インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

十字架を学んだ一年(2017.12.31 年末感謝礼拝)

2018-01-02 08:20:10 | 礼拝メッセージ
2017年12月31日年末感謝礼拝メッセージ
『十字架を学んだ一年』
【ヨハネ19:23~27】

はじめに
 きょうは今年最後の礼拝となりました。アドベントとクリスマスの期間に続けて来た「悩む人々」のシリーズは一旦終わり、きょうは今年を振り返り、この一年間は「十字架を学んだ一年間」であったことを話したいと思います。
 今年、私たちの教会は会堂建設への大いなる希望を持ってスタートしました。融資を受ければ会堂の建設が可能であるという目途が立ち、地元の金融機関からも融資可能との内諾を得ていたからです。
 しかし、現実は厳しいものでした。『十字架を学んだ一年』であったとは、そういう意味です。今日はヨハネ19章の十字架の場面を見ながら、聖書箇所を読みながら、この年を振り返ってみたいと思います。

下着まで剥ぎ取られた十字架のイエス
 19章23節と24節をお読みします。

19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。

 イエスさまは捕らえられてムチで打たれて傷だらけになった後で釘付けにされるという苦痛を味わいましたが、それだけでなく着物と下着をも剥ぎ取られるという精神的な苦痛をも味わいました。
 週報のp.3にピリピ人への手紙2章6節から8節までを載せておきましたので、お読みします。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 イエスさまは神の子キリストです。それなのに神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、ローマ兵のなすがままにされて、ご自分を卑しくして、上着だけでなく下着まで剥ぎ取られる精神的な苦痛に耐えて、そうして十字架の死にまでも従われました。
 十字架は本当にすごいなあと私は思います。どこがすごいかというと、私たちはものを手放せば手放すほど十字架のイエスさまに近づいて行くことができるという点です。逆に多くのものを持っていると、十字架のイエスさまのことはなかなかわかりません。

イエスがわからなかった金持ちの青年
 マタイの金持ちの青年の記事をやはり週報のp.3に載せましたので、お読みします。

19:21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 ここから読み取るべきことは、多くのものを身に着けていると十字架のイエスさまのことがなかなかわかりませんよ、ということだと私は受け取っています。私たちはそれぞれ事情があって、自分の財産を必ずしも手放すことはできません。それはそれで仕方がないことです。ただし多くのものを手放せば、それだけ十字架のイエスさまを深く知る恵みを得ることができることは確かです。この「多くのもの」とは物質的なものというよりは「精神的」なものと言えるでしょう。例えば、それはプライドです。たとえ多くの財産を手放してもプライドの厚い衣を着たままでいるなら、やはり十字架のイエスさまのことはわからないでしょう。イエスさまは神であることを捨てて着物を剥ぎ取られることまでされました。その精神的な苦痛は、プライドの厚い衣を着込んだままでいるなら、なかなかわからないでしょう。
 実は、それは私自身のことです。私は聖宣神学院に入学する時に大学教員の職を辞し、自宅のマンションを売却し、様々な持ち物の大半を処分しました。そうして多くの物質的なものを手放して神学院での勉強を始めましたが、イエスさまの十字架のことがなかなかわかりませんでした。それは私が財産を手放してもなお、多くのプライドの厚い着物を着込んでいたからでしょう。プライドは捨てたつもりでいましたが、やっぱり心の片隅では抱えていたのだと思います。しかし神学生の1年生、2年生、3年生と神学院で過ごすうちに段々とそういうプライドが取り去られていったと思います。

プライドの衣を脱いだナアマン
 神学生の時の私の説教の持ちネタにナアマンの話がありました。ナアマンの箇所を、ご一緒に読みたいと思います。列王記第二5章の9節から14節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.639)。

5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 こうしてプライドを捨てて裸になってヨルダンの水に浸かったナアマンは、ツァラアトが治って体がきよくなりました。この時、ナアマンは体だけではなく心もきよくなったのですね。ナアマンは病人なのにエリシャの家の前に戦車で乗り付けるほど、軍人としてのプライドの高い人でした。戦車に乗っていたのですから鎧も着込んでいたかもしれません。ナアマンはそういうプライドの塊のような人物でした。そのナアマンが部下の言うことを聞いて着ているものを脱いで裸になり、ヨルダン川に身を浸しました。ナアマンに必要だったことは、ヨルダンの水に浸ることというよりもプライドの厚い衣を脱いで裸になることだったのですね。そうしてナアマンは神様に近づくことができて、ナアマンの心はきよめられました。

十字架をそばで見ていた愛弟子は私たち
 神学生だった私も段々とプライドを捨てることができ、そして神学生の4年生の時にヨハネの福音書を深く知ることができるという素晴らしいプレゼントをいただきました。そして私たちの教会は、隣の土地を購入することができたという素晴らしい祝福をいただきました。しかし、もしかしたら、このことで、見えなくなってしまったことがあったのかもしれません。そのことに気付かされたのが、この一年の出来事でした。
 私たちは会堂の建設計画と資金計画を立てましたが、実現しませんでした。それで、今度はリフォームの計画を立てましたが、それも実現しませんでした。そうして私たちは、この年の始めに持っていた大いなる希望を失いました。このことは本当に残念なことです。しかし、このことによって私たちは十字架のイエスさまに近づくことができるという恵みもまた得られるのです。十字架は本当にすごいなあと思います。
 ヨハネ19章に戻って25節から27節までを交代で読みましょう。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 ここにはイエスが愛した弟子、すなわち「愛弟子」がいました。この愛弟子とは私たちのことです。いろいろなものを手放すと、愛弟子とは私たちのことなのだとうことがわかってきます。ここで、もう少し時間を掛けて、なぜこの愛弟子が私たちなのかを説明します。

ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一の相互補完性
  きょうの礼拝の始めの聖書交読ではヨハネの手紙第一を開きました。私たちは、このヨハネの手紙第一とヨハネの福音書を無意識のうちに互いに補って読んでいることでしょう。例えば手紙の1章3節には「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです」とありますが、記者のヨハネは「見たこと」を手紙に具体的に書いているわけではありません。それゆえ現代の読者の私たちは福音書に書かれているイエスさまの姿を補って手紙を読んでいると思います。逆にヨハネの福音書の有名な3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とありますが、この神の愛は手紙のきょうの交読箇所の4章9~10節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:9-10)を補うことで、より良く理解できるようになっています。
 では「執筆当時の読者」は両者をどのように読んだでしょうか。ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一の記者は同一人物である蓋然性が高いでしょう。仮に同一人物でなかったとしても、同じ共同体に属する者同士であったことは間違いないでしょう。そして当時はこの二つ以外にも様々な文書が存在していたでしょう。であれば猶更一つの文書だけを単独に読むことをしなかったでしょう。記者は手紙の中で(これも交読箇所ですが)「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」(Ⅰヨハネ4:13)と書いています。仮に記者が複数いたとしても、読者と記者のうちには共通の神がいて、皆が共通の神のうちにいます。それゆえ福音書と手紙は分断して読むべきものではありません。そして私はさらに両者を積極的に相互補完して読むことを試みた結果、ヨハネの福音書の理解が格段に深めることができました。

十字架を見ることを意識していたヨハネ
 では、ここで改めてヨハネの手紙第一1章3節「私たちの見たこと、聞いたこと」について考えてみます。お読みします(新約聖書p.465)。

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 ここでヨハネが書いている「私たちの見たこと、聞いたこと」とは福音書に描かれているイエスさまの姿の全体のことでしょう。しかし、中でもヨハネが「十字架を見ること」を強く意識していたことは次の理由(a~d)から明らかです。a) 1:7という早い段階でイエスの血が罪をきよめることに言及していること、そのすぐ後にb) 2:2で「なだめの供え物」に言及していること、c) 福音書の中心的なメッセージであるヨハネ3:16の直前(3:14-15)で、モーセが荒野で上げた蛇を見た者が生きた記事(民数記21:9)に言及していること、d) イエスの愛弟子が十字架をそばで見ていたとヨハネが記していること(ヨハネ19:25-26)です。このイエスの愛弟子とは福音書の記者のヨハネ自身のことです。このことから次のことが導かれます。
 ヨハネは手紙の1章3節で「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです」と書いて読者を同じ交わりに招いています。そして、ヨハネは手紙の4章11~12節で「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら・・・・・・」と書き、神がいかに読者を愛しているかを強調しています。ここからイエスの十字架をそばで見ていた「イエスの愛弟子」(ヨハネ19:26)とは読者の私たちのことでもあると導かれます。これは二千年前の十字架を自分の罪のためと自覚するクリスチャンの実感とも良く合うと言えるでしょう。また、この愛弟子は最後の晩餐でイエスの右隣という特等席にいました(ヨハネ13:23)。ヨハネ13~17章の重要なメッセージを読者にしっかりと伝えたいという記者の気持ちが伝わってくる描写です。

時間を越えた御父と御子との交わりに招いているヨハネ
 このように福音書と手紙を相互補完的に読むなら、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」(Ⅰヨハネ1:3)への招きは読者を「イエスの愛弟子」の座に招いていることだと読み取れます。イエスさまを信じて聖霊を受けるなら時間を遡って十字架の現場に立ち会うことが霊的には可能になるのです(パウロはガラテヤ2:20で自身を十字架に付けたが、ヨハネは十字架を見る側にいました)。それはヨハネが手紙の4章13節で、「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」(Ⅰヨハネ4:13)と書いているように、ヨハネも読者も共に同じ神のうちにいて、同じ神がそれぞれのうちにいるからです。すなわちヨハネが体験したことを読者も霊的に共有できる世界へとヨハネは招いています。そして下着に至るまで全てを剥ぎ取られた十字架のイエスさまと向き合うなら、自分がいかに多くの罪を身にまとっているかがわかるようになります。私の場合は、プライドという厚い衣をしっかりと着込んでいたことに気付かされました。
 そしてヨハネはさらに旧約の預言者たちの時代へも読者を招いています。これまで礼拝で何度も話しましたが、ヨハネ2章のイエスさまはモーセになり、4章ではエリヤ、6章ではエリシャ、7章ではイザヤ、9章と10章ではエレミヤとエゼキエルになっています。そして11章のイエスはゼカリヤやハガイになっています。これらは聖霊を受けた旧約の預言者たちのうちにはイエスさまがいたことを示し、読者もまたその時代に招かれているのです。このことに気付くなら旧約の民の神への背きの重い罪が自分の中にも存在することがわかり、神の愛もまた深く理解できるようになります。このようにヨハネは読者を霊的な領域において「過去→現在→未来」の一方通行の時間から解放して御父と御子との「時間を越えた交わり」に招いています。

おわりに
 このように、私たちはイエスさまの愛弟子としてイエスさまの十字架に向き合うとき、いろいろなことが見えて来ます。私たちが新しい会堂を建てることができなかったことは、とても残念なことでしたが、十字架のイエスさまと向き合う恵みをいただけたことは幸いなことであったと思います。
 お祈りいたしましょう。

19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
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