平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

悩む人々3:長血の女(2017.12.6 祈り会)

2017-12-07 03:56:46 | 祈り会メッセージ
2017年12月6日祈り会メッセージ
『悩む人々3:長血の女』
【マルコ5:25~34】

はじめに
 「悩む人々」のシリーズを続けます。きょうは長血の女に注目します。きょうはまずマルコの福音書の長血の女の箇所をご一緒に見て、その後でいま私たちが直面している問題についても少し考えてみたいと願っています。
 イエスさまが地上で宣教していた時代は、まだ人々に聖霊が注がれる前の時代ですが、この長血の女の箇所は聖霊の時代を生きる私たちに、信仰についての様々なヒントを与えてくれているように思います。

長血の女の苦悩
 まず簡単に長血の女の箇所を見ておきましょう。

5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

 この長血の女の出来事は、イエスさまがヤイロという会堂管理者と話している場面に挿入されています。24節を見ると、イエスさまはヤイロと一緒に彼のところへ向かおうとしていました。そこに多くの群集もついて来ていました。長血の女もその中の一人でした。彼女は12年間も長血をわずらっていました。この長血がどんな病気であったかは不明ですが、出血を伴う病気であることは確かです。旧約聖書のレビ記によれば血が漏出している女は汚れていますから、隔離されていなければならず、本来なら人々に近づくことは許されないことです(レビ15:25-33)。レビ記を簡単に見ておきましょう(すぐにまたマルコに戻ります。
 レビ15章25節をお読みします(旧約聖書p.198)。

15:25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。

 そして、31節を見ていただきますと、次のように書いてあります。

15:31 あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。

 ですから、女が群集の中に入って行ったことは、実はとんでもないことでした。しかし、そこに、いかに女の悩みが深く、癒しを求めて必死であったかがわかると思います。26節、

5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

 こういう状況は、医学が発達した現代でもいまだに起きていますね。原因不明の病気はまだ多くありますから、今の時代でも苦しんでいる人々は多くいます。まして、二千年前でしたら、もっと状況が悪かったことは容易に想像できます。そういう中で、この女は悩み苦しんでいました。

必死の形相でイエスに向かった女
 続いて27節と28節、

5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

 この状況を想像してみると、いかに女が必死であったかがわかります。イエスさまは群集に取り囲まれていましたから、容易には近づくことができなかったはずです。その群集の中に、本来は人に近づくことが禁じられている女が潜り込んで行き、人をかきわけながら前進していきました。
 そうして、とうとう最前列にたどりつき、イエスさまのうしろから着物にさわりました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからであるとあります。恐らくイエスさまの体に触れることもできたのだと思いますが、そこは女にも遠慮があったのだろうなと想像します。次に29節と30節、

5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。

 今回、この状況に思いを巡らしていて、面白いことに思い至りました。それは、ここにはイエスさまだけでなく天の御父も関わっているのではないかということです。もう少し先へ進んでから、そのことを話します。

天の御父と一つのイエス
 続いて31節と32節、

5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

 この様子からは、イエスさまが自分からこの女を癒したのではないことがわかります。普通の場合は、イエスさまが病人の上に手を置くことで病人を癒すでしょう。イエスさまがその病人を見て、イエスさまご自身がその病人を癒すために手を置き、そうして癒されます。しかし、この場合はイエスさまのほうから女を癒そうと思って癒したわけではありません。34節でイエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言いました。この場合、この娘の信仰を見ていた存在がイエスさまの他にいて、それが天の御父であろうと今回、思いました。
 なぜ、そう思ったのか。今度はヨハネの福音書の5章を見ましょう。このヨハネ5章でイエスさまはベテスダの池のほとりにいた病人を癒しました。8節に、イエスさまがこの病人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言いました。すると、9節にあるように、病人の病気は治って床を取り上げて歩き出しました。
 さて安息日にこの病人を癒したことを咎めたユダヤ人たちに対してイエスさまは17節のように答えました。

5:17 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

 さらにイエスさまは19節のように言われました。

5:19「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

 ここからは、イエスさまが行われた癒しの奇跡は、天の御父が行われていることだと読み取ることができると思います。天の御父とイエスさまとは一つですから、イエスさまが行っている奇跡の御業は父が行っている御業だと言えるでしょう。
 そうすると長血の女が癒された奇跡もわかりやすいように思います。長血の女がイエスさまの着物をさわった時、イエスさまは誰がさわったのかわかりませんでした。しかし、天の御父はその女の信仰を見ていたので、御父がそれを癒したと考えたいと思います。イエスさまは神の御子ですが、地上にいる間は様々な制約に縛られていて、すべてをお見通しというわけにはなかなか行かなかったのだろうと思います。ですから長血の女が近づいていたことにも気づきませんでしたが、天の御父は長血の女を見ていました。
 ここで一旦、賛美歌を挟むことにします。(賛美歌)

常識に囚われていては救われない
 きょうの長血の女の箇所は、イエスさまが地上にいた時の出来事ですが、聖霊の時代を生きる私たちにも信仰について、いろいろと考えさせられることが詰まっている箇所だと思います。
 まず考えさせられることは、人が救われるためには、まずは私たちはイエスさまがいるところに向かって行かなければならないということです。しかし、イエスさまのところに行けば、誰でも救われるわけではありません。長血の女がイエスさまに近づいた時、他にも多くの群集がイエスさまのところに集まっていました。しかし、ここに集まっていたすべての人が救われたわけではないでしょう。
 今はクリスマスに向かっているシーズンですから、この時期には普段教会に行っていない方々も教会を訪れる機会が多いです。しかし、教会に行けば誰でも救われるわけではありません。神様にすがりたいという必死さのようなものが必要であることを、長血の女の記事は教えてくれています。
 ただ、それ以外の群集も癒しを求めていましたから、必死さもあったでしょう。この長血の女の記事からは何が学べるでしょうか。思いを巡らしていて示されたことは、人は世間の常識に囚われていてはなかなか救われないということです。長血の女は汚れているとみなされていても、それに縛られずにイエスさまに近づいて行きました。ヨハネ5章のベデスダの池の病人は、池に入れば癒されるという言い伝えに縛られていて、癒される機会を失っていました。イエスさまはこの病人を癒すことで、言い伝えに縛られていてはならないということを教えたように思います。パリサイ人や使徒の時代のユダヤ人たちは、律法を守らなければ救われないと頑なに信じていました。そのような縛りから解き放たれないと、人はなかなか救われないということを長血の女の箇所は教えてくれているように思います。

天とつながっている教会
 次に学びたいことは、イエスさまの人を引き付ける力のことです。長血の女はイエスさまに吸い寄せられるように近づいて行きました。教会もそんな風であったら良いなと思います。それで、きょうの長血の女の箇所で学んだことを教会に適用してみたいと思います。
 きょうの箇所で学んだことの一つに、イエスさまは天の御父とつながっているということがあります。教会もまさにそういう場所です。長血の女の箇所には天の御父のことは書いてありません。しかし、今回私はここに天の御父を感じました。教会も、天とつながっているということがハッキリとはわからなくても、何となくそれを感じ取れるような場所であるべきだろうと思います。この小さな教会で、どうしたら天とのつながりを感じることができるか、考え続けて行きたいと願っています。信仰は目に見えませんから、その見えない部分をどう人に伝えるか、本当に難しいことですが、様々に考えなくてはならないと思います。
 ここまで考えて、ふと隣の土地のことを思いました。隣の土地には目に見える形での建物は建っていませんが、私はいつもここから大きな励ましをもらっています。この広々とした土地に神様の存在を感じています。
 私たちがどのような方向に進むべきか、悲観的な材料が多いですが、私たちはいつも励ましを受けていることもまた忘れずに、進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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