平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

信仰の岩盤(2014.6.11 祈り会)

2014-06-12 08:25:35 | 祈り会メッセージ
2014年6月11日祈り会メッセージ
『信仰の岩盤』
【使徒3:1~16】

はじめに
 先週の祈り会のメッセージでは使徒の働きを離れて黙示録を開きました。今日はまた、使徒の働き3章に戻ります。
 3章で先々週、ちょっと引っ掛かった箇所がありましたから、そこの問題を解決しておきたいと思い、少し調べてみました。すると、この問題は思ったよりも大きな問題であることがわかって来ました。
 その箇所とは、使徒3章16節です。

3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

 ここに出て来る「信仰」が、ペテロの信仰のことを言っているのか、門の所に座っていて施しを求めた男の信仰のことなのか、先々週、私のほうで混乱してしまいました。先々週の時点では私は小石に躓いてよろけた程度に思っていましたから、少し調べればペテロの信仰なのか施しを求めた男の信仰なのか、或いは両方の信仰なのかは、すぐに決着が着くだろうと思っていました。それで、この小石を拾い上げようとしたら、そんなに小さな石ではなくて地面に埋まっている部分があり、もっと大きな石であることに気付いたわけです。それで地面を掘ってみたら、石どころではなくて、もっと大きな岩、それも信仰の礎とも言える、とてつもなく大きな岩盤であるらしいことがわかって来ました。ですから、このことの説明は、きょうの1回だけでなく、少なくとも2回は必要で、場合によっては、もっと必要になって来るかもしれません。信仰の岩盤に関わることですから、1回で終わらせるのでなく時間を掛けることで、信仰の奥深さをご一緒に味わうことができたらと願っています。

「信じる」という動詞は使われていない
 まず最初に言っておきたいのは、この使徒3:16の新改訳の日本語訳には訳者の解釈が入っているということです。16節には、「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、…この人を強くした」とありますね。「御名を信じる信仰のゆえに」とありますから、御名を信じたのはペテロのほうなのか施しを求めた男のほうなのか、という話になって来るわけです。しかし、そもそも原語のギリシャ語には、「信じる」という動詞は使われていません。
 ここで「御名」があると少しややこしくなるので、少々強引ですが「御名」を取ってしまいましょう。すると、この新改訳の日本語訳は、「イエスが、イエスを信じる信仰のゆえに、…この人を強くした」となります。しかし、ギリシャ語には「信じる」という動詞は使われていません。ギリシャ語では、(ここでも「御名」は省いて)「イエスが、イエスの信仰のゆえに、…この人を強くした」となります。「イエスの信仰」というとわかりにくいので、新改訳では「イエスを信じる信仰」としているようです。しかし、そもそも「信じる」という動詞は無いのですから、原語のギリシャ語では、ペテロの信仰か施しを求めた男の信仰なのかが問題なのではなく、「イエスの信仰」がこの男を強くしたということになります。

「イエス・キリストの信仰」とは何だろうか
 今、「信仰」ということばを使いましたが、これもまた問題で、ギリシャ語の「ピスティス(πιστιs)」をここで「信仰」と訳すべきかという問題もあります。このギリシャ語の訳の問題に、なぜ私が気付いたかと言うと、全く同じような問題がローマ人への手紙の訳にもあるからです。私は昨年の5月から、東京の本部の会議室で行われているローマ人への手紙をギリシャ語で学ぶ会に初回を除いて1度も休まずに出席して、良い学びをさせていただいています。いま5章までの学びが終わったところです。そして、今の使徒3:16の訳の問題と同じような問題が、ローマ3:22にあります(新約聖書p.293)。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 ここで新改訳の日本語訳は「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」としていますが、ギリシャ語を直訳するなら、「イエス・キリストの信仰による神の義」となります。じゃあ、「イエス・キリストの信仰」とはどういうことか、ということになりますので、ギリシャ語の「ピスティス(πιστιs)」を「信仰」と訳すのは、ふさわしくなさそうだという話になります。
 きょうの話はだいぶわかりにくいと思いますから、きょうだけではなく、来週も話しますから、今はまだわからなくても、何が問題になっているのかの、だいたいを把握しておいていただければ良いと思います。
 今の時点では、「イエス・キリストの信仰」とは何だろうかという問題意識を持っておいていただければ良いと思います。それで、きょうは「イエス・キリストの信仰」については、一旦置いておいて、「神の義」についての話をしたいと思います。この「神の義」についての話をした後でのほうが、「イエス・キリストの信仰」について理解していただき易いと思いますから、そのようにさせていただきます。

主格属格か目的格属格か
 このローマ3:22にも「神の義」ということばが出て来ますが、きょうは1:17にある「神の義」を使って説明したいと思います。ローマ1:17を見て下さい。私が16節を読みますから、皆さんで17節を読んで下さい。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 このローマ1章の16節と17節は、この手紙の主題、メインテーマであって、16章から成る、この長い手紙はこの16節と17節を説明するための手紙であると言われます。そして、この17節のほうにある「神の義」をどう解釈するか、このことの理解を深めることで、信仰の理解を一層深めることができると私は感じています。とは言え、私もまだまだ十分にわかっていない点があります。しかし、ここに含まれる問題点を皆さんと共有することで、学びが深まるであろうという期待感がありますので、不十分な理解ではありますが、敢えて取り上げさせてもらいます。
 このローマ1:17の「神の義」については、ルターが苦悩の末に「信仰義認」の理解に至ったという有名な箇所ですので、或いは皆さんの中にもご存知の方がいらっしゃるかもしれません。
 この「神の義」は、ギリシャ語では、「ディカイオスネー セウー(δικαιοσυνη θεου)」と言います。ディカイオスネー(δικαιοσυνη)が「義、正しさ」で、セウー(θεου)が「神の」です。この「神」が、主語として使われる時には「主格」のセオス(θεοs)が用いられますが、今は「義」を修飾する「神の」の意味で使われていますから、「属格」のセウーになっています。「属格」の「属」は「属する」の「属」です。
 さて、この属格のセウーの解釈の仕方が、なかなかの曲者です。曲者という表現は適当ではないかもしれませんが、私にとっては、やはり曲者です。恐らく皆さんも曲者と感じると思います。なるべく曲者と皆さんが感じないようなわかりやすい話し方にしたほうが良いのかもしれませんが、先ほどのローマ3:22と使徒3:16の訳も、同じ問題を抱えていると思いますから、ここでは敢えて曲者ぶりを覆い隠さずに説明することにします。
 この「神の義」の「神の」という属格の解釈を、ローマ・カトリックの教会では主格属格として解釈しています。ルターはその解釈に悩み苦しんだ末に目的格属格で解釈することを見出し、それがプロテスタントの信仰の起源と言われています。
 カトリックの主格属格の解釈、すなわち「神の」という属格を主格的に解釈すると、神が持つ、神の側の義ということになります。この場合の「義」あるいは「正しさ」とは、裁判の判断の基準となる正しさです。そのような神様の側の正しさを基準にすると、とてつもなく高い基準になります。そして人間の側では、その基準に達するように一生懸命に善行と告解を行わなければなりません。ルターは、このことに苦しんだのだそうですね。ルターは真面目でしたから、本当に一生懸命に善行と告解に励みましたが、どんなに励んでも、罪人である自分がとうてい神の基準には達し得ないことに苦しんでいました。
 そんなある時、「神の義」の「神の」という属格を、目的格的に解釈する方法をルターは見出したのだそうです。その場合、「神に対する義」と解釈できることになります。それは神が持つ神の側の義ではなく、私たちに与えられる義です。神が罪人の私たちにも義を与えて下さり、義と認めて下さる、そのようにして与えられる義が「神に対する義」という解釈です。そのような「神の義」をルターは見出したと言うんですね。罪人の私たちにも、神が一方的に与えて下さる義というものがあるのだということです。

もっと広い意味を持つ「神の義」
 あまりわかりやすい話ではないので、このことは、来週また復習したいと思いますが、カトリックの解釈にしてもプロテスタントの解釈にしても、両方とも神の義の「義」を、神を裁判官としてイメージしているのではないかという問題がここにはあります。
 しかし、そのような裁判における神の義ではなく、神を豊かな愛を注ぐ父親としてイメージするなら、神の義の「義」をもっと広い意味での「救い」とすべきではないか、そんなことを私は昨年からの東京で学んでいます。そのように広い意味での「救い」と解釈するなら、敢えて目的格的に解釈しなくてもよくなります。
 このように、この神の義の「義」を法廷で裁く基準としての「義」ではなく、もっと広い意味での「救い」と考えるなら、聖書から得られる恵みは一段と豊かになります。そして、その豊かな恵みはヨハネの永遠観の豊かな恵みともつながっています。ですから、このことに関しては引き続き、来週もまた話をさせていただきます。

おわりに
 きょうは話す時間がありませんでしたが、ローマ3:22の「イエス・キリストの信仰」の「信仰」のピスティスも、人間が持っている小さな信仰ではなく、イエス・キリストのピスティスは、もっと豊かなイエス・キリストの真実さ・誠実さというように解釈するなら、もっと豊かにイエス・キリストの愛の恵みを受け取ることができます。きょうはピスティスの話は全然できませんでしたから、来週はピスティスの話もできたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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