平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

十字架から二千年の記念の年に向けて(2017.7.12 祈り会)

2017-07-13 09:08:16 | 祈り会メッセージ
2017年7月12日祈り会説教
『十字架から二千年の記念の年に向けて』
【ヨハネ5:1~9】

はじめに
 きょうの説教のタイトルは、『十字架から二千年の記念の年に向けて』です。まず、何故このタイトルの話をすることを示されたかについて話します(「みじめな失敗」シリーズはお休みにします)。
 今週からeラーニングの新しい講座が始まりました。講師は藤本満先生、タイトルは「共に読み学ぶ宗教改革500年」で、宗教改革の歴史を学ぶことになっています。それで今週は500年前の出来事について学んでいます。ルターの改革によって聖書信仰という私たちの信仰の礎ができました。ということは、私たちは500年前のことを祝うことも大事だけれども、聖書が記している2千年前のことを祝うこともまた大事であろうと思います。
 それゆえイエス・キリストの十字架から2000年の記念の年は盛大に祝われるべきでしょう。そして、この年に向けて平和のために行動するなら、良い目標になるだろうと思いました。例えば、つい最近の7月7日に国連で核兵器禁止条約が採択されました。残念ながらアメリカ・ロシアなどの核保有国や日本などは参加しませんでしたが、これは核兵器禁止に向けての重要な一歩です。それで私は、核兵器全廃の目標を「十字架から2000年の年」に設定したら良いのではないかと考えました。

十字架の年は紀元33年であることを示唆するヨハネ
 ただし問題があります。それは十字架の出来事が紀元何年にあったのかが、はっきりしていない点です。過越の祭が金曜日にあったという暦の上では紀元30年または33年であり、そのどちらかであろうとされていますが、決着がついているわけではありません。
 そういう中で、『ヨハネの福音書』は、イエス・キリストの十字架の年について有力なヒントを与えてくれている書です。話がやや専門的になるので、先月出版した私の本の中では詳しくは取り上げていませんが、『ヨハネの福音書』5章は、イエス・キリストの十字架が紀元33年であることを示唆しています。これから私は、このことをもっと積極的に発信して行くべきと示されています。本が発売されてから、約1ヶ月が経ちますが、まだそれほど注目されていません。私は、多くの人々が『ヨハネの福音書』を一から学び直すことで、世界は必ず平和な方向に向かって行くと信じていますから、多くの方々に本に書いた『ヨハネの福音書』のことを知っていただきたいと願っています。ちょうど今の時期は8月6日の広島の原爆の日、8月9日の長崎の原爆の日に向かっていますから、本のことを広く知っていただく良い機会だと思っています。
 それでこれから、『ヨハネの福音書』の5章がイエス・キリストの十字架の年が紀元33年であることを示唆していること、それゆえ私たちは2033年を目標に核兵器の廃絶を目指しましょうと発信しようと考えています。

ヨハネ1章~5章の流れ
 さて、それではヨハネ5章の1節から9節までを交代で読みましょう。

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

 『ヨハネの福音書』は「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」の二つの時代が重なる三層の重層構造を持ちますが、きょうは「使徒の時代」について話します。
 これまで説明して来たように、ヨハネ1章には、イエスさまが復活してから天に上るまでの40日間のことが重ねられています。そしてヨハネ2章にはペンテコステの日のことが重ねられています。
 ヨハネ2章11節の、

2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

は、ペンテコステの日にガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれた出来事と重ねられています。11節の「弟子たちはイエスを信じた」は、「弟子たちは聖霊を受けた」と読み替えることができます。そして2章23節には

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

とあって、エルサレムのユダヤ人たちがイエスを信じたことが書かれていますから、ここにはペンテコステの日にユダヤ人たちに聖霊が注がれたことが重ねられています。
 そしてヨハネ4章39節には、

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

とありますから、ここにはサマリヤ人たちが聖霊を受けたこと(使徒8章)が重ねられています。さらに4章53節には、

4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。

とあって、王室の役人とその家族たちがイエスを信じたと書かれていますから、これは異邦人のコルネリオとその家族・知人たちが聖霊を受けたこと(使徒10章)と重ねられています。

エルサレム会議と神殿の焼失
 そうして、きょうの箇所のヨハネ5章1~9節に至ります。その前に、5章28節と29節とを見ていただくと、

5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

とあって、ここには終末の出来事のことが書かれています。ですからヨハネ5章1節から9節には、異邦人への聖霊の注ぎより後で、且つ終末よりも前のことが重ねられています。
 結論から先に言うと、ここにはエルサレム会議のことと、紀元70年にローマ軍の攻撃によってエルサレムが滅亡して神殿が焼失したこととが重ねられています。モーセの律法を厳格に守るユダヤ人たちの中には、異邦人もまたモーセの律法を守らなければ、たとえイエス・キリストを信じても救われないと考える人々がいました。このことを議論したのがエルサレム会議です。しかし、ペンテコステの日以降は状況が異なることはイエスさまご自身が言っていることです。ヨハネ4章21節から24節までを交代で読みましょう。

 4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 聖霊が注がれるようになってから、礼拝は霊とまことによって捧げることが重要になり、場所はそれほど重要ではなくなりました。モーセの律法には神殿での礼拝のことが書かれていますが、ペンテコステの日以降は、神殿礼拝という形式は特には重要ではなくなりました。重要なのは霊とまことによって礼拝を捧げることです。しかし、神殿が存在していた間は、やはり多くの人は神殿礼拝の形式にとらわれていたことと思います。それが紀元70年にローマ軍の攻撃によって神殿が炎上・焼失したことで、この形式にとらわれることはなくなりました。

38年間形式にとらわれていた病人とユダヤ人たち
 ヨハネ5章1節から9節に戻ると、この病人は池に入らなければ病気が治らないと思い込んでいました。せっかくイエスさまが「よくなりたいか」(6節)と言って下さっているのに、この病人は「よくなりたいです」とは答えずに「主よ。私には・・・池の中に私を入れてくれる人がいません」(7節)などと言っています。そんな病人をイエスさまは癒してあげました。
 そうしてこの病人は38年間の病気から解き放たれました。この病人は、38年間、「池に入る」という形式にとらわれていました。そして律法を重んじるユダヤ人たちもまた神殿礼拝という形式にとらわれていました。ですから、この38年間は、ペンテコステの日から紀元70年のエルサレムの神殿の焼失までの期間であると私は考えます。するとイエス・キリストの十字架の年は紀元33年であるということになります。
 私たちの一番の願いはイエス・キリストの福音が広く伝わり、そして多くの方々が救いの恵みに与り、それによって世界が平和に向かっていくことだと思います。十字架の年が紀元30年でも33年でも、どちらでも良いようにも思います。しかし、核兵器の廃絶の実現の目標を2033年として、それは十字架の年から2000年の記念の年だからであるとして、その根拠は『ヨハネの福音書』に示されているということを発信すれば、『ヨハネの福音書』のことを知っていただく良いきっかけになるかもしれないと思っています。
 このようなことを示されていますから、共に分かち合えたらと思います。お祈りいたしましょう。

5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
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