映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

イレイザーヘッド

2010年04月14日 | 洋画・鑑賞ノート
 デヴィッド・リンチの魅力は、摩訶不思議な世界を、きっちり劇映画の枠の中に収めている点でしょうか。どれも実験的な作品ではありますが、そうかと言って実験映画という分野へは決して足を踏み入れようとはしません。飽く迄も劇映画にこだわっている印象があります。作品中に娯楽映画としてのエッセンスが充満しているのも、その為なのでしょう…。

     ■『イレイザーヘッド』 (1976年/米) デヴィッド・リンチ監督

 まず冒頭、横になって浮遊する主人公ヘンリー(ジョン・ナンス)の頭部と岩のような物体がオーバーラップする映像から始まっています。岩は表面がゴツゴツとしており、卵と言えば卵のような、惑星と言えば惑星のような生命体を想起させますが、頭から岩が分離するようなオーバーラップ映像からは、ヘンリーの夢想を物体化させた物のようでもあります。レバーを引く野性味溢れる男は、窓の外を眺めながら体をビクッと反応させたりして、何やら自慰行為のような、性的機能をコントロールする番人のようにも映ります。この窓辺の映像によって、その後、何度か映る窓やラジエーター、その奥の歌姫(ローレル・ニア)が歌うステージとの位置関係が気になるところです。レバーを引く野性味溢れる男と、ラジエーターは窓に対して同位置なので、そこで脱いだ靴下はコンドームのようにも思えました。避妊や夢精、自慰行為によって絶えた無数の精子が、ラジエーター下の枯れ草のようなイメージとも重なり、生命を象徴する植木との対比も思わせぶりです。ラジエーターの奥は歌姫が歌うステージで、その枯れ草のような物で縁取られていました。ヘンリーの口から出てくる精子とヘンリー自身が並んでオーバーラップする描写からは、ヘンリーが精子その物のような印象を抱かされます。光の穴を抜ける描写は射精を思わせ、ヘンリーの存在が擬人化された一匹の精子のようにも映ります。印刷工という職業設定も、遺伝子の伝達を連想させます。ラストの歌姫とヘンリーの抱擁場面でも、白く光る画面からの描写なので、射精後の受精を思わせます。歌姫は精子の墓場に祀られた女神のように思いますが、卵子を擬人化させた存在でもありそうです。またヘンリーにとって歌姫は精神的な支柱でもあったようなので、母なる存在にも思えます。生殖の神秘、一匹の精子が体験する受精までの旅路が寓話として描かれていたとも考えられそうです。ヘンリーの首が取れる場面は受精前の儀式のようで、受精によって精子としての一人格が消滅する事を示唆していたような気がします。消しゴム工場の一本ずつはヘンリーの分身ですから、あれもまた精子のように生産される命の比喩だったように思います。旅路の最後は、生存競争の勝者とならなければならないので、赤ん坊と言うよりは、ライバルとしての同胞を殺す描写、電気がショートしながら精子の断末魔が描かれ、岩が破裂します。岩の破裂は生殖の瞬間で、ヘンリーの頭部に消しゴムのカスが舞う描写は夢想の終焉、或いは一精子としての存在や記憶の消滅でしょうか…。メアリー(シャーロット・スチュワート)が産んだ未熟児は、ヘンリーとの子ではありませんでしたが、メアリーの実家で鼻血を出すヘンリーの目の動きから犬、窓へと移動する映像は、何やら獣姦を匂わせていました。或いは処女受胎と考えれば、あの赤ん坊をキリストと結び付ける事も出来そうで、郵便ポストは受胎告知…。生き物の種のような郵便物は、土から顔を出して画面を飲み込んでしまいます。そこで向かいの部屋の女(ジュディス・ロバーツ)とヘンリーの結合がイメージ化され、赤ん坊を見たその女が岩にたじろぐ映像の後、歌姫の登場です。娼婦が妊娠を恐れるイメージでしょうか…。ヘンリーの頭が落ちて赤ん坊と入れ替わるのは、キリスト教の倫理観が脳裏を支配するイメージか…。終始、赤ん坊と歌姫の関係は拮抗したバランスで描かれていました。もしも歌姫をアプロディーテー(美の女神/エロスの母)と捉えれば、ギリシャ神話の要素も加わり、西洋芸術の解釈も得られそうです。

 「胎児の先祖代々に当たる人間たちは、お互い同士の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍卑怯な獣畜心理、そのほかいろいろ勝手な私利私欲を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって目の前に再現されて来るのである…」。これは夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』の一文です。今朝、たまたま読んでいた粕三平・長谷川龍生編の『現場の映像入門』(社会思想社/現代教養文庫)の中で、ドキュメンタリーが掴まなければならない“夢”の“時間”の現実的な性格について、この一文が引用されていました。何やら相通ずるものを感じます。

 表層面のドラマに関しては、憧れの聖なる女性像と現実の女性との狭間に介在してくる肉欲やSEX、その先に続く現実的な妊娠、社会的な抑圧とも取れる結婚、家庭生活に忙殺されていく日常、そんな人生にも幸福はある!という人生賛歌が従来のヒューマンドラマだったものを、逆に悪夢として描いています。それも、エロスと理性が葛藤し合う悪夢と言えば聞こえは良いですが、自分勝手な現実逃避と言えなくもありません。果たして、このように男性がエロスと葛藤する様子は、女性の目にどう映って見えるものなのか…。


                                                      ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 映画ブログへ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 遥かなる日本人 | トップ | 成島東一郎 語録 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

洋画・鑑賞ノート」カテゴリの最新記事