日の後の日曜日の朝早くに復活させてくださいました。復活された主イエスは弟子たちのところへ現れ、弟子のトマスのところへ現れました。主イエスを見たトマスは主を見つめつつ、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白した場面を私たちは先週の礼拝で読んだわけでありました。トマスもまた主の名を信じる者の一人となり、神の子となる資格が与えられた一人となった場面でありました。

 私たちが生きている世、この世界は「まことの光」に照らされる時、様々な罪が明らかにされるようです。13節には、その罪が三つ記されます。一つは「血によって」とあります。血によるとは自分の先祖、両親の血によってということです。ユダヤ人は特に特に血筋、家柄を大切にしていたと言われます。自分がどこの出であるのか、どの家系であるのかが重要であったようです。日本人の私たちも、現代であってもそういう考え方があるのではないでしょうか。

 二つ目に「肉の欲によって」とあります。肉の欲、それは目に見える世界ということでしょう。私たちは無いよりもあった方が良い、不便よりも便利な方が良いと考え、目に見える物を求めて生きているようなものです。テレビ、マスコミ、雑誌は購買意欲を掻き立て、人を限りない欲望の世界へ、貪欲の罠へと誘い込もうとしているかのようでもあります。
 三つ目は「人の欲によって」とあります。人の欲とは、様々な社会的ステータスを意味しているかもしれません。
「血」も「肉の欲」も「人の欲」もその特徴は、人が人の手によって、手に入れられると思うものかもしれません。「まことの光」の輝きは、は人の罪を浮き彫りにする力があるのです。

 しかし、「まことの光」はその光を受け入れた者にとって、その名を信じる者にとって神の子となる資格を与えてくださいました。

 先ほど創世記の15章を読んでいただきました。まだ子どもを授からず、途方に暮れるような思いで過ごしていたアブラハムに主なる神が声をかけられた場面であります。
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラハムはこの時既に多くの財産を得ていたと思われますが、でも、子どもを授かってはいませんでした。命の誕生は神の領域だからです。しかし、既に年老いていたアブラハムを外に連れ出し「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい」そして言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた。と記されています。アブラハムの信仰は肉の欲によってではなく、ただ神によって与えられた信仰でありました。

 信仰とは、まだ見えないけれど、神のまこと光に照らされて、見えない将来を既に見る、希望を持ち続けて生きていこうとする思いです。暗闇であり、悲惨な状況だと思うこの世にあって、しかし、まことの光が輝くとき、そこにまだ希望があり、命が躍動する世界があると信じて生きることです。そのような物こそが、神の子となる資格が与えられるのでありましょう。そのまことの光の中に、教会の歩みもあるのだと私は信じています。

 お祈りいたしましょう。


バビロンの流れのほとりにて

2021-12-26 14:54:04 | クリスマス
【詩編137編1~9節】
【マタイによる福音書2章1~12節】

 先週19日にクリスマス礼拝を終え、金曜日の「聖夜礼拝」を過ごし、昨日は子どもの教会のクリスマスを祝いました。クリスマスの少々忙しい一週間でしたが、本日の礼拝が2021年最後の主日礼拝となりました。次週の礼拝は新年の礼拝となります。
 慌ただしい一年でありました。コロナ禍について言えば、その慌ただしさは依然として収まりを見せず、来年に向かっても、不安を抱えての生活になると思われます。けれどそれでも、この一年、主なる神の導きの中で過せたと思います。

 先週、小さなクリスマスの物語を読みました。「もう一人の博士」という物語です。先ほどマタイによる福音書から、東の国の占星術の学者が、神の光に導かれて、ユダヤの国を目指して旅をした箇所を読んでいただきました。
博士達はエルサレムへ到着し、ヘロデ王と会い、ベツレヘムへ向かい、御子イエスを見つけ、喜びにあふれ、それぞれ自分達の最も大切な、宝の箱、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。
クリスマスのこの時期、必ず読まれる東の国の博士の物語です。聖書には学者とありますけれど、元々の言葉はギリシャ語でマギという言葉、後にマジックという言葉の基となる言葉です。口語訳聖書では博士となっていまして、私は博士という言葉に馴染みがありますので、博士と言ってしまいますが、彼らは3人だったと言われます。贈り物が三つですから、一人一つずつ持ってきたのであろう、だから三人だと言われています。

 後の時代となり、7世紀頃に、三人には名前が付けられて一人はメルキオール、一人はバルタザール、一人はガスパールと呼ばれました。あるいは一人は白人、一人は黒人、一人はアジア人とか、一人は老人、一人は壮年、一人は若者とか様々な伝説が生まれています。
けれど、そう言われる意味は、御子イエスのもとに向かった博士たちは、世界中のあらゆる場所、あらゆる人々を代表する一人一人として、御子イエスの誕生を喜ぶためにやって来たのだという意味でありましょう。

 御子イエスは12月25日に誕生し、星に導かれて凡そ12日間の旅をして到着し、礼拝を献げたと言われます。礼拝を献げた日は1月6日になり、その日が公に現わす日と書いて、公現日と呼ばれています。事実というよりは教会の伝統と信仰によってそのように後の時代に設定されました。
 そのような博士達、恐らく三人だと思われるけれど、「もう一人の博士」は、実は四人いたという設定で記されています。もう一人の四人目の博士はアルタバンといいました。

 アルタバンは博士というより医者でした。アルタバンも御子イエスのために、贈り物をと考え、思い切って自分の財産を売り払い、最も高価な真珠を購入しました。
購入した真珠を持って、三人の博士達と落ち合う場所に向かいました。けれど、向かう途中に、病気で困っていた人々を見つけると、医者ですから、そのまま素通りするわけにはいかず、自分は医者だから、体を見てあげましょうと、病人に出来るだけの世話をするのです。すっかり遅れて落ち合う場所に着いた時には、三人の博士は既に出発してしまった後でありました。

 でも、アルタバンは諦めないで三人の博士の後を追いました。無事にユダヤの国に到着し、エルサレムに到着するのです。けれど、到着した時には、ヘロデ王がユダヤの王として生まれた御子を殺してしまいたいと考え、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を、一人残らず殺すようにと命じていた時でした。アルタバンはその様子に、驚き、悲しみにあふれます。
けれど、イエス様の家族はその前にエジプトに逃げたという事を知り、アルタバンは更に諦めないで、自分もエジプトに向かうのです。けれど、ついにエジプトでも御子イエスの家族と出会うことが出来ずに、それからのアルタバンは、神の御子イエスを探し続ける人生を送ることになります。

 救い主キリストを探し続けながら、医者であったアルタバンは病人をいやし、貧しい人々には知識を授け、農家には良い作物が育つようにと色々と方法を示し、人々を助けながら生活していました。そして時代は流れて、気が付けばキリストを探し続けて30年の年月が流れました。
すっかり年老いてしまったアルタバン。救い主に会える希望も尽きかけていた時に、アルタバンはエルサレムの町が騒然としているのに気が付きます。
それは、「ナザレのイエス」という男が、自分は「神の子である」と言っている、その罪によって、ゴルゴタの丘で処刑されるというのです。アルタバンは、この方こそ、自分が探し続けてきた方ではないかと気が付きます。
 
 30年前に自分の財産と引き換えに手に入れた最高の宝物、あの真珠を手にして、外に飛び出します。この真珠があるいは役に立ち、処刑は免れるかもしれないと考えたのです。けれど、そこに向かう途中、貧しくて、今まさに自分が身売りされようとされる娘と出会い、哀れに思ったアルタバンは真珠と引き換えに、娘を助けました。

 丁度その頃、十字架の主イエスは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取りました。その後、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けて、大きな地震が起こり、岩が裂け、大変な事態となってしまいます。

 アルタバンは地震に巻き込まれ、倒れて来た建物の下敷きとなってしまいました。ついに、ここで自分も死んでしまうか、と死を覚悟した時、その時に、主イエス・キリストがアルタバンのもとに現れました。アルタバンは主に語り掛けました。
 「主よ、もう遅すぎました。私は30年の間、あなたを探し続けましたが、とうとうお目にかかることは出来ませんでした。そして今、私があなたに準備していた真珠さえも手放してしまいました。」
でも、キリストは優しく答えました。「アルタバンよ、私は何度も何度も、お前の側にいてお前に会っていたよ。お前は長い間、病の人を救い、貧しい人々を助け、困っている民を救い、のどが渇いた時に飲ませ、旅をした時に宿を貸し、裸の時に着せくれた。その時、私はあなたと会っていたのだよ。」と話してくださいました。
そして続けて話されました。「アルタバンよ、はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいるであろう」

 四人目の博士の物語は、私たちの人生そのものだと思います。私たちは神の子、キリストに出会うためにこの世に生まれ、生涯をかけて御子イエスを求めて生きているようなものです。その人生は、決して楽しい事、嬉しい事ばかりではありません。
 むしろ、辛いこと、悲しい事のほうがずっと多いと思ってしまう、それが本音ではないでしょうか。
 
 今日は、旧約聖書から詩編137編を読みました。この詩編はとても悲しい詩編です。「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた」と言う御言葉から始まります。イスラエルの国が、バビロンという国との戦いによって、破れ、国が滅び、主だった人々は、バビロンのケバル川という川のほとりに連行され、捕囚の民となりました。その土地は荒地であり、また、隣国との国境だったと言われます。隣国の兵士が攻めてきたら、自分達がバビロンの盾とされてしまう、そのような苦難、辛苦を長い間生きなければなりませんでした。

 詩編の作者は、「自分の宝であった竪琴をほとりの柳の木々に掛けた。」とあります。彼は礼拝において竪琴を奏でる楽師であったかもしれません。でも大切な宝としてこれだけはと携えてきた宝の竪琴を弾くのを止めてしまいました。バビロンの人々が嘲って、聞くものですから歌を歌う事さえできない状態に追い詰められたのです。
悲しい詩編です。でも、この詩編は悲しいだけでは終わりません。その力強さは、5節から始まります。
「エルサレムよ もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしも、エルサレムをわたしの最大の喜びとしないなら。」とあります。

 それは、どんな時も私は主よ、あなたを忘れることはありません。主よ、どんな状況にあっても、わたしはあなたを最大の喜びとしていますという、まさに「心の叫び」、「叫びの歌」「信仰の歌」を文字として記すのです。

 この一年を振り返って、私たちの教会の働きはコロナ禍により、この一年も大きく制限を受けました。時には会堂で礼拝を献げることもままならず、一月から三月にかけては会堂に集まることも出来ず、ビデオでの礼拝となりました。一時期、落ち着くかと思われましたが、その後もコロナ感染状況は厳しく、春、夏、秋と短縮の礼拝、また、それ以外の集まりも大きく制限される一年でありました。

 ある牧師は「信仰は、時に人を苦しめる。なぜなら現実に逆らうからだ」と説明しています。信仰を持って生きるとしても、時には自分の力では如何ともしがたい現実が与えられることがあるのです。救いを求めるより、神に祈るより、現実に降参したくなっていくのです。もう楽にして欲しいと願うことさえあるかもしれません。
 
 けれど、詩編の作者が記した御言葉は、それを決して求めない御言葉です。
聖夜礼拝の際に御子イエスの飼い葉桶は「どん底」のしるしだと話しました。詩編の作者はまさに「どん底」だったと思います。でも、それでも尚、私は主を信じ、希望に生きようと告げている力強い詩編です。
 四人目の博士の物語においても、最も大切なところは、アルタバンは30年に亘って御イエスを求めて続けて生きた人生であったという点ではないでしょうか。博士が生きている時、御子イエスとの出会いは無かったのです。
クリスマスは御子イエスが誕生された。「あ~良かった」で終わらせてはなりません。宝物を献げかえって行った、あとは良く分からないで終わらせてはなりません。
アルタバンのように、詩編の作者のように、与えられている人生において、神を求め、神に願い、希望を持ち続けた、そこが読む者の心を動かし、感動を生み出すのではないですか。
 
 私たちの信仰もまた、そのようなものでありたいと願います。与えられている現実に立ち向かい、立ち向かうだけでなく、尚、主を慕い、神を愛し、この世に命ある限り、主なる神から離れず、どんな曇りや雨の日であろうと、その厚い雲の上にはいつでも太陽が照っているように、神の光に照らされる思いをもって、この一週間、新しい年に向かって、確かに歩んで参りましょう。

 お祈りします。

揺らぐことなく

2021-09-19 16:04:01 | クリスマス
2021年9月19日 (日)聖霊降臨節第18主日 新しい戒め

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 詩編125編1~5節
     ヤコブの手紙1章2~8節

説教題 「揺らぐことなく」

説 教 菊池丈博牧師


揺らぐことなく


以下 原稿になります。

 本日の礼拝説教を「揺らぐことなく」としました。先ほど読みました詩編125編1節にこうあります。「主に依り頼む人は、シオンの山 揺らぐことなく、とこしえに座る」
私たちの人生において、時に「揺らぎ」を覚える時があります。「揺らぎ」とはたとえるならば不安です。私達の国ばかりでもなく、新型コロナウィスル感染の猛威が世界を覆っていますが、先日、政府の新型コロナ対策分科会の尾身会長が今後の見通しを聞かれて、この状態が落ち着くまでは、「2~3年プラス」と答えていました。

 日本の現在の状況は感染者数が減って来てきますが、既に年末頃を想定した第6派の対策を考えなければならないと専門家と呼ばれる方々が話しています。まだ暫くの間は、コロナ感染による私達の社会の揺らぎは終息しそうにありません。

 あるいは、今、国の総理大臣が変わろうとしています。これまでの菅総理は、退陣を表明しましたので必ず変わります。国と国民に対して責任を持つ者が変わる、政治、経済だけではなく、変わることによる影響は大きいと思います。あるいは衆議院選挙もすぐに控えているわけで、私達の国がどのように変わっていくのか、これは期待と不安と両方とも言えますけれど、毎日の生活の中で揺らぎを感じないわけにはいきません。

 あるいは、昨日まで、台風が日本に来ていました。土曜日の朝方から断続的な雨が続きまして、朝になりましたら大和市の川が氾濫しそうだなどと報道されて緊張しました。台風に限ることなく特に近年、私たちは毎年のように自然災害による、大きな不安、揺らぎを感じ続けているとも言えるでしょう。

 あるいは社会というよりも、自分自身に対する「揺らぎ」を感じる時があります。

 何週間か前の土曜日のことでしたが、礼拝の準備をしておりましたら、詳しい話はともかく、いきなりだったのですが、前触れもなく泌尿器のあたりが腫れて来たことを感じて慌てました。理由も分からないまま、暫く様子を見ていましたけれど、土曜日ですから、病院は午前中しか診察していないと思い直して、急いでネットで病院を探して海老名の泌尿器科に自分で運転して行きました。
 
 微熱も少しあるかなと思いながら、診察を受けたら、38度5分もありました。
 
 私も医者も驚いて、とりあえずすぐ点滴しましょうとなって、大分大袈裟なことになりまして、点滴を受けて、薬を貰って帰宅したのですが、次の日曜日には熱も下がって安心したのですけれど、前立腺炎ではないかと言われました。でも、一週間してもう一度行きましたら、完治しましたと言われましたので安心していますが、人間の体温は大体36度から高くても37度です。普通は極めて安定しています。そこに揺らぎはありません。だから安心なのに、それが38度5分などと聞かされると、途端に病人になったりするのです。心が揺らぐものです。

 何よりも自分自身の健康の不安、揺らぎ、経験したことが無いという方はおられないと思います。

 人は依存している対象によって動かされるとも言われます。お金に依存している人はお金に影響されるのです。社会的地位に依存している人は、その地位の変化によって影響を受け、人に依存している人は、依存している人に影響を受けるのです。

 先月、8月の末に、キリスト教保育連盟金川支部会の講習会がありました。今は、大勢が集まることが出来ませんので、ZOOMというかネットでの講習会となりました。 
 
 私は、講習会に先だって、開会礼拝の役割をさせていただきましたが、その際、キリスト教保育とは、具体的には一体どういうことであるのか考えました。

 準備する中で話しましたのは、人に依存するのではく、神にこそ依り頼むことが大切なのではないかと話しました。私たちの人生で揺らぎを感じる、それは政治、経済によって、自然災害によって、あるいは自分の健康によって、揺らぎを感じるのですが、でも、何よりも心が揺らぐのは人と人との関係ですよ。
 例えば、幼稚園に限るわけでもありませんが、頼りにしていた先輩から厳しい一言を言われたとか、今日の園長は機嫌が悪かったとか、主任がイライラしていたとかだけでも、心が揺れ動くものですし、全く逆に、園長だからと言って、職場の先生方や保護者の皆さんの顔色一つで、心の中はヒヤヒヤ、ドキドキしているものだと思います。といった話を致しました。
 だから、大切なことは、人に依存するのでなく、主なる神に依り頼むことがどんなに大切かと思います、それがキリスト教保育の根幹になるのでないか、と申しました。

 主に依り頼むとは、揺らぐことなく、つまり、疑わないということです。

 主イエスは、信仰にあって、疑わないことの大切さを何度も教えておられます。

 弟子達がガリラヤ湖で船に乗っているところに、主イエスが湖の上を歩いて来られた。その姿を見たペトロは、私も水の上を歩いてそちらにいくことが出来るでしょうか、と尋ねると、主は「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて、水の上を歩いて進んだけれど、風が吹いてつい怖くなり、沈みかけて「主よ、助けてください」と叫びました。主は手を差し伸べて、「ペトロよ、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と話された場面があります。(マタイ14章)
 
 マルコによる福音書11章23節では、「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うところになると信じるならば、そのとおりになる」と教えておられます。
 十字架の死の、三日の後に、弟子達に復活の主が現れた時に、弟子たちは恐れおののきました。しかし、主は「なぜ、うろたえているのか、どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしだ。」と話されました。

 これらの聖書箇所は皆、少しも疑わず、主なる神にこそ信頼し、依り頼むことの大切さが記されています。社会でもなく、経済でもなく、お金でもなく、地位でもなく、人と人との関係でもなく、今日には信頼できると思う、けれど、次の日には揺れ動き、疑いを持つような事柄、ヤコブの手紙では「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」とありますように、私たちは主なる神にこそ信頼し、依り頼んでいきましょう。
 
 なぜ、主なる神なのか、主なる神こそが、天地創造の始めから今に至るまで、少しも揺らぐことなく私達と共におられるからです。
私たちの人生は、何かの拍子で物事がとてもうまく進むことがあります。そうすると人は調子にのって高ぶりを覚えます。けれど、また逆に困難や試練の嵐に生きる時もあり、ひどく落ち込み、気が沈むこともあるのです。
 
 教会の宣教活動にあっても同じだと私は思います。5年前に会堂建設を行った。その後暫くは、毎週の礼拝に多くの方々が集まって下さいました。クリスマス、聖夜礼拝となれば80人、時には100人を超える礼拝出席者がおられました。
 しかし、その後コロナ感染拡大となり、昨年の三分の一の礼拝は休むことになりました。今も、緊急事態宣言の下、ギリギリの状況での礼拝です、時には20人代、30人代の方々で礼拝を守っています。
 
 でも、順調であるときも、困難に遭遇するとしても、揺らぐことのない主なる神に信頼し、あなたがたは岩の上に建てた教会だ、岩の上に建てた人生だ、だから、私にしっかりと繋がって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する心を私たちは育んでいきましょう。主われらと共におられる、主に信頼し、祝福を受けて、今週も進んで参りましょう。お祈りします。

信じて生きる

2020-12-21 10:53:12 | クリスマス
【詩編87編1~7節】
【ルカによる福音書2章8~20節】


 皆様、クリスマスおめでとうございます。

 2020年のこの一年は、新型コロナウィルスが世界中に広がり、昨日までの報告では世界中の約7500万人が感染し、160万人が亡くなったとありました。これまで経験したこととは全く違う大変な一年を過ごして参りました。これからも更に暫くの間、私たちは感染予防に気をつけながらの生活です。
 それでも、そのような中にあって、クリスマス礼拝を献げられる幸いを感謝して、過ごして参りたいと思います。
 
 毎年行われるクリスマス、御子イエスの誕生を喜び、主なる神に感謝する時でもありますが、今日は「羊飼いと天使」という箇所を読みました。クリスマスの時期に最も多く読まれる箇所の一つです。
聖書に即して読みますと、御子イエスが誕生された夜、母のマリアと父のヨセフ以外で、最も早く御子の誕生を知らされた人たちが羊飼いでした。
彼らは夜通し羊の群れの番をしていました。焚火をして暖をとりながら、羊たちが泥棒や野生の熊、狼に襲われないように気を付けながらの夜通し見守っていたのでしょう。
 
 そのような彼らの所に、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしました。羊飼いたちは驚きましたが、天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げたわけでありました。
 その後、天の大軍がやって来て、神を賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」羊飼いたちは相談しました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」

 羊飼いたちは神の御言葉を信じてベツレヘムに向かいました。今日の説教題を「信じて生きる」としました。それは羊飼いたちが神様の言葉を信じてベツレヘムに向かった、この様子を思い巡らしたからです。主の天使は羊飼いたちに、「今日、ダビデの町に救い主がお生まれになった。この方こそメシアであり、飼い葉桶の中に寝かされている」と伝えましたが、御子の生まれた場所を、この宿屋のこの馬小屋だよと教えたわけではありません。あなたがたは会いにいかなければならないと言ったわけでもありません。

 でも、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。羊飼いたちは、立ち上がり、真っすぐベツレヘムに向かったと思います。
 けれど、そこから先、寝静まっている夜の夜中、生れたばかりの御子を探して、誰かに聞くことも出来ず、簡単には探せない状況の中で、ついに飼い葉桶の乳飲み子を探し当て、喜びに満たされたわけでありました。

 皆さん、羊飼いの所に現れた天使は、神の御子の誕生を知らせました。羊飼いたちはその声を聞いて、御子イエスのもとへと向かいました。御子イエスに出会い、神をあがめ、賛美しながら帰っていきました。私たちも私たちのところに天使が来てはくれまいか。と思うところがあります。でも、天使との出会いは恐らく無いかもしれません。 
 けれど、主なる神は、天使ではなく、私たちが生きていく中で経験する、実に様々な出来事を通して御子イエス・キリストのもとに向かうようにと示し続けてくださっているのではないでしょうか。

 そのように促されているのではないでしょうか。けれど、どうも「なるほど」と喜んで、実際に決心して行動に移す人はそう多くはありません。なぜかでしょうか。一つは勇気と決断が求められるからです。羊飼いたちがベツレヘムに向かった、その姿は日常から離れたという意味でしょう。人が日常の生活から離れるには、多くのものや、多くの事を手放さなければなりません。手放してまで行こうとする勇気が求められると思います。

 主イエスと金持ちの青年との会話で、あなたに足りない物が一つあると言われました。彼が持っていた財産でした。それを手放しなさい、金持ちの青年は悲しみながら主のもとを去っていきました。私たちは自分の日常を手放す勇気と決断がどこまであるのか、なかなか難しいと思います。
 行動を阻害する二つ目に、知識が邪魔をするかもしれません。羊飼いたちは毎日羊と共に過ごしていたでしょう。羊についての知識は沢山あったと思いますが、世の動き、政治、経済について殆ど知る術も無かったのではないでしょうか。だから逆に、素直に御子イエスの元へと向かえたとも言えるでしょう。心の内に様々な知識や、経験がありますと、それらが邪魔をする時があります。
 主イエスは「自分を捨てて私について来なさい」と教えられましたが、能力があればあるほどに捨てられない、と思うのかもしれません。

 三つ目に、私たちが経験する出来事が、一体何故に、それが起こっているのか、その訳が分からない、なぜこんなことが起こるのか、どう考えても理由が分からないし、理不尽だと思う、例えば、病気なるとかね、事故に遭うとかね、そんな出来事を通して神様に向かう、そんなことはありえないと思うし信じて生きていけない、信じてなんになるのかと思うこと、多いのではないでしょうか。

 私たちは、今コロナウィスル感染の恐ろしさの中で過ごしています。今年の2月、3月には大変な騒動となっていましたから、この一年、コロナウィスルとの戦い続けて来たことになります。これからも暫く続くと思われます。多くの人々が亡くなり、病院は悲鳴を上げ、政治は混乱しています。コロナウィルスは忖度してくれませんから、政府も大変だと思います。これのどこに神の光を見いだせるのか多くの人は思っていることでしょう。私もそう思います。

 感染症の特徴は人を選ばないことです。国を選ぶこともなく、民族を選ぶことも無く、男女差で違うわけでもないでしょう。若い人は症状が軽いと言われますけれど、それは恐らくどの国、どの地域でも同じことでしょう。
そこで改めて思わされるのは、私たちが日ごろ意識している、していないに関らず、私たち人間が、今こそ一つになって生きていこうとしなければ解決しない問題なのだろうと思います。今ここで国の優劣とか、民族の違い、イデオロギーの違いを越えて、政治の違い、考え方の違いを越えたところで一つにならなければ、みんなで助け合っていかなければ解決していかない、そういう課題だからと一つになる、そのことが求められているように思います。

 今日は、詩編の87編を読みました。短い詩編ですが、それだけに特徴も明らかです。詩編の中にラハブという言葉が出てまいりますが、ラハブとはエジプトを意味するとどの注解書にも記されています。ですから87編に記されている、ラハブ、バビロン、ペリシテ、ティルス、クシュ、これらの国の特徴はすべてイスラエルの敵国とみなされている点にあります。多くの詩編では、このような敵国に対して、主よ、あなたが先頭に立って、滅ぼして下さいとか、あなたを憎むものが屈服しますように、との祈りが多いなかで、87編は、これらの諸国の民も皆、シオンで生まれた、つまりエルサレムで生まれた人々だと告げ、全ての人々が、共に歌い、共に踊り、敵、味方ではなく、仲間となって私たちの基は主なる神、あなたにあると告げる、そういう日がやって来ると示す詩編であります。

 今日、このクリスマスの礼拝に、この詩編はなんとも相応しい箇所であろうかと思いました。

 羊飼いの所に現れた天使は、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜び」を告げました。民全体とは、イスラエルだけではありません。民全体、世界に住む一人一人、国を越えて、民族を越えて、御子イエスの誕生は民全体の喜びだと告げているのです。
 勿論、私たちもその中のメンバーです。御子イエスの誕生の喜び、それは教会の中だけの喜びではなく、地域、社会、国、世界全体の喜びとなれる時であろうと思います。

 だから、私たちは「信じて生きて」生きましょう。勇気と決断を持って、神の業は人の知識を超えることを知って、どんな出来事の中にも、神の宝物が隠されていると信じて、「信じて生きて」いきましょう。
主イエスは、目の見えない人に対して、この人を通して神の業が実現すると言われました。それは、過去に原因を探すのではなく、これから将来において、神様の業が明らかにされるという意味でありました。今、与えられている状況だけで判断するのでなく、必ず将来に神の祝福がある、だから希望を持って生きていきましょう。

 羊飼いたちが、立ち上がってベツレヘムに向かったように、私たちも主なる神から力を得て、信じて生きて参りましょう。
 
 お祈りします。

いつでも、どんなときも

2020-09-14 09:49:29 | クリスマス
【詩編74編1~17節】
【ペトロの手紙一 3章13~17節】

 牧師が礼拝で説教する。それは当たり前のことです。私は神学校を卒業して教会に派遣され、数えると25年目を迎えております。25年の中で、来週の礼拝を休みますと告げたことは、恐らく無かったと思います。10数年前に、町田の教会で、幼稚園の運動会で金曜日に足を骨折して、そのまま病院に運ばれて入院したことがありました。

 土曜日の内に、信頼のおける牧師に電話して礼拝説教をお願いしたことがありました。大塚平安教会では、四、五年前にインフルエンザと分かったのが金曜日、朝に病院に行きましてインフルエンザと診断されて、そのまま教会に向かって、週報を作り終えて力尽きました。後はもう寝ているしかありませんでした。
 その時は、教会の役員のどなたかに代わりに説教を受け持っていただこうと思いまして、電話しようとしましたが、誰もが驚き、誰もが断るだろうと推測して、きっと断らないだろう人がいる。今、神学校に通っておられるSさんに、説教してと、無理にお願いして、引き受けますと、言われてからは、安心して、ぐっする寝ることが出来ました。特別伝道礼拝の日に、説教者が来なかった、遅れて来ましたけれども、そんなこともありました。
 
 色々なことがありましたが、礼拝そのものを行わない、そういう時が来るとは思ったことはありませんでした。風邪のような症状が出て、金曜日にPCR検査を受けて、検査結果が月曜日、ですからどうしても礼拝を行うことが出来ないであろう。そのように考えまして、役員の皆さんに協力していただき休みとさせて頂きました。結果としては月曜日の朝に、陰性ですということでホットしたわけですが、でも、その金曜、土曜、日曜と生きているここちがない訳です。
 体の具合も良くなるわけでもなく、特に夜になるとまさに、まんじりともしない。夜、布団に寝ながら、もし陽性ですと言われたらどうなるのかな。
どう見ても軽症でだろうから、病院ではなくホテルに連れて行かれるだろうか、ホテルのご飯は美味しいのだろうか、でも、家族はどうなるのか、教会はどうなるのか、まあ気持ちが落ち着かない。祈って心を落ち着かせる以外にないわけです。
 昔の偉い学者は「牧師は礼拝で説教する。しかし、神は生活の現実の中で説教する」と記しました。その人、その人に与えられているその場所、状況の中で、主なる神がそこで説教して下さる。それは私たちにとって幸いなことだと思います。
 
 今日は詩編の74編を読みました。その16節にこうあります。「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。」
 天地創造の神は、私たちに昼も夜も造って下さった。日曜日の朝、昼の時間に私たちは礼拝を守ります。コロナウィルスの感染拡大を防ぐ努力を行いながらも、静かなこの明るい昼の時間に、穏やかな空気が流れる、初めて来られる方には木の香りがするとさえ言われる礼拝堂で礼拝を献げることが出来る。まことに幸いなことだと思います。神がこの場におられる、そのように感じながら過ごせる礼拝です。

 勿論、ここにも主なる神はおられます。しかし、ここにだけにおられるわけではありません。私たちの生きるその場所、その状況の中におられる。しかも、私たちの昼の人生、すなわち、幸いな時に共にいてくださるのは勿論ですが、しかし、最も神様が共におられるのは、私たちの人生の夜、辛い時、苦しい時にこそおられるのではないでしょうか。
 
 先ほどの学者はこうも伝えました。「病人が深夜12時に寝ている、その病床の夜の時間は、どんな偉大な説教者よりも、神は強力に説教するのである。」
 私はこの言葉が良くわかるような思いがします。私たちの人生の夜にこそ、主なる神は直接的に私たちに語り掛けて下さるのだろうと思います。
 
 私たちの人生の歩み、誰もが願うことですけれど、昼の間、光の中で、光の子として歩んでいけるならばまことに幸いです。しかし、必ずと言える程に、私たちには夜だな、暗いな、先が見えないなと思う時がやって来ます。
 コロナの影響を強く受けながら、今、世界中が混乱の中にある、こんなことになるとは誰も想像していませんでした。旅行関係の会社、レストラン、食堂、ホテル、観光業界の方々などは、経済的にやっていけるかどうか、というところまで追い込まれていると言われます。命の危機とも言えるでしょう。

 それは他人事でもなく、私たちの人生にも大きく影響しているとも言えるでしょう。だから主よ、どうか、私たちに夜を与えないでくださいと祈る必要もあるかもしれません。

 でも、聖書を読みますと「昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです」とあります。「夜もあなたのもの」それは、たとえ、夜が与えられるとしても、夜もまた、主が備えられたものとして、しっかりと夜を生きなさい、ということではないでしょうか。

 しかしなぜ、私たちの人生に夜がやってくるのか、エフェソ書3章には16節にパウロが祈っている御言葉があります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように。」私たちの内なる人が弱る時、内なる土台が弱る時、その人に夜がやって来るのだろうと思います。
 
 先週の礼拝で、韓国の方で、御家族3人がやって来られた。
 その前の前の週にもやって来られましたが、私が具合悪くなる前でしたけれど、電話がありまして、いつも仕事で教会の前を車で通っているから、いつか礼拝に来たいと思っていたというのです。
是非、お出で下さいと申し上げましたが、でも、話を聞いていきますと、どうもコロナの影響で仕事が無くなったというのです。それは大変ですねと申し上げましたら、それで相談ですが、先生、教会でキムチ売れますか?と聞いてくるわけです。キムチですか、まあ、その流れでダメですとも言えず、礼拝終わったら売れると思うから持って来てみてと申しましたら喜んで来て下さいました。皆さん買って下さって、優しいから、喜んで先週も来られました。今日は来てません。
毎週来たら、売れるものも売れなくなるからと、話しましたら、他所の教会でにも行って見ると話していました。

でもね、先週の方々に限らず、教会というところには、色々な人がやって来られます。先日は他所の教会に行っていたけれど、そこで辛い目にあって相談に来ましたという方もおられました。今朝ほども、あるお母さんから、「相談があります、時間ありますか」と言われました。あまり詳しく話せませんけれど、実に色々な方がこの場にやって来られます。なぜやって来られるのか。内なる土台が弱って来るからです。内なる土台が崩れそうになっているからです。
 
 そんな一人一人がやって来られた時に、皆さんならどうされますか?どうぞ、この昼の明るい教会にお出で下さいましたと話されるでしょう。

 先ほど、ペトロの手紙というところを読みました。3章15節にこうあります。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい、」とあります。
 
 皆さんなら「夜だな、暗いなと思っている方よ、ここに来ればキリストを主とあがめる希望があるよ」と伝えて下さるでしょう。主イエス・キリストは人間の最大の夜である、死という暗闇から復活という希望を示して下さいました。人の目から見たら完全にお終いだと思える死、のその先にもまだ希望があると教えて下さいました。
 
 夜だな~と思っている人の多くは希望を見失っています。将来が見えなくなっています。もう無理だと思っています。人はそういった罪を背負っていると言ってもいいかもしれません。神様と出会う前には、私もそういった夜を、ずっと過ごしていました。

 でも、その夜のその先に、神の光を見つけ、昼の明るい礼拝堂でこうして礼拝を献げることが出来る幸いを生きていますと、私たちは伝えることが出来るでありましょう。あなたも共に喜びの笑顔を生きることができると、主にある希望を伝えることが出来るでありましょう。昼も夜も、どんな時も私たちは主の恵の中を過ごして参りましょう。

 お祈りします。