インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

積み重なる証言(2014.8.24 礼拝)

2014-08-25 08:27:08 | 礼拝メッセージ
2014年8月24日礼拝メッセージ
『積み重なる証言』
【ヨハネ1:19~23/21:24~25】

はじめに
 ここしばらく、礼拝説教では「降り積もる時間」という観点からヨハネの福音書を見ることをしています。私は多くの方々に「ヨハネの福音書の永遠観」を理解していただきたいと願っています。そのための先導役として「降り積もる時間」の考え方は大変に優れているという感触を得ていますから、今後さらに深めて行きたいと願っています。皆さんにもお付き合いいただくことになりますが、この手法を発展させて行くことは教会の成長にも必ずや通じると私は信じていますから、どうか忍耐強くお付き合い願えたらと思っています。
 きょう取り上げるヨハネの福音書の箇所は、きょうの午後に行う予定の「会堂問題勉強会」のことをも意識しています。何週間か前から「降り積もる時間」について語り始めてから礼拝説教では会堂問題から離れてしまったと感じておられる方がいるかもしれませんが、私としては、そんなつもりはありません。きょうの午後の「会堂問題勉強会」を前にして、そのことを確認しておきたいと思います。「そのこと」というのは、「ヨハネの福音書の永遠観」を「降り積もる時間」の観点から学ぶことは、会堂問題とも密接に関連している、ということです。

愛弟子としての私たちの証し
 2ヶ月以上前に遡りますが、6月15日の礼拝でヨハネの福音書21章の最後の部分を聖書箇所にして、『会堂に入りきれない愛弟子の証』というタイトルの説教をしました。きょうもヨハネの福音書21章の最後の部分を聖書箇所にしていますから、そこを見ていただきながら、先ずは6月15日の説教のおさらいをしたいと思います。21章の24節をお読みします。

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。

 これらのことについて証しした者とはイエスが愛された弟子、すなわち愛弟子であり、イエスの愛弟子とは実は私たちのことであると、6月15日の礼拝説教で私は説明しました。この時はヨハネの福音書の多重の時間構造に関しては触れませんでした。話がややこしくなるといけないと思ったからです。その代わりにヨハネの手紙第一を引用しました。この時に引用したヨハネの手紙第一の有名な箇所をお読みします。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 今お読みしたように、神がこれほどまでに私たちを愛してくださっているのですから、イエスが愛された弟子、すなわち愛弟子とは私たちのことであることは間違いありません。そしてヨハネ21章25節、

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 6/15の礼拝説教で私は、イエス・キリストがこの今沢の地で行われたことも、たくさんあると話しました。もしそれらをいちいち書き記すなら、この会堂も、書かれた書物を入れることができないほどです。それほど多くのことをイエス・キリストはこの今沢の地でして下さいました。しかし、もし私たちに次の会堂を建てる力が無いのであれば、それらのことの証しは全く立ちません。次の会堂を建てる力が私たちに無いようであればイエスさまが今沢の地でして下さったことが何も残らないことになってしまいます。それではイエスさまに対してあまりに申し訳ないですし、この教会の信仰の先輩方や歴代の先生方に対しても本当に申し訳なく思います。ですから私たちは是非とも次の会堂を建てたいと願っています。
 次の会堂を建てる力の「力」とは、私たちの「資金力」とは限りません。祈りの力でもあり、伝道の力でもあります。祈りと伝道の力によって礼拝に集う方々がもっと増えて行くのであれば、それは本当に大きな力となります。
 私はいつも皆さんにしつこくインターネット伝道へのご協力を呼び掛けていますが、それは、私がインターネット伝道が教会の力を付けるための強力な手段として大いに期待しているからです。是非、皆さんにも協力していただきたいと思います。教会のブログの「教会員の証し」を増やすことにも協力いただきたいですし、ご自身でブログやツイッターやフェイスブックなどを始めて、たまにこの教会のことを、つぶやいていただけたらと思います。また、いまCGNTVで8月13日に放映された私のこのヨハネ21章24節と25節からの10分間のメッセージも動画で見ることができますから(週報p.4)、このことについても、つぶやいていただけたらと思います。
http://japan.cgntv.net/newsub.asp?trans=&hiddentitle=&ifrwidth=550&inurl=&pid=2426&gotopage=2&mview=&pagediv=&line_num=5

証しで始まり証しで終わるヨハネの福音書
 さて、24節に戻って、二つめの文に「そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」とあります。この「彼のあかし」の「彼」とはイエスの愛弟子のことであり、それは2000年前の愛弟子だけではなく、私たちのことでもあるということを、6/15の説教でお話ししたわけですが、実は2000年前の「イエスの時代」以降の愛弟子たちだけではなく、アブラハムの時代からの「旧約の時代」の愛弟子たちも含まれるのだということを、きょうはお話ししたいと思います。「降り積もる時間」の観点から「ヨハネの福音書の永遠観」を見るなら、信仰の時間が降り積もっているのは「イエスの時代」からではなく、アブラハムの時代から既に始まっています(アブラハムより前のノアやエノクやアベルに遡っても良いのかもしれませんが、ヨハネの福音書はノアやエノクやアベルには触れていません)。
 イエス・キリストは天地創造以前の初めからいましたから、アブラハムの時代にももちろんいました。このことは、イエス・キリストご自身もユダヤ人たちに対してはっきりと告げています。ヨハネ8章58節をご覧下さい(新約聖書p.195)。

8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 このように、イエス・キリストは自分はアブラハムが生まれる前からいることを、ご自身の口で語っています。しかしユダヤ人たちは、これを信じないで、イエスに石を投げつけようとしました。ですから私たちは、「旧約の時代」からの「降り積もる時間」の中ではイエスの愛弟子もいたし、イエスに石を投げつけるような者たちもいたということを覚えておきたいと思います。
 では、イエス・キリストはアブラハムが生まれる前からいたのだということを押さえた上で、きょうのもう一つの聖書箇所のヨハネ1章19節以降を見たいと思います。まず、1章19節、

1:19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。

 ここに「ヨハネの証言は、こうである」とあります。ここでは「証言」という言葉が使われていますが、実はこれは先ほどまで見ていた、21章24節の「彼のあかしが真実である」の「あかし」と全く同じ単語がギリシャ語では使われています。1章19節の「証言」も21章24節の「あかし」も、どちらもギリシャ語ではマルトゥリア(μαρτυρια)です。それはつまり、ヨハネの福音書は19節の「ヨハネの証言は、こうである」で始まり、21章24節の「私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」で締めくくられるという構造になっていると私は解釈しています。1章19節より前の18節まではプロローグですから、ヨハネの福音書の本編は1章19節から始まります。ですから、(繰り返しになりますが)、ヨハネの福音書は19節の「ヨハネの証言は、こうである」で始まり、21章24節の「私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」で締めくくられるという構造になっています。そして、このヨハネというのは、一人だけではなくて、アブラハムであり、バプテスマのヨハネであり、使徒ヨハネであり、そして恐らくは愛弟子である私たち読者を含めても良いのだと思います。
 ヨハネの福音書の一般的な読まれ方としては1章19節のヨハネとは、バプテスマのヨハネのことであると思われていますが、実はバプテスマのヨハネだけではありません。ヨハネの福音書は「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代を重ねていますから、「イエスの時代」のヨハネだけではなく、「旧約の時代」と「使徒の時代」のヨハネもいます。

「旧約の時代」のヨハネはアブラハム
 ではまず、1章に登場するヨハネとは「旧約の時代」にあってはアブラハムのことであることを説明します。先週、ヨハネ2章の「旧約の時代」は出エジプト記の時代であることを話しました。ですから出エジプト記より前のヨハネ1章は必然的に創世記の時代であることになります。そうして随分と前の説教においてですが、ヨハネ1章の後半に現れるナタナエルとは、アブラハムの孫のヤコブのことであるということを話したことがあります。そのようにして時代を狭めて行くなら、ヨハネ1章でヨハネが登場する場面は「旧約の時代」にあっては「アブラハムの時代」以外にはあり得ないということになります。
 23節で彼は言いました。

「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」

 「主の道をまっすぐに」するとは、彼の後に続く者たちが、主と出会いやすくなるように、信仰の道を整えるということです。ですから、そのように信仰の道を整えた者とは、「旧約の時代」にあっては、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムのことであり、「イエスの時代」にあってはバプテスマのヨハネのことであり、「使徒の時代」にあっては使徒ヨハネのことです。
 もう少し「アブラハムの時代」のことの説明を続けると、28節に、

1:28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。

と書いてありますから、ヨハネはヨルダン川の向こう岸にいました。向こう岸というのはエルサレムから見て向こう岸ですから、ヨルダン川の東側にヨハネはいました。それはつまり、「アブラハムの時代」にあっては、この時のアブラハムはまだ父のテラと共にヨルダンの東側のウル、もしくはハランの地にいたということです。そして、29節に、

1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

とありますから、イエスのほうからヨハネに近づいて行きました。それは、つまり神がアブラハムに近づいて行ったということです。ですから、このヨハネ1章29節は、神がアブラハムに対してハランの地を出てカナンの地に行くように声を掛けたこと(創世記12章)と重ねてあると考えることができます。

ステレオ写真の例え
 このように、ヨハネ1章に登場するヨハネとは、「旧約の時代」のアブラハムと、「イエスの時代」のバプテスマのヨハネと、「使徒の時代」の使徒ヨハネのことです。ここには三つの時代があって、それぞれの時代に異なるヨハネがいます(その後の時代の愛弟子の時代も加わりますが、ここではそれは考えないことにします)。ところが、これまでのヨハネの福音書の一般的な読まれ方ですと、ここに登場するヨハネとは、「イエスの時代」のバプテスマのヨハネのただ一人ということになってしまっています。本当は、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代があるのに、「イエスの時代」という一つの時代しか見えていないわけです。
 三つの時代があるのに一つの時代しか見えていないことを他のことに例えるなら、それは立体的な空間を片方の目だけで見ているのと同じであると言えそうです。私たちは右目と左目の両方の目で同時に見ることによって初めて空間を立体的に認識することができます。写真も同様です。一枚の写真だけでは私たちは立体的な情報を得ることはできません。週報のp.3に載せた三つの椅子の写真も、右か左のどちらか一方の写真だけでは、三つの椅子の並び方を立体的に見ることはできません。



 しかし、この写真は2枚組みのペアになっていますから、左の写真を右目で、右の写真を左目で別々に見てやると立体的に見えて(交差法)、真ん中の椅子が一番奥にあり、右側の椅子が一番手前にあることを確認することができます。このようなステレオ写真は、ステレオ・スコープという装置を使えば、もっと簡単に見ることができますが、慣れればステレオ・スコープが無くても見られるようになります(交差法と平行法とがありますが、私は交差法の方が良く見えますので、週報の写真は交差法で置かせてもらいました)。
 ヨハネの福音書が一見すると「イエスの時代」のことしか書いてないように見えるのも、この椅子の写真に例えることができます。それぞれの椅子は奥にあったり手前にあったり立体的に並んでいるのに、片方の写真を見ているだけでは横一列に並んでいるように見えます。ヨハネの福音書にも奥行きがあって一番奥に「旧約の時代」、一番手前に「使徒の時代」があるのに、すべて横一列の「イエスの時代」のように見えています。

「理性の目」と「霊性の目」の両方の目で見る
 では、ヨハネの福音書はどうすれば立体的に見えるようになるでしょうか。それは、「理性の目」と「霊性の目」(或いは「魂の目」)の両方の目で見ることでしょう。「理性の目」という片方の目だけでしか見ないと「イエスの時代」しか見えないことになります。或いはまた、「霊性の目」だけで見るとヨハネの福音書からの豊かな神の恵みを感じることができるのですが、それがどうしてなのかは良くわからないということになります。ヨハネの福音書は昔から読むと恵まれる霊的な書であると言われて来ました。それは「霊性の目」で霊的な恵みを感じることができていたわけです。しかし理性の目を併せて両目で見ることができていなかったので時代の立体的な並びに気付くことができなかったのだと思います。ヨハネの福音書は「理性の目」と「霊性の目」の両方で同時に見ることで初めて「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が立体的に見えるようになると言えるでしょう。私たちはヨハネの福音書から立体的な時代の並びをしっかりと見ることができるようになりたいと思います。
 さて次に、私たち読者は、この書の中にどのように含まれているのかを確認しておきたいと思います。以前にも話したことがありますが、私たち読者は1章35節でヨハネによってイエスのもとに導かれた者です。35節に、ヨハネが二人の弟子とともに立っていたことが書かれていますが、二人の弟子のうちの一人が私たちです。こうして私たちはヨハネに導かれてイエスと出会い、イエス・キリストに、

「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)
「来なさい。そうすればわかります」(ヨハネ1:39)

と声を掛けていただくことができました。このようにして私たちをイエスさまのもとに導いてくれたヨハネとは、ヨハネの福音書を書いたヨハネであり、或いはまた、私たちを教会に導いてくれた人でもあります。そうしてイエス・キリストのもとに導かれた私たちはイエスとの旅を開始し、旅を続けて行くことで、やがて愛弟子に成長して、証しを残します。ですから、1章19節の「ヨハネの証言はこうである」のヨハネとは、愛弟子に成長した読者の私たちと考えても良いのだと思います。そうして私たちもまた新しい方々を教会に導いて来て、イエス・キリストに引き合わせます。その方々もまたイエス・キリストとの旅を開始し、やがて愛弟子に成長して証しを残し、さらに新たな方々を教会に連れて来るということを繰り返します。これがヨハネの福音書の「降り積もる時間」の構造です。

おわりに
 では最後にもう一度、ヨハネ21章の24節、25節に戻りたいと思います。21章24節、

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。

 きょうはヨハネ1章のアブラハムの時代から学びましたし、ステレオ写真の例えも話しましたから、この愛弟子が一人だけではなく、時代の積み重ねの中で無数にいるのだということを、より分かっていただけたのではないかと思います。そして25節、

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 この証しを書き記す者の中には私たちも含まれています。証しとは書いたり話したりするものであることはもちろんですが、それだけではなく、会堂を建て替えて行くこともまた証しです。イエス・キリストは私たちに会堂を建て替える力を与えて下さっている筈です。 その力とは資金力も当然含まれますが、より大きいのは、むしろ祈りの力であり、伝道の力です。
 私たちは御霊の一致を保ちながら、これらの力を発揮してい行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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