インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

聖書間のことばの霊的な混じり合い(2018.1.14 礼拝)

2018-01-16 07:40:41 | 礼拝メッセージ
2018年1月14日礼拝メッセージ
『聖書間のことばの霊的な混じり合い』
【使徒20:1~3、ローマ15:22~28】

はじめに
 礼拝メッセージでは約1ヶ月半の間、使徒の働きの学びから離れていましたが、きょうからまた、使徒の働きに戻ることにします。この使徒の働きの学びは早ければ2月一杯で、遅くても3月中には最終章の28章までを学んで、この書を最初から最後まで学び通したという形にしたいと思います。

エペソでの大騒動
 きょうは20章のはじめの部分を見ます。まず20章1節、

20:1 騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。

 この時、パウロは第3次伝道旅行でエペソの町にいました。ここまでの第3次旅行をごく簡単に振り返っておくと、第3次伝道旅行の出発は、18章の23節です。

18:23 そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。

 この23節の「彼はまた出発し」というのが第3次伝道旅行の出発を示します。そして、パウロは19章の1節でエペソに来ました。19章1節、

19:1 アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。

 そして、19章にはパウロがエペソにいた時のことが書いてあります。この19章の始めのほうは去年ご一緒に学びましたね。きょうは19章後半に記されているエペソでの大騒動を簡単に見てから20章に戻ることにします。
 23節から見て行きます。

19:23 そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。

 ただならぬ騒動というのは何でしょうか。24節と25節、

19:24 それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、
19:25 彼が、その職人たちや、同業の者たちをも集めて、こう言ったからである。「皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。

 24節に、「職人たちにかなりの収入を得させていた」とありますから、これはお金が絡んだ事件です。以前も占いの霊につかれたピリピの町の若い女奴隷の記事を見ましたね(使徒16:16~)。この女奴隷の占いで主人たちは多くの利益を得ていましたが、パウロがこの女から占いの霊を追い出してしまったので、もうける望みを失った主人たちが役人に訴えてパウロとシラスは捕らえられて牢に入れられるという事件がありました。この時も金儲けが絡んでいましたが、今回のエペソの事件も同様です。26節と27節、

19:26 ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。
19:27 これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」

 パウロがエペソで聖書の神を宣べ伝えたので、エペソのアルテミスの神殿が売れなくなってしまいました。それで28節、

19:28 そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。

 こうして、この事件は大騒動になりました。

コリント滞在中にローマ人への手紙を書いたパウロ
 この騒動は19章の終わりに何とか治まって、20章に入り、パウロはエペソを出発してマケドニヤに向かいました。続いて20章の2節と3節、

20:2 そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。
20:3 パウロはここで三か月を過ごしたが、そこからシリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったため、彼はマケドニヤを経て帰ることにした。

 パウロはギリシヤに来て、そこで三か月を過ごしたとありますが、これはコリントの町のことです。パウロはコリントの町で三か月を過ごしました。パウロのローマ人への手紙は、この第3次伝道旅行のコリント滞在中に書かれたとされています。この三か月の間には様々なことがあったと思われますが、使徒の働き20章は何も触れずに、2節でコリントに来たと思ったら、3節ではもうシリヤに向けて帰ることになったことが書かれています。
 そこで、このコリントにいた時のパウロの心情をローマ人への手紙で補いたいと思います。ローマ人への手紙15章の22節から見ていきます。22節と23節、

15:22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、
15:23 今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので

 パウロはずっとローマに行きたいと願っていましたが、幾度も妨げられていて、ローマ人への手紙を書いた時点では、まだローマに行ったことがありませんでした。そしてパウロはまたイスパニヤ、スペイン方面にも行きたいと願っていました。ですからイスパニヤ、スペイン方面に行く時にはローマに立ち寄るつもりでいました。それが24節に書かれています。

15:24 ──というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、──

 イスパニヤに向かう途中でローマのあなたがたに会い、しばらくローマにいて心を満たされてから、ローマの人々に送られてイスパニヤに行きたいと望んでいました。しかし、25節と26節、

15:25 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。
15:26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。

 マケドニヤとアカヤとありますが、マケドニヤにはピリピ、アカヤにはコリントの教会がありました。そして、その周辺の町々にも教会があったことでしょう。これらの地方の諸教会では、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人々のためにお金を送ることにして、パウロはそれを携えてエルサレムに行くことにしました。27節と28節、

15:27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。
15:28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。

 このように、パウロはこれからの計画をローマ人への手紙のおしまいのほうの15章で書いています。
 先ほど私はパウロのローマ人への手紙はコリントの町で書かれたと言いましたが、それはこのローマ人への手紙の文面と使徒の働きの記事とを重ねるとわかることです。その他にもパウロのガラテヤ人への手紙と使徒の働き、コリント人への手紙と使徒の働きを重ねると、どちらか一方だけではよくわからないことも、よくわかるようになります。これらパウロの手紙と使徒の働きとを重ねてパウロのことをより深く理解できるようになることは霊的でなくてもできることです。ですからクリスチャンでなくても、これらの書を重ねて読めばわかることです。

霊的な読み方とそうでない読み方
 では、ルカの福音書と使徒の働きとを重ねた場合はどうでしょうか。ルカの福音書も使徒の働きもルカが書いたルカ文書ですが、私はルカ15章の「放蕩息子の帰郷」の物語は使徒の働きに記されている「異邦人の救い」と重ねられていると考えています。これについては賛否両論があることでしょう。これは霊的な状態でなければ見えて来ないことだからです。ですから、学術的に読めば、「放蕩息子の帰郷」が「異邦人の救い」と重ねられているというような読み方は有り得ないと片付けられてしまうかもしれません。なぜなら異邦人が父の家を出たのは創世記の時代で、父の家に戻ったのは使徒の時代だからです。異邦人が家を出てから父の家に帰るまで何千年もの歳月を要しました。一方、ルカ15章の放蕩息子が父親の家を離れていた期間はそんなに長いものではなかったでしょう。どれくらいの期間であったかは書かれていませんが、放蕩息子が父親の財産を使い果たすまでの期間ですから、せいぜい数年程度でしょう。「異邦人の救い」の場合は何千年も掛かって父の家に戻り、「放蕩息子の帰郷」の場合は数年間で父の家に戻りましたから、両者の間には大きな隔たりがあります。しかし、この時間的に大きな隔たりがある両者が同じに見えるようになることが「霊的な読み方」であるというのが私の考えです。これは『旧約聖書』と『新約聖書』が混じり合わなければ見えて来ないことです。そのためには、霊的にある程度熱い状態である必要があると言えるでしょう。
 先ほど話したパウロの手紙と使徒の働きとを重ねて読むことは霊的に冷たくてもできることです。しかし、『旧約聖書』と『新約聖書』とを重ねて読むことは霊的に熱い状態でなければできないことです。『旧約聖書』と『新約聖書』とは霊的に冷たければ混じり合いません。

金属原子の相互拡散のモデル

 私は今年に入ってから、このことが私のかつての専門だった金属材料の分野でよく知られている現象に非常によく似ていることに気付きました。それは「相互拡散」という現象です。二つの異なる金属を接合してから加熱してあげると、一方の金属の原子がもう一方の金属の方へ拡散移動して行って、混じり合うという現象です。温度が高ければ原子は速く拡散し、温度が低ければなかなか拡散しません。そして完全に冷たければ原子は全く拡散しません。このように金属の場合には原子が移動しますが、聖書の場合には、聖書のことばが移動します。そうして、『旧約聖書』と『新約聖書』とが混じり合います。
 例えば私たちクリスチャンには、イエス・キリストの十字架とイザヤ書53章のしもべとが重なって見えます。これは『旧約聖書』のイザヤ書のことばと『新約聖書』の福音書のことばが混じり合ったということです。しかし、クリスチャンではない霊的な目が開かれていない人の場合は両者が混じり合うことはないでしょう。クリスチャンではない方々は霊的に温まっていないからです。イザヤ書53章の3節から6節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.1214)。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 イザヤ書の時代と福音書の時代とは何百年も離れています。しかし、私たちにはこの二つの書が時間を越えて混じり合うことを感じます。このように時間を越える時、それは霊的な読み方であると言えるでしょう。私たちが霊的に温まった状態でイザヤ書を読む時、イザヤ53章のしもべは福音書のイエス・キリストと混じり合います。
 ヨハネの福音書4章のサマリヤの女が、エリヤの時代のやもめの女で、ここにいるイエスさまはエリヤだと私が言っているのは、私がこのように『旧約聖書』と『新約聖書』とが混じり合う読み方をしているからです。ヨハネ2章でイエスさまが水をぶどう酒に変えた出来事は出エジプトの時代にモーセがナイル川の水を血に変えた出来事と重なると言っているのも同じことです。これは私独自の読み方ではなくて、『旧約聖書』と『新約聖書』とを接合して霊的に熱い状態で読めば、二つの書は混じり合います。

混じり合う「過去」と「未来」
 今年私が個人的に示されている働きは、私のかつての専門の金属材料学の知識を生かして、聖書の霊的な読み方をこれまでよりも、客観的に扱えるようにすることです。霊的な読み方は主観的と思われがちで、私のヨハネの福音書について言っていることも、小島独自の読み方のような受け取られ方をしていると思います。そうではなくて、聖書の読み方を霊的に熱い状態で読むことと冷たい状態で読むこととを同じ場で統合的に論じられるようにしたいと思います。霊的に温まった状態で読むディボーション的な読み方と、霊的に冷たい状態で読む学術的な読み方は相容れないように受け取られていると思いますが、両者を同じ土俵に上げて同じように扱えるようになると良いと思います。
 このことは、様々な恩恵をもたらすと私は期待しています。
 それは、『旧約聖書』と『新約聖書』が混じり合うことは、「過去」と「未来」とが混じり合うことだからです。旧約から見れば新約は未来であり、新約から見れば旧約は過去です。ですから二つの書が混じり合うことは「過去」と「未来」とが混じり合うことです。
 また、キリスト教では「罪」や「きよめ」のことがイエスさまの十字架と直結して論じられます。イエスさまが十字架に掛かったのは自分の罪のためだと教えられ、最初は何のことかわかりませんが、ある時からそれがわかるようになります。すると自分と十字架とが直結しますから、その過程で何が起きたか見落とされがちですが、実はここで、二千年前の過去の十字架とその二千年後の未来の自分とが混じり合うという「過去」と「未来」との混じり合いが起きています。このメカニズムを、金属原子の相互拡散モデルで例えるなら、原子の拡散移動には時間が掛かりますから、もう少し理解しやすい形になるのではないかと思います。このことで、「霊的とはどういうことか」や「永遠とは何か」ということが、今までよりは、もう少しわかりやすくなるのではないかと私は期待しています。
 キリスト教の初心者にとって十字架をわかりづらくしている要因の一つに、現代の自分と二千年前の十字架をあまりに直結してしまっていることがあると私は感じています。それで金属原子の相互拡散のプロセスを挟んであげれば少しはわかりやすくなるだろうと思います。

おわりに
 伝道が困難な時代ですが、まだまだ工夫の余地はあるように思います。1世紀のパウロたちも、どうすればキリストの教えを伝えることができるか、様々に悩み、試行錯誤しながら伝道していたと思います。パウロのローマ人への手紙にも、その苦労の跡が見えます。最後に、ローマ人への手紙をご一緒に読んで礼拝メッセージを閉じます。どこを開いても良いのですが、ローマ10章の11節から17節までを、ご一緒に交代で読みたいと思います。この箇所の中にある15節にはイザヤ書52章7節の「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」が引用されています。私たちは、これからも様々に工夫をしながら「良いことの知らせ」、イエス・キリストの福音をお伝えして行きたいと思います。

10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。
10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 お祈りいたしましょう。
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