インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

友人の誤解とヨブの嘆き(2018.9.16 礼拝)

2018-09-19 10:29:21 | 礼拝メッセージ
2018年9月16日礼拝メッセージ
『友人の誤解とヨブの嘆き』
【ヨブ4:1~2、7~11】

はじめに
 先週に続いてヨブ記の学びを続けます。
 サタンによって大変な苦しみの中に入れられたヨブと、ヨブを見舞いに来た友人たちとの言葉のやり取りから信仰について考え、また「神を呪う」とはどういうことかについても、共に考えることができたらと願っています。
 災害の被災地では多くの方々が苦しんでいます。そして私たちもまた困難の中を歩んでいます。このような中で私たちはどのように歩んで行ったら良いのか、ヨブ記を通して大切なことを学べることに期待して、思いを巡らしたいと思います。

サタンに打たれたヨブ
 先週は、どうしてヨブが苦しみを受けることになったかを中心に学びました。簡単に復習しておくと、それは主がサタンに対して次のように言ったことが発端でしたね。ヨブ記1章8節です。

1:8 【主】はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」

 するとサタンは主に言いました。少し飛ばして11節、

1:11 「手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」

 ヨブの信仰が立派なのは、主がヨブを祝福しているからであり、彼から財産を奪ってしまえばヨブは主を呪うに違いないとサタンは言いました。そこで主はサタンにそれを許し、サタンはヨブから財産を奪い、彼の息子たちと娘たちも殺してしまいました。しかし、ヨブが主を呪うことはありませんでした。
 この結果を受けてサタンは、ヨブの体を打って重病にしてしまえば、ヨブは主を呪うに違いないと主に言いました。それで主はサタンにそれを許しました。2章の6節と7節ですね。

2:6 【主】はサタンに言われた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブを足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打った。

 こうして精神的な苦しみと肉体的な苦しみの中に沈んだヨブに対してヨブの妻は言いました。「神を呪って死になさい」。しかし、ヨブは妻に言いました。10節、

2:10 「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。

 ヨブは神を呪いませんでした。

自分が生まれた日を呪うヨブ
 そんなヨブでしたが、友人たちが彼を見舞いに訪ねて来たことで、彼は自分が生まれた日を呪い始めました。3章の1節から3節までをお読みします。

3:1 そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。
3:2 ヨブは言った。
3:3 私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。

 あまりの苦しみにヨブは、自分は生まれて来ないほうが良かったのだと言って嘆いたのですね。3章の全部を見ると時間が掛かりますから、飛ばし飛ばしで見てみましょう。11節を読みます。

3:11 なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。

 これも強烈ですね。母の胎に宿ってしまったなら、せめて胎の中で死にたかった。胎の中で死ななかったなら、胎を出たときに死にたかった。さらにヨブの嘆きは続きます。12節と13節、

3:12 なにゆえ、両膝が私を受けとめたのか。乳房があって、私がそれを吸ったのか。
3:13 今ごろ私は安らかに横になり、眠って安らいでいただろうに。

 胎を出た時に死ななかったのなら、母乳を飲まなければ死ねたのに。そうすれば今ごろ私はこんなに苦しまずに安らいでいただろうにと、ヨブは母の胎に宿った時から始めて嘆き続けていました。

全知全能の神を堅く信じるヨブ
 先週ヨブ記の学びを始めた時から私は、ヨブが自分の生まれた日を呪うことは神を呪うことにならないのだろうかという疑問を感じていました。ヨブに命を与えたのは神様です。ですから神様がヨブに命を与えた日を呪うことは、神様を呪うことにならないのだろうかと、スッキリしない思いでいました。しかし、2週目に入って、この答えが分かり掛けて来た気がします。
 それは、ヨブがどれだけ自分が生まれて来たことを嘆き、今の自分の境遇を嘆こうとも、ヨブは神が全知全能のお方であることを、いささかも疑っていないということです。6章4節を見ると、ヨブは次のように嘆いています。

6:4 まことに、全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。

 この節の「全能者」とは全知全能の神様のことです。その「全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている」と言ってヨブは嘆いています。実際には神様ではなくてサタンがヨブを打ち、それゆえヨブは苦しんでいます。しかし、ヨブは神様が自分を打って苦しめていると思い込んでいました。このように思うことは不信仰であり、神を呪っているような気がしますが、そうではないのですね。

神をさげすみ者たち
 では、神を呪うとはどういうことか、それは神はいないと言ったり、神の力は小さいとさげすんだりすることではないか、ということなのかもしれません。例えば、何週間か前に開いた詩篇42篇には、このようにありましたね。詩篇42篇の1節から3節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.975)。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。

 この3節の「おまえの神はどこにいるのか」という者たちは、神をさげすんでいる者たちです。神の力を全く信じていません。10節にも「おまえの神はどこにいるのか」が出て来ます。10節、

42:10 私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり、絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。

 このような「おまえの神はどこにいるのか」ということばが、神を呪っていることになるのかもしれませんね。

ヨブの罪を疑うエリファズ
 さてヨブ記に戻ります。4章1節、

4:1 すると、テマン人エリファズが話し始めた。

 ヨブの嘆きのことばを聞いて友人のエリファズが話し始めました。7節と8節をお読みします。

4:7 さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。
4:8 私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。

 友人のエリファズは、ヨブが何か罪を犯したから、ヨブは打たれたのだと考えていました。だから、その罪を「思い出せ」とヨブに迫りました。潔白な者が滅びるわけがない。罪を犯した不法な者が、その報いを受けるのだとヨブに言いました。
 これは因果応報の考え方です。良いことをした者には良いことがあり、悪いことをした者には悪いことがあるという考え方です。この考え方は、聖書から外れた間違った考え方というわけではありません。例えば詩篇1篇にも、それは見て取れます。詩篇1篇を交代で読みましょう。

1:1 幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。
1:2 【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。
1:4 悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。
1:5 それゆえ悪しき者はさばきに罪人は正しい者の集いに立ち得ない。
1:6 まことに正しい者の道は【主】が知っておられ悪しき者の道は滅び去る。

 詩篇1篇は、正しい者は栄えて悪い者は滅びるとしています。ですから、友人のエリファズがヨブは何か罪を犯したに違いないと考えたとしても仕方がないことかもしれません。しかし、世の中は必ずしもそうはなっていないことは誰でも感じていることです。それにも関わらずエリファズは病床で苦しむヨブに、この因果応報の考え方を厳密に適用してオブに罪の告白を迫りました。これではヨブにますます苦痛を与えてしまうことになります。ヨブが打たれたのはヨブが罪を犯したからではなく、主がサタンにヨブを打つことを許したからでした。ヨブと同様にエリファズもこのことを知る由もありませんでした。ですからエリファズは間違ったことでヨブを責めたててしまっていました。このエリファズの姿からは、自分が正しいと信じていることによって人を追い詰めてしまうことの罪を見ることができると思います。

宇宙スケールの神が個人的に話し掛けて下さる恵み

 さて、きょうも最後にヨブへの主のことばを見てから終わることにします。苦しむヨブやヨブを責める友人のことだけ見ていたのでは、恵まれないからです。
 先週は、38章の1節から4節までを交代で読みました。もう一度、読みましょう。

38:1 【主】は嵐の中からヨブに答えられた。
38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。

 主が天地を創造した時、あなたはそこにいたのか、いなかっただろうと主はヨブに言い、ヨブを叱りました。しかし叱りのことばでありながら、ここにはヨブへの主の愛が感じられます。宇宙スケールの神様に比べれば、ヨブはあまりにも小さな人間です。その小さなヨブに宇宙スケールの神様が個人的に声を掛けて下さることは大きな祝福であると思います。

独特の励まし方をする主

 きょうは39章の19節から25節までを交代で読みましょう。これも主からヨブへのことばです。

39:19 あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみを付けるのか。
39:20 あなたはこれを、いなごのように飛び跳ねさせることができるのか。その威厳あるいななきは恐ろしい。
39:21 馬は谷間で、前かきをして力を喜び、武器に立ち向かって進んで行く。
39:22 恐怖をあざ笑って、ひるむことなく、剣の前から退くことはない。
39:23 矢筒はその上でうなり、槍と投げ槍はきらめく。
39:24 荒れ狂って、地を駆け回り、角笛の音に、じっとしてはいられない。
39:25 角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき、遠くから戦いを嗅ぎつける。隊長の怒号、ときの声さえも。

 馬もまた主が造った動物です。主はヨブに、このような動物を自分で造ることができるかと問います。「あなたが馬に力を与えるのか」。馬は戦場で活躍していました。馬は素晴らしい能力を持っています。その能力もすべて主が与えたものです。おまえにそれができるかと主はヨブに言いました。
 サタンに打たれて苦しんでいたヨブは、神様がこの苦しみを自分に与えたと思って嘆き、主に泣き言を言っていました。そんなヨブに対する、この主の独特の励ましを、どう捉えたら良いでしょうか。そこで思い出すのが、先ほどの詩篇42篇の「おまえの神はどこにいるのか」という者たちのことです。これらの者たちは神の力などぜんぜん信じていませんでした。そういう者たちを主はどうするでしょうか。主は放っておくのではないかという気がします。相手にする価値はないでしょう。
 しかしヨブは違いました。ヨブは全知全能の神を心の底から信じていました。そのような者に主は個人的に語り掛けて下さいます。そして独特の方法で励まして下さいます。宇宙スケールの神様が小さな者に個人的に話し掛けて下さることは素晴らしい恵みです。

おわりに
 私たちも神様への信仰はゆるぎません。そして聖霊を受けています。神様は聖霊を通して私たちに個人的に話し掛けて下さり、私たちの一人一人を励まして下さいます。これは本当に素晴らしい恵みです。
 このことを覚え、感謝しながら、お祈りしたいと思います。
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