インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

悪の敗北と天の祝宴(2014.8.17 礼拝)

2014-08-18 23:08:36 | 礼拝メッセージ
2014年8月17日礼拝メッセージ
『悪の敗北と天の祝宴』
【ヨハネ2:1~11】

ミカ6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

はじめに
 先週の礼拝説教のタイトルは、『降り積もる時間の恵み』というものでした。先週以来、私は「降り積もる時間」を前面に掲げて聖書を宣べ伝えて行くことに、非常に手ごたえを感じ始めています。この「降り積もる時間」は「ヨハネの福音書の永遠観」の露払い、即ち先導役として非常に優れているのではないかという気がしています。
 「ヨハネの福音書の永遠観」のことを私は平和実現の最強の切り札であると考えています。「ヨハネの福音書の永遠観」は戦争が絶えない今の世界を平和な世界へと変える大きな力を内に秘めていると私は考えています。何故なら人類は、2千年近くの長い期間にわたってヨハネの福音書を読み継いで来ていながら、この書が持つ多重の時間構造にまだハッキリとは気付いていないからです。なぜ気付いていないのか、それは恐らく私たちの中に欠陥があって、その欠陥に私たちがまだ気付いていないからでしょう。その欠陥を明らかにして修復するなら人類はこれまでよりも良い方向に向かう筈です。そしてその欠陥とは、私たちの「時間」や「永遠」に対する考え方の中にあると私は診ています。ですから私はこれまで「ヨハネの福音書の永遠観」を多くの人々に理解していただきたいと願って、私なりに奮闘して来ました。

ピアスの文学作品の「降り積もる時間」
 しかし奮闘努力の甲斐もなく、なかなか伝わらないことから、いきなりヨハネの福音書を持ち出すのではなくて、露払いを務める先導役が必要であると思うようになりました。その先導役として「降り積もる時間」という考え方が、なかなか良さそうだという感触を持っています。ヨハネの福音書は「流れる時間」と「降り積もる時間」の両方を持った構造になっています。ところが私たちはヨハネの福音書の「流れる時間」にばかり気を取られていて、「降り積もる時間」が存在していることに気付いていません。ヨハネの福音書に隠されている「降り積もる時間」を、これまでの他の文学作品や映画やドラマの中に現れる「降り積もる時間」を例にして説明して行くなら、理解していただくことができるのではないかと期待しています。
 そのために私は、「降り積もる時間」が描かれていると言われているイギリスの児童文学作家のフィリパ・ピアスの作品を古本で何冊か買い求めて、今読んでいるところです。そうしてフィリパ・ピアスの長編と短編をいくつか読んでみて、「降り積もる時間」が描かれているとは、なるほど、こういうことなのかと思いました。彼女の作品には必ず子供たちが登場します。そして、その親やおじいさん・おばあさんの世代も登場します。そして多くの場合、子供の目線で親やおじいさん・おばあさんが描かれます。ということは、親やおじいさん・おばあさんのことが子供に受け継がれて行っているということです。そして子供は、その親やおじいさん・おばあさんを見ながら、それを土台にして成長しているということです。これが「降り積もる時間」のことなのだなと、いま私は感じているところです。まだまだ未読の作品がありますから、さらに彼女の作品への理解を深めて行きたいと願っています。

『北の国から』と『男はつらいよ』の「降り積もる時間」
 さて、これらのことを思い巡らしていて、私はフジテレビ系列で放映されていたドラマの『北の国から』のことを、ふと思い出しました。『北の国から』は1981年から2002年まで実に足掛け22年間もの長い期間に亘って放映されたドラマですから、多くの方がご存知のことと思います。このドラマは黒板五郎というお父さんと息子の純、娘の蛍の家族の物語ですが、ナレーションは息子の純が行っています。つまり、子供の目線で家族のことが語られます。この息子の純は小さい頃は東京で育ったので、田舎者の父のことを軽蔑していました。しかし成長するに連れて父親を理解するようになり、2002年の最後のドラマでは、当時30歳を越えていた純はナレーションで父親について、こんな風に語っています。これは父が駅で娘の蛍と孫の快を見送るシーンでのことですが、

「父さん。あなたはすてきです。あなたのそういうみっともないところを,昔のぼくなら軽べつしたでしょう。でも今,ぼくはすてきだと思えます」

 こんな風にして、親の世代の人生が子供の世代に引き継がれて行きます。
 この『北の国から』の息子の純の役は吉岡秀隆という俳優さんが演じていますが、彼は映画の『男はつらいよ』のシリーズの中でも小学生の頃から15年間にわたって寅さんの甥の満男役で出演しています。寅さんは葛飾柴又の人々に愛されながらもフーテンの愚か者として馬鹿にされていました。しかし甥の満男はそんな伯父のことを慕っていました。そうして満男は自分も恋をする年頃になると、伯父が辿ったのと同じように愚かな姿をさらすようになって行くのですね。ここにも親の世代から子の世代へと、時間が降り積もって行く様子を見ることができます。私は寅さんのシリーズがとても好きなのですが、とりわけ甥の満男が成長して以降の、満男の愚かで滑稽な様子が描かれている作品が好きです。この映画の山田洋次監督が、愚かな寅次郎や満男を温かい目で見ていることに、私はとても慰めを感じます。

どの時代にあっても愚かな私たち
 さて、このように愚かな者を温かい目で見ることにおいては、イエス・キリストほど温かい方は他にいないのではないでしょうか。ザアカイやニコデモやペテロをイエス・キリストはとても温かい目で見ておられます。イエスさまは愚かなニコデモやペテロを叱りますが、彼らに対するイエスさまの深い愛もまた私たちは感じることができます。そして、イエスさまの深い愛はザアカイやニコデモやペテロのような「イエスの時代」の人物だけではなく、「旧約の時代」のイスラエルの民に対しても、「使徒の時代」のユダヤ人たちに対しても向けられていることを、私たちは知るべきです。イエスさまは「旧約の時代」の愚かなイスラエル人たちや「使徒の時代」の愚かなユダヤ人たちのことも深く愛しておられます。そして、この愚かなイスラエル人たちやユダヤ人たちとは、私たちのことでもあります。イエスさまは愚かな私たちのことも深く愛して下さっています。私たち人間は、どの時代にあっても愚かな者たちでした。私たちの足下には、そういう愚かな私たち人類をイエス・キリストが愛して下さっていたという土台があります。これが「降り積もる時間」です。私たちの足下にはイエスさまの愛の土台があり、そしてイエスさまの愛は今もなお降り注ぎ、これからもまた降り注ぎ続けることを私たちは理解したいと思います。私たちは、このようなイエス・キリストの重厚な愛を理解できるものになりたいと思います。それがパウロがエペソ人への手紙の中で祈った、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を知ることができるようになることなのだと思います(エペソ3:19)。

ヨハネ2章の「降り積もる時間」
 さて先々週はヨハネ3章、先週はヨハネ11章を開きました。きょうはヨハネ2章を開いてイエスさまの重厚な愛を感じてみたいと思います。まず1節と2節、

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

 ヨハネ2章の1節から11節までにはカナの婚礼での出来事が書かれています。婚礼というのは非常におめでたい席ですから、このカナの婚礼の背後には素晴らしい祝福が隠されています。続いて3節から5節、

2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

 4節の、イエスさまの母親に対する言葉は、随分と冷たい感じがしますね。イエスさまはどうして、こんなことを言ったのか、私はこれはイエスさまが「イエスの時代」だけにいるのではないということを私たち読者に知らせるための言葉だと考えています。イエスの母のマリヤはイエスが生まれてから十字架で死ぬまでの「イエスの時代」にあっては、確かにイエスの母でしたが、「旧約の時代」と「使徒の時代」においてはイエスの母ではありませんでした。ですから、この4節の言葉は、読者が「旧約の時代」と「使徒の時代」にもちゃんと注目するようにという注意を喚起しているのだと考えます。
 さて、このカナの婚礼の山場のイエスさまが水をぶどう酒に変えた出来事の6節から11節までは交代で読みたいと思います。
 
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ヨハネはこの出来事に11節にあるように「最初のしるし」という特別の呼び名を与えています。はじめに言ったように、ここでは「旧約の時代」と「使徒の時代」に何があったのかを考えなければなりません。

悪の敗北と天の祝宴
 まず「旧約の時代」ですが、先々週話したようにヨハネ3章のニコデモの箇所がイスラエルの民に律法が授与された出来事に当たりますから、この2章はイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した場面に当たります。イスラエルの民がエジプトを脱出する時、エジプトの王のパロはイスラエルの民がエジプトから出ることをなかなか許しませんでした。そのようにイスラエルの民を縛り付けるエジプトに対して神は十の災いを与えました。十の災いとは週報p.3にメモしたように出エジプト記の7章から12章に掛けて書かれています。それらは、①ナイル川の水を血に変えたこと、②かえる、③ぶよ、④あぶ、⑤家畜の疫病、⑥腫物、⑦雹、⑧いなご、⑨暗闇、そして⑩初子の死でした。ヨハネ2章のカナの婚礼でイエスさまがぶどう酒を水に変えたことは神がナイル川の水を血に変えたことであり、このことで十の災いを代表していると考えられます。それはつまり、人を罪の奴隷に縛り付けている悪魔の敗北を意味すると言って良いでしょう。奴隷としてエジプトにいたイスラエルの民を神が解放したように、イエス・キリストは悪魔によって罪の奴隷にされている私たちを、ご自身の血によって救い出して下さいます。
 そうしてイエスの血によって救い出された者には聖霊が注がれます。ですから、このガリラヤのカナの婚礼の場面は、「使徒の時代」のペンテコステの日に、ガリラヤ人たちに聖霊が下った出来事とも重ねられています。水は体の表面しかきよめることができませんが、イエスの血によって成就した聖霊の注ぎは心の中まできよめることができます。これは素晴らしい祝福です。まさに婚礼として表現されるにふさわしい素晴らしい祝福です。この聖霊はペテロやヨハネたちガリラヤ人たちに最初に注がれましたから、まさに「最初のしるし」です。このガリラヤ人たちの聖霊が注がれる場面はペンテコステの日には大抵開かれる場所ですから、皆さんもご存知と思いますが、いちおう使徒2章を開いて確認しておきましょう(新約聖書p.228)。使徒2章1節から7節までを交代で読みましょう。

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。

 7節のように聖霊が下ったのは皆ガリラヤ人たちに対してですから、ヨハネ2章のガリラヤのカナの婚礼は、このペンテコステの日の出来事が重ねられており、水のきよめでは不可能であった罪からのきよめがイエス・キリストの血によって行われました。それは、きょうの説教のタイトルにも掲げたように『悪の敗北と天の祝宴』でした。このカナの婚礼は、天の祝宴です。ルカの福音書15章の放蕩息子の帰郷では、放蕩息子が故郷に帰って来た時、父親は祝宴を始めました。罪人が救われることは、天にとっては盛大な祝宴を催すぐらいの喜ばしい出来事です。

おわりに
 このように、ヨハネの福音書は「降り積もる時間」の構造を持ち、私たちはその土台の上に立っています。その過去の土台の上に立って、上に進んで行くのが神と共に歩むということだと思います。きょうの聖書交読で読んだミカ書6章8節には、

ミカ6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

とあります。私たちにとって良いこととは、神と共に歩むことです。それは、こんな愚かな私たちのことをも愛して下さっているイエスさまの愛を次々と忘れて行くことではなく、イエスさまの愛の証しの上に立って、「降り積もる時間」の中で上に向かって進んで行くことです。
 「旧約の時代」から「イエスの時代」、「使徒の時代」を経て、現代の私たちに至るまで愚かな私たちを愛し続けて下さっているイエス・キリストの、この重厚な愛を私たちは是非、しっかりと理解できるようになりたいと思います。
 最後に、エペソ人への手紙3章をご一緒に読んで終わりたいと思います(新約聖書p.376)。エペソ3章17節から19節を交代で読みましょう。

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 お祈りいたしましょう。
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