映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

モンテ・ヘルマン 語録

2014年02月14日 | 映画の覚書
●キャスティング
― 役の為に最高の人間を集める必要がある。それこそが、作品を成功に導く。金を集められそうな名前に頼って俳優を選んだりするのは、駄目だ。演じてしまう俳優も好きじゃない。よくやってしまうのは、登場人物のような人間で、登場人物に似ていると思う俳優を見付けようとする事だ。だが最終的に起用するのは、大抵シナリオに書かれた人物とは、ちっとも似ていない俳優だ。ことによると、シナリオに書かれた人物よりも、彼らの方が興味深いのさ。私は、登場人物が重要だとは思わない。正にそれを演じる俳優のお蔭で、その人物が独自のものに成れば成る程、登場人物は普遍的な存在になる。


●俳優の演技
― これはマーロン・ブランドから教わった事だ。俳優が為すべきなのは、どれか二~三シーンの雰囲気を決定する事で、あとはだいたいで進めばいい。逆の場合だと、俳優は観客をグッタリさせ、有り得るべき構成を全てぶち壊してしまう。


●観客
― 映画監督は、自分の観客の知性を高く見積って置く方がいい。低く見積もって置くよりはね。映画というのは、共同作業による構築物であり、観客はその最後の作業者なのだ。


●『パリはわれらのもの』(1958)について
― この作品でジャック・リヴェットがやっている事は、それまで私が見た事の無いものだった。当時のアメリカ映画は目的に向かって一直線だった。例えば、誰かが家にやって来る、するとカットがあって、次はもう部屋の中だ。リヴェットは登場人物がドアを潜るところを見せ、階段を見せ、彼らが玄関を通り過ぎ、部屋まで行くところを見せる。結合組織、つまりシーンとシーンの間にあるものを、彼はそのまま残して置く。リヴェットは実時間に於いて物事を表象していたんだ。


●ヌーヴェル・ヴァーグについて
― あらゆる革命は正にコップの中の嵐、つまり空騒ぎだ。ヌーヴェル・ヴァーグから出た映画には、『薔薇のスタビスキー』(1973)を除いて、トリュフォーや他の面々が攻撃した映画ほど、時の試練に耐えた作品は存在しない。マルセル・カルネのどの作品でもいいが、それらの方がヌーヴェル・ヴァーグのどの作品よりも、上手く歳を重ねている。 (『モンテ・ヘルマン語る-悪魔を憐れむ詩』エマニュエル・ビュルドー=聞き手、樋口泰人=監修、松井宏=訳/河出書房新社より)


●興味深い映画監督
― ファティ・アキン(Fatih Akin)、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(Nuri Bilge Ceylan)、アルノー・デプレシャン(Arnaud Desplechin)、ポール・トーマス・アンダーソン(Paul Thomas Anderson)、ウェス・アンダーソン(Wes Anderson)、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン/Tsai Mingliang)、リチャード・リンクレイター(Richard Linklater)…それほど多くはない。


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