インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

神の子として祈る(2015.6.24 祈り会)

2015-06-25 20:35:18 | 祈り会メッセージ
2015年6月24日祈り会メッセージ
『神の子として祈る』
【Ⅰヨハネ5:14-15他】

はじめに

5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

 昨日の午後、教団の会堂委員会の先生方が、沼津教会に来て下さり、この会堂の老朽化の進み具合と、いま私たちが購入を検討している物件を見て下さり、これから必要になって来る手続きについてアドバイスしていただくことができました。
 そのアドバイスは、楽観的だった私にとっては少し厳しめだったかな、という気がしています。どのようなアドバイスがあったかについては、今度の聖日の礼拝の時に、ある程度皆さんにお話ししようかと思っています。
 しかし、少し厳しめであったことは、私たちの祈りを成長させるためには良いことであったのではないかとも思います。私たちは一人一人がもう一段階祈りのレベルを引き上げることを考えなければならないと思います。きょうは、そのことをご一緒に考えてみたいと思います。そして、次聖日の礼拝メッセージの中でも、今日これからご一緒に考える「私たち一人一人の祈りのレベルをもう一段階引き上げる」ことを、もう一度礼拝に集った皆さんと考えてみたいと思っています。次の聖日の礼拝メッセージはウェスレーのシリーズの3回目で、ウェスレーが説いた「神の像の回復」について話すことを予定していますが、その「神の像の回復」のメッセージの中で、きょうご一緒に考える祈りについても、また取り上げたいと思っています。

神の子として祈る
 さて、きょうは、新約聖書の中からいくつかのみことばを見ることにしています。忙しくあちこち開かなくてもよいように、印刷したものを用意しましたから、それを見ていただきながら、話を進めて行きたいと思います。
 まず、一番下のみことばを見て下さい。ここには、先ほどご一緒に読んだヨハネの手紙第一5章の14節と15節があります。ヨハネは「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」と書いています。このみことばは、とてもよく引用されます。しかし、この箇所だけ抜き出すだけなら私たちが「みこころにかなう願いをする」ことができるようには、なかなかならないかもしれません。ですから、この箇所だけを取り出して考えるのではなく、もっとこの手紙全体の意味を汲み取って、この箇所のことを考える必要があると思います。そして、この手紙を読む上で重要なことは、この手紙の最初のほうに書いてあります。それがプリントの下から2番目のみことばです。ここで大切なキーワードは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」です。
 そして、この「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を深く感じることができるようになるには、私たちが神の子とされていることを感じることが重要ではないかと思います。そのようにして上の方に行き、プリントの一番上にあるのは、今週の礼拝メッセージの中でご一緒に読んだローマ人への手紙8章のみことばです。
 いま、一番下のみことばから上の方に遡りましたが、今度は一番上から見て行くことにします。まず一番上のローマ8章の14節~16節です。お読みします。

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 私たちが神様に祈るとき、自分が神の子とされていることを、自覚しながら祈るなら、より大胆に神様に近づいて、お祈りすることができるでしょう。神様を遠い存在として祈るのと、身近な存在として祈るのとでは大きな違いがあると思います。神様を遠い存在と感じているなら、お祈りしても応えて下さるかわからないけれども、とりあえず祈ってみようという感じになってしまうのではないでしょうか。そうではなくて、自分が神の子とされていることを自覚して、大胆に神様に近づき、神様は子である自分の願いを必ず聞いて下さると確信を持って祈ること、それが一段高いレベルの祈りであると言えるのではないかと思います。

手本としてのイエスの祈り
 そして、神の子として祈ることの良いお手本がイエス・キリストの祈りです。いま読んだローマ8章に出てくる「アバ、父」というのは、マルコの福音書のイエス・キリストのゲッセマネでの祈りに出て来ます。プリントの上から2番目のみことばを見て下さい。マルコ14章36節です。

14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ)

 神の御子イエス・キリストは御父への祈りの中で御父のみこころに言及しています。自分の祈りがみこころに適うかどうかは、自分で判断するのではなく、御父との対話の中で感じるものなのだと思います。私たちも自分の親と話をする時、親の表情を見ながら、自分のことばに親がどう反応するか、親の表情を見ながら話すと思います。雑談程度のことなら、親の表情をそんなに気にすることはないと思いますが、何か大事なことを話す時、自分にとって大事なことが親の心にもかなっているのか、そうではないのか、親の表情を観察すると思います。イエス・キリストもそんな風に御父との交わりの中で御父の御心を感じているのだと思います。イエス・キリストは御父のふところにおられる方ですから、御父の御心を感じることができます。イエスさまが御父のふところにいることはヨハネの福音書のプロローグに書いてありますね。プリントの次のみことばを見て下さい。ヨハネの福音書1章の18節です。

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 神の御子であるイエスさまは霊的には御父のふところにいて、御父と常に交わりを持っています。神の子とされている私たちも、このように御父と交わりを持ちながら御父の御心がどこにあるのかを感じながら、お祈りをしたいと思います。

御父と御子との交わりの中で御心を感じる
 御父と交わりを持つとは御父と御子との交わりの中に入れていただくということです。御父と御子との交わりのことはヨハネの手紙第一の1章3節に書いてありますね。ヨハネの手紙第一1章の1節から3節までは、交代で読むことにしたいと思います(新約聖書p.465)。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 このように御父および御子イエス・キリストとの交わりの中にいるなら、自分の願いが神様の御心にかなうのか、そうでないのかを感じることができるでしょう。第一ヨハネ5章の14節と15節を交代で読みましょう。

5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

 私たちの願いが神様の御心に適う願いなのかどうかは、私たちが人間的な考えの中で判断するのでなく、御父と御子との交わりの中で感じて行くべきことだと思います。そうして、御心に適う願いであると確信できたら、その願いについて強く祈れば良いのだと思います。それが、一段高いレベルの祈りと言えるのではないでしょうか。

おわりに
 いま私たちはとても大切な時期の中を通っています。私たちの一人一人が祈り手として成長して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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