平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

永遠に入れない聖霊をけがす者(2014.2.16 礼拝)

2014-02-17 08:21:41 | 礼拝メッセージ
2014年2月16日礼拝メッセージ
『永遠に入れない聖霊をけがす者』
【マルコ3:20~30】

はじめに
 先月から、マタイの福音書をヨハネの永遠観を通して観ることで、ヨハネの永遠観をより深く理解することに取り組んでいます。このヨハネの永遠観の応用問題はマタイの福音書に限らず、聖書のすべての箇所に適用できるものです。きょうはマルコの福音書の「聖霊をけがす者」の箇所に、ヨハネの永遠観を適用してみたいと思います。
 きょうのマルコの福音書3章20節から30節までの箇所、中でも28節と29節、

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。

は、とてもわかりにくい箇所です。神をけがすことを言っても赦されるのに、聖霊をけがす者は永遠に赦されないとは、どういうことでしょうか。この箇所を紀元30年頃の人間イエスが話したことだと思って読むと、とても分かりづらい箇所になってしまいます。私は神学生だった時、この箇所をどう解釈したら良いのか、非常に悩んだ覚えがあります。しかし、この箇所を紀元30年頃の人間イエスとしてではなく、永遠の中を生きる三位一体の神であるイエスとして読むなら、俄然よくわかるようになります。つまり、ここは「ヨハネの永遠観」を適用して読むことで良くわかるようになる箇所であると言えると思います。
 永遠の中を生きるイエスは、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」、そして現代を同時に生きています。それはつまり、御父・御子イエス・聖霊の三位一体の神が、これらの時代を同時に生きているということです。「旧約の時代」で最も前面に出ている神は御父ですが、御子イエスと聖霊もまた「旧約の時代」の中にはいます。同様に、「使徒の時代」に最も前面に出ている神は聖霊ですが、やはり御父と御子イエスもまた「使徒の時代」の中にはいます。そして、きょうのマルコの福音書の時代である「イエスの時代」に最も前面に出ている神は御子イエスですが、やはり御父と聖霊もまた、「イエスの時代」にはいます。ですから、マルコの福音書のイエスは紀元30年頃だけでなく、「旧約の時代」も「使徒の時代」も、そして現代にも同時に存在しています。

悪霊が悪霊を追い出すのではない
 では、マルコの福音書3章の20節から順に読んで行きましょう。ここにいるイエスは永遠の中にいるイエスです。

3:20 イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。

 この時のイエスは、ガリラヤ湖のすぐ近くにある町のカペナウムに住んでいました。ここに、病気を癒して欲しい人々が大ぜい押しかけて来ていました。それで、皆は食事する暇もありませんでした。皆というのは、イエスの弟子たちのことですね。この20節の直前に、イエスが十二弟子を任命したことが書かれています。
 さて、次の21節には、

3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。

とあります。イエスの身内の者たちというのは、ページをめくって31節を見ていただくと、

3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。

とありますから、イエスの母マリヤと兄弟たちがナザレから出て来て、イエスをナザレに連れ戻しに来たのでした。イエスの所には、病人や取税人や罪人たちが大勢集まっていましたから、そういう人々を軽蔑して遠ざけていた一般の人々から見ると、その光景は異様に見えて、イエスが本当に気が狂ったように見えたのでしょう。22節、

3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 ここで言われているベルゼブルとは、悪霊どもの頭のことですね。律法学者たちは、イエスが悪霊の頭に取りつかれていて、その悪霊の頭が悪霊を追い出していると言いました。
 悪霊というのは、非常に強力に人に取りつきます。ちょっとお祈りしたぐらいでは、悪霊は出て行きません。恐らく、それまでも祭司たちなどが、悪霊を追い出そうと試みたことが、きっとあったのでしょう。でも、うまくいったためしが無かったのではないでしょうか。それをイエスが、やってのけてしまいましたから、宗教家たちは驚いたことでしょう。しかし、まさかイエスが神だとは思いませんから、そんな悪霊を追い出す力を持つのは悪霊の頭しかいないと思い、イエスは悪霊の頭に取りつかれているのだと思ったのであろうと思います。
 これを聞いたイエスは、それはおかしいと言いました。23節から25節、

3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。
3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。

 サタンがサタンを追い出すとしたら、それは国が内部分裂するのと同じだとイエスは言いました。国が内部分裂したら、その国は崩壊します。家が内輪もめをしたら、その家は崩壊します。日本の政党の例を挙げるなら、民主党のようなものですね。民主党は2009年の総選挙で自民党に圧勝して政権を取ったのに、小沢派と反小沢派とで内輪もめをした挙句に分裂してしまいました。そして2012年の総選挙では惨敗して崩壊したも同然のようなことになってしまいました。26節、
 
3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。

 サタンは依然として強い勢力を持っていて滅びてはいないから内部分裂はしていません。ですからイエスは、自分はサタンではないと言いました。

サタンの策略
 そして、続いて27節で言いました。

3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 この27節は、非常に味わい深いと思います。この27節の強い人の家というのは、サタンに支配されている人の家のことですね。サタンに支配されている人の中には物への執着心が強くて家財が多い人もたくさんいます。ここは、金持ちの青年のことを考えてみると、わかりやすいかもしれません。同じマルコの福音書の10章を見てみましょう(新約聖書p.86)。10章の17節から22節までを、交代で読みましょう。

10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
 
 財産をたくさん持っていると、どうしても心が財産の方ばかりに向いてしまって、なかなか神さまに心を向けることができなくなってしまいます。これはサタンの策略です。サタンは、このように様々な策略を使って、人々の心が神さまの方を向くのを妨げようとしています。この多くの財産を持つ金持ちの人は、心がサタンによって支配されていたと言えるでしょう。

聖霊が悪霊を追い出す
 ですから、この金持ちの人の心の中にいるサタンをイエスさまが縛り上げて下されば、この金持ちの人の心は、イエスさまが支配して下さいます。しかし、そのためには、金持ちの人の側からイエスさまに助けを求める必要があります。病人や貧しい人々はイエスさまに助けを求めやすいですが、金持ちは満ち足りた生活をしていますから、イエスさまに助けを求めることが簡単にはできません。
 マルコの3章に戻りましょう。もう一度、27節をお読みします。

3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。

 この強い人、すなわちサタンを縛り上げることができるのは、イエスさまだけです。三位一体の神のイエス・キリストは、サタンに支配されている人の心に入って、サタンを縛り上げることができます。ただし、実際にその働きをするのは聖霊なのですね。ですから、その聖霊をけがすようなことを言う者の心の中には聖霊は入って行っては下さいません。それゆえ28節から30節、

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
 
 以上が、この箇所の解き明かしです。イエスさまを信じる前の人の心は、皆、サタンに支配されていると言って良いでしょう。イエスさまを信じると、そのサタンは縛り上げられて追い出され、そして心がきよめられるのですが、実際に心の中に入って行ってサタンを縛り上げてきよめて下さるのは聖霊なのだということに気付かないと、この箇所をどう解釈して良いのか悩んでしまうことになります。聖霊は私たちの心の中に入って様々な働きをして下さいます。

聖霊の働き
 きょうの聖書交読では、ヨハネの手紙第一の1章をご一緒に読みました。ここにも、聖霊の働きのことが書かれています。このヨハネの手紙第一の1章には、聖霊とか御霊という言葉は使われていませんが、聖霊の働きがあるから私たちは御父と御子との交わりの中に入れられ、また私たちの心の中にある罪がきよめられます。ヨハネの手紙第一をご一緒に見てみましょう(新約聖書p.465)。
 1章の1節から3節までを交代で読みましょう。3節はご一緒に読みます。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 このように、私たちが御父および御子イエス・キリストとの交わりを持つことができるのは、聖霊の働きがあるからです。続いて、9節をご一緒に読みましょう。

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 この、すべての悪から私たちをきよめて下さるのも聖霊です。ですから、聖霊をけがす者の心には聖霊が入って下さいませんから、永遠の命を得ることができず、逆に永遠に赦されずに、とこしえの罪に定められることになってしまいます。しかし、イエス・キリストを信じるなら、私たちの内には聖霊が入って下さり、私たちの罪をきよめて下さり、私たちは御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つことができます。すなわち、神の家族とされます。

イエスの家族である私たち
 では、もう一度、マルコの福音書の3章に戻りましょう。29節をもう一度見ておきます。

3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。

 この「聖霊をけがす」という言い方は、マタイの福音書では「聖霊に逆らう」(マタイ12:32)となっています。聖霊を汚したり、聖霊に逆らったりする者は永遠のいのちを得ることができず、神の家族になることはできません。しかし、イエスを信じる者は誰でも、神の家族になることができます。そのことが31節以降に書いてあります。31節から35節までを交代で読みましょう。

3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。
3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 イエスさまは、ナザレから出て来た母マリヤや兄弟たちでなく、カペナウムの家に集まって来ていた人たちを見回して、34節のように、「わたしの母、わたしの兄弟たちです。」
と言いました。そして、「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言いました。すなわち、神のみこころを行う人はだれでも、イエス・キリストの家族です。
 私たち教会に集う者も、このように、イエス・キリストにあって家族とされています。私たちが兄弟・姉妹と呼び合うのも、イエス・キリストが中心にいて下さるからですね。
 イエス・キリストは永遠の中を生きているという「ヨハネの永遠観」を通して、この34節を読むなら、イエスさまは現代のこの教会の中心にもいて下さり、「ご覧なさい、わたしの母、わたしの兄弟姉妹たちです。」とおっしゃって下さっていることを感じます。私たちが永遠の中に入れられていないなら、このマルコ3章は2千年前の話ですが、私たちもまた永遠の中に入れられており、イエスさまがこの教会の中心にいて下さることを感じますから、感謝です。

おわりに
 私たちは、地域の多くの方々に、この神の家族に加わっていただきたいと願っています。それは、神のみこころでもあります。しかし、きょう私たちが学んだことは、いくら神さまや私たちが、この教会にもっと多くの人が集うことを望んだとしても、サタンの妨害に阻まれるなら、教会に人に来ていただくことは難しいということです。サタンは、なるべく、この教会に新しい人が来にくくなるよう、工夫をこらします。ですから、私たちは単に教勢が増えるようにお祈りするだけでなく、どうしたら、新しい方が教会に来やすい雰囲気になるか、いろいろと知恵を絞り出す必要があると思います。知恵を出しつつ、熱心に祈るなら、神さまがきっと良い知恵を与えて下さるでしょう。
 私たちのこの教会に神様の家族が一人でも多く加わっていただくことができるよう、祈り、そして、知恵を絞って行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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