縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

ヒスイ海岸でプルプルゆれる勾玉ツリー

2023年02月08日 06時17分33秒 | ぬなかわヒスイ工房

ヒスイ海岸でプルプルゆれる勾玉ツリー

タイトルそのままです(笑)

まだ二月なのに春の陽光にさそわれてヒスイ海岸でロケーション。 海風でゆられた勾玉が笑っているみたいですネ。

ちなみに黄緑色をした手前のおおきい勾玉と中央上のちいさな勾玉は、ロウカンと呼ばれる最上級の希少ヒスイ!

 

 

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ヒスイ職人の読書感想文が学術論文あつかい!・・・「アースダイバー神社編」書評

2023年02月06日 07時06分53秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
「アースダイバー神社編」の読書感想文が東京電機大学の名誉教授、石塚正英先生(思想史・民俗学)の目にとまり、NPO法人頚城野郷土資料室の研究紀要に加筆して掲載されたので、興味ある方はご一読を。
 
80年代に流行した「既存のアカデミズムの枠におさまらない」とやらのニューアカデミズムの旗手、中沢新一の論考は、事実を切り張りしたご都合主義的な創作を事実のように断定して公表する点で、大本営発表やフェイクニュースといったポピュリズムと変わるところはないという視点を加筆した。
 
門外漢のしがないヒスイ職人の読書感想文が学術論文あつかいされて冷汗をかくが、編集長の日本民俗学会の元会長が高く評価してくれたとのことで一安心。
 
今思うと、大衆受けをねらって口当たりよくフワフワと脚色した空想物語りを史実とする中沢学をアカデミズムと呼ぶのであれば、ニューアカデミズとはアカデミズのゆるキャラ化ともいえると書き足したかったですナ。
 
 
 
 

成長期にメデタサを感じる文化・・・縄文晩期の胎児形勾玉

2023年02月04日 07時27分36秒 | ぬなかわヒスイ工房
頭でっかちで紐孔がでかい縄文晩期の勾玉は、わたしにはマンガチック表現の赤ん坊っぽく感じる。
朝日山遺跡出土の勾玉モデル。実物には黄緑系のロウカン質ヒスイで、白い斑(フ)がはいっている。
ところが中沢新一は生き物の生々しい形、グロテスクだと感じて、額部に刻みがあるものは魚のエラだと断定する。こちらも朝日山遺跡出土の勾玉モデル。わたしには額部の刻みがエラに認識しようもなく、おでこと鼻に感じるけど。
 
証明できないことを自分勝手に断定するのは、コメディ映画「ピンク・パンサー」のクルーゾー警部みたいな人ですな( ´艸`)
 
それはおいといて、縄文晩期の勾玉は淡いラベンダーヒスイが似合う。あえて黄色い不純物を残して出土品っぽい雰囲気を出してみた。
家を建てる時、施主に気付かれない屋根束の番付をわざと逆に書く風習があるのだと、横須賀の大工から聞いた。家が完成してしまうと古くなるだけなので、番付が間違った未完成で引き渡して、家運ますます登り坂とする縁起担ぎなのだそうだ。つまりは成長期をメデタシとする民俗例。
 
完璧なモノ、完全無欠なモノを目指さない寸止めの美学。
成長期にあるモノに感情移入する心情。
欠落したモノに侘び寂びを見出し愛でる視点。
こんなモノにわたしは余裕を感じて、なんだかホッとする。
 

むかし奴奈川神社は柳形神社だった!・・・ヌナカワ姫伝説の探偵シリーズ

2023年02月03日 07時02分56秒 | ぬなかわ姫
「ヌナカワ姫伝説の探偵シリーズ」
一の宮(天津神社・奴奈川神社)がむかし「柳形神社」と呼ばれていた謎!
現在は天津神社・奴奈川神社として知られる一の宮だが、明治のころまでは柳形神社と呼ばれていた。
 
文献を漁っていて気付いたのが、イズモから逃げてきたヌナカワ姫がご自害された・焼き殺された伝説のある稚児ケ池の所在地が「平牛村山崎柳田」であり、小字が柳田であることがわかった。
悲劇の伝説がある稚児ケ池に案内すると、各人各様のしかたでヌナカワ姫の慰霊をしてくれる。そんな雰囲気の漂う場所だ。
 
また口碑には柳田・柳形・柳枝・柳形田など複数の表記があるが本来は同義のようで、つまりは柳形とは稚児ケ池のことだ。
 
さらに大正時代に編纂された「西頸城郡誌」に、明治16年に弥彦神社の宮司が、西頸城郡一之宮村に鎮座する奴奈川姫をまつる柳形神社は、由緒ある古社だから社格を昇格してほしい旨の建言書を県令(知事)に出したことが記述されており、建言書には八千鉾神や天津神社のことが書かれてはいない。
西頸城郡誌は明治に郷土史家、初代糸魚川市長でもあった中川直賢らが集まった「西頸城郷土史研究會」の研究紀要を編纂したもの。
ピンボケだが柳形神社の社格をあげて欲しい旨を県令に提出した建言書が紹介されている。
 
つまり「一の宮」は、少なくとも明治なかごろまで奴奈川姫をまつる柳形神社と呼ばれ、「柳形神」の神号をもつ地主神として認識されていた証拠になる。ちなみに一次資料は未読ながら「越後風土記節解」には、奴奈川神社の祭神は奴奈川彦と奴奈川姫とあるようで、ここにも八千鉾神は蚊帳の外だ。
 
口碑をまとめると、柳形神社は柳形明神、柳田権現、柳枝権現とも呼ばれていたようで、つまりは柳形神社とは神域として稚児ケ池を遥拝する神社であったのではないか?
 
「糸魚川市史」編纂者の青木重孝氏は、糸魚川市街地を見下ろす標高80mの丘にありながら、夏なお水をたたえる稚児ケ池の北に後生山遺跡、拙宅のある笛吹田遺跡、姫御前遺跡、南押上遺跡と玉つくり遺跡が集中しており、また祭祀の場である一の宮がセットになっていることから、稚児ケ池は水の神、田の神をまつる神域であったと推測していたようだが、柳形神社を調べたらリアリティが増す。
 
では延喜式に「八千鉾神と奴奈川姫をまつる奴奈川神社」とあるのはなぜだろう?ここで本音と建前のダブルスタンダード説が浮上する。
 
ヤマト朝廷から派遣された役人が、公文書らしく体裁をつくろった報告書をだしたが、氏子たちは出雲側からうけた酷い仕打ちを忘れず、面従腹背してヌナカワ姫を柳形様といいかえてまつっていた・・・のかも(笑)
 
実際、「一の宮」をガイドすると、3回も角をまがって拝殿にいたる表参道と、すぐ目の前に奴奈川神社がみえる裏参道の二つがあることを不思議がられるが、祭の時以外の地元民は裏参道から参拝している。これぞダブルスタンダードが現代まで続いている証し!
公文書では八千鉾神と奴奈川姫をまつる奴奈川神社とされていても、ヌナカワの民草にとっては聖地たる稚児ケ池の名を冠したヌナカワ姫をまつる柳形神社だった。
 
やはり郷土史、ヌナカワ姫をを語るうえで稚児ケ池は重要なのだ。点が線でつながり面となり、ヌナカワ姫伝説が浮彫になってきた。ここは動かねばなるまい。