平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

大鵬と聖霊の平安 ~時間を超越した存在を感じるためのヒント~

2017-09-23 09:53:58 | 折々のつぶやき
大鵬と聖霊の平安
~時間を超越した存在を感じるためのヒント~


1.はじめに
 新約聖書の『ヨハネの福音書』には「人間イエス」と「霊的イエス」の両方が存在します。「人間イエス」は紀元1世紀の初めの約30年間の「イエスの時代」に存在し、「霊的イエス」は「イエスの時代」の前と後の「旧約の時代」と「使徒の時代」に存在します。そして『ヨハネの福音書』の1~11章においては、これら三つの時代が同時並行で進んで行きます。すなわち『ヨハネの福音書』の時間進行は、

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →


という重層構造になっています。
 このことを私は今年の6月に出版した拙著(『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』 ~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~)で明らかにしました。しかし、目に見えない「霊的イエス」の存在を『ヨハネの福音書』から感じ取ることは容易ではないようです。
 私たちの多くは「過去→現在→未来」という一方通行の時間の流れに縛られていますから、上記の三つの時代も

→ 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →


という順番で流れていると思い込んでいます。このような時間の流れに縛られているなら、時空を超越した「霊的イエス」の存在を感じることは難しいでしょう。
 そこで本稿では、「過去→現在→未来」の時間の流れから自由になって、「霊的イエス」を感じるためのヒントを提案することにします。これによって時間を超越した「父・子・聖霊」の三位一体の神との交わりを豊かに感じ、心の平安を得ていただければ幸いです。
 「過去→現在→未来」という時間に縛られている間は、心の深い平安は得られません。平安のない心が争い事を引き起こし、世界を平和から遠ざけます。世界が平和な方向に向かうために、多くの方々に時間を超越した三位一体の神との交わりを感じることができるようになっていただきたいと思います。

2.地に足が付いていては味わえない世界
 『ヨハネの福音書』の記者のヨハネは、『ヨハネの手紙第一』の冒頭で次のように書いています。

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:1-3)


 ヨハネは「人間イエス」と実際に出会い、何年かを共に過ごしました。その時の経験をこの手紙と福音書の読者に伝えたいと願っていました。それは、読者がヨハネたちと交わりを持つようになるためだと3節に記しています。その「交わり」とは、天の御父および御子イエス・キリストとの親交・交友です。これは霊的な世界での親交・交友です。なぜならヨハネがこの手紙を書いた紀元1世紀の末頃の時点では、もはや「人間イエス」は存在していないからです。
 これは天の神との霊的な親交・交友ですから、1世紀末の読者だけでなく21世紀の私たちも仲間に入れてもらうことができます。私たちの肉体は21世紀の現在に縛られていますが、魂は自由です。魂は「過去→現在→未来」という時間の流れには縛られないからです。
 この天の神との交わりは、地に足が付いていたのでは感じることが難しいと思います。私たちの足は21世紀の現在に縛られていますから、霊的に浮遊することで21世紀の束縛から自由にならなければなりません。
 そのために私がお勧めしたいのは、自分が鳥になって大空を飛翔する様子を思い浮かべることです。飛行機や国際宇宙ステーションのような乗り物に乗って空を飛ぶことを想像しても良いかもしれませんが、それだと少し弱い気がします。乗り物の内側にいるのでは、天の神との直接の交わりを十分には感じられないでしょう。鳥になって自分自身が自由に天を飛んだほうが、より深く神との交わりを感じることができて魂の自由を得やすいことと思います。

3.大きくなって初めてわかる神の大きな愛
 私自身が想像するのは、小さな鳥ではなくて「鵬(ほう)」という巨大な鳥です。これは紀元前4世紀頃の中国で書かれた『荘子』の冒頭に登場する鳥です。下にその冒頭部分を引用します(森三樹三郎・訳、中公文庫)

 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池(てんち)とよばれるものである。
 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、彼は次のように述べている。「鵬が南のはての海に移ろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。(『荘子』逍遥遊篇より)


 天の神から見れば、私たちは米粒以下の小さな存在です。ですから私たちは本来なら神との親交・交友などを持つことなど許されない、取るに足らない存在です。そんな小さな私たちと交友を持つために神の御子は「人間イエス」となって、この世に降りて来て下さいました。
 しかし、21世紀の私たちは「人間イエス」が存在しない「使徒の時代」を生きています。私たちが小さな米粒のままでは大きな神と十分な交わりを持つことはできません。小さなままでいるなら、神の大きな愛も少ししか感じることができません。ですから、霊的な世界においては私たちの側が巨大な鳥になる必要があります。これは決して傲慢なことではありません。神の圧倒的な愛を豊かに感じるためには、どうしても必要なことです。私たちが小さな米粒のままでは、小さな池の水ほどの愛でも、大きな愛と感じてしまうでしょう。しかし神の愛は海よりも大きな愛です。その大きさを感じるためには、私たちの側が大鵬のような巨大な鳥にならなければなりません。

4.聖霊が私たちを大きくする
 ただし、いくら想像をたくましくしても、大鵬になって自由に飛ぶほどに魂を自由にすることは、なかなかできません。しかし聖霊を受けるなら、それが可能になります。聖霊は「父・子・聖霊」の三位一体の神ですから、宇宙スケールの神です。その巨大な神が私たちの内に入るなら、私たちもまた巨大になり、大鵬のようになることができます。
 さてしかし、聖霊を受けるためには「イエスが神の子キリストである」と信じる必要があります。日本人にとっては「イエスは神の子キリストである」と信じることは容易ではないかもしれません。そこで、私のケースを紹介します。私がたどった経路を通じてなら、そんなに難しいことではないと思います。
 私の場合は新約聖書の『使徒の働き』9章の、サウロ(後のパウロ)がイエスと出会った場面を実話だと信じたことが、「イエスは神の子キリストである」と信じたことになったのだと思います。その場面を引用します。

1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。(使徒9:1-9)


 この霊的なイエスとの出会いがサウロ(パウロ)の人生を180度変えました。それまでのサウロはイエス・キリストを信じる者たちを迫害していましたが、この経験の後、逆にイエス・キリストを宣べ伝える者になりました。そして私は、このことを事実として疑うことなく信じました。人の人生が劇的に変わるには、それなりの体験が必要ですから、そういうことが確かにあったのだろうと単純に信じました。それは私が霊的なイエスの存在を信じたということであり、それはつまり「イエスは神の子キリストである」ということを信じたということなのだと思います。
 私たちが「イエスは神の子キリストである」と信じるに至るには様々な経路があると思いますが、私自身がたどった経路はこのように、とても単純なものでした。ですから私個人的としてはパウロの話を信じるところから始めることを、是非お勧めしたいと思います。
 
5.時間を超越した宇宙スケールの神
 どのような経路をたどるにせよ、「イエスは神の子キリストである」と信じた者は聖霊を受けます。「父・子・聖霊」の三位一体の神は宇宙スケールの神ですから、聖霊を受けた者の魂もまた宇宙スケールの時空間の中に招き入れられます。これが、ヨハネが第一の手紙に書いた「御父および御子イエス・キリストとの交わり」です。
 神は時間を超越した存在ですから、この交わりの中に入れられるなら、私たちの魂もまた自由になります。しかし、現実には多くのクリスチャンが「過去→現在→未来」という時間の流れに依然として縛られているようです。それは、『ヨハネの福音書』の

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →


という独特の時間構造が理解されていないことからもわかります。
 時間を超越した宇宙スケールの神を豊かに感じるためには、私たちもまた大鵬のような巨大な鳥にならなければなりません。そうして魂が、

→ 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →


という常識的な時間から解放されてこそ、私たちはパウロが下記の『エペソ人への手紙』の中の祈りのことばにある、キリストの大きな愛を感じることができるようになるでしょう。

16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:16-19)


6.おわりに
 『荘子』で巨大な大鵬を描いた荘子は紀元前4世紀頃の人物で、当時の中国は戦国時代の中にありました。戦乱の世にあって人々が心の平安を得られないでいる中、荘子は究極の自由の境地を追求しました。その自由な心の象徴が大鵬です。
 ヨハネが『ヨハネの福音書』を記した1世紀末の時代の人々もまた、心の平安が得られないでいました。エルサレムがローマ軍の攻撃によって滅亡し、神殿は焼失しました。これによってユダヤ人たちは散らされて故郷を失いました。クリスチャンたちもまた激しい迫害に遭って苦しんでいました。そのような時代の中にあってヨハネは時間を超越した「御父および御子イエス・キリストとの交わり」の中に人々を招き入れ、スケールの大きな三位一体の神の愛の中で心の深い平安が得られることを示しました。これは聖霊を受けることで可能になります。しかし「過去→現在→未来」の時間の流れに縛られている私たちは、たとえ聖霊を受けてもヨハネが示した宇宙スケールの神を感じにくくなっていますから、本稿では「大鵬になった自分」を想像することを勧めました。
 私たちは謙遜であることを美徳と考えますから、自分を大きく想像することには抵抗を感じる方も少なくないかもしれません。しかし、世界が平和に向かうためには、私たちの側が大きくなって宇宙スケールの三位一体の神の大きな愛を豊かに感じることが、是非とも必要だと考えます。多くの方々に、この交わりの中に加わっていただきたいと願い、祈ります。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(Ⅱコリント13:13)
コメント    この記事についてブログを書く
« 前の記事へ | トップ | アテネと日本の共通点(2017.... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

折々のつぶやき」カテゴリの最新記事