インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

神の愛に信仰の根を下ろす(2014.8.31 礼拝)

2014-08-31 23:40:09 | 礼拝メッセージ
2014年8月31日礼拝メッセージ
『神の愛に信仰の根を下ろす』
【ルカ15:25~32】

はじめに
 ここ何週間かの礼拝説教では「降り積もる時間」ということに、こだわった説教をしています。そして水曜日の祈祷会の説教では、さらに踏み込んで「降り積もる時間」に「根を下ろす」ということについて思いを巡らしています。
 この「降り積もる時間に根を下ろす」ということについて、私の頭の中で、だいぶ整理されて来た気がしますので、きょうは礼拝に集っている皆さんとも、このことを分かち合いたいと願っています。

信仰の種
 祈祷会の説教では、私は信仰を植物の種に例えています。一人一人の信仰を、一粒一粒の植物の種に例えています。そして、信仰の芽生えが種の発芽に当たります。信仰が発芽していない種は、風が吹けばどこかに転がって行き、大雨が降ればどこかに流されて行きます。同様に、信仰が芽生えていない人は、流れる時間の中で、時間に流されるままになっています。じっとしていても過去→現在→未来という時間に流されて行き、一刻一刻、人生の終幕へと近付いて行きます。人生の終幕とは「死」のことです。時間に流されている人は時々刻々「死」に近付いていることに漠然とした不安を感じ、なるべく「死」から目をそらそうとします。しかし、流れる時間は非情ですから、人を刻々と人生の終幕へと運んで行きます。信仰の根が生えていない人は、このように時間に流されながら、常に漠然とした不安の中を生きています。
 それに対して信仰の種が発芽している人は「降り積もる時間」の中にいて、信仰の根を下へ下へと下ろして行くとともに、天に向かっても成長して行きます。発芽した信仰の種が根を下ろして行く地面の土は、下へ行くほど昔です。下へ行けば行くほど遠い昔に積もった土があります。ですから、聖書で言えば新約聖書は比較的浅い所にあり、旧約聖書はもっと深い所にあります。そして種が発芽する地表付近は現在です。
 ごく一般的に言えば、信仰の種の発芽は、まず教会で聖書の話を聞くことで起こります。この、種が発芽したばかりの段階では大雨が降って表面の土が流されれば、種も土と一緒に流されてしまいます。発芽した種がその場で成長して行くためには根を下に下ろして行く必要があります。初めのうちは教会で聖書の話を聞くだけでも成長できますが、信仰がさらに成長するためには、自分で聖書を読んで思いを巡らし、神様との個人的な関係を築く必要があります。そのためには聖書の時代へと信仰の根を下ろして行かなければなりません。先ずは新約聖書だけでも良いと思いますが、もっと大きく成長するためには、さらに深い所にある旧約聖書にも根を下ろして行くことが望まれます。

アダムにまで根を下ろす必要性
 ここで、ルカの福音書3章にある系譜を見ていただきたいと思います。先日の祈祷会でも開いた箇所ですが、ルカ3章の23節から38節に掛けて、イエスの父ヨセフの家系が載っています。この系譜はマタイの福音書のそれとは逆になっています。マタイの福音書はアブラハムに始まってダビデ王、そしてバビロン捕囚期を経てヨセフに至っています。しかし、ルカの系譜ではヨセフに始まって時代が遡って行きます。31節にダビデの名があり、34節にヤコブ・イサク・アブラハムの名があり、そして38節に最初の人のアダムの名があります。
 これはちょうど、信仰の種が発芽して根が段々と深い方向に伸びて行く様子を表しているように私は感じました。イエス・キリストを信じることによって地表付近にある信仰の種が発芽して根が地中の深い方へと伸びて行き、根が一番深い所にあるアダムに達することで信仰がしっかりと根付きます。イエス・キリストを信じて洗礼を受けても教会から離れて行ってしまう人たちがいますが、それは根がアダムにまで達していないからではないかと思います。
 ここでアダムを知ることが信仰を確立する上で大事な理由を三つ、挙げておきたいと思います。私たちはアダムを知ることで次の三つのことを知ることができます。

①神がアダムを造り、私たちの命も神が造ったということ。
②アダムが罪を犯してエデンの園を追放されたために、私たちもまた旅人となったこと。私たちの地上生涯は旅の生涯です。だからこそ信仰において根を下ろしている必要があります。このことは、後でルカ15章を見ながら説明します。
③パウロがローマ人への手紙に書いているように、一人の違反によって全ての人が罪に定められたのと同様に、一人の義の行為によって全ての人が義と認められ、命を与えられていること。

 この③のローマ人への手紙の箇所はご一緒に見ておきたいと思います。ローマ人への手紙5章18節と19節です(新約聖書p.297)。
 まず18節、

5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。

 「ひとりの違反によって」の「ひとり」とはアダムのことであり、「ひとりの義の行為」の「ひとり」とはイエス・キリストのことです。19節でも同じ意味の言葉が繰り返されます。

5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 このようにアダムとイエス・キリストは緊密な関係にありますから、イエス・キリストを深く知る上でアダムを知ることは不可欠であると言えます。

神が私たちを造った
 また先ほど一番目に挙げたようにアダムは神によって造られましたから、アダムを知ることは私たちの命が神によって造られたのだということを知ることでもあります。私たちの命が神によって造られたことを信じることは信仰の根幹に関わることですから、やはり信仰は根がアダムにまで下りて初めてしっかりと根付くと言えるのでしょう。「神が私たちを造った」という場合、神様が私たちを粘土細工のようにして一から造ったと考える必要は無いと私は個人的には考えています。サルの遺伝子の一部を神が書き換えてヒトを造ったと考えても全く問題無いと私は考えます。サルの遺伝子が偶然に書き換わって人類が誕生したと考えるなら信仰は成り立ちませんが、偶然ではなくて神が書き換えたのなら信仰は成り立ちます。大事なのは、そこに神の意思が介在しているか否かです。神の意思が介在しているなら私たちは神によって造られたことになります。
 もし私たち人類が偶然によって誕生したなら、私たちは別に神の愛を信じる必要はありませんし聖書の戒めを守る必要もありません。神が私たちを造ったからこそ神は私たちを愛し、私たちが神から離れないように戒めを与えて下さいました。信仰の根がアダムにまで下りていないなら、この事が非常に曖昧になってしまいます。このことが曖昧なままでは信仰が根付いているとは言えません。
 宇宙にある物質で人類がわかっているのはわずか5%で、残りの95%は暗黒物質と暗黒エネルギーと呼ばれています。暗黒ですから、その正体はわかっていません。宇宙の5%しかわかっていないのに神はいないと信じることと、聖書という確かな書を基に神はいると信じることの、どちらが理に適っているかと言えば、私は神を信じることのほうが余程、理に適っていると考えます。

旅人の私たちにも生えている信仰の根
 さて、ここまでイエス・キリストからアダムにまで下りる信仰の根について話して来ましたが、信仰の根とはどういうものかということを、これから掘り下げて行きたいと思います。
 私たちの地上生涯は天の御国に入るまでの旅です。私たちは皆、旅人です。旅人だと根が無いようにも思えますが、旅人である私たちにも信仰の根は生えています。信仰の根とはそういうものです。
 『男はつらいよ』の寅さんに例えるなら、寅さんは旅暮らしをしていますが、心はいつも葛飾柴又の人々とつながっています。ですから寅さんの心の根は故郷の葛飾柴又に根付いています。体は葛飾柴又になくても心の根は故郷の葛飾柴又にあります。
 私たちの信仰の根も同様です。アダムが故郷のエデンの園から追放されて以来、私たちの生涯は旅の生涯となりましたが、旅の中にあっても私たちが神と和解するなら、私たちの信仰の種が発芽して、信仰の根が故郷のエデンの園へと伸びて行きます。
 ですから、信仰の根は体がどこにあるかには関係ありません。このことをルカの福音書15章の「放蕩息子の帰郷」の箇所でさらに見て行きましょう。
 ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」については、ほとんどの皆さんが良くご存知のことと思いますが、いちおう初めから簡単に説明しておきますと、話の発端は11節から13節までに書いてあります。これはイエスさまがパリサイ人たちに対してした話です。11節から13節までをお読みします。

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

 こうして父の財産を使い果たした末に弟息子は我に返り、故郷の父の家に戻りました。帰郷した弟息子を父は抱き、祝宴を始めました。すると、それを知った兄息子が怒り始めました。それが司会者に読んでいただいた箇所です。25節から読んで行きます。25節、

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。

 「兄息子は畑にいた」とありますから、弟息子が遠い国で放蕩三昧をしていた間も、兄息子は父親の家にいて真面目に働いていたのですね。地元で地道に働き続けている人を見て、私たちは「この人は地域に根を下ろしている」という言い方をします。そういう一般的な意味では、この兄息子は地元の地域に根を下ろしていました。しかし、兄息子は信仰面においては根を下ろしていなかったということを、きょう私たちはこの箇所から学びたいと思います。

信仰の根が下りていなかった兄息子
 先日の祈祷会でも取り上げたのですが、『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子著、幻冬舎)という本がありますね。140万部を超えるベストセラーの本ですから、皆さんも読んだことは無くても、この本の名前ぐらいは聞いたことがあると思います。東京で育った著者は三十代の半ばの時に岡山という未知の土地に派遣され、しかもその若さで学長という風当たりの強い大変なポストに置かれてしまいました。そうして四苦八苦していた著者に、「置かれた場所で咲きなさい」という助言を与えてくれた宣教師がいたのだそうです。このことが、この本の冒頭に先ず書いてあります。この本は一般向けの本ですから、先ずは置かれた土地や地位にしっかりと根を下ろしてその場所で花を咲かすことができるように励むことが勧められています。しかし、この本を読み進めて行くなら、著者が本当に言いたいことは、それぞれの土地や地位に根を下ろすことではなくて信仰の根を下ろすことであると気付きます。
 では、信仰の根を下ろすとはどういうことなのでしょうか。ルカ15章の兄息子の箇所をさらに読み進めて行きたいと思います。15章の26節から28節までをお読みします。

15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

 家に入ろうともしないほど怒った兄息子の言い分は次の通りでした。

15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

 私が、このルカ15章を初めて読んだのが、教会生活を始めてからどれくらいの時期だったか、よく覚えていないのですが、私はこの箇所を初めて読んだ時に兄息子の言い分はもっともなことだと思いました。兄息子が怒るのは当たり前であり、父が言うことを良く理解できませんでした。父は兄息子に次のように言いました。31節と32節、

15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 この父親の言葉に共感できなかった当時の私の信仰の根も、まだほとんど伸びていなかったということです。信仰の芽が発芽はしていた時期だと思いますが、根はまだほとんど伸びていなかったのだと思います。

父の愛を吸収する信仰の根
 と言うのは、伸びた根が吸収するのは父の愛だからです。天の父は、ご自身が造られた人間の全てを愛しておられます。ですから父はアダムのこともカインのことも、弟息子のことも兄息子のことも、そして私たちのことも、ご自身が造られた子の全てを愛しておられます。ですから「降り積もる時間」とは、実は神が愛しておられる子らに注がれ続けている神の愛であると私は言いたいと思います。
 アダムがエデンの園を追放されて以来、人は時間の中を生きるようになりました。エデンの園には時間はありませんでしたが、エデンの園の外には時間があります。そうして人は時間に流されるようになり、刻一刻と死に向かって行くという不安の中を生きなければならなくなりました。
 しかし、神に心を向け、神と和解するなら信仰の芽が発芽して、「流れる時間」ではなく「降り積もる時間」の中に身を置くことができるようになり、降り積もる神の愛を根から吸収しながら天に向かって成長することができるようになります。天からは神の愛が常に降り注ぎ続け、地表に積もり、地中も過去に降り積もった神の愛で満たされていますから、私たちは上からも下からも神の愛を受けることができます。そうして信仰が成長し続けて根がアダムの時代のエデンの園にまで下りて行くなら、そこは時間が無い世界です。こうして信仰の根がエデンの園にまで達するなら、私たちは過去も現在も未来もないヨハネの永遠の世界を、この世にいながら味わうことができるようになります。
 ここまで話して来たように、信仰の根は、一つの土地にいるかいないかには無関係です。兄息子は地元でずっと生活していましたが、信仰の根が伸びていませんでした。ですから、父の愛を吸収して感じることができませんでした。ルカ15章の12節には、父が二人の息子に自分の財産を分けてあげたことが書いてあります。父が分け与えた本当の財産とは、父の愛とも言えるでしょう。兄息子はこのことに気付いていませんでした。しかし、弟息子の方は、目に見える財産を使い果たしてしまった時に我に返り、父の本当の財産にぼんやりと気付くことができました。こうして弟息子の信仰の芽が発芽して根を伸ばし始めることができました。
 私たちは、この信仰の根を地中の深くにまで伸ばして本当の財産である神の愛をしっかりと吸収し、天に向かって成長して行ける者たちでありたいと思います。

根が無い人間は困っている
 最後に、これもまた先日の祈祷会で話したことですが、『星の王子さま』を引用したいと思います。サン=テグジュペリの有名な『星の王子さま』の18章にこんな場面があります。そんなに長くはないので18章の全文を引用します(内藤あいさ訳、Kindle版)。
 この時、星の王子さまは地球に来たばかりで、まだ人間に出会っていませんでした。それは着いた場所が砂漠だったからです。地球に着いた王子さまは先ず砂漠の蛇に出会い、次に砂漠の花に出会いました。これから読むのは王子さまが砂漠の花に出会った場面です。

18章
 王子さまは砂漠を横切ったのですが、出会ったのは一輪の花だけでした。花びらが3つの何でもない花でした。
「こんにちは」
と王子さまは言いました。
「こんにちは」
と花が言いました。
「人間はどこにいるの?」
と王子さまはたずねました。
 ある日、花はキャラバンが通るのを見たことがありました。
「人間?6、7人はいるみたいですね。数年前に見たことがあります。でも、どこで会えるのかわかりません。風に吹かれて歩き回りますから。根がないから困っているんだと思います」
「さよなら」
と王子さまが言いました。
「さよなら」
と花が言いました。
(18章おわり)
 
 砂漠の花は、数年前に一度だけキャラバンが通るのを見たことがあったので、人間というのは6、7人程度だと思っていました。そして、根がある花から見ると人間は風に吹かれて彷徨っているようで、とても困っているように見えたということです。
 根の無い人間が困っているというのは、本当にその通りです。きょう話して来た通り、根の無い人は「流れる時間」の中を生きており、刻一刻と「死」という人生の終幕に向かって行く漠然とした不安の中で生きています。そのように一人一人が不安でいることと、平和な世界が実現できないこととは密接に関係しています。一人一人の心がもっと安定しているのなら、私たちはもっと互いに愛し合い、赦し合うことができるようになり、世界も平和に向かって行くのだと思います。

おわりに
 この沼津の地域の方々も多くの方が、そのような不安の中で生きていることと思います。私たちはこの地域の方々の信仰の種が発芽して根を伸ばして行くことができるように働いて行きたいと思います。そのためにも私は、この信仰の種の例えを、もっとブラッシュアップして行きたいと思っています。そして9月15日の千本プラザでのメッセージでは、パワーポイントを用いて図を使いながら説明したいと願っています。このためにもお祈りしていただけたらと思います。
 地域の方々が教会に集い、信仰の種が発芽して根を下ろし、皆が私たちの故郷であるエデンの園にまで根を下ろし、神の愛を上からも下からも受けることができるようになるよう、私たちは、この地で働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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