インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

新年の天の虹からのメッセージ(2019.1.6 新年聖餐式礼拝)

2019-01-07 08:46:45 | 礼拝メッセージ
2019年1月6日新年聖餐式礼拝メッセージ
『新年の天の虹からのメッセージ』
【ヨハネ15:1~5】

はじめに
 きょうはまず、1月2日の夕刻にあったことから話を始めたいと思います。
 私は夕方はなるべく海岸の防潮堤の上か下をゆっくり走るようにしています。ただし天気が悪い日は走りません。1月2日の夕刻は、あられ混じりの小雨が降っていて天気はあまり良くありませんでした。ですから走るかどうか迷いましたが、年末年始に食べ過ぎていたので運動をしておきたかったことと、西の空は良く晴れていたので雨が強くなることはないだろうと判断して走り始めました。この日は風はそれほどありませんでしたが、小雨という気象条件でしたから、防潮堤の上ではなくて、向こう側の下側を走りました。防潮堤の下は上よりも風が弱く、所々で松林の下を通ります。松林の下では雨をしのぐことができます。ですから風や雨の時は私は防潮堤の向こう側の下を走ります。ちなみに私は防潮堤のこちら側の松林の中は走りません。こちら側の道からは海も富士山も見えないからです。

沼津の天空に現れた大きな虹

 この日もいつものように、まず西に向かって走り、大きくて目立つマンションのベルメゾン原の辺りで引き返して来ました。ここからベルメゾン原まで約2.5kmです。ですから私が走る距離はいつも往復5km程度です。以前は、もう少し長く走っていたこともありましたが、疲れるのでやめました。5km程度が私にはちょうど良いようです。
 さて、この日、ベルメゾン原で引き返して途中の松林を抜けた所で、北東の空に虹が架かっているのが見えました。東に向かって走っていましたから、西南方向からの西日を受けて虹が架かっているのが見えたのです。それで、私は防潮堤の上に上がることにしました。防潮堤の下では、虹の下の方が見えなかったからです。この時はまだ、虹は半円にはなっておらず、半円の1/3程度でした。しかし、しばらくすると半円状になりました。やはり半円になるかならないかでは、美しさがぜんぜん違うと思いました。そして、この日何よりも素晴らしかったのは、防潮堤の上から見たことで、南西に沈む夕陽と北東に架かる虹の両方を楽しむことができたことです。防潮堤のこちら側にいたら、建物に隠されて虹の一部しか見ることができなかったでしょうし、夕陽は松林と防潮堤に隠されていたでしょう。防潮堤の上にいたことで、虹の全体と夕陽の両方を楽しむことができました。
 ただし少し残念だったのは、カメラを持っていなかったことです。私は走る時には携帯電話は持って出ません。走る時にポケットの中で上下に動くと走りにくいからです。それで、教会に急いで携帯を取りに帰ることも考えましたが、防潮堤に戻る前に虹が消えてしまうかもしれませんから、取りに帰るのはやめて自分の目に虹を焼き付けることに専念することに決めました。私の役割は、この素晴らしい光景を写真で人々に示すことではなくて、ことばで伝えることだと思ったからです。
 とは言え、ことばはそう簡単には出て来ませんでした。聖書で虹が出て来る記事ではノアの洪水の後の場面が有名ですが、3.11の津波被害のこともありますし、最近でもインドネシアで津波の大きな被害があったばかりですから、メッセージとしては誤解を招く恐れがあって、あまりふさわしくないと思いました。それで2日の晩から3日、4日と思い巡らし、昨日の5日の朝からようやく今日のメッセージとしてお伝えできることはが示されたように感じています。それは、きょうの週報にも書きましたが、

 「虹は父・子・聖霊の三位一体の神が太陽のプロジェクターを使って天の水滴のスクリーンに投影した、壮大な聖書のメッセージ」

ではないかということです。

太陽のプロジェクターで投射された天からのメッセージ
 虹は、太陽の光が水滴の中で反射した光が見えているものです。太陽の光は色々な色の光が重なり合っています。そうして水滴がプリズムとして働きますから、太陽の光は水滴の中に入った時に屈折して様々な色に分かれます。そして、出て来る時も屈折しますから、幅が広がって大きな幅を持った帯状の虹が現れます。
 さて虹の色は七色に例えられることが多いですが、実は色の数は無限にあります。そして聖書のことばも光を放っています。詩篇119篇の詩人は、「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」(詩篇119:105)と詩っています。その光の色もまた、無限にあると言えるのではないでしょうか。まず聖書の光は最低でも66の色があります。聖書には66の書があるからです。そして、一つ一つの書からも様々な色の光が出ています。例えば、詩篇は一つの書としてカウントしますが、詩篇の一つの書だけでも150もの詩が収められています。また、一つの詩でも例えば詩篇119篇には176もの節があります。そうすると、やはり聖書のことばの光の色は無限であると言えるでしょう。
 そして、この聖書の光の無限の色は、父・子・聖霊の三位一体の神が作り出しています。プロジェクターの光の色は、赤・緑・青の光の三原色が作り出していて、赤・緑・青のそれぞれの色が多いか少ないかで様々な色が作り出されていると思います。聖書の光も父・子・聖霊が様々に重なり合って多様な色の光が出ていると言えるのではないでしょうか。例えば旧約聖書では父の光の成分が多く、福音書は子の成分が多く、使徒の働きやパウロの手紙は聖霊の成分が多いといった具合です。
 そして感嘆すべきは天の虹のプロジェクターとスクリーンとの距離です。太陽がプロジェクターですから地球上の水滴のスクリーンまで、その距離の大きさに感動します。三位一体の神様は宇宙という大きな空間を使って私たちに大きなメッセージを送って下さっていると受け留めたいと思います。もちろん宇宙全体の大きさから言えば、太陽と地球の距離など取るに足りない短い距離でしかありません。しかし太陽系を超える銀河や、それらすべてを含む大宇宙の大きさは想像を絶しますから、とりあえずは太陽と地球との距離を想像するだけでも良いのではないかと思います。と言うのは、普段の私たちは神様のメッセージをとても狭い範囲でしか捉えておらず、大きくてもせいぜい地球レベルでしか捉えていないだろうと思います。ですから太陽系レベルの大きさでも、なかなか考えることができていないと思います。

スケールの大きなキリスト教
 元旦礼拝でお伝えした今年の教会のメッセージは、こういう大きなスケールで捉えていただけると感謝だなと思います。今年の私たちの教会の聖句は、ローマ人への手紙12章10節の、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」です。今年私たちは他教会と一緒になりますから、私たちはその教会の兄弟姉妹方と兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合わなければなりません。そういうわけで、この聖句が示され、今年の教会の聖句としました。しかし、キリスト教とはこのように真面目できよい生活を尊ぶ宗教だと世間からは思われているふしがあり、中にはクリスチャンでも、そのように思っている人がいることに、私は常日頃から若干の危惧を抱いています。
 私たちがきよい生活を目指すのは、乱れた生活では霊性が整わずに、その結果、神様との豊かな交わりができなくなるからです。マタイの福音書5章8節でイエスさまはおっしゃいました(週報p.3)。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」。心をきよく保つなら霊性が整えられて神を見ることができます。すなわち三位一体の神様との豊かな交わりの中に入れていただくことができます。イエスさまを信じないで聖霊を受けていない人々は、このことの豊かな恵みを知りませんから、クリスチャンのきよい生活の表面だけを見て、キリスト教とは真面目できよい生活を尊ぶ宗教だと思っていると思います。それゆえキリスト教が矮小化されてしまって、三位一体の神様が宇宙スケールの壮大なお方であることが伝わっていないことを私自身はとても残念に思っています。キリスト教はそんな小さな宗教ではありません。
 きょうの聖書交読でエペソ人への手紙3章をご一緒に読んだのは、それゆえでもあります。このエペソ人への手紙からはキリスト教がいかにスケールの大きな宗教であるかが分かると思います。もう一度、エペソ3章の14節から21節までを交代で読みましょう。

3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 私たちは18節と19節にあるように、人知をはるかに越えたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかをしっかりと理解できる力を持ちたいと思います。決して小さなものに矮小化してはならないと思います。

スケールの大きなイエスにとどまる
 ローマ12章10節でパウロは「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」と書いていますが、「互いに愛し合いなさい」はもともとはイエスさまがおっしゃっていたことです。元旦礼拝でも共に読みましたが、ヨハネ13章の34節をご一緒に読みましょう。

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 このように言われたイエスさまは大きなお方であることを覚えていたいと思います。そしてイエスさまは15章12節でも、互いに愛し合うようにおっしゃっています。ご一緒に読みましょう。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 そして、もう一ヵ節、15章17節も、ご一緒に読みましょう。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

 イエスさまは15章でこのようにおっしゃる前に、きょうの聖書箇所の1節から5節までのことをおっしゃいました。15章の1節から5節までを交代で読みます。

15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 イエスさまは4節で、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいました。このように「互いに愛し合いなさい」と言い、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃったイエスさまはパウロがエペソ人への手紙3章で書いたように、人知をはるかに越えた大きさの愛を持つお方であることを、しっかりと覚えておきたいと思います。一度信仰を持っても教会から離れて行く方々もいますが、その方々はイエス・キリストが人知をはるかに越えた愛を持つお方だということを実感できていなかった方々ではないかなあという気がします。実感していれば、イエスさまからの巨大な引力を感じて離れることはないのではないかとも思います。
 人知をはるかに越える愛を持つイエス・キリストが「わたしにとどまりなさい」とおっしゃるのですから、私たちはイエスさまにとどまっていたいと思います。他教会と一緒になると、この会堂での礼拝がなくなりますから、これまでと違って来ます。なかなか礼拝に出席できなくなる、ということもあるかもしれません。しかし、イエスさまは「わたしにとどまりなさい」とおっしゃっています。ですから私たちはイエスさまにとどまりたいと思います。

おわりに
 これから聖餐式を執り行います。聖餐式はイエスさまとの食事の場です。イエスさまと共に食事ができることは、イエスさまにとどまっている者の特権です。イエスさまは最後の晩餐の場で「わたしにとどまりなさい」とおっしゃり、そうして十字架へと向かっていきました。このイエスさまの人知をはるかに越えた大きな愛に思いを巡らし、聖餐式に臨みたいと思います。
 お祈りいたします。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
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