インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

互いに愛し合いなさい(2013.9.29 礼拝)

2013-09-30 10:58:54 | 礼拝メッセージ
2013年9月29日礼拝メッセージ
『互いに愛し合いなさい』
【ヨハネ13:31~35】

はじめに
 先週の礼拝では、きょう開いているヨハネ13章の始めのほうの、イエスが弟子たちの足を洗った場面を見ました。ここでイエスは弟子たちに愛を残るところなく示されました。それは、いったい、どれほど大きな愛なのでしょうか。イエスは永遠の中を生きておられます。永遠の中ですべての時代の人々に愛を注いでいます。そのイエスの愛が残るところなく示されたら、どれほど途方もない大きさなのか、それは正に人知を遥かに越える大きさの愛でしょう。ですから、私たちはそのすべてを知ることはできないと思います。しかし、少しでも多く、イエス・キリストの愛を感じ取ることができるようになりたいと思います。

1.ユダもペテロも私たちも愛して下さっているイエス
 計り知れない大きさの愛を持つイエスは、イスカリオテのユダのことも、もちろん愛しており、ユダの足も洗いました。ヨハネの福音書はユダを悪者にしているようなところがありますが、ユダの裏切りは、見えやすい裏切りです。ヨハネの福音書は、一見するとユダを悪者にしているようですが、本当に問題にしているのは、見えにくい罪のほうではないか、先週はそのような話もしました。ユダの裏切りは見えやすいですが、イエスが逮捕された時に逃げ出してしまった弟子たちは、実はもっと見えにくい形でイエスを裏切っていました。そしてヨハネの福音書は、実は、見えにくい罪の方を、より問題にしているようです。
 イエスがペテロの足を洗った時、ペテロはまだ聖霊を受けていませんでしたから、罪のことはもちろん、イエスが本当はどのようなお方であるかも、何もかも知りませんでした。しかしイエスは、そんなペテロのことを愛しておられました。
 そしてイエスは私たちのことも、愛してくださっています。まだ聖書のことを良く知らなかった頃の私も愛してくださっていましたし、聖書のことが多少はわかるようになった今の私も愛してくださっています。神さまは、私たちが聖書のことをどれくらい知っているかには関係なく、私たちを愛してくださいます。私の聖書の理解が増せば、神様の愛が増す、ということはありません。神さまは私が聖書のことを、どれくらい知っているかには関係なく、私のことを愛してくださっています。
 では私たちは何故、聖書は学ぶのでしょうか。聖書の知識が有っても無くても神様が私たちを同じように愛してくださるなら、そんなに一生懸命、聖書を学ぶ必要はないのではないか。イエス・キリストを信じることができるための最低限の聖書の知識さえあれば、それ以上深く聖書を学ぶ必要があるのだろうか、という疑問にぶつかります。
 この疑問に対する私の答は、こうです。
 聖書を学べば学ぶほど、私たちは神の愛の深さがわかってきます。この神の愛の深さを知ることほど、素晴らしい恵みはない。だから私たちは聖書をもっと深く味わえるようになるべきなのだと思います。
 私たちが伝道するのも、そのためですね。この神の愛を多くの方々に知っていただきたいから、伝道するわけです。聖書が伝道しなさいと言っているから伝道するのではなく、神の愛の素晴らしさがわかると、誰かに言われなくても、自発的に人に伝えたくなります。神の愛を知ることとは、それほど素晴らしいことです。

2.身近な隣人と互いに愛し合うだけで良いのか
 きょうの聖書箇所でイエス・キリストは、弟子たちに、

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

と言いました。きょうは、この「互いに愛し合う」というのは、誰が互いに愛し合うのか、ということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。
 この、イエス・キリストが最後の晩餐で「互いに愛し合いなさい」と言った場面を読むと、まず私たちは私たちの身近な周囲の人々と互いに愛し合うことを思い浮かべることでしょう。教会の中の人々、家族や親族、学校や職場の人々など、まずは身近な人々と愛し合うことを考えるでしょう。イエス・キリストはマタイ・マルコ・ルカの福音書では、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言っていますから、隣人である身近な人々を愛することは、もちろん大切で必要なことです。「互いに愛し合いなさい」と言われたら、まず身近な隣人を思い浮かべるのは当然のことです。しかし、この身近な隣人までで、とどまってしまっていないでしょうか。きょうのメッセージでは、私は皆さんに、それで良いのだろうかということを、問い掛けたいと思います。私たちは、身近な人々の範囲を越えて、もっと広い視野で、もっと大きな展望を持って、互いに愛し合うということを考えて行かなければならないのではないでしょうか。
 私たちは沼津という地方都市の、そのまた端っこのほうで、20名に満たない人数で礼拝を守っています。このように小さな教会の私たちは、あまり大きなことを考えないほうが良いのでしょうか。私も、時には、あまり大きなことは言わないほうが良いのかなと思うこともあります。しかし、地方の小さな教会にいるから、大きなことは言わないほうが良いということにはなりませんね。
 私は昨年、姫路にいる時に、学生時代の友人を訪ねて愛媛県の松山に行きました。私はこれまで四国には何度も行ったことがあって、愛媛、徳島、香川には行ったことがありました。しかし、高知県には行ったことがありませんでしたので、一度訪ねてみたいと思い、愛媛の友人に会う前に、まず高知へ行きました。高知では桂浜で、坂本龍馬の有名な像を見て来ました。桂浜の浜辺で太平洋を眺める坂本龍馬の像の姿からは、龍馬が大きなことを考えていた様子が伝わって来ます。
 私たちのこの教会のすぐそばにも海岸があって、私たちは太平洋につながる駿河湾を望むことができます。しかも、駿河湾だけでなく、世界遺産の富士山も望むことができます。今月の19日、この日は満月の中秋の名月を見ることができた日でしたが、私は夕方に、海沿いの堤防の上をジョギングしました。満月の日というのは、西に夕陽が沈むのとほぼ同時に東から月が昇って来ます。満月の時というのは、地球を挟んで太陽と月とが反対側にある時ですから、陽が沈むのと同時に月が反対側から昇って来るという位置関係にあります。この日の夕方、私はこの今沢の海辺を、まず西の夕陽に向かって走りました。この時、左側には駿河湾、右側には富士山がきれいに見えていましたから、夕陽と駿河湾と富士山の眺めを楽しみながら走ることができました。そして、夕陽が沈んでからは今度はUターンをして、原町の方から今沢に向かって東の方向に走りました。すると、しばらくしてから、東から満月が昇って来ました。それで今度は満月を見ながらジョギングを楽しむことができました。左右に駿河湾と富士山を見ながら、夕陽と中秋の名月を楽しむことができて、本当に気持ちの良いジョギングでした。私たちは、こんなに素晴らしい場所に住んでいるのですから、高知の下級武士だった坂本龍馬よりも大きなことを考えたとしても、少しもおかしなことではないのですね。

3.世界を変えたいと願う神
 坂本龍馬は「日本を洗濯する」という大きなことを言ったと言われています。常識的な人々は、こういう大きなことをいう人をクレージーだと思います。彼は狂っている、というようなことを言います。まして、「世界を変える」などと言えば、本当にクレージーだと思うでしょうね。アップルの創業者で2年前に亡くなったスティーブ・ジョブズは、このように「世界を変える」などと言うクレージーな人について、次のように言っています。
「自分が世界を変えるのだと考えるほど十分にクレージーな者が、世界を変えるのだ」。
自分が世界を変えるのだという気概を持たなければ、世界は変わりません。世界を変えるなんて言える者はクレージーな者だけです。しかし、それがどんなにクレージーであったとしても、そう考えない限り、世界は変えられません。クレージーなことを考える者だけが、世界を変えることができます。
 では、このことについて、私たちは、どう考えたら良いでしょうか。
 私たちクリスチャンの場合は、私たちが世界を変えるのではありません。変えるのは神様です。そして神様は、今の世界を変えたいと思ってらっしゃるはずです。不信仰な世を変えたいと思ってらっしゃるはずです。ですから、私たちは神様が世界を変えたいという、ご意志を妨げてはならないと思います。神さまが世界を変えたいと願っておられるなら、私たちもまた、世界を変えることができるように働かなければならないと思います。
 私たちは謙虚でなければならないと教わります。しかし、謙虚になり過ぎて、世界を変えようとしている神さまのご計画の妨げになってしまっている面はないでしょうか。傲慢になってはいけませんが、傲慢になることを警戒するあまり、謙虚になりすぎている面はないでしょうか。神様が世界を変えたいと願ってらっしゃるのなら、私たちもまた、世界を変えるのだという気概で働かなければならないのではないでしょうか。

 では、聖書はどのように言っているでしょうか。マタイの福音書のイエスは次のように言っています。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ18:18-20)
 
 このように、マタイの福音書のイエスは、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言っています。また、使徒の働きでイエスは次のように言っています。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 このように、使徒の働きのイエスは、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と言いました。イエス・キリストは世界を変えたいと考えているわけですね。
 では、ヨハネの福音書のイエスはどうでしょうか。ヨハネの福音書はご一緒に見てみましょう。12章を見て下さい。12章20節から23節までをお読みします。

12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

 このように、ヨハネの福音書のイエスはギリシャ人が来た時に、「人の子が栄光を受けるその時がきました」と言いました。これは、イエス・キリストがユダヤ人だけではなく、異邦人も救うのだということを示していると考えて良いでしょう。そうしてイエスは、続く24節で有名な「一粒の麦」のたとえを言います。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 
 豊かな実を結んだ一粒の麦は、ユダヤ人も異邦人も救いました。
 また、32節でイエスは次のように言っています。12章32節、

12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。
 続いて33節、
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

 この「すべての人」というのも、ユダヤ人だけではなく、世界中の人々です。それは、イエスの十字架の場面でわかります。イエスの十字架の場面の19章の19節と20節、

19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。

 「ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった」ということですから、イエスは当時の世界の人々を、ご自分のところに引き寄せました。
 そして、イエスは最後の晩餐で、私たちが一つになるように、天の父に祈りました。17章です。まず17章の11節を見てください。11節、

17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

 このように、イエス・キリストは天の父に、私たちが一つとなるよう、祈っています。この11節の「彼ら」というのは、単に、その場にいた弟子たちではなく、世界の人々であるということを、さきほど見た12章や十字架の19章から言うことができます。イエスは世界が一つになることを望んでおられます。そして、この17章では、「彼らが一つとなるため」ということばが、11節だけでなく、何度も使われています。21節から23節を見てください。

17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 このように、イエス・キリストは世界を愛し、世界が一つになることを望んでおられます。ですから、13章の「互いに愛し合いなさい」も、世界の人々に向かって言っていることばであると受けとめるべきです。13章に戻って、13章34節を、ご一緒に読みましょう。

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 このイエスの「互いに愛し合いなさい」ということばは、世界の人々に向けられていると考えるべきです。

4.私たちは内向きになっていないか
 しかし、どういうわけか、私たちは、ついつい身近な隣人と愛し合いなさいと受け取りがちではないでしょうか。どうしてでしょうか。私たちが謙虚だからでしょうか。
 どうしてなのか、はっきりとはわかりませんが、一つ思い付くのは、世界の広さに関する認識の変化が影響しているのかな、という気がします。
 この紀元1世紀の頃は、ローマ帝国が支配する地中海沿岸の地帯の一帯が、世界の全てであったのでしょう。ローマ帝国が世界のほとんど全てで、あとは「地の果て」が付け足しで少しある、という程度であったという気がします。ところが、少ししか無いと思っていた「地の果て」が意外と大きいことが段々とわかって来て、ローマ帝国よりもむしろ「地の果て」の広さの方が、どうやら大きいらしいことがわかって来た。そうすると、「地の果て」まで、イエスの教えを広めると行っても、どこまで行けば良いのか見当が付かなくなります。それで、段々と内向きになってしまったのではないか、これは私のまったく個人的な見解ですが、そんなことを思います。
 世界が思ったよりも大きいことがわかっても、クレージーな人は、世界を変えることが神のご意志であるとして、地の果てを目指して行くわけですが、常識的な人々は、クレージーなことは段々考えなくなります。それで、次第に内向きになって、「互いに愛し合いなさい」と言えば、身近な隣人と愛し合うことを考えるようになってしまったのではないか、そんな風に私は考えます。
 しかし、スティーブ・ジョブズが言ったように、自分が世界を変えるのだと考えるほど十分にクレージーな者だけが世界を変えることができます。そして私たちの場合は、「自分が変える」と考える必要はなく、「神様が変える」のですから、私たちは、謙虚になり過ぎて、神様のご計画を妨げることがあってはならないと思います。

5.Think globally, act locally
 今や私たちは、少なくとも地球上においては地の果ては存在しないことを知っています。地球は丸いので、すべての地はつながっています。そして、20世紀の後半になって、アメリカのアポロ宇宙船は、月から私たちの地球の姿をカメラで写して見せてくれました。アメリカのアポロ計画の偉業は、アポロ11号で人類が月面に降り立ったこともありますが、アポロ8号が地球の周回軌道を脱して月へ向かい、地球を一つの星として写真に撮ったことも偉業であったと言われています。今、私たちは時々、国際宇宙ステーションから見た地球の映像を見ることがありますが、国際宇宙ステーションの軌道では地球に近すぎて、地球全体を一つの写真に収めることができません。月へ行ったアポロ宇宙船のように、地球を遠く離れて初めて、地球を一つの星として、捉えることができるのですね。このアポロ宇宙船が地球の写真を撮ってから、宇宙船「地球号」という考え方が現れ、私たちは皆、「地球号」という一つの船に乗っている存在なのだという考えが広まりました。
 そして、今や私たちはインターネットにより、世界中の人と瞬時に連絡を取り合うことができるようになりました。私たちは今、こういう時代に生きているのですから、イエスの「互いに愛し合いなさい」は、世界中の人々が愛し合うことができるように私たちに働きなさいと言っているのだと解釈しても、少しもクレージーなことではないわけです。私たちは謙虚になり過ぎて、神様のご意志の妨げになってはならないと思います。
 しかし、世界のことを考えると言っても、私たちがやることは同じです。環境保全の運動でも、「Think globally, act locally.」というスローガンがあります。「Think globally, act locally」というのは、「考えるのは地球規模で、活動するのは地域単位で」ということです。例えば、地球の温暖化などは地球規模の現象です。人間一人の力ではどうにもならないことと言えるでしょう。しかし、一人一人がこのことを問題と感じて身近な所から行動を起こすなら、それがやがて大きな動きとなって解決へと向かって行くことも期待できます。
 私たちの伝道も、身近な伝道が大切であり、互いに愛し合うことも、まずは身近な隣人と互いに愛し合うことから始めます。しかし、その先の大きな展開を見ているか見ていないかでは、私たちが伝えるイエス・キリストの愛の大きさも変わって来るのではないでしょうか。その先の大きな展開を見ているか見ていないかで、相手に伝わる愛もまた異なって来るのではないでしょうか。

おわりに
 いま私たちは新会堂の取得を目指して祈りを重ねています。新会堂もまた神様が与えて下さるものです。神様は世界の人々が互いに愛し合い、一つになることを望んでおられます。私たちの教会も、小さな教会ではあっても、神さまの大きなご計画の中に組み込まれているのですから、私たちは、その大きなご計画を見すえて、伝道をしたいと思います。小さな教会だからと言って謙虚になり過ぎて、神様のご計画を妨げるようなことがあってはなりません。
 イエス・キリストが「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったことを、大きな規模でとらえ、進んで行くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
ジャンル:
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