インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

ヨハネの福音書の魅力:1書で2度おいしい(2018.12.30 年末感謝礼拝)

2018-12-31 08:21:55 | 礼拝メッセージ
2018年12月30日年末感謝礼拝メッセージ
『ヨハネの福音書の魅力:1書で2度おいしい』
【ヨハネ1:35~40】

はじめに
 きょうは今年最後の礼拝です。今の日本では「平成最後の」という枕詞(まくらことば)で溢れています。平成最後のクリスマス、平成最後の大掃除、平成最後の仕事納め、平成最後の大晦日、平成最後の紅白歌合戦など、とにかく何でもかんでも「平成最後」ということになります。
 それは私たちの教会も同じですね。私たちの教会は来年の春に他教会と合併する予定ですから、あらゆる行事が「最後の何とか」ということになります。1回1回の礼拝を私たちは大切に守って行きたいと思います。

一書で2度おいしい福音書
 さて12月の礼拝メッセージは4回のシリーズで、これまでに『マルコの福音書の魅力』、『マタイの福音書の魅力』、『ルカの福音書の魅力』というタイトルで話をして来ました。そして今日のタイトルは『ヨハネの福音書の魅力』です。このタイトルには「1書で2度おいしい」というサブタイトルも加えました。この「1書で2度おいしい」とは、どういうことか。きょうのメッセージでは、あまりもったいぶらずに最初のほうで解き明かすことにします。というのは、『ヨハネの福音書』は「1書で2度おいしい」ということを思い巡らしていたら、これはヨハネに限らず、『マタイの福音書』も『マルコの福音書』も『ルカの福音書』も皆、「1書で2度おいしい」ということに気付いたからです。ですから、ヨハネの「1書で2度おいしい」を簡単に説明した後で、マタイ・マルコ・ルカについても振り返ることにして、最後にもう一度ヨハネに戻る、きょうのメッセージはそういう組立になっています。
 私が子供の頃、テレビのコマーシャルでアーモンドグリコの「1粒で2度おいしい」というキャッチコピーが盛んに流れていました。最近は聞くことがなくなりましたから、もうアーモンドグリコは売っていないのかなと思っていたら、今でもちゃんと売っているのですね。ネットで検索したら出て来ました。「1粒で2度おいしい」というキャッチコピーも健在でした。アーモンドグリコの「1粒で2度おいしい」は、キャラメルの中にアーモンドの粒が入っていて、口に入れるとまずキャラメルの味を楽しむことができ、次にアーモンドの香ばしさも楽しむことができるというものです。これが「1粒で2度おいしい」ということです。

1度目と2度目以降で異なる読み方
 では『ヨハネの福音書』の「1書で2度おいしい」とは、どういうことかを早速説明したいと思います。きょうの聖書箇所をもう一度、今度は交代で読みたいと思います。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 この箇所は礼拝でも、もう何度も取り上げましたから、私たちがここを読むのは1度目ではありませんが、もし1度目だとしたら、ここに書いてある通りに素直に読むべきです。しかし2度目以降に読む時には違う味わい方ができますでしょう。それが「1書で2度おいしい」ということです。
 1度目にこの『ヨハネの福音書』を読んで20章の最後まで来ると、次のように書いてあります。

20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 この『ヨハネの福音書』を読んで「イエスは神の子キリストである」と信じるなら、その人は聖霊を受けて永遠の命を得ることができます。そうして聖霊を受けた者は御父と御子との交わりの中に入れられます。

聖霊を受けると御父と御子との交わりの中に入れられる読者
 次にヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.478)。ここも礼拝では良く開く箇所ですが、この手紙は『ヨハネの福音書』の記者のヨハネと同じヨハネが書いたものです。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 ヨハネは福音書を書くことで私たち読者にイエスさまのことを伝えてくれました。そうして私たち読者が「イエスは神の子キリストである」と信じるなら、私たちは聖霊を受けて御父また御子イエス・キリストとの交わりに入れられます。そうして私たちは喜びが満ちあふれます。「喜びが満ちあふれる」とは「聖霊に満たされる」ことだと言っても良いでしょう。そうして聖霊に満たされた状態でもう一度『ヨハネの福音書』を読むなら、まったく違った読み方をすることができます。

聖霊を受けると復活したイエスと出会う読者
 もう一度ヨハネ1章35節に戻ります。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。

 この二人の弟子が誰かと言うと、40節に

1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

とありますから、一人はアンデレであったことが分かりますが、もう一人は誰か分かりません。一度目に読む時は誰か分からないでも良いのですが、聖霊に満たされて二度目に読むなら、それは読者自身のことかもしれません。なぜならヨハネの手紙第一の1章で読んだように、読者はヨハネたちの交わりの中に入れられたからです。
 従って、35節の「ヨハネ」も一度目に読む時は「バプテスマのヨハネ」ですが、2度目に読む時は「福音書の記者のヨハネ」かもしれません。すなわち使徒ヨハネです。聖霊を受けた読者は使徒ヨハネとの交わりの中に入れられて、使徒ヨハネの導きで復活したイエスさまと出会うことができます。36節、

1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。

 このイエスさまは復活したイエスさまです。使徒ヨハネは復活したイエスさまを見て、「見よ、神の子羊」と言いました。37節、

1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 こうして聖霊を受けた読者は復活したイエスさまに付いて行きます。38節と39節、

1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 イエスさまがどこに泊まっておられるのか、一度目に読む時には地上生涯のイエスさまですから、地上のどこかの家か宿ということになります。しかし聖霊に満たされて二度目以降に読む時には、復活したイエスさまがおられる所は天の御父のみもとです。ですから、39節で聖霊に満たされた読者が見るイエスさまが泊まっておられるところとは、天の御父のおられるところかもしれません。なぜなら聖霊に満たされた読者は御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に入れられているからです。

マタイ・マルコ・ルカでも味わえる「1書で2度おいしい}
 このように、聖霊を受けた読者が二度目以降に『ヨハネの福音書』を読むなら、一度目とは違う読み方を楽しむことができます。これが『ヨハネの福音書』は「1書で2度おいしい」ということです。しかし考えてみると、これは『ヨハネの福音書』に限らないのですね。『マタイの福音書』でも『マルコの福音書』でも『ルカの福音書』でも同じことです。例えばマタイ5:16(週報p.3)の

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」

の「光」とは何か、1度目に読む時はよく分からないと思いますが、聖霊を受けた者が読むなら「光」とは聖霊のことであると分かるでしょう。
 また、マタイ13章にある種まきの例えの、「別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」(マタイ13:8、週報p.3)の「良い地」とは「聖霊を受けた者」のことであり、結んだ「実」は、パウロがガラテヤ5章に書いた「御霊の実」と結び付けて考えることもできるでしょう。すなわち「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22-23)。

 このように、同じ『マタイの福音書』でも『ヨハネの福音書』でも、読者の霊的な状態によって違う読み取り方ができます。聖書にはこう読むべきだという決まりはありません。読む者の霊的なレベルに応じて豊かな霊的な糧を与えてくれます。ですから、読み方によって分派・分裂が生じてしまうのは、とても残念なことだと思います。
 聖書が豊かな内容を含んでいることは、例えば太陽の光に例えられると思います。太陽の光は、虹を見れば分かるように、いろいろな色の光を含んでいます。目には見えない赤外線や紫外線も含んでいます。目に見えない天にいるイエスさまは赤外線や紫外線に例えられるかもしれません。目に見える赤い光や青い光もあります。これらは全部太陽の光です。聖書にもいろいろな色の光があります。それに応じるようにしてキリスト教が分派・分裂しているのは本当に残念なことだと思います。虹のように光の色が分かれることを「分光」と言いますが、キリスト教の教派も分派・分裂しています。しかし、聖書の光の色が分光するのはキリストの教えの豊かさのゆえなのですから、いくつもの教派に分派・分裂してしまうのは、とても残念なことだと思います。

イエスの愛弟子へと成長する読者
 さて、「1書で2度おいしい」味を味わえるのは『ヨハネの福音書』に限らずマタイ・マルコ・ルカも皆そうだと言いましたが、ヨハネでしか味わえない独特の味もあります。それは、「イエスの愛弟子」です。最後に愛弟子の箇所を何箇所かご一緒に見て、今年最後のメッセージを閉じたいと思います。
 まずヨハネ13章を見ましょう。13章の3節から5節までを交代で読みましょう。

13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 これは十字架の前日の最後の晩餐の場面のことです。ここでイエスさまは弟子たちの足を洗いました。そして、この弟子たちの中には「イエスの愛弟子」もいました。

13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 1章を読んだ時に、聖霊を受けた読者はイエスさまの弟子となってイエスさまに付いて行くことができるようになると話しましたが、そうして2章、3章、4章とイエスさまと一緒に旅を続けて行くことで、弟子として段々と成長して行き、13章で遂に愛弟子にまでなる、と読むこともできるでしょう。ただし読者自身が、この最後の晩餐の席に自分も参加していると感じられるぐらいにイエスさまとの深い交わりの中に入れられるためには、かなり整えられた深い霊性が必要でしょう。私もまだまだですから、そういう整えられた者になりたいと思います。
 続いて十字架の場面の19章の25節から27節までを交代で読みます。

19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 ここにも愛弟子がいます。私たちは、この十字架の場面にも霊的に立ち会うことができるほどに、イエスさまとの深い交わりの中に入れられたいと思います。
 そして、21章の最後の24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 私たち一人一人は聖霊を受けてイエスさまと霊的に出会いました。そうして多くの恵みをいただきました。その恵みを証ししたものもまた、福音書です。今年、私たちの教会では教会員のご労によって証し集を発行することができました。この証し集もまたイエスさまからいただいた恵みを証ししたものです。或いは以前、私たちは第一聖日の礼拝では救いの証しや恵みの証しの時を持っていました。その一部はインターネットのブログでも公開しました。それらは私たちの恵みの証しのほんの一部で、まだまだ書き記していないこともたくさんあります。そして、そのような証しは日本中、世界中の教会で為されていて、それらもまた恵みの証しのごく一部でしかないでしょう。ですから、それらを一つ一つすべて書き記すなら、25節にあるように、世界もその書かれた書物を収められないというのは本当のことです。決して大げさなことではありません。

おわりに
 ここまで今年最後のメッセージで、『ヨハネの福音書の魅力』を分かち合うことができて感謝でした。一度目に『ヨハネの福音書』を読む時には、イエスさまのことをそんなに身近には感じないでしょう。しかし、この書を読めば読むほどイエスさまとの交わりの中にどんどん深く入れられるようになり、愛弟子へと成長して行くことができます。それが『ヨハネの福音書』の魅力だと思います。
 イエスさまが私たちに、「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすれば分かります」と声を掛けて下さったことに感謝して、来年もまたイエスさまと共に歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「あなたがたは何を求めているのですか」
「来なさい。そうすれば分かります」
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