日本キリスト教団 大塚平安教会 

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忍耐される神

2021-04-13 10:02:36 | 礼拝説教
【詩編106編39~48節】
【ヨハネによる福音書20章24~29節】


 キリスト教の信仰について考える時、避けて通れない大きな問題に「罪」とは何かという問いがあります。今、教会のSさんが、神学校の4年生となりまして、最後の大切な一年を過ごそうとしていますが、神学校においても、キリスト教が伝えるところの「罪」とは何か、そのようなテーマの授業は一つや二つではないと思います。古来、多くの偉大な神学者と言われた人々も、罪とは何か、問い続けて来ました。

 古代のキリスト教世界最大の神学者と言われるアウグスティヌスが、「告白」という書物を記しました。その中にアウグスティヌス16歳の時に、梨の木から実を盗んで、豚にやったり、自分で食べたりしたという文章があります。十戒には「盗んではならない」とありますが、なんと自分は罪人であったと嘆いている、盗んだ梨は美味しくなかったとありました。「神よ、わたしはあなたから離れました」とあります。梨を盗んで、回心した後でしょうけれど、神よと、嘆くわけですからアウグスティヌスも凄いなと思います。大事なところは、罪とは神から離れようとすること、というところでしょう。罪とは神様から離れていこうとすることですよと説教で話し、また、私たちは聞くわけですけれど、そうだなと思いながらも、私は梨も盗んだことも無し(笑)、それでもまたどこかでストンと心に落ちない問いとして、「罪」という問題が私達に与えられているのかもしれません。

 でも、どれだけ人が神から離れようとするのか、今日読みました詩編106編は人の罪について考えることが出来る聖書箇所だと言っても良いと思います。

 先週のイースター礼拝では詩編105編を読みました。そこには創世記に記されているアブラハム、イサク、ヤコブに主なる神が約束をし、契約を交わされたとあります。彼らは神様との契約を信じ、あなた方の子孫は空の星程になると、海の砂の数ほどになるよという約束を信じて、そして生きた偉大な信仰の先達であった、そのことを詩編105編が記し、更にヤコブの子どもであるヨセフがエジプトで大臣になって、子孫が増え、それから数百年後、奴隷とされたイスラエルがモーセによって出エジプトを果たしました、神様、ハレルヤという、いわばイスラエルの神と人との歴史が綴られているそれが詩編105編です。

 106編はその続きの詩編ですけれど、105編とは対照的に記されていまして、出エジプトを果たしたイスラエルの民は頑固な民で、神に対して、何度も罪を繰り返す民であった、その内容が記されています。
主エジプトを果たした民に対して、前は海、後ろは追いかけてきたエジプト軍、絶体絶命の民は、モーセに叫ぶのです。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何のためにエジプトから導き出したのですか。」出たのは良いが、ここで死んでしまうと思ったのでしょう。不平不満の嵐ですよ。

 二つ目は、その後、神様の力により葦の海の奇跡の出来事が起こり、海が割れてイスラエルの民は、その中を無事に渡り、渡り終わった時には、讃美の歌声、大合唱だったのですが、食べものが無くなった途端に、「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、キュウリやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。」とぶつぶつ言いだしたとあります。
 
 三つ目は、106編で言えば16節17節、主が立てられた指導者であるモーセを信用しないで、更には仲間割れを起こす。四つ目は、106編19節「彼らはホレブで子牛の像を造り鋳た像に向かってひれ伏した」とありますように、モーセが山に登っている間に、待ちきれなくなった民が、金の子牛を神として崇めたという場面が記されています。
 五つ目は24節以降ですが、目的の土地である、カナンの土地に到着したにも関わらず、御言葉を拒み、信じることをせず、ついにカナンの土地に入ることをしなかったという罪、六つ目は偶像礼拝の罪、七つ目は「メリバの水のほとりで主を怒らせた」という罪、そして八つ目は、カナンの土地に入ったのに、主の御言葉を聞こうとしなかったという罪、詩編106編は、事が起こる度にイスラエルの民が主の前に頑なで、言うことを聞かなかった出来事が、延々と綴られているわけです。

 神から離れる罪とはこういうことだと、後の世代の人々に対して、この詩編の作者は訴えかけようとしたのかもしれません。
 
 先ほど、罪とは、神様から離れようとするところにあると申しましたけれど、具体的には、神と人との関係、人と人との関係が現れる場において「否定的、破壊的」な考え方、物の言い方、その行動において人の罪が明らかにされるのではないかと改めて思います。

けれど詩編106編は人の罪とはどういうことかを明らかにしながら、尚、大切なところは、主なる神が人の罪に対してどれほど忍耐されたか、という点です。先ほど後半の39節からを読みましたが、43節から読みますとこうあります。「主は幾度も彼らを助け出そうされたが 彼らは犯行し、思うままにふるまい 自分たちの罪によって堕落した。主はなお、災いにある彼らを顧み その叫びを聞き 彼らに対する契約を思い起こし 彼らをとりこにしたすべての者が 彼らを憐れむように計らわれた。」

 主なる神様が、イスラエルの人々に対して、その罪に対してどれほど忍耐をされて、耐えて、導こうとしたかということ、このことを詩編の作者は何よりも伝えたかったのだと思います。
 
 なぜ、神様は忍耐しながら、尚、諦めず、支えようとされたのか。ある牧師は「知る、分ける。出来る」の三つが大切だと教えておられます。

 「知る」それは色々な情報を集めることです。自分達の人生に起こる出来事を通して、自分達に与えられる情報が沢山あります。現代は特に情報社会と言われ、とにかく早く情報を得ることが成功の秘訣とさえ言われる時代です。情報を知る。けれど、集めた情報、知った情報をどう判断するのか、それが「分ける」となります。「分ける」は「分かる」ことだと説明されます。一つ一つの情報、出来事を通して、大事なところは何かが分かり、大切な情報をしっかりと分けることが出来る。そのようにして、初めて自分の人生にそれを生かすことが出来る。つまり、出来るようになるというのです。

 知って、分けて、出来るようになるために、つまり、人は多くの罪を犯し、罪を繰り返し犯し、でも繰り返すことによって知るが分かるになっていく。

 旧約聖書の世界であれば、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主こそ、私達の神としっかりと分かり、この方をこそ頼りとしながら生きていこう、そのように出来るようになるまでの訓練として、旧約の民は罪を犯しつつも、しかし、それによって訓練され、「否定的、破壊的」な思考から離れて、肯定的で「前向き、建設的」な思いへと変えられていくようにと、主なる神の忍耐があると言えるのではないでしょうか。
 
 新約聖書からはヨハネによる福音書20章、「イエスとトマス」という箇所を読みました。週の初めの日、すなわち日曜日の夕がた、弟子たちが集まっていました。ユダヤ人が捕らえに来やしないかと恐れて、戸には鍵をかけていました。しかし、そこに復活された主イエスが姿を現されて、彼らの真ん中に立って「シャローム あなたがたに平和があるように」と言われた。弟子たちは喜びに包まれましたが、そこに弟子のトマスがいなかったというのです。
 なぜいなかったのかわかりません。けれど、トマスは他の弟子たちが喜ぶ姿を見ながら、何と自分は仲間外れにされたことよ、と思ったでしょう。妬ましく悔しかったのではないでしょうか。否定的、破壊的な心によって、物事を見たようです。そして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、」と仲間を信用せず、復活の主イエスを信じませんでした。
 
 その一週間後、状況は殆ど同じです。違いはトマスが一緒にいたということでした。そこに復活の主イエスが現れてくださり、トマスに対して、「トマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」と話された。
 
 トマスはどれ程驚いたことでしょうか。トマスは指や手を入れて確認などしなかったと思いますけれど、でも、驚きと共に、主イエスの愛をつくづくと感じ、他の弟子たちにもまして、復活された主イエスを自分の人生の主として受けとめたでありましょう。
 
 私たちは、罪を犯します。時には人を妬み、時には人を恨み、時には人を信用せず、状況に大きく流されていきます。それが私達の姿だと思います。けれど、主なる神は、忍耐して下さいます。トマスに対して愛を注がれた主イエスのように、人の罪のその先に、確かな宝物を供えてくださる方が私達と共におられるのです。
 
 諦めず、忍耐しながら、私達を導いてくださる方がおられる。私たちはこの方にこそ、望みを置ける、望みを置いていきましょう。この新しい一週間、主の忍耐に感謝しながら過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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