■Beethoven「ピアノソナタ1番」の骨格は「弦楽四重奏」■
~第1番はアポロの彫像のような完璧な造形美~
~リヒテルのカラヤンに対する恨みとは~
2024.6.30 中村洋子
ホタルブクロの中で光る蛍
★長年、気になっていたことがあります。
「ソナタ形式」提示部のリピート記号による≪反復≫と、
展開部以降即ち、「展開部∔再現部」でのリピート記号による
≪反復はなぜあるのか≫、という疑問です。
★作曲家の指示通り演奏する場合、例えば、
ピアノソナタの第1楽章の場合、「提示部」→「提示部」→
「展開部∔再現部」→「展開部∔再現部」という構成になります。
大きく見ると、2回反復される提示部のグループと、
「展開部∔再現部」を一まとめにしたもう一つのグループ、
という二つのグループになります。
このため、反復を省略せずに演奏しますと、ソナタ形式は二部構成
の曲のように見えます。
★しかし、私たちが、普通にイメージするソナタ形式は、
「提示部」→「展開部」→「再現部」という三部構成です。
せわしない現代人と違い、昔はゆっくりソナタの曲を楽しむため、
リピートしたのかもしれませんし、歴史的背景もあるでしょう。
しかし、この≪反復記号≫によるリピートの意味は
それだけでしょうか?
★ピアニストのSviatoslav Richter スヴィアトスラフ・リヒテル
(1915-1997)は、生前インタビューなどで、
ピアノソナタの≪反復記号≫は省略せず、作曲家の指定通りに
演奏するべきだ、という趣旨の発言をしていました。
★リヒテルの発言の原文を探そうと、蔵書を渉猟し、
《リヒテルは語る~人とピアノ、芸術と夢~ユーリー・ボリソフ著
宮澤淳一訳 音楽之友社》を、拾い読みしました。
肝心のソナタ形式の反復についての言及は、生憎、
うまく見つけられなかったのですが、前回ブログの内容に
続くような、面白い発言をリヒテルはしていました。
その部分をピックアップしてみます。
木苺
★《ウィーンでの母の葬儀のあと、ある司祭に諭された。
決まりきったことだが、「兄弟の過ちを赦せ」とね。赦せ、赦せ—。
どうやら私が誰かに恨みを抱いていると察したらしい。
確かに恨みを抱いていた。そう、カラヤンにだ。三重協奏曲でね。
もっと練習するべきなのに、写真撮影に移ろうと言い出した!
まったく正気の沙汰じゃないよ。》
★リヒテルと母親との関係は複雑でしたので、司祭は
「母親を赦しなさい」と言いたかったのでしょう。
しかし、その時点で、リヒテルが恨みを抱いていたのは、
あのカラヤンでした。
1969年、カラヤン指揮ベルリンフィル、リヒテルのピアノ、
オイストラフのヴァイオリン、ロストロポーヴィチのチェロによって
Beethoven「ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲
ハ長調 Konzert für Klavier, Violine,Violoncello und
Orchester C-dur )作品56」が、録音されました。
★リヒテルのカラヤンに対する恨みとは、
「出来上がったのは、実に嫌な録音で私は認めない。悪夢のような
思い出しかない。カラヤンのこの曲の捉え方が表面的で、
明らかに間違っていた。第2楽章のテンポがのろすぎ、音楽の
自然な流れをせき止めてしまう。もったいぶった演奏で、
オイストラフと私は好まなかった。しかし、ロストロポーヴィチは
変節して(カラヤンの味方となり)、そこでは端役に過ぎなかった
チェロが全面に出ようとした。ある時点でカラヤンは、すべて整った、録音は終わりだ、と言った。私はもう一回補足録音をしてくれと頼んだが、もう時間がない、写真を撮らなくてはならないから、
と返答。大切なのは写真だった。しかし、何とむかつく写真でしょう、カラヤンは格好つけ、我々三人は馬鹿みたいににっこり笑って
いる。」
(出典:「リヒテル」ブルーノ・モンサンジョン著 中地義一・
鈴木啓介訳 筑摩書房)
★その写真がこれです。
https://wmg.jp/packages/22542/images/0190295282066_Beethoven_Triple_-_Karajan_LP.jpg
このリヒテルの言葉は、実に含蓄に富んでいます。
超一流奏者達による演奏録音であるからといって、決して、
良い演奏であると盲信してはならない、という教訓です。
大切な事は、権威に惑わされず、聴く人が自らの感性、
審美眼を磨く事です。
カラヤン先生、棺を覆った後も、このようにグルダやリヒテルに、
こき下ろされてしまっては、なんとも・・・ですね。
(グルダのカラヤン評については、2023年4月30日の当ブログ参照)。
https://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/e/1af637c2c597392ecf447fd2d9ca4a00
ホタルブクロと薔薇
★脇道にそれましたが、去年から1年かけてモーツァルトの
「KV333 ピアノソナタ」を勉強しましたが、なぜソナタの1楽章に
「反復記号」があるのか、省略せずに演奏することで、どのように
曲が輝いてくるのかが、やっと分かりかけてきました。
(「KV333 ピアノソナタ」については、当ブログ2024年1~3月)。
★それでは「ベートーヴェンのピアノソナタ」はどうなのか?と、
勉強を始めました。
ソナタ形式の反復につきましては、稿を改めて詳しく書きますが、
今回はベートーヴェンの「ピアノソナタ第1番 Klaviersonate op.2
Nr.1 f-Moll」の素晴らしさについて、お伝えします。
Ludwig van Beethoven(1770-1827)のピアノソナタは、
ご存じのように32曲あります。
ピアノソナタ1番はベートーヴェンの師のハイドンJoseph Haydn
(1732-1809)に献呈されています。
Henle出版の「A guide to the 32works」によりますと、
作曲年は1794/1795年、初版譜出版は1796年4月ウィーンの
Artaria出版で、初演はベートーヴェン自身によりハイドン臨席の下、
リヒノフスキー侯爵 Ferdinand Carl Johann Fürst von Lichnowsky
(1761-1814)邸で行われました。
★それでは「ピアノソナタ1番」の、1楽章を見てみましょう。
1楽章は「ソナタ形式」で作曲されています。
このソナタを「提示部」「展開部」「再現部」の三部構成で見た場合、
「提示部」は、1~48小節までの48小節。
「展開部」は、49~100小節までの52小節。
「再現部」は、101~152小節までの52小節です。
ソナタ形式の提示部とは、第1テーマと第2テーマを提示する部分。
具体的には第1テーマ、推移部(移行部)、第2テーマ、推移部、
そして、コーダ(終結部)となります。
★「展開部」は第1テーマ、第2テーマ、推移部などを縦横に
展開(変奏)します。
「再現部」は、ほぼ「提示部」を再現するのですが、
第2テーマの調性が、提示部とは異なるのがソナタ形式の特徴です。
この曲の主調は「ヘ短調 f-Moll」です。
ですから第1テーマは「f-Moll」です。
短調のソナタは、「提示部」の第二テーマを平行調にしますので、
この曲も定石通り、第二テーマは「変イ長調 As-Dur」です。
「平行調」とは、調号が同じである調の関係です。
「f-Moll」と「As-Dur」は、「♭4つ」の調性です。
しかし再現部で、もし第2テーマが転調して「As-Dur」になると、
主調の「f-Moll」で第1楽章を閉じることが、できなくなります。
その為、「再現部」の第2テーマは、転調することなく、
第2テーマも主調「f-Moll」のままです。
トンボ
★さて、この「ソナタ1番」の驚異的なことは、
上記のように、「提示部」「展開部」「再現部」が、ほぼ同じ小節数
であることがまず挙げられます。
敢えて数えてみませんと、情熱的なこの曲の曲想からは、こんなに
形の良いソナタであるとは気が付きません。
自由奔放な作曲であると見せて、その実、驚くほどプロポーション
proportionが良いのです。
★更に、提示部を詳しく見ますと、
第1テーマは、1~8小節と推移部分9~20小節を合わせて20小節。
第2テーマ21~27小節、推移部分28~40小節を合わせますと、
これもまた、20小節です。
そしてコーダは、41~48小節の8小節です。
20小節∔20小節,それにコーダが足されている、という設計です。
全体の形を見るだけでも、均衡のとれた、ギリシア Apolloの
大理石彫像のような見事さです。
★この曲はベートーヴェン20代半ば、生命力と覇気に満ちた
傑作です。
ハイドン臨席の下で初演する、そして彼のピアノソナタとしては
初の楽譜出版も期待していたことでしょう。
この1曲だけで、ベートーヴェンは作曲家として名を残せたでしょう。
スカルラッティのように、この優れた形式美を踏襲し、それを変化
させつつ、次々に新しい作品をたくさん作り続けただけても、
大作曲家として、尊敬されたはずです。
★しかし、彼の32曲のソナタは、革新、前進あるのみでした。
「もっと高く、もっと深く」。
私たちは、その32曲を理解するためにも、
このソナタ1番の勉強は、欠かせません。
そして初期のベートーヴェンの作品の例にもれず、「自筆譜」は現存
しないのですが、幸い、「Artaria社の初版譜」は残っていますので、
ベートーヴェンの思考の跡を辿ることが、可能となります。
「初版譜」を基に、ソナタ1番の神々しい森に入っていきましょう。
★「Artaria社の初版譜」は、現代のピアノの楽譜のように
縦長ではなく、「横長」です。
このため、初版譜の1段の小節数は、現代の実用譜より多くなります。
現代の定評あるHenle版、Bärenreiter版、Peters版などは、
1楽章の冒頭1段目は、1~4小節まで記譜されています。
しかし、「Artaria社の初版譜」の第1楽章冒頭1段目は、
1~9小節まで記譜されています。
これが実に、この1楽章の内容そのものを深く、示唆しています。
現代の実用譜の配置(レイアウト)に、あまり意味を感じません。
「自筆譜」は失われているとはいえ、「Artaria社の初版譜」は、
「自筆譜」にかなり忠実に、版を起こしているように見えます。
engraver(楽譜の彫り師)の知恵で、思いつく記譜ではない点が、
多々、あるからです。
ジャガイモの花
★例えば、冒頭1段に1~9小節を充てることにより、
楽譜を見て、以下のことが「視覚」から直接分かります。
①第1テーマ アウフタクトを伴った1~8小節3拍目までを、
1段に収めることができる。
②それでは1段目を8小節までにしないで、
なぜ9小節まで記譜したのでしょうか?
第1テーマは8小節目までですが、9~20小節冒頭までは、
第1テーマと第2テーマをつなぐ「推移部(移行部)」です。
常識的に見て、9小節を2段目から始めた方が、整った様相に
見えるのではないでしょうか?
③その理由は、第1テーマ冒頭にあるこの曲全4楽章を通しての
「最重要 motif」≪ ド ファ ラ♭ ド ファ ( c¹ f¹ as¹ c² f²) ≫の
「応答」を、3小節目と、アウフタクトを伴った9小節目に置くこと
ができ、曲の構造が一目瞭然となる事です。
★④1段目の冒頭左端と、1段目の末尾9小節に、「主要motif」を
配置し、その段の両端からギューッとエネルギーを内側に送る、
という書式は、大作曲家の記譜に、共通して発見することができます。
(この点について、当ブログや拙著《11人の大作曲家「自筆譜」で解明
する音楽史》で度々解説していますので、どうぞお読みください)。
★⑤それでは、この1段目に3回現れる「主要 motif」を、
ベートーヴェンはどのようにイメージして作曲したのでしょうか?
この第1楽章を、ベートーヴェンは≪弦楽四重奏≫の音を想定して
作曲したようです。
それを解く鍵は、3小節目1拍4分音符の「ソ g¹の」符尾にあります。
「ソ g¹の」は、五線の下から2番目第2線の音ですから、符尾は当然
上向きの筈です。
しかし、初版譜は下向きです。
これは多分ベートーヴェンが、こう書いたのでしょう。
これによって分かることは、冒頭の≪ ド ファ ラ♭ ド ファ
( c¹ f¹ as¹ c² f²) ≫と、3小節目の≪ ソ ド ミ♮ ソ g¹c² e² g²) ≫
は、「声部」が違う、ということです。
★作曲家の頭の中には、≪四声体≫という「物差し」が厳然とあります。
Bach のコラールは、この「物差し」の源流の一つです。
「四声体」とは、「ソプラノ」、「アルト」、「テノール」、
「バス」という人間の4種類の声による音楽です。
「四声体」が、楽器編成として形を変えたのが、「弦楽四重奏」である
といってもいいかもしれません。
★ベートーヴェンのこの曲の場合、冒頭の≪ ド ファ ラ♭ ド ファ
( c¹ f¹ as¹ c² f²) ≫は「ソプラノ声部」で、弦楽四重奏ですと
第一ヴァイオリン、3小節目の≪ ソ ド ミ♮ ソ g¹c² e² g²) ≫は、
「アルト声部」を模した(音域は高い)第2ヴァイオリンでしょう。
★ベートーヴェンはこの二つの声部の違い、イメージする楽器の
違いを、「ソ g¹」の符尾を、≪下向き≫にすることで表現したと
思います。
「ソ g¹」の符尾を、上向きにした場合、この二つの「主要motif」は、
繰り返して奏される、並列した二つの旋律に見え、
「異なる二声部」というイメージは、作りにくいかもしれません。
★それでは、「ヴィオラ」の声部、「チェロ」の声部はどこでしょう。
初版譜1段目右端の≪ソ ド ミ♭ ソ ド G c es g c¹≫は、
チェロの音色、音域ですね。
⑥1段目で、第1、第2ヴァイオリン、チェロが登場しました。
11~14小節の、それまでと打って変わった穏やかな4小節を
聴いてみて、そして、できたら弾いてみてください。
「弦楽四重奏」を髣髴とさせます。
ピアノの左手部分、全音符の≪ファ ファ ミ♭ ミ♭ f¹ f¹ es¹ es¹≫、
これこそ「ヴィオラ」の声部、「ヴィオラ」の響きです。
★モーツァルトの「ピアノソナタ KV333」に、たくさんの
オペラのアリアが聴こえたように、ベートーヴェン「ピアノソナタ
第1番」には、「弦楽四重奏」的な、がっちりとした思考と、
「対位法」が聴かれます。
次回ブログでは、そのベートーヴェンの「対位法」をご説明します。
モリアオガエル
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