インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

証しの小石を積み直す(2018.9.2 礼拝)

2018-09-04 09:10:19 | 礼拝メッセージ
2018年9月2日礼拝メッセージ(伝道メッセージ)
『証しの小石を積み直す』
【使徒22:3~11】

はじめに
 私たちの証しは信仰の証しだけではありません。うれしかったこと、悲しかったこと、恐ろしかったこと、苦労したことなどがあると、私たちはそれを人に話したり文章にして読んでもらったりします。これらは皆、私たちがこの世を生きていることの証しです。私たちの一人一人は皆、多くの証しを持っています。大人はもちろん、幼い子供でも物心が付けば証しを持っています。このように私たちは証しを残しながら、日々を生きています。

証しの山の頂点の見直し
 では私たちはこれらの証しを、時の流れの中でどのように残して来ているでしょうか。一つ一つの証しを小さな石、小石に例えるとしたら、皆さんはどのように証しの小石を残して来たでしょうか。大きく二つのタイプに分けてみるなら、一つは時の流れと共に直線的に小石を並べる残し方と、もう一つは小石を積み重ねて山を作って行く残し方とがあるかもしれません。そして、これら二つをミックスさせた残し方もあるでしょう。例えば幼い頃の山、学生時代の山、働くようになったり結婚したりしてからの山、などいくつかの山に分けて証しの小石を残して来た人もいるかもしれません。
 もし直線的に並べているとしたら、過去の証しは段々と遠ざかって行き、忘れ去ることになります。過去の出来事は今の自分とはあまり関係ないことになります。それはちょっと寂しい気がします。ですから私たちの多くは過去の自分の経験を積み上げながら、今に生かす形で山を築いて行っているのではないかと思います。しかし、しっかりと積み上げているつもりでも、私たちの人生は脆いものです。積み上げた小石の山がガラガラと崩れてしまうこともあるでしょう。それもまた寂しく、つらいものですね。しかし、そんな時こそ、もっと強固でしっかりした証しの山を築き直すための良いチャンスだと思います。今の私自身は、まさにそのような時期であると感じています。また、仮に証しの山がまだ崩れてはいないとしても、証しの小石の積み方を見直してみることは、これまでの自分を歩みを見つめ直し、自分が何のために今を生きているのかを改めて考えてみるための、良いきっかけになるのではないかと思います。
 皆さんがクリスチャンであってもなくても、次のことをお勧めしたいと思います。今までの自分の中で最も重要であると思われる証しを「一つ」選び出して、それが山の頂点になるように、証しの山の全体を積み直してみてはいかがでしょうか。今現在を生きている証しこそが最も重要であると考える人にとっては、山の頂点の小石は常に最新のものということになるでしょう。しかし、多くの人にとっては、過去の証しが最も重要な証しではないかと思います。それを頂点に持って来るのです。そうして今の証しはそれよりも下に積むようにします。実際に小石を積むわけではなくて、頭の中でする作業ですから、それは簡単にできます。このような積み方をするなら、自分が今を生きているのは、この重要な頂点の証しをするためなのだということに気付きます。

証しを積み直すことの効用
 なぜ、このような証しの小石の積み直しを勧めるのか、それは私自身も含めて日常生活で次々と起きる新しいことの中で、無駄に消耗している人が多いと感じるからです。物事が概ね自分の思い通りに進行している間は、次々に新しい局面が現れても前向きに対処して行くことができるでしょう。しかし、「こんな筈ではなかったのに、どうして?」という気持ちで日々を過ごさなければならなくなった時、私たちは変化に翻弄され、消耗してしまいます。そして、「自分は何のために今を生きているのか?」、という疑問すら持つようになり、今を生きる気力を失いそうになります。実際、私はそのような心境に陥りかけました。変化にいちいち対処することが嫌になり、無気力になりかけました。そんな時、自分の中には大切な証しがあることを思い出し、証しの小石の積み直しをしてみることにしました。そして、自分が今を生きながら次々と新しい証しの小石を残し続けているのは、それらを上に積み上げたり横に並べたりするためではなくて、頂点の重要な証しを、よりしっかりと支えるためなのだと気付きました。このことで私は再び気力を取り戻しました。
 敢えて恥をさらしますが、私には抜きがたい忸怩(じくじ)たる思いがあります。それは、これまでに私が専門を二度も変えているために一つの分野での実績の積み重ねが十分にないという忸怩たる思いです。過去の二つの専門においても大した実績を残していませんし、牧師になってからも十分な働きが出来ていません。そのことを情けなく思うこともしばしばで、ここからなかなか抜け出せないでいます。私だけでなく、誰でも形は違っても多少は過去に対する苦い思いを抱えていることでしょう。今回お勧めしている証しの小石の山を積み直すことは、ここから抜け出す意味でも、とても有効であると考えます。なぜなら頂点の証しより前の証しでも後の証しでも、またそれらが苦くて辛い証しであったとしても、すべては頂点の証しを下からしっかりと支える証しになり得るからです。
 また様々な理由から、自分にはつまらない証ししかないと思っている人もいるかもしれません。或いは、遠い昔には良い証しがあったけれど、今はそれとは無縁の暮らしをしていると思い込んでいる人もいるかもしれません。しかし、そんなことはない筈です。大切な証しを一つ選んで、それが頂点になるように小石の山を積み直すなら、誰でも立派な人生の証しを持っていることに気付くでしょう。たとえ一つ一つの証しは些細なものであったとしても、山全体で見れば、立派な証しになっています。ですから、証しの山を心の中に築き直すことを、ぜひお勧めしたいと思います。
 繰り返しますが、人は日々次々と起きる出来事に翻弄され、消耗してしまいがちです。すると、毎日がつまらないことの繰り返しだと感じるようになります。このように、人は「過去→現在→未来」の一方向に流れる「時間の流れ」に簡単に翻弄されてしまいます。しかし、時間の流れとは無関係に小石を積み直して(基礎部分に古い証しと新しい証しとが混じっていても全くかまいません)、時間に流されないどっしりとした証しの山を築くなら、心の中は平安で満たされます。この時間に流されない平安を味わうことができたなら、それまでの自分がいかに時間の流れの中で不安定な気分で過ごしていたかということに気付くでしょう。

山の頂点の証しの例
 山の頂点の証しは良かったこととは限りません。悪かったことでも頂点の証しになります。では、どのような証しが山の頂点になり得るのか、いくつかの例を示しながら、まずは一般論で考えてみたいと思います。
 最初の例として、災害の被災体験の証しを考えてみます。戦争被害については多くの人々が証言しています。空襲や原爆の凄惨な被害についての証言は、戦争は絶対に繰り返してはならないという意識を多くの方々と共有することにつながりますから、とても有益なものです。また地震や豪雨などの自然災害に関する証言も、同じ被害を繰り返さないように備えて行くことができますから、多くの人々の役に立ちます。
 これらの被災者の場合、多くは被害を受けた当日についての証しが山の頂点になるかもしれません。しかし、そうでない頂点の証しもあるでしょう。例えば原爆が投下される前の賑やかだった広島の繁華街について証言する人もいます。このことで、原爆被害の悲惨さが浮き彫りになりますから、これもまた大切な証しです。被爆後に何年も経ってから原爆症を発症した人もいます。この原爆症の闘病の証しが山の頂点という人もいるでしょう。また、被爆体験を決して人に話すことなく、何十年も経ってから語り始めて、語り部になった方々もいます。その語り部になるまでの心の葛藤もまた、山の頂点の証しになり得るでしょう。同じ広島の被爆者であっても、どの時点を山の頂点に選ぶかは、それぞれ異なることでしょう。
 一年ほど前に105歳で亡くなられた日野原重明さんは、59歳で遭遇した「よど号ハイジャック事件」のことを様々な媒体で証ししています。日本赤軍に乗っ取られた飛行機の中で日野原さんは、もし機内で銃撃戦になったら死ぬかもしれないと思ったそうです。そして、無事に解放された時に感謝の念と共に、「これからの人生は与えられたものだ。誰かのために使うべきだ」と思ったということです(引用:PRESIDENT Online https://president.jp/articles/-/9320 より)。この経験を日野原さんは繰り返し語り、それまでとは異なる人生を歩みましたから、これが日野原さんにとっての証しの山の頂点と言えるのではないかと思います(日野原さんご本人は違うとおっしゃるかもしれませんが)。
 新約聖書の例に目を転じると、例えばパウロの証しの山の頂点はダマスコ途上でイエスと出会った出来事であると言えるでしょう。使徒の働きにはパウロ自身による証言の言葉が載っています。以下に一部を引用します。イエスと出会った時のパウロはまだサウロという名前でした。

「私が道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からのまばゆい光が私の周りを照らしました。私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』」(使徒22:6-8)

 それまでユダヤ教に熱心なあまりにキリスト教徒を激しく迫害していたサウロは、この出来事の後、一転して今度は人々にキリストの教えを熱心に説く者になりました。パウロはこの出来事の証しをいろいろな機会にしています。
 日野原さんやパウロの例から分かることは、人の人生は本人が全く予期していなかった一つの出来事によって大きく変わることがある、ということです。このような、全く予期していなかったことに遭遇した出来事は、頂点の証しとして、とてもふさわしいだろうと思います。何を頂点に選ぶかは各自が自由に選べば良いことですが、予期していなかったことに遭遇した経験に思いを巡らしてみることは、とても有益ではないかと思います。自分の人生は自分でコントロールできるものではなく、孫悟空が釈迦の手の中で動き回っていたように、自分よりも遥かに大きな存在の中で生かされているのかもしれない、ということに思いを馳せてみることもまた、時には良いことではないかと思います。この大きな存在は、競走馬のように前だけを向いてがむしゃらに前進している時には見えにくいものです。それまでの自分の人生の歩みを振り返って証しの小石の山を積み直してみるなら、いつも大きな存在が自分に伴っていたことが見えて来るかもしれません。

1985年の出来事
 さて私自身の証しの山の頂点は、1985年の25歳の時の出来事だろうと考えています。この年に私は茨城県で開催されていた、つくば科学博の国連平和館で一つのタイルを購入しました。



 このタイルは『平和のキャラバン』(平山郁夫・作)という日本画を大きく拡大して約8万ピースに区分けしたものの一つで、購入者の名前が刻まれて嵌め込むようになっていました。そして科学博の期間終了後に広島市に寄贈されて平和記念資料館のロビーに設置されました。このタイル購入の出来事は、1985年の私にとってそれほど重要なことであるという認識はありませんでした。しかし歳月が流れるに従って次第に重みを増し、今では私にとっての証しの山の頂点に位置すると考えるに至っています。以下に、このことを少し細かく振り返ってみたいと思います。
 33年前の1985年の当時、私は北大大学院の博士課程の1年生でした。金属の照射損傷の研究をしており、茨城県の大洗町にある原子力研究所(当時)の敷地内にある東北大学金属材料研究所の実験施設で、核融合中性子照射した金属の内部ではどのような物理的な変化がもたらされるのかについての研究をしていました。核融合中性子はアメリカのローレンス・リバモア国立研究所の回転ターゲット核融合中性子源RTNS-IIを使って照射されました。日本で試料をパッキングしてアメリカに送り、照射後は、この大洗の実験施設に試料が返送されて来ていました。私たちは、この大洗で照射した試料の強度(引張り強さ)の測定や透過型電子顕微鏡による内部構造の観察をしていました。このことのために概ね月に1回、1週間の日程で札幌から大洗まで頻繁に通っていました。また、この1985年当時の大洗では軽水炉のJMTR(材料試験炉)と高速炉のJOYO(常陽)による核分裂中性子照射の実験も始まっていたと記憶しています。
 さて、つくば科学博には、ちょうど大洗で実験をしていた時に行きました。確か、この時は1週間ではなく2週間の日程で大洗に滞在していました。科学博は札幌からはなかなか行けませんが、せっかく近くにいるからということで、実験中でしたが1日休みをもらって科学博の会場を訪れました。どの展示館を訪れたのか、国連平和館以外の展示館のことは何も覚えていません。それだけ、この国連平和館での出来事が私にとっては強い思い出になっています。
 どうして当時の私が国連平和館に強い関心を抱いたのか、それは私の研究が原子力施設を利用していたことと関係していると思います。原子力は使い方を誤れば核兵器の製造につながります。また原子力関係の施設で働いている人々は放射線の被曝を免れません。研究自体は面白かったですが、これらのことが、どうしても気になっていたと思います。また、『プルトニウムの恐怖』(高木仁三郎・著、岩波新書 1981)という本を読んで核燃料サイクルや高速増殖炉が持つ危険性にも懸念を感じていましたから、自分の研究が高速増殖炉開発のための実験炉であったJOYOを利用していることにもスッキリしない気持ちを抱いていました。スッキリしなくても、大学院まで進んだら専門を変更することは簡単にはできません。本当はスッキリした気持ちで思い切り研究に没頭したいと願っていましたが、そうではありませんでした。
 そのような頃に科学博の国連平和館を訪れたので、『平和のキャラバン』のタイル画が広島の平和記念資料館に移設されることになっていることに魅力を感じたのではないかと思います。私は前年の1984年の秋に広島の平和記念資料館を訪れていましたから、知っている資料館に移設されることは大きな魅力と感じたと思います。

1995年~2005年の出来事
 さて1985年から1995年までの10年間は、実に様々なことがありました。北大の博士課程を修了した後、1988年に私はアメリカのオークリッジ国立研究所へポスト・ドクター研究員として研究留学しました。ここは戦時中に濃縮ウランを製造して広島に投下した原爆の作製に寄与した研究所です。私はこのアメリカの原子力施設で研究生活を送りました。そして1年間の研究留学を経て私は帰国し、◇大学工学部の原子核工学科(当時)で助手として働き始めました。結局私は原子力から離れることができなかったのです。そして札幌から大洗に頻繁に通ったのと同様に、◇から大洗へも通いました。また、◇には放射性物質を扱うことができる施設がありましたから、大洗から◇まで中性子照射した試料を運び、◇でも実験を行いました。このことで大洗に行く頻度は減りました。以前ほどは茨城県に行かなくなったことで、つくば科学万博に行った1985年のことも次第に忘れていったように思います。
 そんな私でしたが1993年の9月に◇大学を退職しました。辞めた理由は色々ありますが、原子力に携わっていることに私自身がモヤモヤ感をずっと抱えていたことも大きな要因の一つであったことは確かだと思います。
 ◇大学を辞めた私は1993年の10月に札幌に引っ越して、日本語教師になるための勉強を開始しました。そして1995年の3月に○大の留学生センターの日本語教育部門(当時)の教員に採用されました。その○大の教員になったばかりの1995年の秋に研究会が広島で開催されたので、私は1984年以来11年ぶりで平和記念資料館を訪れました。これが私にとって二度目の平和記念資料館でした。ここで私は、「平和のキャラバン」のタイル画の完成形を初めて見ました。10年前の1985年の国連平和館では、このタイル画はまだ部分的にしか出来ていなかったからです。そして、自分の名前が刻まれたタイルがこの中のどこかにあることを思い出して、そのタイルを探しました。なかなか見つかりませんでしたが、30分以上探し続けて、ようやく自分のタイルを見つけることができました。
 この1995年の広島での記憶は、ただただ自分のタイルが見つかってうれしかったということだけです。原爆被害の展示について、この日の私が何を感じたのかはぜんぜん覚えていません。訪問が1984年に続いて2度目だったのが理由かもしれませんし、原子力の現場から離れて安堵し、核兵器への意識が薄れていたからかもしれません。そして私はこの後、2005年まで一度も平和公園を訪れませんでした。1995年から2005年までの10年間に様々な用事で広島には10回以上行っていたにも関わらず、です。ということは1995年の段階では、自分のタイルが常にここにあることに関して、それほどの重みは感じていなかったということです。うれしかったけれども自分が平和のために働くべきとは考えていませんでした。

2005年の広島訪問とその後
 そして2005年の夏、私は10年ぶりで広島の平和記念資料館を訪れました。これが私の三度目の資料館への訪問でした。この日、私は資料館の原爆被害の展示に、大きな衝撃を受けました。これが1995年の二度目の訪問の時との大きな違いでした。この10年間で私の意識は大きく変わっていたのでした。
 一つの大きな要因は、私が1999年から○大の留学生センターで日韓プログラムを担当することになっていたことです。この日韓プログラムは毎年韓国人学生100名を国立大学の理工系の学部に国費留学生として迎え入れるというものです。それで○大でも毎年5名程度の高校を卒業したばかりの若い韓国人学生を受け入れることになり、私がこのプログラムの担当者になりました。今でもそうですが、韓国には兵役があり、十代の若い男子留学生は皆、いつかはこの兵役に就かなければならないという悩みを抱えていました。また、大学院生として在学していた二十代後半以上の韓国人留学生たちは既に兵役を経験していましたから、彼らからその話を聞くことができました。彼らとの交流を通じて、私平和の問題を考えるようになって行ったのだと思います。また、この頃からよく観るようになった韓国映画によっても、韓国が北朝鮮と緊張関係にあることが伝わって来ました。さらに『チルソクの夏』という日韓の高校生の交流を描いた日本映画の中でも戒厳令下の韓国が描かれていて、平和な日本との違いを考えさせられました。
 そして2001年には9.11の同時多発テロがありました。この後アメリカはアフガニスタンとイラクで戦争を始めました。私がキリスト教会に導かれて通うようになったのは、この2001年です。教会で私は祈ることを覚え、やがて平和のために祈るようにもなりました。教会に導かれたことで私は心の平安を得ていましたから、その平安とはまったく正反対の戦争の悲惨さをより一層強く感じるようになったのだと思います。
 そうして洗礼を受けてクリスチャンとしての歩みを始めて1年あまりが過ぎた2003年の春に、戦争中のイラクで日本人三人が拉致されて人質になるという事件が起きました。この時、自衛隊のイラク派遣が始まっていて、犯人グループは自衛隊が72時間以内にイラクから撤退しなければ人質の三人を殺害するという声明を発表しました。この三人の内の一人の高遠菜穂子さんはよく知っている人でした。札幌で日本語教師になるための学校に半年間通っていた時、同じ教室で学んでいた仲間でした。それで私は人質救出を願う首相官邸前の集会にも二日連続で参加し、知人にも参加を呼び掛けました。そして期限の72時間が迫る中、これまでこんなに祈ったことはないというほど一生懸命に祈りました。結局、日本政府は自衛隊を撤退させることをしませんでしたが、幸いにも人質は解放されました。しかし、この三人は帰国した時にひどいバッシングを受けましたから、私はとても心を痛めました。このイラク戦争の時の人質事件で私の平和への関心は一層強まったと思います。
 ですから2005年に広島の平和記念資料館で強い衝撃を受けたのは、私が戦争を以前よりもずっと身近に感じるようになったからではないかと思います。また、この頃から私は映画にエキストラとして参加するようになりました。初めてエキストラとして参加したのは『出口のない海』という映画で、これは特攻兵器の人間魚雷「回天」の搭乗員の物語でした。戦争の時代を描いた映画にエキストラとして参加したことが、私の平和の問題への関心をより一層強めたことは間違いないと思います。そういう中で私は広島の平和公園に行く度に「私を平和のために用いて下さい」と神様に祈るようになりました。そして平和記念資料館のロビーには常に自分の名を刻んだタイルがあることを、とても重く受け留めるようになりました。
 これらのことがあって私は2008年に○大の留学生センターを辞めて神学校に入り、牧師になるための勉強を始めました。そして夏期実習で姫路教会に滞在していた2010年の夏にも広島に行き、平和記念資料館で自分の名前が刻んであるタイルを確認しました。この日、私は自分のタイルが左右の中心にあることに気付きました。どういうわけか、それまでは自分のタイルが左右の中心にあることに全く気付いていませんでした。そうして、この日以降、平和記念資料館の中にある自分のタイルの存在は、私にとってますます重要なものになりました。
 このように、広島にある私のタイルは、時を経るに従って私の中でどんどん重要度が増して来ました。そして今ではこのタイルを購入した1985年の出来事が私の最も重要な証しであると考えるに至っています。1985年のこの日に、私は神様から「将来は平和のために働くように」と役割を与えられたと感じています。実際はずっとそれ以前から、もしかしたら母の胎の中にいる頃から、この役割に向かってずっと導かれて来たのかもしれません。それが、この1985年に確定したのではないかと感じています。そして1985年以降は、このことを証しするために日々を生きているのだと思います。教会に導かれたことも、心に平安が与えられましたから、それによって戦争の悲惨さをより強く感じるためではないかという気がします。そして牧師になるように導かれたのも、聖書をより深く学んで、自分だけでなくもっと多くの人々が心の平安を得て、世界が平和に向かって行くように働くためだと思います。このようにして私は1985年の以前からも後からも神様に導かれながら今日を生きています。私はこのことに最近になってようやく気付きました。気付くことができたのは、証しの小石を積み直したからです。

時間の流れから離れると得られる平安
 この証しを通して私は多くの方々に、「過去→現在→未来」という時間の一方通行の流れの束縛から脱却して心の平安を得ていただきたいと願っています。この時間の流れに囚われていると、日々次々と起きる新しい出来事の中で疲弊し、消耗してしまいます。しかし、自分のこれまでの歩みを振り返り、証しの小石の山を積み直すなら、ただ単純に「過去→現在→未来」という時間の流れの中で生きるだけが人生ではないということに気付くでしょう。
 この時間の流れから離れて自分を振り返ることは、実は神様との交わりの中に入れていただくことにも通じます。なぜなら神様は「過去→現在→未来」という時間の中にはいないからです。私たち人間はこの時間の流れに強く縛られていますが、神様は縛られていません。私たちは日々老いて行きますから、肉体は時間の流れから逃れることはできません。しかし、心は逃れることができ、心の平安が得られます。ですから、ぜひ多くの方々に、証しの小石の山を積み直すことを、お勧めしたいと思います。
 ただし若い人の場合はまだ、証しの頂点と言えるものはないかもしれません。それでも、いったんこれまでの歩みを振り返り、「過去→現在→未来」の流れから離れるなら、自分を包む大きな存在に気付くことができるかもしれません。そのことで心の平安を得ることができます。ですから、若い人であっても証しの小石を積み直すことを大いに勧めたいと思います。

おわりに
 私にとっての1985年の出来事は、今を生きれば生きるほど、どんどん重要度が増しています。私はパウロもまた、神様のために働けば働くほど、かつてダマスコ途上でイエス・キリストと出会ったことの重要度が自分の中で増して行ったのだろうと思います。先ほどは使徒の働き22章を引用しましたが、26章にもまた、パウロは同じ証しをしています。使徒の働きにはパウロがローマでしばらく過ごした後でどうなったかがのかが書かれていません。それはパウロの証しの山の頂点がダマスコ途上の出来事であり、パウロの最期がどうなったかが頂点ではないから、なのかもしれません。私自身が証しの小石の山を積み直して、そんな風にも考えるようになりました。
 このように、この積み直しの作業によって私は多くのものを得ることができました。ですから私はぜひ多くの方々に、ご自身の証しの小石を積み直してみることをお勧めしたいと思います。そして自分は何を証しするために今を生きているのかを、もう一度確かめ直してみてはいかがでしょうか。
 お祈りいたしましょう。

22:7 私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』
22:8 私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』
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