肉となったことば(2014.11.30 礼拝)

2014-12-01 01:42:53 | 礼拝メッセージ
2014年11月30日礼拝メッセージ
『肉となったことば』
【ヨハネ1:14~15/ローマ8:3】

はじめに
 きょうはアドベントの第1礼拝です。これからクリスマスに向けて、心を整えて行きたいと思います。
 アドベントは、「到来」の意味のラテン語のadventusが語源だそうです。「冒険」の意味のadventureも、このadventusが語源だそうですから、このアドベントの期間は、冒険をする時のようにワクワク、ドキドキしながら主の御降誕を待ち望むのだ、ということを聞きます。或いはまた、「冒険」というのは私たちの冒険ではなく、神の側の冒険なのだという説明もインターネット上にはあります。神が人になるということは、神にとっては大いなる冒険なのだという説明があります。なるほど、それも有りかなと思わされます。神の側の冒険なのか、私たちの側の冒険なのか、私はその両方を考えても良いのではないかなと思います。神様はいつも私たちと共にいて下さいますから、神様と私たちとは一つです。神様と一つになっている私たちは、このアドベントの期間を神様と共にワクワクドキドキしながらクリスマスに向かって歩んで行けば良いのだろうと思います。

ことばは肉となって私たちの間で幕屋に住んだ
 さてアドベントの第1週の今日はヨハネの福音書の1章14節について、思いを巡らしてみたいと思いますが、その前に、冒頭の有名な1章1節を見ましょう。

 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この1章1節には、星印(*)が付いていて、下に注があります。注には、【「ことば」はキリストのこと。したがって、「初めに」はキリストの永遠的存在を意味する】、と書いてあります。ですから、この「ことば」とはキリストのことです。そして14節、

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。イエス・キリストは人として母のマリヤから生まれて、私たちの間に住んで下さいました。このことを私たちは毎年クリスマスにお祝いします。今日は「ことばが人となって私たちの間に住まわれた」ことの意味をもう少し深く思い巡らしてみたいと願っています。
 まず「ことばは人となって」の「人」の所にも星印(*)が付いていますから、下の注を見ると、【別訳(肉)】とあります。ギリシャ語を直訳するなら、実はここは「ことばは肉となって」という訳になります。そして、注にはありませんが、「住む」という単語には、新約聖書には全部で5回しか現れない、特殊な動詞が使われています。その動詞とは、「σκηνοω(スケーノオー)」という動詞で、週報のp.3にこの動詞が現れる聖書箇所と聖句を記しておきました。
 新約聖書で使われている一般的な意味での「住む」のギリシャ語は「κατοικεω(カトイケオー)」で、新約聖書には全部で44回現れます。例えば週報のp.3に示したようにマタイ4:13で使われています。これはイエスさまのことですが、

 マタイ4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた

とあります。イエスさまがカペナウムに住んだことを説明する、この箇所では一般的な「カトイケオー」が使われています。
 一方、特殊な「住む」の「スケーノオー」は新約聖書では5回しか使われていません。そのうちの1回がヨハネ1:14で、あとの4回はすべて黙示録で使われています。それらの4回を、すべて見てみましょう(週報p.3)。
 
・黙7:15「・・・御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる」
・黙12:12「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい」
・黙13:6「その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった」
・黙21:3「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」

 ここから何が読み取れるでしょうか。この「スケーノオー」という動詞は「σκηνη(スケーネー)」という名詞から来ているようです。名詞の「スケーネー」は「天幕」または「幕屋」のことです。この「スケーネー」、すなわち「幕屋」という言葉は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書では、イエスさまが変貌山でモーセとエリヤと話し合っている場面でペテロが言った言葉の中に現れます。
 この変貌山の出来事の記事はご一緒に見ておきましょう。同じ様な記述がマタイ・マルコ・ルカのいずれの共観福音書にもありますが、マタイを見ましょう。マタイの福音書17章1節から6節までを交代で読みましょう。

17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。

 ここでは、イエスさまが高い山の上で御姿が変わったので、この山は「変貌山」と言われたりしています。ここでペテロは4節にあるように、「幕屋を造ります」と言いました。この「幕屋」が、「スケーネー」という名詞で、いま私たちが問題にしているヨハネ1:14の「住む」という動詞の「スケーノオー」は、この名詞から来ています。
 このマタイの変貌山の記事と、週報p.3にある黙示録の4つの箇所を眺めるなら、この「住む」という動詞の「スケーノオー」は、高い所におられる非常に神聖なお方が「住む」という時に使われているように思います。一方、マタイ4:13のような一般的に使われている「住む」の「カトイケオー」の場合は、ナザレの大工の人間イエスが「住む」という感じですね。
 ですから、ヨハネ1:14は非常に神聖なお方が私たちの間に住まわれたと捉えるべきなのだろうと思います。1章1節には、「ことばは神であった」とありますから、神である「ことば」が私たちの間に住まわれました。そして神である「ことば」は、「人」となったというよりは、「肉」になったのでした。非常に神聖な神であるお方が「肉」になった。この落差を私たちはもっと感じるべきなのだろうと思います。

肉において罪を処罰されたキリスト
 では、神であるイエス・キリストは、何のために肉となって私たちの間に住まわれたのでしょうか。一言で言えば、私たちを救うためということなのでしょうが、私たちは色々なことに縛られていますから、今度はそれを、もう少し丁寧に見ることにしたいと思います。そのために、先ず、今日のもう一つの聖句のローマ8章3節を見ましょう。

8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 この8章3節の1つ目の文は、ローマ7章と8章1節2節からの流れがあるので、また次の機会に見ることにして、今日は2つめの文の方に注目したいと思います。3節の2つめの文には、

「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

とあります。ことばであり神であるイエス・キリストが、肉となって私たちの間に住まわれたのは、肉において私たちの罪を処罰するためなのですね。
 では、私たちの罪とはどのような罪なのでしょうか。罪をわかりやすくリストアップしてくれているのは、マルコ7章とガラテヤ5章ですが、ここではガラテヤ5章をご一緒に見ることにしましょう。ガラテヤ5章19節を見て下さい(新約聖書p.371)。

5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

 そしてパウロはさらに24節で、このように書いています。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

 先ほどローマ8:3で見たように、イエスさまが十字架について、肉において罪が処罰して下さったので、キリスト・イエスにつく私たちは今やガラテヤ5:19,20,21節にあるような罪からは自由になっているとパウロは教えてくれています。
 ガラテヤ5:19から21までにリストアップされている罪から私たちが離れるべきことは、とても大事なことですから、多くの教会で言われていることです。そして、もちろん沼津教会の私たちも、これらの肉の行いから離れることを大事にしなければなりません。しかし、この罪のリストには、いつも私が言っていることが抜けているということを、きょうは強調しておきたいと思います。

時間に縛られている罪
 このリストに抜けている罪とは、私たちが時間に縛られていて、時間から自由になることができていないということです。パウロはガラテヤ5:22,23で御霊の実について書いていますが、これらの御霊の実は、時間の束縛から自由になることと密接に関連しています。ガラテヤ5章22節と23節、

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 私たちが時間の束縛から自由になれていないなら、これらの御霊の実を持つことは難しいことです。逆に私たちが時間の束縛から自由になれているなら、私たちは、愛や喜びや平安を得ることができるでしょう。ですから、罪のリストに「時間に縛られること」も含まれるなら、罪のこと、そして聖霊の恵みのことが、もっと理解しやすくなるだろうと私は思います。
 私たちが時間に縛られている間は、生命の起源と信仰とを結び付けて考えることは、なかなか難しいことです。
 私たちが神の戒めを守らなければならないのは、神が私たちの命を造ったからです。もし私たちの命が偶然によって出来たなら、私は別に神の戒めを守る必要はないと思います。聖書を読んだことがない日本人と信仰について話をする時に、私がとてももどかしく思うのは、多くの人が生命の起源について、自分の考えを曖昧にしていることです。生命が誕生したのは、遥か昔のことですから、現在の自分に結び付けて考えることはないようです。生命は偶然に誕生したかもしれないし、絶対的な存在が誕生させたかもしれない、それがどちらであろうと今の自分とは関係ないと考えているようです。しかし、これは関係ないで済ますことができる話ではないのですね。それは聖書を信じるか信じないかに関わって来る、大きな問題です。もし神が生命を造ったのでなければ、神には生命を造り出す力が無いということですから、死んだ病人を生き返らせることもできませんし、十字架で死んだイエス・キリストをよみがえらせることも不可能です。
 私自身はヨハネの永遠観を身に付けているおかげで、今の自分と二千年前のイエス・キリストの復活と結び付けることはもちろん、もっと以前の遥か太古の生命の誕生とを結び付けて考えることができます。しかし、時間に縛られている人は、今の自分と二千年前のイエス・キリストの復活を結び付けて考えることは難しいですし、まして遥か太古の昔の生命の誕生と今の自分とは、ほとんど結び付かないようです。
 イエス・キリストが処女(おとめ)のマリヤから生まれたことについても、同様ですね。時間に縛られずに今の自分とキリストの復活と生命の誕生を一つに結び付けて考えることができる者にとっては、神が処女(おとめ)を身ごもらせたということを容易に信じることができますが、時間に縛られていて、生命の誕生の頃のことを遥か太古の昔のことと感じている者にとっては、処女(おとめ)が身ごもることなどは不可能であると考えることでしょう。
 ですから時間に縛られているか縛られていないかは、信仰の根幹に関わる、とても大事なことです。ですから私は、ガラテヤ5章の罪のリストには、「時間に縛られている」ことも含まれると良いと考えます。

1世紀に閉じ込められている愛弟子
 ここで、もう一度、ヨハネ1章に戻りたいと思います。1章15節をお読みします。

1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」

 ここでヨハネは、「私のあとから来る方は、・・・私より先におられた」と言っています。時間に縛られている者がこの言葉を聞いたなら、これは全く理解不能な言葉です。「私の後から来る方は、・・・私より先におられた」という言葉を理解できるのは、時間の縛りから開放された者だけです。そういう意味で、イエス・キリストがこの世に来て下さった目的の中には、私たちを時間の縛りから解放することも含まれることを、ヨハネはここで宣言していると言っても良いと思います。
 私たちが余りにも時間に縛られていることは、ヨハネの福音書の13章以降に登場する「愛弟子」のことからもわかります。最後に、ヨハネの福音書の最後の箇所の21章24節と、25節を見て、終わることにしたいと思います。21章の24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 今年の礼拝説教の中で何度か説明したと思いますが、この24章の弟子というのはイエスが愛した弟子、すなわち「愛弟子」のことで、その「愛弟子」とは、この福音書の読者である私たちのことです。しかし、これまでのところ、私たちはこの「愛弟子」のことを紀元1世紀の人物であると思い込んでしまっていました。つまり、読者である私たちが時間に縛られているために、私たちは「愛弟子」を紀元1世紀に閉じ込めてしまっています。私たちは、この「愛弟子」を紀元1世紀から現代の21世紀に救出しなければならないと思います。

おわりに
 「ことば」であり神であるイエス・キリストは時間を越えることができますが、肉である私たちは時間を越えることはできません。それゆえ時間に縛られています。しかし、イエス・キリストは肉となって私たちの間に住んで下さり、十字架に掛かって肉にある私たちの罪を処罰して下さいました。時間に縛られていることは罪ですが、イエス・キリストはこの罪を処罰して下さったのですから、私たちは御霊に満たされて時間の縛りから解放されなければなりません。
 そうすることで私たちは御霊の実を得て互いに愛し合うことができるようになり、平和をつくることができるようになります。
 そのためにイエス・キリストが肉となって私たちの間に住まわれたことを思いつつ、アドベントを歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-12-01 09:48:35
ありがとうございます。
久々に訪問させて頂きました。

今の自分に必要なことを知ることができました。時間に縛られている感覚から解放されたいです。

私の息子は3才ですが、最近あべこべな事を言うのが楽しいようです。
『ママ3才、パパ3才、ボク30才、マキちゃん(妹)30才』とか
『あしたねー、買い物行ったの』とか
変なことを言います。
間違っていて、可笑しくて、変ですが、ある意味面白い感覚だとも思います。

そんな世界に、何だかわくわくします。

神の国は… (牧師)
2014-12-02 06:27:14
 コメントをありがとうございます。
 子どもの発想は自由でいいですね。
 私たちは成長するに連れて様々な「常識」を身に付けていきますが、逆にそれらに縛られて身動きができなくなっていきます。時間に縛られることは、その典型のように思います。
 イエスさまが幼子たちを呼び寄せて、こう言われたことを覚えたいと思います。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。…神の国は、このような者たちのものです。…子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(ルカ18:16~17)

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